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イタリアでの生活の始まり 【イタリア関連のはなし-1-】 [イタリア関連のはなし]

イタリアでの生活の始まり 【イタリア関連のはなし-1-】
 昭和47年(1972年)のことだったが、社命で十数名からなるコンサルタントグループの責任者として,家族同伴で南イタリアの人口30万人ほどの Taranto という市に赴任することになった。
 私ともう一人だけは7月末に現地に赴き仕事の段取りを行い,9月にはグループメンバーを受け入れた。住むべき家を探したり子供の学校を探したりの家族迎え入れの準備も進んだところで、11月に入り家族を呼び寄せた。
 家族連れは4人だけで、あとの団員は1年あまり単身赴任で近くのホテルに住むことになった。今でもそうだが、当時もその市の近郊では中華料理店は勿論、日本料理店などはなかった。我々家族連れの役割の一つは、単身赴任の団員(多くは30代前半の係長クラスの人たちだったが)を4人の家庭で日本食など日本的雰囲気のなかでもてなすこともあった。
 団長としての私どもの家は、イタリアの会社の製鉄所長をはじめ幹部の人たちも招くということや、週に1~2回くらい単身赴任の団員にくつろいで貰うことなども考えて、日数をかけてそれなりの住まいを探し当てた。それは、11階建ての水色のマンションの6階にあり、南へ40メートルくらいの所から始まる綺麗な海 Mare Grande を遙かに展望できる、家具付きの立派な一軒だった。家内と娘三人の五人の家族構成には不相応に大きい70坪もあろうという間取りで、東京で住んでいた当時としては大きい部類の4LDKの社宅の3軒分ほどはあった。日本では小学校4年生、3年生、幼稚園年長組に行っていた子供たちは、大きな家へ入った途端、あちこちの部屋を走り回りながら「これが全部うちなの」と大喜びだった。
 引っ越してまず困ったのは隣近所の人との会話だった。ゴミはどうするのかその他わからないことばかり。数日は会社のローマ事務所から応援に来た人に通訳を頼んだり、英語が話せるイタリアの会社の社員夫人に通訳して貰ったりしたが、いつまでもそれに頼るわけにはいかない。また、子供たちの学校関連でもたちまち困った。この地方にはイタリアの小学校しかなく、子供たちを連れて近くの小学校を尋ねて行った。その小学校には英語が喋れる先生は一人しかいなくて、その人を通訳に子供を受け入れてくれるかどうかを訊ねた。いろいろ話した結果、子供たちはイタリア語が全くわからないのだから、イタリア語が上達するまでは上の子は3年生、下の二人は1年生のクラスに入れてくれることになった。子供たちには日本でローマ字程度は教えていたが、イタリア語はそこで初めて出会った言葉だった。
 子供たちが初めて学校に行った日に「どうだった?」と聞くと、「お父さん、イタリア語ってローマ字と一緒だったよ」と大変な発見をしたように嬉しそうに答えた。「だからローマ字と言うんじゃないか」と云うと、「ああ、そういう訳か」と初めて納得した様子でおかしかった。子供の宿題を手伝おうにも、イタリア語を少々かじった程度では、不規則動詞の原形もわからず辞書の引きようもない。何とか早急にイタリア語が喋れるようにならないとどうにもならないと家族全員が一様に思っていた。(続く)


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