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日本語と漢字、コンフューシャスとは? 【言葉のはなし-4-】 [言葉のはなし]

日本語と漢字、コンフューシアスとは? 【言葉のはなし-4-】
戦後一時期、日本語のローマ字化が叫ばれたこともあるが実現せずに良かったと思う。日本語への漢字の取り込み方は融通無碍で極めて便利と思うことが多いが反面不便なこともある。常識的なことながら、日本に漢字が定着するにはその読み方に「漢音」と「呉音」があるように長い年月を要したのだろう。漢字は本来表意文字だが、これに「万葉仮名」のように当時の漢字本来の読み方に似せて「やまとことば」を表記した発音記号的な「訓読み」が加わり、日本独特の使い方を持ったのだろう。
一方、表意文字の意味では日中とも共通だが、日本語と違い中国語では一つの漢字の読み方は一つである。それを確認できたのは、新日鐵からの上海宝山製鉄所への技術協力に際して中国語を少し学んだ時である。さらに、大学在職中に香港の提携大学学長就任式に招かれた席でより強く感じた。それは、配布された式次第に就任演説内容の英文および漢字文とスピーチは英語・北京語・広東語でなされるとあり、式では学長が英文スピーチの後、漢字で書かれた同じ文章を北京語と広東語の全く違う発音で読んだからである。それを聞いていて漢字が本家本元の中国では表意文字としてのみ通用するが、それを借用した日本では表意記号と表音記号の両方の便利さを享受していることを改めて思った。
中国や台湾を旅行すると看板が漢字で書かれ意味をとり易く安心感を覚える。しかし、初めての韓国訪問時のハングルが読めなかった不安感から、二回目にはハングル字を本で学び、一応発音はできたが意味はわからず、発音できなくも意味が推察できる漢字のありがたさを思った。韓国語でも当初は漢字を韓国語の表音記号にしようと試みたようだが、韓国語の発音が複雑でもっぱら表意記号としてのみ用い、それが韓国語古来の発音記号としてのハングル文字発明につながったと記述されていたように記憶する。韓国の提携大学教授が、「ハングルだと同音異語が多いのは不便だが、漢字ではすべては書けない」といっていたのもうなずけた。それに比べると日本語での漢字は、本来の意の表意記号を勝手に表意記号としても用いて便利な面が多い。学生時代に機械工学の授業で「漢字使用のお陰で工学分野も大いに助かっている。情緒ではヤマトコトバが勝っているがそれで飛行機が『そらとぶからくり』では冗長で授業にならない」といわれたのには全く同意見である。
しかし日本流の漢字利用では不便なことも結構ある。大学在職中に大学留学院生へ宿題の整理手伝いを依頼したら「それは無理です」という。理由を聞くと「日本では『伊達』、『長谷川』など姓の読み方にルールがなく、中国と違い姓が何百とあるからです」という。まさにその通りだ。そして名前に到っては自分でも驚いたことがある。友人に「子どもさんの名前は?」と訊くと「まだ決めていない」、「まだ届けてないの」、「届けた」、「なら決めたのじゃない」、「漢字は決めて届けた」、「エ?」、「読み方はそのうち考える」との返事だ。いわれてみると皆はフリガナまでは届けてはいない。それにしても読み方は勝手なのだろうかとの疑問は残る。関連して、イタリア駐在の最初のころ"Yoshihiro Inoue" 宛てに会社から皆の給与の電報為替送金があった。提出を求められたパスポートは"Yoshisuke Inoue"名義だ。郵便局で「名前は漢字で届けてあり読み方はそのようにも読める」といっては見たものの通るわけもない。このときは漢字の不便さを思った。さらにさかのぼって、留学生の頃に友人仲間の議論に入ったら東洋人らしい人名が頻繁に出る。「それは誰だ」と訊くと「東洋人で知らないのか?」と軽蔑の眼で見る。「いつ頃の人だ」と訊いていくとどうやら孔子のことだと思えたのでスペルを訊いて"Confucius"と辞書を引くとその通り。「それなら勿論知っているよ」と言うこととなった。中国の歴史が話題になることは頻繁ではなかったが、「唐」とか「宋」とか国名は想像が付いても人名は漢字の日本読みで覚えているばかりに英語になると大いに不自由を感じた。中国の人名の中国後読みのカナ表示も時には必要だと思う。最近は中国の留学生も彼らの中国歴史の認識は別として簡略体で私の覚えている難しい字での人名など筆談でも通じそうにない。

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