1トン爆弾被爆のはなし 【中高生の頃のはなし-1-】 [中高生の頃のはなし]
1トン爆弾被爆のはなし 【中高生の頃のはなし-1-】
灘高卒業60年の会が2011年5月半ばに芦屋駅前のホテルであった。私は中学一年時に在学したのみだが、いままでも東京や関西での会に何回も特別参加させて貰っていた。今回も、年一回の例会は5年前で終わったがもう皆で集まるのもそうないだろうというので靜岡から出掛けた。入学時に1学年50人のクラス4組で200名だったが、戦後の学制改革で中高校一貫校となり卒業生のうち約1/4の50人が集まった。毎度ながら出席したすぐは戸惑うが、ちょっとでも話し始めると表情や仕草から「ああ彼だったか」と思い出す。なかには「ここでの友人だったのか」と思う人もいる。いつも話題はいまのことから自然に昔に戻る。今回は両隣に座った友人と東日本大震災、阪神淡路大震災、そして1トン爆弾を喰らった戦中へのことへと話題が移る。「あの時はほんまに死んだ思うたわ」と、日頃使うこともない神戸弁が自然と口から出てくる。その被爆の話を再現しよう。
中学1年の初夏、いまも現存するというコンクリート校舎の4階教室での授業中、ふと右手の大阪湾を見ると、遠くに黒点が幾つも見える。目をこらすと、何かしらの音が次第に轟音となるにつれ敵機の大群襲来とわかる。「空襲だ、待避!」と日頃の指示通り防空頭巾をかぶりながら階段を地下室めがけて必死に駆ける降りる。2階くらいまで降りたとき「ザー」とすごい音が次第に大きく近づいてくる。「爆弾が落ちてくる音だ」と気付き目の前の大きな円柱にしがみつく。その音がどんどん大きくなって、「スッ」と消え一瞬の静寂の後、すごい地響きと共にぐらぐらと地面が揺れた。爆弾が近くに落ちたらしい。「それっいまのうち」とばかり地下階を目指して夢中で跳び下りる。もう一度すざましい落下音に襲われたが今度は「スッ」と消えて地響きまでの時間が先ほどより短く揺れも大きかった。瞬間に、「ザー」の音が大きくなっている間は爆弾が近づき頭上を越えると音がと消えるのだと直感した。そうわかってから何回もなかったかも知れないが、音が大きくなっていく間じゅう「これで人生も終わりか」と観念しては「スッ」----- 「ビリビリ、ドカン」。ついに、「ザー」が大きくなり最大になった瞬間に地面もろとも揺れ動き、気が付くと辺りは「シン」と静まりかえって周りは真っ黄色で何も見えない。「そういえば古事記だったかに”よみの国”という死後の最初に行くところは”黄泉の国”と書いてあったが、周りが真っ黄色なのはそこに来たのだな」と思った。しかし、近くで何だか咳き込む音らしいのが聞こえる。「ひょっとして生きているのかな。それならば、」と腿をつねると痛い。「生きているのだ」と気づいたとき、周りのあちこちから「死ななかったんや」と嬉しい叫び声が聞こえてきた。投下されたのは1トン爆弾だったとか。
いつもなら中学の直ぐ前を通る阪神国道電車に乗って帰るのだが、なんとその国道の東方に、幅の2/3程の丸い穴が正確に互い違いとなるように三つほどえぐり、歩ける程度の幅を曲がりくねって残すのみで国道を100m近く通れなくしている。もちろんレールはちぎれ跳ね上がったままだ。これが先程の一連の爆撃だったのだ。それ以後1~2年くらいは電車が鉄橋を渡る音を聞いたり、音楽のクレセント・デクレセント(<、>)の記号を見たりする度に、その瞬間の恐怖を思い出しゾッとしたものだ。数日して電車が通い学校に行ってみると、近くでは直撃弾で手足がばらばらに吹っ飛んだそうで、それから終戦まで毎晩、教えてくれた友人たちと手・足・お腹に自分の氏名を書いていたことも思い出す。
今回も、そのような昔話なども交わしながら「ほんまに生き残れて良かったな。また会おうな。」と若い頃を共にした友人との会合の心地よさを感じながら別れた。
