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木炭自動車と代替品のはなし【中高生の頃のはなし-4-】 [中高生の頃のはなし]

木炭自動車と代替品のはなし【中高生の頃のはなし-4-】

  戦争が終わりに近くなると物資が不足し、代替品が多くなった。いまは忘れ去られたが、車も代替燃料を用いた木炭使用の貨物自動車が幅をきかせたた。この話には、西宮鳴尾の川西航空機で海軍の名戦闘機「紫電」の翼桁加工の工場長をしていた父のことに触れざるを得ない。空襲が始まると爆撃目標となるので、工場全体が軍需用に接収された兵庫県土山と和歌山県岸和田の二繊維工場に疎開し父もそこと家の間を往復していた。工場移転の翌日の空襲で、父の事務所は爆弾が直撃し危うく命を落とすところだったそうだ。

  そういうわけで鳴尾から翼桁の材料となるジュラルミン材を工場に運び、帰路で加工された機材を組み立て工場のある鳴尾へ持ち帰っていた。その往復の運搬で、主題の木炭自動車(当時はトラックとかガソリン、タンクなどの横文字は敵国語で使えなかった)が出番となる。それは、国内では産出しない貴重なガソリンを国内での調達可能な木炭で代替するために発明されたものだった。

  春休みだったろうか、珍しく父が私に、助手としてその貨物自動車に乗って来るようにという。会社の近くから、材料を満載といいたいが、半載程度の貨物自動車の荷台に乗って国道3号線の阪神国道を大阪方向へ走る。少し前に怖い経験をしていたので艦載機の機銃掃射があれば何処に逃げ込むかと探しながら乗っていた。そのせいかそのときの国道の情景は記憶にない。しかし、同じ頃に西宮の阪神国道で、自動車の後輪が一つ脱輪しそれが国道の幅一杯にクルクルと回転し続け最後にパタンと倒れた。 車はすぐ気付き少し先で走って停まった。その珍風景は不思議に一部始終が鮮明な動画として残っている。その記憶では、阪神国道電車といっていた路線電車が走り、走行の自動車は少なく、代わりに馬力と称した馬車が物品の搬送手段だった。いまでは想像できないほど自動車も少ない頃だったので、燃料が木炭とはいえ貨物自動車は軍需だったから使えたのだろう。

  ところで主題の木炭自動車というのは、荷台の運転席の後ろに、私の記憶では、径が60cmくらい高さが1.5mくらいのガス発生タンクが設置され、木炭をくべ送風機で空気を送るのだが、力が出ないときは手回しでも送風を補った。木炭の不完全燃焼でタンク内で発生する一酸化炭素をガソリン代わりに使用する原理で走った。大阪に近い緩やかな坂道になるとガスの発生が間に合わずエンジンが息切れして遅い車が気息えんえんと益々遅くなる。材料満載でない理由がここまで来て理解できた。すると、貨物自動車を路肩に止めて運転手さんと交代で木炭をくべ送風機を回す。充分にガスが発生するとやおらまた走り出す。そのようなことを何遍も繰り返して、悪路の中を長時間をかけてやっと岸和田まで着く。帰りはまた加工済みの翼桁を積んで西宮へ帰る。いまの高速道路を快適な車で行くのとは想像もできないほど大きな違いだ。土山の工場までも同じような記憶がある。いま考えても木炭を代替燃料によく走ったものだ。でも、その当時は軍国少年だった私さえ、こんなことで戦争には勝てるのだろうかと若干心配にはなっていた。

  公私に厳しかった父は、仕事のことなど家で話したことはなく、初めて工場での翼桁加工の作業を見てエンジニアになろうと強く思った。父が私を疎開先の工場に連れ出したのは私への動機付けもあったろうが、いま察すると私に米飯を好きなだけ食べさせようとの親心もあったのだろう。当時では、一日あたり二合三勺が配給されていた米が二合一勺と減った。都市住まいでは耕す土地もなく、道ばたで作ったカボチャやサツマイモなどの代用食で腹を充たそうとしたが、それも充分でなく常にひもじい思いをしていた。しかし、岸和田郊外では周囲に田んぼが多く、父が泊まっていた家で、その晩だけは夢ではなく本当にご飯のお替わりができ、それで満腹感が得られたのだった。

  ガソリンの代替が木炭で、お米の代替が当時代用食といわれたサツマイモややカボチャだった、余り思い出したくはない戦時中の二つを結び合わせて、このはなしを終わらせる。

 


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