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「東西各国一見一筆」より転載 1 【フルブライト留学関連-9-】 [フルブライト留学関連]

「東西各国一見一筆」より転載 1 【フルブライト留学関連-9-】
旬刊八幡製鐵所報『くろがね』1273号(昭和34年2月15日)掲載
計量管理課 井上義祐
 米国での一日目は、親切なアメリカ人の家庭に招かれシアトル市内をドライブしてもらうなどして、楽しく過ごしました。
翌日、急行列車でアメリカの真中に位置するカンザス州へと出発しました。一日目はロッキーの山沿いでしたが、二日目から、行けども行けども全くの大平原で、土地と言う土地はすべて耕してある日本と比べ、アメリカの国土の豊かさを身を持って感じました。
  カンザス大学では、すでに国務省の援助による留学生のための予備教育が始まっていて、世界二十三カ国から五十名近くが集まっていました.初めの数日は難しいことばかりで、相当に神経を使ったらしく、夜ベッドに入ってもなかなか寝付かれないぐらいでした。
 大学では、英会話、発音、文学鑑賞、作文、米国事情一般について、アメリカ魂の実際的な教育を受けました。また週末は近郊の“アメリカ的なもの”を選んで見学したり、家庭に招ばれて数日を過ごし、アメリカ人の日常生活を体験したりしました。非常にうまく仕組まれていて、アメリカ人の生活を知る上に有益でした。
 米会話では、日常語のほかに、学生語(オースの類)を覚えたり、講演の練習をしたりしましたが、インド人はなかなか雄弁でした。作文、文法は大したこともありませんでしたが、われわれ日本人からの留学生には、発音の時間が一番の鬼門でした。RとL、BとVの区別、IとEの発音、それに調子を上げる、下げると言われるごとに顔をしかめたり下をモゴモゴさせたり。
  日本語は英語と全く違うし、日本ではあまり使わないのだから仕方が無いと自らなぐさめながら、チープに録音された自分の英語に、こんなに下手だったのかとあらためて感心しました。そんなわけで発音では、大分失敗しました。
  ある晩餐会に招待された時、隣席の教授と話している折、その室内にも米国旗があったので、「米国に来て奇異に感じたのは、一日に少なくとも二、三箇所で米国旗を見ることだ。戦後の日本では旗日以外には国旗(フラッグ)を見かけなくなったのに・・・」と話したところ、「ヘェー、皆で食ってしまったのか?」。フラッグ(旗)をフロッグ(蛙)の言い違い(聞き違いであって欲しいのですが)とわかり、大笑い。教授いわく、「いくら腹がへっても蛙までは食べませんよネ。」。
 またある週末に、大分離れた町から、一団五十名に招待がありました。町をあげての歓迎で、巡査が車で先導し、町の紳士連の車十数台に分乗して見物したり、又新聞に出たりで大騒ぎでした。そこで五十軒の家庭に分かれて一泊しました。私の行った家にはラウレルという娘がいました。その発音はRとLのまじった一番不得手のもの。ラウレルと言ってもノーという。舌を先に出し、後に引っ込め苦心の末、十回目ぐらいにやっと「イエス」と言ってくれた時には全くホッとしました。おかげで以後、RとLの区別が大分うまくいくようになりましたけど。後日談として、苦労の甲斐あって、彼女からの別れのキッスまでしてもらえる程の大の仲良しになりました。(彼女とは三才の女の子でした。) 
社会問題では、歴史、政治などと共に、黒人問題も予想以上に講義の話題にのぼりました。日本の事情と比べて非常に違う点も多々あって、今まで当たり前だと思いこんでいたが、変だなと思うようになったり、また逆だったり。大学のこともその一つでした。州立大学には、その州で高校を卒業した希望者すべて入学させる義務があるとか。しかし卒業させる義務はない由。したがって、大学の一年生と言うのは非常に多いが、卒業する頃はずっとへって、工学部では四分の一にも満たない場合もあるそうです。また、女子学生の中には、学士号ではなくミセス(夫人)号をとりにきているのが多いという説まで出たくらいで、その説によると、在学中に夫となる人をみつけて、さっさと結婚するために入学するのだそうです。もちろん皆がそうではありますまいが・・・。
 講義が終わったあとの夕方は、世界各国からの友人との交流に明け暮れました。粋なベレー帽のフランス人、フラメンコという民謡がうまく外見に似合わず熱心なカトリック信者のスペイン人、親日家のビルマ人、国歌を日本語で歌ってくれ、また荒城の月をアメリカの月夜に一緒に歌った東南アジアの友人は、宗教上、右手しか使えないので、顔を洗う時に右手に手袋をはめたて片手で洗うとか、またワイフは四人までもてるけれど2人にするというアラビアの友人、ダンスの上手なペルー人、幕末の志士のような趣のあるパキスタン人。民族習慣は異なっても、本当の友人になれる人たちでした。彼らと話していて、日本は工業力が世界でも有数のものであるという自覚をもつとともに遅れている国のエンジニア達が自国の工業振興にいかに熱心になっているか分かり大変励まされもしました。
  このようにして、四十日間の間忙しく学び、世界各国の友人を得、またアメリカ英語にも大分なれて、いよいよ専門の分野を学ぶべく、皆と別れて単身、オハイオ州クリーブランドへとやってきたのでした。
(著者はアメリカ勉学中)


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