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地方都市でのホテル開業の日のできごと 【会社勤務の頃-2-】 [会社勤務の頃]

地方都市でのホテル開業の日のできごと 【会社勤務の頃-2-】
信じがたいだろうが、1960年代まではいま普通に見られるフロント形式のホテルは東京などの大都会にしかなく、地方都市ではあっても旅館の中の洋室程度だった。大分もその例外ではなかった。1970年に合併で新日鐵が誕生し、本社で合併関連のシステム担当だった私は、君津製鐵所オンライン化の経験を少しでも役立てよと大分製鉄所建設本部兼務を命じられ大分へ度々出張していた。その年か翌年だったか、大分での会議を終え係へ宿泊の申し込みに行くと、「大分にもホテルができて今日開業しますが、いつも通りの旅館ですか」と訊かれた。その最中に本社から出張のTさんがやってきた。Tさんは私より一年あとに事務系で入社した人で、仕事関連で時折話をした仲であり、同氏を知る人は皆が同感だと思うが、にこやかで明るく見かけに依らず茶目っ気たっぷりの人柄だった。そのTさんが「井上さん、開業初日だと面白い経験ができて楽しいこともありそうなので一緒に泊まりましょうよ」と言う。泊まる気だった私も「そうしましょう」とタクシーを拾った。
着いた先のホテルは小さなビルで、今流ビジネスホテルのはしりだった。フロントは2~3人が並べられる程度のスペースしかなく、担当の青年がいるだけだった。彼の緊張した面持ちから察すると、私達が最初の客のようだ。彼は早速「これにご記入ください」と用紙を寄こしたので、二人並んで記入を始めた。印刷されている〈性名〉の〈性〉の字に戸惑って、「字が違っているよ」と言おうとした矢先、Tさんが私の横腹をつついて自分の用紙にある〈性〉の字とその横に書かかれた〈男 晃〉を示しニコリと微笑んだ。私も何食わぬ顔で〈男 義祐〉と書いた。次いで〈朝食 和洋食〉とあるのを見て、「〈朝食: 和食 洋食〉のミスだ」と言おうとしたら、Tさんがまた茶目っ気たっぷりな笑みで、〈和洋食〉全体に○を付けて私に示す。私もそれも真似し記入を終え青年に渡した。青年はやや怪訝な表情で、「お二人とも〈男〉という姓でご兄弟ですか」と言う。Tさんはすまし顔で「いや違うよ。二人とも違った〈セイ〉だが〈性名〉とあるので」と答える。「ではここには自分の姓と名を書いてください」。「でもこの〈性名〉の字通り書いたのだよ、ほら。」「エッ?ア、本当ですね。済みません。〈姓〉の字の間違いですので」と青年が顔を赤らめて謝るので「了解」と姓名を書き直して渡した。すると青年が、朝食の欄を示して「和食か洋食かのどちらかを選んで貰えませんか」と言う。Tさんは、今度もにこやかに「〈和食〉、〈洋食〉と別々に書いてあればどちらかと思うが、ここには〈和洋食〉とだけ書いてあるので、〈和洋食〉の朝食とは初めてでどんな食事か楽しみにしているんですよ」と言った。通常、このような言い方は嫌みに聞こえるものだがが、Tさん独特の柔らかい雰囲気と笑顔で言われると、フロント氏もきまり悪そうに「何しろ開店初日の最初のお客さんで、当方の手落ちをどなられても仕方ないのに、ユーモアたっぷりに優しく気付かせていただき有難うございました」とお礼を言う。それを見て、私なら「こことここが印刷ミスだよ」と言いそうなところを、Tさんのそれとなく相手に気付かせたうえに感謝の念を持たせたそのやりとりに深く感じ入った。それから、お互いに「イヤー、面白かったね」と階段を上った。そこでTさんの「井上さん、〈二度あることは三度ある〉でもう一回何が起こるか楽しみですね」との言をあとにしながら部屋に入った。室内は洋式だったが風呂場は和洋折衷で、それはよかったのだがどこを探してもタオルがない。〈困ったな〉と思っていると電話があり嬉しそうな弾んだ声で「井上さん、やはりもう一つありましたね。いまフロントに電話してわざと〈服を脱いだあとで気が付いたらタオルがない。着直すのは面倒なのでこの姿でいまから取りに行くよ〉と言うと〈アッ、渡すのを忘れていました。ソ、その格好では困ります。いますぐ部屋まで持って上がるので待っていてください〉と大慌てでしたよ。すぐそちらにも彼が行きますよ」と笑う。電話が終わるやいなやドアがノックされ、フロントの青年が「渡し忘れました」とタオルを手渡し深々と頭を下げ立ち去った。----とその日は、私にとって愉しい思い出の残る一日となった。
ところで、ここに言うT さんとは、あとに新日鐵の社長・会長を務め、早すぎると皆に惜しまれながら2007年始めに亡くなった千速晃氏のことである。まだ私が大学に在職中の2005年に氏を会長室に訪ねたが、その時も、諸々の話の中に加え大分のホテルの情景を二人で懐かしく思い出し語り合った。もうその同氏と話す機会がないのは大変に淋しい。氏のご冥福を祈る。

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渕浪敏明

千速社長が、こんなにユーモア溢れる方だったとは、驚きです。
性名のエピソードは、思わず笑ってしまいました。
by 渕浪敏明 (2016-12-06 23:13) 

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