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フルブライト留学体験とその後の人生 【フルブライト留学関連-1-】 [フルブライト留学関連]

「米国政府全額支給フルブライト留学体験とその後の人生」 【フルブライト留学関連-1-】 井上 義祐
(「フルブライト’58 四十年の歩み」1999年7月発刊の記念誌より転載)

留学したのは,大学を出て就職後三年目で,私の人生の大きな路線は決まった後であった。それでも,留学以下に述べるようにその後の人生を大きく変えた。
 留学の目的は,当時最先端の技術分野でその発祥の地であるアメリカの大学院で自動制御工学を学ぶことで,帰国後は会社の研究所に戻るつもりであった。二年目は会社からの留学生となり,婚約中の家内も留学してきたので,向こうで結婚した。修士論文は「バッチ加熱炉の最適制御」コンピュータを使用した。その中間報告を会社に送ったところ,「IBM7070という世界最新のコンピュータを導入するが,プログラムできる人がいないので,それも勉強して,帰ったら一年ほどはその業務に従事して欲しい」といってきた。
 一ヶ月滞米を延ばし帰国すると,給与計算のプログラミングが待っていた。それが済んで研究に戻ろうと思ったところ,「給与計算だけでは高価な計算機(一ヶ月の借り賃が当時の300人分の給料に匹敵)が遊んでいるので何か有効な利用法を考えてくれ」という。結局,生産管理をいまの言葉でいえば人工知能的に使うことに成功した。その辺りで設備・計器対象よりは人間対象の計算機利用が効果も大きいし,面白いと思い始め,技術分野から事務分野に社内での路線を変更した。1964年頃には各大学で自動制御のコース増設があり幾つか大学からの誘いもあったが,会社での仕事を採ることにした。BerkeleyのExecutive Programに派遣された後,社長室で経営計画に参画し年度経営計画立案を通してそのシステム化などに取り組んだ。その実施の翌年,君津製鐵所で鉄鋼業では世界で初めてのオンライン生産管理システムを企画・設計することになった。その後,当時流行となった全社MISの企画や,新日鐵の誕生に対応したオーダー・エントリー・システムの開発に取り組んだ。
 1972年から三年ほどは,君津製鐵所の技術移転ということでイタリア最南端にある製鉄所の生産経営管理システム面での技術支援の団長として駐在し,おかげでイタリア語も少し話せるようになった。氷川丸で一緒だった武井敦さんと偶然その地で出会ったのも思い出である。
 その後,日本鉄鋼業も成熟期を迎え,社内では大きな仕事は望めなくなったので,ベルギー・中国(宝山)・韓国・などへの技術支援の企画などをした後,我々が学んだアメリカの製鉄所への管理システム面での技術支援なども経験し,その前後に君津製鉄所への転勤や本社へ戻るなどして,大型プロジェクトの管理を行った。
 1987年に大学への転職の誘いがあった。大学へ戻ることは,1964年時点の自動制御関連の研究を諦めたことで縁がなくなったと思っていたが,今回は思いがけない経営学部でのシステム教育の担当という。思い切って早期退職で大学へ移る決心をした。文系の研究や論文書きは新しい経験であった。 1991年から半年はClaremont Graduate Schoolで研修の機会があり,Peter Drucker 教授に公私ともに接することができたことは良い経験であった。そのようなことで,この大学で経営管理や経営情報システムの研究と,若い学生相手の生活が十年あまり続いている。十年目で,やっとここへ来た時以来まとめたいと思っていた日本鉄鋼業の経営情報システムについての本も4月には出版できた。二年間の経営学部長の役職もこの3月で済み,ここでのあと五年の任期を有意義に過ごしたいと思う。
 このように振り返ると,フルブライターとして留学した経験は,そこで学んだ広義のシステム工学的思考法,語学力,異文化との接し方など,私が次々と会社での新しい仕事を見つけ遂行する上で不可欠であったと思う。にまた一年留学を延長してMSを修得したことは,社内ではほとんど評価はなかったが,外国での仕事や大学へ移るときには役だったと思う。留学中に世話になった多くの人とも文通が続いているが,亡くなった人も多くなり寂しくなった。
(フルブライトで一緒に留学した仲間で出版した記念誌へ1999年5月投稿原稿、一部訂正)

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