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ふるさとの変貌【この頃思うこと-6-】 [この頃思うこと]

ふるさとの変貌【この頃思うこと-6-】

  このほど、佐世保を訪れ数日間滞在した。関西で過ごした戦中と戦後半年ほどの期間を除き、佐世保は生まれてから中高生までを過ごしたふるさとである。そこを離れてから何回も訪ねたがいずれも一泊程度であった。 6年前の退職直後に九州一周の途次で寄った。そのとき駅周辺は整理中で、次はゆっくり滞在したいと思ってきた。

  今回はその宿願を果たし、当時の家の近辺、通い慣れた小学校へ通学路、余り行かなかった市中央と西北部から平戸方面への地域を訪ね、親族や旧友と会うなど三泊した。

  幼児の頃の佐世保は軍港として栄え、街は海軍の兵隊さんたちで賑わっていた。記憶をたどり思い出せるのは、三方を囲まれた奥の家から南へ開けた両側の砂岩上で向かい合った三人が、細い鉄棒を「ヨイヤコーラ」と持ち上げては落とす「ドスンドスン」という音、やがてこだまする「バクハスルゾ」という声、その後に「ドッカン」と岩石が崩れ落ちてくる風景だ。先の尖った鉄棒で砂岩に細く深い孔を穿ち、その中に仕掛けた火薬で大きな岩を爆破していたことを後で知った。その崩れた後に石段ができ家が建っていく。子供心には広かった遊び場も家からすぐの狭い所で、近くの木も大きくなっていた。

  家は壊され駐車場となって近所の役に立っていた。そこから小学3年まで通った道をたどった。 距離にして600m高さ100mほどだろうか。急な階段を上りながら両側にあった家や、友達と落下傘ごっこと傘で飛び降り怪我をした階段、弁当箱を落として途方にくれた崖下、などを回想していると小学校へ着いた。その前日、丁度70年昔の3年生のとき教えていただいた92歳の恩師を訪ねた。そこで先生と当時を回顧した直後だったので、とくに懐かしく思われた。

  家の駅より反対の西北にある中心街は前から余り馴染みはなかった。その商店街だが4ヶ町にまたがる長い天蓋に覆われて軒を連ねているのは壮観だった。しかし、一番変わったのは駅近辺だ。JR佐世保線が高架となって駅舎が改築され、駅前の道が広がり、駅と繫がった裏手に港と接した公園が整備されるなど周辺が一新されているのには全く驚いた。以前は市のあちこちに大きな砂岩の岡が散在した坂の多い街だった。それらの大きな砂岩石を爆破して平地や道路を拡げ、また駅の海側は埋め立てたのだろう。駅周辺の開発で明るく解放された街となったいまでは、戦時中列車が駅に入る直前に軍港側の鎧戸を閉めさせられ秘密のヴェールに包まれた暗いイメージの街を思い浮かべるのは極めて難しい。

  駅といえば、中高生の頃、朝鮮戦争で米軍が朝鮮半島の朝鮮半島の南側に追い詰められたとき、在日駐留米軍が日本中から続々と佐世保に集結した。再び戦争かとの恐怖・緊迫感や、その列車群で駅が満杯となって機能せず、数日休校になったことなども思い出される

  中学3年時に学制が変わり、旧制佐世保中学も一年後輩までで終わった。男女共学になり市内の高校が南北に別れ南高に行った。それ以降疎遠になっていた市内北西部へと私鉄となった旧松浦線で平戸口駅まで行った。戦後繁栄の一端を担った北松炭田地区の、途中で通る佐々・吉井・江向などの駅名に友人名を思い出していた。あの頃はボタ山だった所は樹が生えて窓から見える岡になったのだろうか。

  その頃の平戸は10里という遠い道程の先だった。平戸口駅に佐世保から先回りをしていた甥が車で迎えてくれ、平戸島とその先の生月島との二つの橋を渡り眺めを楽しんだ。そのあと1時間余りのドライブで佐世保に戻ってきた。この半世紀で遙かに遠かった平戸も車で1時間余りの近くになっていたのだ。 

  最後から2年目入学で、以来ずっと後輩が一年しかいなかった旧制佐世保中学の同級会で旧交を改め、義姉と亡き兄の後を継いだ二人の甥一家との夕食を共に楽しめた。

  かくして、大きく変貌はしていたが、それでも多くの想い出を宿している「ふるさと」の訪問を終えた。


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