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スバル360の入手 【くるま関連のはなし-3-】 [くるま関連のはなし]

スバル360の入手 【くるまのはなし-3-】
1960年に所得倍増が発表され、翌61年には八幡の街角でも軽自動車のスバル360とマツダクーペを時折みかけるようになり、価格も30~36万円台と年俸に近づいて来ていた。自動三輪の免許得時には車購入はまだ先だと思っていたが、いざ取得してみると急に車が欲しくなった。末っ子の故に長い間厄介をかけた両親と一緒に車で旅行するとか翌年夏に誕生予定の子どものことなどを口実にして、若年で身分不相応と思ったし経済的には少々苦しかったがなんとか早速購入しようスバルを選んだ。
車は予想外に早くきてしまったが、前述のように免許証は軽自動車より格が上の自動三輪車で取ったので、丸ハンドルには触ったこともなくそれが大変に不安だった。幸い近くに住んでいる会社の運転手さんが知り合いだったので頼んで側に座って貰い近所の広場で特訓を受けた。もちろんハンドシフトなのだが三輪車のダブルクラッチより簡単でこれは問題なかった。しかし、初体験の丸ハンドル操作は自転車と同じハンドル裁きは通用せずに苦労した。それでも前進は何とかなったがバックでの車庫入れは車の購入自体を後悔したほど難しかった。それも特訓で何とかできるようになり翌日から街中での初ドライブを敢行した。当時は走っている車が極めて少なかったがそれでも全くヒヤヒヤものだった。
車のエンジンは360ccで時速80kmくらいは出せたが、家一自動車の最高速度は40kmで規制されていた。しかし交通量が少なかったのでいまの運転より遙かに快適だった。最初のうちは同僚も怖がって乗らなかったが、半月もすると希望者が出て来て同乗して貰った。しかし、前開きの2ドアで後部座席に乗るのには窮屈でかがんで入る必要があり「乗るのに靴ベラが要る」と言う。それでは助手席にと乗せると今度は「地面を腹ばいになって行くようだ」とかいう口の悪い連中もいたが、結構皆喜んで乗っていた。
私も 大学では一応は機械工学を学んだので、車のメカや性能にも興味を持っていた。スバル360は旧中島飛行機のエンジニアが開発しただけあり、従来の車枠(フレーム)構造ではなくモノコック構造で400kg以下と軽く、独立4輪懸架のトーションバーで当時の悪路でも凹凸を良く吸収して乗り心地は当時としては良かった。エンジンは360ccの強制空冷2サイクル2気筒の後輪駆動であり、燃料は潤滑油混合ガソリンで満タンは18リットルで、全長4m弱、車幅1.3m、回転半径が4mと可愛い車だった。公称燃費は28km/lだが実際は20前後でエンジンの点火位置を自分で簡単に調整でき、調整してしばらくの間は22くらい走れた。しかし、安価にするためにガソリンメータは付いてなく、いまの車の潤滑油タンクと同じように後部ガソリンタンク蓋に付着した棒の濡れ位置で燃料の残量を計測した。それとワイパーにかける水を出す装置はなく、当時の無舗装道路でトラックなどからの泥水をかぶって先が見えなくなるなど大変困ったこともある。それらは改めて紹介するとして、ともかく、値段に比してとても優れものだったと言うのが私の総合評価だ。
運転に関しては、当時住んでいた社宅から会社本事務所までは約10km弱あり、途中にはいまは20箇所くらいはある信号機は1箇所しかなく20分もあれば充分行けた。しかし、それまでの無遅刻を全うするためにパンクした場合のタイヤ交換の実地試行結果15分も加算して始業40分前ほどに出ることにした。車通勤を始めて数日後に奥歯が痛くなったので何故だろうと思ったら、運転中に奥歯を食いしばっているのに気が付いた。それほど緊張していたのだろう。運転し始めて2週間目に入った頃だったか、八幡の方へ出かけたら、狭い道で前に三輪トラックが止まっている。その横をすっと行けたのだが、何故か一旦その後ろに停まった。すると運転手が横を通れと合図した。一瞬、前に乗りつけたスクーターと勘違いし、自分の左に車体があるのを忘れて発車したので、左のボンネットが前の車の荷台下に入りクシャッと凹んでしまった。運転手は「何をしているの?」と首を傾げるし、折角の新車は半月もしないうちに傷ついてしまった。以降はこのような衝突?事故もなく、親孝行の旅行もできて、今日まで50年間何とか無事故で来られたことには感謝するほかない。


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