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職場での茶目っ気 [1960年代の計算機導入初期の頃]

職場での茶目っ気 【1960年代の計算機導入初期の頃-3-】
1961年から1965年までの間に日本鉄鋼業は第三次合理化に取り組み、粗鋼生産は1960年の年産221.2万トンから411.6万トンと倍増近くを達成した。それに呼応して事務合理化も始まり電算機が初めて設置された1962年には、八幡製鐵所でも合理化担当の二つの課には若い優秀な高卒の人に混じって入社1~6年の事務系学卒が6人余りも配属されるほど多忙だった。技術系は私のみで、年長者が多い20人余りの責任者だった前の職場と違い、多忙な難しかったが、仕事では掛長を別格として皆が同輩という自由闊達な雰囲気でまだ学生気分や茶目っ気が残っていた職場だった。
その頃は東京本社への出張は寝台車で一晩を要し、講習会出席などが時たまある程度だった。幸運にも出張すると何か手土産を買っていた。仲間の一人が出張から戻って「開けてご覧」と小箱を出したので開けると、なかから”ピョーン”と蛙がバネで飛び出すびっくり箱だった。当時はそれも珍しく、しばらく廊下で「キャッ」という声を聞くのを皆で楽しんだ。それは、彼が銀座の一郭に「いたずら玩具」の店を見つけ買ってきたのだった。
次ぎに出張から戻ったものが、今度は「お土産のお菓子を食べましょう」というので殊勝な心がけとばかり昼休みに何人か集まった.見ると、マーブルといっていた楕円形で色とりどりのジェリー状のお菓子だ。私も何人かと一緒に「ご馳走様」と口に入れた。その途端、意に反して「グニャッ」とつぶれ蝋の臭いと味が口いっぱいに広がった。周りを見ると皆もいうにいわれぬ顔をしている。「しまった」と思わず吐き出したのも後の祭り、薦めた当人は皆の顔を「してやった!」とばかり嗤っていた。
それからは出張者のお土産は皆が用心するようになった。しかし、次ぎに出張した者が今度は特殊な液体と注射器を買ってきた。密かに「その液体を白い布にかけると真っ赤に染まるが、1分もしないでその赤は見事に消えて白に戻る」という。何人かで試してみるとその通りだった。早速誰にいたずらしようかとの相談となった。皆が一様に思いついたのは掛長直前の一番先輩で優しいなかにも少し怖いダンディな人だった。皆は私にやれという。仕方なく私がそれを隠し持ち何人かの共謀者が見ている前でその先輩のご自慢の真っ白なワイシャツに”チュッ”と液を吹きかけた。先輩は「何をするのだ」とばかり液のかかった胸もとを見ると真っ赤に染まっている。「何故こんなことをするのだ。シャツが------」と怒鳴られている間中、私はひたすら黙って頭を下げながらシャツの胸が白く戻るまで待った。その長かったこと。やっと白く戻ったことを確認するや「先輩何を怒っていられるのですか」といった。「これを見ろ、こんなに真っ赤に染まったではないか」と自分の胸を指された。するとあら不思議!真っ白で何も変わっていない。先輩も一瞬言葉を失ってしまわれたが、「例のいたずらか」とばかばかしいと思われたのかどこかへ行かれた。見えなくなると皆で「成功!」とばかり喜んだのはいうまでもない。私は後の後まで先輩ご自慢のワイシャツの生地が傷まなかったろうかと心配だった。
その後、いろんないたずらを喜んだ。新婚旅行から帰って来た仲間に、「お目出とう。ささやかだがインスタントコーヒーで乾杯しよう」と昼休みに集まって一口飲みながら皆は興味しんしん新婚さんの顔をみる。新婚さんの何とも表現のしようがない表情を未だに思い出す。皆は満足げながら少しやり過ぎたかなとの表情も見せた。彼以外の分には砂糖が入っていたが、新婚さんのそれには”塩”が入っていたからだ。これなどはいささか度が過ぎたと皆で反省し当人に謝った。

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