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オペレベルション中のヤンチャ [1960年代の計算機導入初期の頃]

オペレベルション中のヤンチャ 【1960年代の計算機導入初期の頃-2-】
先に述べたとおり、数日間は昼勤でプログラムをしては、また夜勤に戻ってその夕方までに溜まった別の交代番の人のプログラムテストをするという勤務がしばらく続いた。すべてがバッチ方式で、まずプログラムや要処理データをPCSの穿孔機でカードにしてておく。ついでプログラムで指定した磁気装置の何台かにワークテープ(処理の中間データ役の磁気テープをそういった)を装着しノブをまわしてしっかりと締め付ける。これはすぐ後に述べる理由で結構走り回ることになる。それが済むとコンソールのキーボードから呪文のような英語のスタート命令を打ち込む。すると、コンピュータが内部メモリー役の磁気テープとの間で忙しくデータのやりとりをしながら、コンパイラーで英文字のプログラムを機械語に変換する。変換が終わるとプログラムは一本の指定された装置のテープ(アウトプットテープといった)に記憶され合図が出て終わる。すると別のプログラムをまた同じように走り回ってはテープの準備をしてコンパイルを続行する。それらがすべて済んで時間が残れば自分のプログラムのテストを行うと行うといった案配だった。
当時のコンピュータは信じがたい程高価なもので(一ヶ月のレンタル料が当時で300人の給料に相当する1400万円、購入価格4年半分くらいしたが日進月歩なのでほとんどレンタルだった)それを使うのは1分当たりいくらと教え込まれて心理的にせわしかった。その代わり、空調などは贅沢なもので当時は所長室にもなかったほど人間様には縁遠いものだったが、電算機様々のおこぼれを頂戴して我々も夏の暑い間を快適な環境で3交代が過ごせたのは役得といえよう。
我々の昼勤の任務はプログラマと自分の書いたプログラムのオペレータだったが、夜勤の任務はオペレーターのみだった。その役割は充分に果たしたことは胸を張って言える。しかし、これから書くことは守衛さんに見つかれば処罰ものだったかも知れないが(計算機室は密室になっていてその危険はなかったのだが)、これをいまさら公開することを、一緒に仕事をした人に対しても、20歳代の若者のいたずらだったことだとお許しいただきたい。
夜勤の最初のうちは一晩中緊張してコンソールの前にへばりついていた。何かが起ると総員で手分けしての緊急処理が必要だが、それ以外はじっと座っていても退屈で、一人を除いて他は自発的に自分のプログラムを見直したりしていた。しかし、その一バッチの仕事が早ければ10分くらい長くても30分ぐらいで、プログラムするには中途半端で仕事にならない。そこで、いまとなってはどの交代組みの誰が始めたのでは定かではないが、印刷用紙を丸めセロテープで固め、計算機の横の10m四方はあろうかという場所の四隅にすぐ消せる目印を付けしサッカーらしきものを楽しみ運動不足を解消したつもりだった。それがエスカレートして、転ぶ格好も面白いというので靴下をはいてすることになったりして他の組でもこっそり楽しんでいたようだ。
さらに白状すると、それにも飽きて、誰がいうとなくピンポン球に紙を丸めた賞状入れの筒のようなものをバットにしての野球も結構面白かった。でも、それが嵩じて、私の組で筒が飛んで天井のビニールの覆いの一部を傷つけた。そんなときに限って、我々より一回り以上も年長の掛長がそれに気付かれ「井上君、ここはどうしたのだろう」と訊かれたので本当のことを言うわけにも行かず叱られるのを覚悟で「鼠は出るわけはないしどうしたのでしょうか」と答えた。掛長はわかっていわれたのだろうがその時は不問に付された。本当にヤンチャだったといまでも思う。

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