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日系一世の人と正月料理 【フルブライト留学関連-16-】 [フルブライト留学関連]

日系一世の人と正月料理  【フルブライト留学関連-16-】
  留学生活が始まって3ヶ月でクリスマスと正月が近づいた。大学院では私のようなフルタイム学生は極めて少数で、会社勤務をしながらその許可を取って週に一または二回夕方のクラスを二つくらい受けるパートタイム学生が大多数だった。フォードのエンジニアとして勤務し、週一日夕方の自動制御のクラスに出てくるSaburo(Sab)という二世の学生が、日本語は話せないがと英語で時折話しかけてきた。
  クリスマスはその前後一週間近く続く休暇があったが宿題に追われた。イブと当日は両親代わりのようなBond一家と教会に行き、その家でご馳走になり楽しく過ごした。でも年末は28日頃から授業が始まり、元旦のみが休みで翌二日から通常通り授業が始まる。日本流で言えばクリスマスが正月で正月は成人の日に相当し、これは後に3年間住むことになったイタリアでも同じことだったが、まことに味気ない正月になるところだった。
  このような状況の年末の授業で、Sabが遠慮がちに「迷惑でなかったら正月は両親の所へ一緒に行ってくれないか」という。「どうして」と訊くと「両親は何日もかけてテーブル一杯の料理を作って待っている。しかし、一緒に住んでいる長男夫妻はともかく、ロスから帰ってくる次男は余り和食は好まない。自分はワイフが中国系で正直いってそれほど好きではない。母親は苦労して正月料理を準備するのにそれを心から喜んで食べる人がいなくて申し訳ない。また、耳の遠い父親に付き合い意味も分からない変な節回しのレコードを聞くのも辛い。Yoshiなら両方とも喜んでくれると思うので」との返事だった。100万都市のクリーブランドでも当時は中国料理が数軒のみで日本料理店はなく、醤油など和食材店が一件あるだけで、日本食とは縁遠くなっていた私には大変嬉しい話で 喜んで受けた。
  元旦早朝にSab夫妻が迎えに来てくれて1時間あまりのドライブで郊外の両親の家についた。両親は70歳前後で、九州と関西育ちの私には少しわかり難い東北弁だったが、日本語で話し合えるので訪問を大変喜んでくれた。食堂に入って、一畳分はあるかと思われる大きなテーブル二つの上に、数々のお節料理が大皿に盛られているのには驚いた。私の幼年時代の戦前でもこのような多くの品数のお節料理ではなかったし、ましてや食糧難の戦中と、戦後十数年でやっとそれを脱しつつはあったが、万事略式になった当時の日本ではもはや見られないほどの大ご馳走だった。この料理は、彼の両親が故郷の福島県を出られた大正年代における農村のお節料理そのままの再現であったろう。私が喜んで食べるのを見て彼の母親は「私達にとってお正月は大切な行事で、ロス在住の次男に頼んで食材を送ってもらい料理をし、餅をついて準備するのが楽しみだ。息子達は何とか食べてはくれるが貴方が喜んで食べてくれれば本当に作りがいがある。気に入ればまた来年も是非きてください」と大変嬉しそうだった。Sab は母親と小声で話しあっていたので「何だ日本語が話せるではないか」と思ったが、それは東北弁の女性言葉で、彼が私にしゃべれないといった真意も理解できた。屠蘇を飲み、雑煮とお節料理で腹一杯、それに久しぶりの日本語での会話にこの上なく幸福な正月気分に浸ったところで、彼の父親がやおらレコードを出してきた。Sab はこれから数時間はYoshiに任せるといって私を残して部屋から出て行った。それは、私の子どもの頃聞いた廣澤虎三の浪花節で「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、寿司を食いねぇ」と勧める有名な清水の次郎長の台詞のところで、このときはまさか将来にその靜岡市清水区の近くに住むとは思ってもみなかったが、これも久々に思わぬところで聞けて楽しかった。その翌日、正月二日というのに早速また授業が始まった。
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