SSブログ

小学校3年のときの先生【小学校の頃のはなし-1-】 [小学校の頃のはなし]

小学校3年のときの先生【小学校の頃のはなし-1-】
    昭和16年(1941年)4月に、それまでの尋常小学校が国民学校へと変わった。そのとき私は軍港だった佐世保で3年生になった。当時は「男女七歳にして席を同じうせず」で、学級編成が2年までの男女混合から男女別となり、なんとなく男であることを意識させられた。いまにして思えば、世の中では男性は前線にかり出され、銃後の守りと称して女性が職場へ進出し始めた頃だったのだろう。女の先生の女児学級担任はあったが、まだ男児学級は男性担当が多かったと思う。というのも、学級担任が女性の先生だと知り、私たち悪ガキどもは「男のシェンシェイ(当時はそう発音していた)になると思ットッタバッテン、女の先生テバイ。名前バ『さん』と呼バレテモ返事バセンゴトスットゾ」と皆に強制したからだ。
   70年経ったいまでも鮮明にその光景は思い出せるが、初対面のその先生は、それまで担当だった女の先生と違ってさっそうと教室に入ってこられた。「今日から担任する河田です。出欠を取るので元気に大きな声で元気よく『ハイ』と答えましょう。(息つく間もなく)『秋月クン』と呼ばれると、反射的に大きな声で元気よく『ハイ』と答えた。続いて『石橋クン』、『ハイ』、『井上クン』『ハイ』と悪ガキどもが、予期した『さん』ではなく『くん』呼びでの先生の気勢に飲まれて、いとも簡単に答えたので皆もそれに続いた----。先生は体操の時間も一緒になって皆を追い回して遊んでくださった。そのようなこともあり「今度のシェンシェイは男の先生トオンナジゴト(同じように)遊ンデクレ、ソイニ優シカケン、オイタチハ女の先生ニナッテヨカッタバイ」という雰囲気になった。 後に、自分の成長過程でも次第に学ぶこととなるが、これが「何事も初対面での印象が大切」という教訓の初体験であり、海外でのコンサルティングのときにも何度となく有効に使わせていただいた。
   先生は活発なしかも優しい方だった。 ある日、比較的に算術が好きだった私は、当てられて黒板で分数の加減算を解くことになった。しかし、それを習った前日に病欠していて、どうしてよいのか立ち往生した。先生は「昨日やり方を教えたときに欠席したのね。」と改めてその場で教えてくれて私が自信をなくさないように気遣われた。また、昔話は幼児のときに祖母から繰り返し聞き覚えていてよく学級で話していたが、昼休みの全校向けの放送で話をするように計られ、あとあと人前で話す勇気を持つきっかけをいただいた。
  そのほかで思い出すことは、時折、授業が始まる前に、全校の生徒だったと思うが、廊下の両側に向かい合って正座し、「明治天皇御製」を一緒に歌っていた。節は同じだが御製はいろいろあった。その中でいまでも覚えているのが一つある。それは「あさみどり すみわたりたるおおぞらの  ひろきをおのが こころともがな」である。先生が「明治天皇は生涯で沢山の和歌(御製)を残されたが,これは、澄み渡った広い大空のように心を大きく持ちたいものだ、という意味だ」との解説と、自分でもそうありたいと子供心に思ったから、いまでも鮮明に焼き付いているのだろう。
  その年の12月に「大東亜戦争」と称した第二次世界大戦が始まった。その翌年に父の仕事の関係で関西に転校し、佐賀の方に行かれた先生とはしばらく疎遠になっていた。しかし、その後で文通が続き、大学への入学、卒業以降、大学への転職、学位取得などの節々に色紙に歌を書いて送っていただきいまも大切に保存している。その先生は92歳となられて諫早の地にご健在で、退職後はご自宅に伺い楽しいひとときが過ごせたし、その後は時折お電話や手紙で交流が続いている。92歳といえば米国の大学院での指導教授も彼の地にご健在で、クリスマスメッセージなどメイルで交換している。このように、この歳になるまで近況をご報告できる恩師が健在しておられることは本当に嬉しいことだ。その間の、中学、高校、大学では、それぞれでの幾人かの恩師の方々とは長らく文通していたが、このお二方を除いては皆他界されていまは面影と思い出に感謝の念のみが残っている。
お二方のご健康と、他界された方々のご冥福を祈っている。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。