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ドラッカー教授の想い出 【大学勤務の頃-1-】 [大学勤務の頃]

【ドラッカー教授の想い出 【大学勤務の頃-1-】
  D002_edited-1.jpg縁あって1992年秋から翌年3月まで、Claremont 大学院大学のDrucker Centerに客員研究員として滞在した。その経緯などは別にのべるとして、ここでは短期間ながら同教授との個人的な想い出を記す。
著名な思想家であり経営学者でもあった同教授についての研究が目的ではなかったが、直接お会いできるのは大きな楽しみだった。職員の勧めに従い、”Drucker-hour”と永年通称されてきたという、「秋学期の月曜日午後1時から4時までの講義」前に、その教室で着任のご挨拶をした。同時にその講義聴講の許可も得た。
さすがに大学院の看板講義だけあって、テキストは同教授著作集から抜粋の ”The Management Cases” と題する冊子だった。当時82歳の高齢で足腰が若干はご不自由な様子だったが、教卓にドッカとこちら向きで腰をかけると、3時間はその姿勢を崩さず休みなく親しく話しかけられる授業だった。内容は、ギリシャ、ローマ時代から現代に到るまでの、洋の東西を問わぬ歴史から小説までに例をとった、「意思決定」に関連するまさに博覧強記の名講義であった。その中には日本の小説の主人公も出てくるし、鵯越・川中島での合戦など、「ここには日本の教授もいるから」と、私の方を向いて ”Isn’t it Yoshi ?” としばしば同意を求められた。受講者は、この大学院では例外的に多い30名ほどで、テストはなかったが、15回の講義のなかで課題が数回出され、周囲の受講生の返却されたレポートを見渡すと、どれも赤インクのペン書きでびっしりとコメントが記入されていた。ドイツ語なまりで聞きづらいときもあり、隣席の受講者にそっと確かめると「聞き取れない」との返事で妙な安を心した覚えがある。
講義の途中で脱線して別の話題に移り、そこからまた別の話に飛ばれることが再々あり、最初のうちはその度に心配した。というのも、私も講義の中でよく脱線し、脱線先の話に夢中となり過ぎ、「何の話からこうなった?」と学生に訊ね恥ずかしい思いをしていたからだ。しかし、教授に関してはその心配は皆無で、間違いなく元の話題、そしてそのまた元へと見事に3段くらいもとに戻って話を完結されるその記憶力の確かさに感じ入った。講義の中で、新しい構想の話に脱線されることが結構にあったが、翌年に出版された著書「ポスト資本主義社会」の中に講義で聞いた内容が書かれているのを見出し、毎年のように出版されていた著書は、講義でも構想をまとめておられたのだと思えた。
個人的にもご縁があり、私達夫妻が行っていたアングリカンの教会で、ドラッカー夫人のドリスが信者で親しくなった。少し経って、私の招聘者であるゴールド教授夫妻と共に夕食に自宅に招かれた。私どももお招きを返したが、次には私ども二人で夕食に招待された。二回とも、食事はドリス夫人の手料理で、食後のコーヒーのサービスはドラッカー教授の役割だそうで、皆の分のコーヒーを自分で淹れられ、若干震えられる手でトレーに乗せて運んで来られた。夕食での話題は教授夫妻が日本に行かれたときのことなど、私達への気遣いが感じられる心温まるものだった。ドラッカー教授は日本を愛され、日本芸術への見識は広く深く、年に一回は大学でそのコレクションの一部を紹介されていた。
その後、日本へ数回来られ、その度に講演会とその後の会食に夫妻で招かれた。2005年には日経新聞の「私の履歴」に教授のことが掲載された。その秋の11月11日に亡くなられ「11月19日には例年通り大学院の教職員が教授の96歳の誕生日祝いを心待ちにしていたのに」との便りも届いた。本当に偉大なそして個人的にも素晴らしい人格者だった。
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