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イタリアの小学校と子どもの教育 【-イタリア雑感14-】 [イタリア関連のはなし]

イタリアの小学校と子どもの教育 【-イタリア雑感14-】
Taranto製鉄所への技術指導は1972年9月以降に本格化した。5月に行った折りにそれに備え生活環境を調べた。Tarantoはイタリア半島の土踏まずに位置し人口約30万人の都市だが、小中学校は公立だけで、9,8,5歳と三人の子どもの教育が問題だと分かった。そこで、日本への帰国後のことを考え、公立校での教育と並行して自宅で不足する日本語や科目別必要事項を教えることを考えた。7月に市の教育委員会で事情を話して、指導内容と年度内の進度が記述された該当学年の指導要綱を例外的に貰った。また、日本文に親しむため子ども向けの本を多く持参することにし、子どもたちにはローマ字読みを教えた。
9月にまず私が赴任し11月に家族が来た。私は家内と、イタリアではどこでもそうだと後で知ったが、運動場もなく普通の建物と見間違える小学校を訪ねた。英語が話せるのは校長先生だけで「特別扱いはできない。9月始まりで学期途中なの言葉が少し分かるまで長女は3年、次女と三女は1年の別々のクラスに入れる。」と言われた。学年相当のことは家で教えるつもりだったのでそれでお願いした。3人の担任先生との話はその度に校長先生の通訳を煩わすので,私と家内はイタリア語のみで教える個人レッスンを別々に3ヶ月受けどうやら意思疎通が可能になった。子どもたちもその間3人一緒のクラスで学んだ。
当時の小学校は午前と午後の二部制で子どもたちは皆午前の部で昼には帰って来た。いつも気になっていた街中の飲食店で昼食時にウエイターをしていた子は午後の部だったわけだ。意外にも「男女七歳にして席を同じうせず」は戦前の日本以上で男女は建物も別棟で登下校の時間も異なった。音楽や体操は時間割にはなく、子どもたちは「音楽は学校中を一人の音楽の先生が毎月一度オルガンと共に各教室を回り一緒に歌うが音痴の生徒が多い。おやつの時間がある。」などと驚いていた。(帰国後NHKの放送で小学校に音楽の時間がある国は世界でも日本くらいだと聞いた。)また、カトリックの国だけに、毎日学校で唱える「マリアの賛歌」と「主の祈り」が3人の最初に暗記したイタリア語の文章だった。
日本はその前後が経済の急成長期で、日本での私の生活も会社が主で月半分は出張の年もあり、帰宅しも子どもの就寝後が多かった。しかし、Taranto在住期間に限り「郷に入れば郷に従え」で定時に帰宅し子どもとの密接な交流ができた。子どもたちはすぐに言葉を覚え友だちもできて学校生活を結構楽しんでいるようだった。長女と次女は言葉が不自由なため本来より2年低学年の学習内容なので予復習も要らず、日本から持ってきた本を暗記するほど毎日読んでいた。そのほか、長女はピアノを習い帰国後も続けた。次女は絵描きと読書や作文が好きで、大きな白紙があれば何時間も一人で遊んでいたが、日本の学年では加減算を習う時期で私が丹念に教えたことは懐かしい思い出だ。次女は帰国後には絵を習い、後に大学ではスペイン語がイタリア語に似ていると喜んでいた。いまも犬のブログなどで絵や文を描き楽しんでいるのはその時の影響もあるだろう。下の子は6歳で言葉一番早くを覚えすぐに友達とママゴトなど楽しんでいた。その分忘れるも早く、帰国後にその頃のテープを聴かせても何のことか分からぬと言う。幼い時の、言葉も通じず習慣も違う中での生活で、表情での人の気持ちを察し易くなったと思うと本人が言うのもうなずける。
日本の小学校1,3,5年に相応する主要科目の学習はそれぞれの指導要綱で示された教科書の進度に沿って、毎週金曜日夜に、翌週一週間に読むべき範囲の頁を示して家内の手助けで自習をさせ、翌週の金曜日に私が理解度のテストをした。合格ならば土曜と日曜日は自由に一緒に遊ぶが、不合格の科目があればそれを土曜日に補習し日曜日は遊んで日本での進度に合わせるようにした。子どもたちの二年目はコレラ騒ぎで数ヶ月間の学校閉鎖となり、2年目はほとんど家での自習となった。その間は二重の勉強で少し大変だったろうがよく頑張って予定より短かった1年半後の帰国時には何とか相応の学年に戻れた。



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