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堺大空襲の悲惨なパノラマ 【中高生の頃のはなし-3-】 [中高生の頃のはなし]

堺大空襲の悲惨なパノラマ  中高生の頃のはなし-3-

  敗戦の年6月頃には、昼夜となく頻繁となった空襲に備え、すぐ防空壕へ入れるよう昼着のまま寝るようになっていた。7月に入ると空襲は一層激しくなり、改めてWebで確認した、10日の夜半に始まる堺への無差別大空襲は、地上では非戦闘員の木造家屋を紅蓮の炎で焼き尽くす地獄絵だった。しかし上空では南北一対の入道雲を挟んだ遠い夏の夜空に、朝まで続いて展開された壮大な火炎のパノラマで、この対照的な二つの情景は脳裏に焼き付かれ生涯忘れることができない。 以下にその情景をその時の感情も込めて記述する。

  その時、私は堺とは大阪湾を挟んだ対岸で直線距離にして20km余りの武庫川べりに住んでいた。真夜中に空襲警報で起こされて外に出ると、探照灯で明るく照らされた右側の入道雲からB29の一機がヌッと姿を現した。それに向けて高射砲が一斉に火を噴くが、その遙か上空を飛ぶ敵機には全く届かない。その一機は真っ暗な夜空を傍若無人に左手へ進みながら左右中間の正面で落下傘に付けた照明弾を落とす。それがゆっくり下降するにつれ、投下管制下の真っ暗な堺一帯を真昼間のように明るくなる。その敵機がゆっくりと左側の入道雲に消える去る頃合いを測るかのように、右側の入道雲から別の一機が出て来る。それが中央部に達すると照明弾で下方に白昼のように明るく照らされた市街に爆弾状の物体を落下する。その物体が途中ではじけて無数の小さな焼夷弾となって雨のような降り注ぐ。 その敵機がゆったりと左の雲中へ消える頃には焼夷弾が地上に達して大火炎が上がる。と、時を空けずに次の敵機が右の入道雲から出て来て、落下した照明弾に替わり民家の炎上で明るくなった市街目がけて焼夷弾を幾束も落とす。すると更に火炎が下方で左右に広がる。その間に、絶え間なく無数に打ち上げられる高射砲弾は、残念ながら敵機の遙か下方で無数に炸裂するのみで敵機には届かない。このような一方的な無差別攻撃が延々と限りないように繰り返された。 それはWebによれば一時間半にもわたったという。その間に、これでもかとばかり続いて、火の手は一層左右に広がり高く大きくなるのに、ただ傍観するだけで手も足も出せない悔しさに、私にはずーっと長く感じられた。その間に、憎き米機を蜂とすれば蟻大の日本の戦闘機が何回か敵機後方から機銃掃射をかけるが米機には届かず打ち落とされる、えもいわれぬ悔しさ。その時、私は「もう少し年上ならば少年飛行兵として体当たりで鬼畜の敵機をやっつけるのに」という心情で切歯扼腕していた。その悔しさ憎さは私のみでなく地上にいた全員に共通だったろうと思う。

  対岸の堺一帯は、空襲が終わっても夜明けに燃え尽きるまで炎々と燃え続け十万を超える人を一晩でホームレスにし、多くの死傷者を出し続けた。人口が多い東京はもっと悲惨であったろうが、堺の空襲でも、後に歴史で学んでネロのローマへの放火よりも大規模で無慈悲だったろう。地上の炎上地獄を考えなければ、まことに見事な光のパノラマであっただけにその夜のことは鮮明に脳裏に残り、花火を見る度に思い出される。それから一ヶ月余りの間に焼夷弾の被爆経験もしたが大した被害もなく戦争には破れ、あれほど激しかった相互の憎しみ合いもそれと共に終わった。

  その13数年後には、「鬼畜米英」と思った米国に2年間も留学し、また、42年後には、激しい焼夷弾攻撃を被り再興したその堺市で、その後19年もの間、同市在の二つの大学に勤務することになろうとは、その時にはついぞ思っても見ないことだった。人生にはいろいろと思いもかけぬ展開になるものだ。 (空襲の日時はウィキペディア 日本本土空襲 で確認)
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