灘高卒業60年の会が2011年5月半ばに芦屋駅前のホテルであった。私は中学一年時に在学したのみだが、いままでも東京や関西での会に何回も特別参加させて貰っていた。今回も、年一回の例会は5年前で終わったがもう皆で集まるのもそうないだろうというので靜岡から出掛けた。入学時に1学年50人のクラス4組で200名だったが、戦後の学制改革で中高校一貫校となり卒業生のうち約1/4の50人が集まった。毎度ながら出席したすぐは戸惑うが、ちょっとでも話し始めると表情や仕草から「ああ彼だったか」と思い出す。なかには「ここでの友人だったのか」と思う人もいる。いつも話題はいまのことから自然に昔に戻る。今回は両隣に座った友人と東日本大震災、阪神淡路大震災、そして1トン爆弾を喰らった戦中へのことへと話題が移る。「あの時はほんまに死んだ思うたわ」と、日頃使うこともない神戸弁が自然と口から出てくる。その被爆の話を再現しよう。
中学1年の初夏、いまも現存するというコンクリート校舎の4階教室での授業中、ふと右手の大阪湾を見ると、遠くに黒点が幾つも見える。目をこらすと、何かしらの音が次第に轟音となるにつれ敵機の大群襲来とわかる。「空襲だ、待避!」と日頃の指示通り防空頭巾をかぶりながら階段を地下室めがけて必死に駆ける降りる。2階くらいまで降りたとき「ザー」とすごい音が次第に大きく近づいてくる。「爆弾が落ちてくる音だ」と気付き目の前の大きな円柱にしがみつく。その音がどんどん大きくなって、「スッ」と消え一瞬の静寂の後、すごい地響きと共にぐらぐらと地面が揺れた。爆弾が近くに落ちたらしい。「それっいまのうち」とばかり地下階を目指して夢中で跳び下りる。もう一度すざましい落下音に襲われたが今度は「スッ」と消えて地響きまでの時間が先ほどより短く揺れも大きかった。瞬間に、「ザー」の音が大きくなっている間は爆弾が近づき頭上を越えると音がと消えるのだと直感した。そうわかってから何回もなかったかも知れないが、音が大きくなっていく間じゅう「これで人生も終わりか」と観念しては「スッ」----- 「ビリビリ、ドカン」。ついに、「ザー」が大きくなり最大になった瞬間に地面もろとも揺れ動き、気が付くと辺りは「シン」と静まりかえって周りは真っ黄色で何も見えない。「そういえば古事記だったかに”よみの国”という死後の最初に行くところは”黄泉の国”と書いてあったが、周りが真っ黄色なのはそこに来たのだな」と思った。しかし、近くで何だか咳き込む音らしいのが聞こえる。「ひょっとして生きているのかな。それならば、」と腿をつねると痛い。「生きているのだ」と気づいたとき、周りのあちこちから「死ななかったんや」と嬉しい叫び声が聞こえてきた。投下されたのは1トン爆弾だったとか。
いつもなら中学の直ぐ前を通る阪神国道電車に乗って帰るのだが、なんとその国道の東方に、幅の2/3程の丸い穴が正確に互い違いとなるように三つほどえぐり、歩ける程度の幅を曲がりくねって残すのみで国道を100m近く通れなくしている。もちろんレールはちぎれ跳ね上がったままだ。これが先程の一連の爆撃だったのだ。それ以後1~2年くらいは電車が鉄橋を渡る音を聞いたり、音楽のクレセント・デクレセント(<、>)の記号を見たりする度に、その瞬間の恐怖を思い出しゾッとしたものだ。数日して電車が通い学校に行ってみると、近くでは直撃弾で手足がばらばらに吹っ飛んだそうで、それから終戦まで毎晩、教えてくれた友人たちと手・足・お腹に自分の氏名を書いていたことも思い出す。
今回も、そのような昔話なども交わしながら「ほんまに生き残れて良かったな。また会おうな。」と若い頃を共にした友人との会合の心地よさを感じながら別れた。
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