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二人の大男とスバル360【くるま関連のはなし-6-】 [くるま関連のはなし]

二人の大男とスバル360【くるま関連のはなし-6-】
  スバルに乗り慣れた頃、計測制御分野で有名だったTRW社と業務診断の契約が結ばれ、留学時代の知人 Dr.Tom. Stoutがその部下と二人で八幡に1週間滞在した。その通訳と応対は公私とも私が当たった。当時は外人が多く訪ねる大都市以外には洋式のホテルはなかった。小倉や八幡も例外ではなく、彼らには旅館に泊まって貰った。世界中で日本食が流行のいまでは信じ難いが、当時は刺身どころか醤油の臭いさえ嫌ったアメリカ人が多かった。そのなかで、目の虹彩が緑色、身長が 1,9m強はあろうかと言う北欧系の大男だった彼は好奇心旺盛で「在日中は日本人のように過ごしたい。生活習慣上で変な言動があれば遠慮なくその都度注意して欲しい」と何事にも積極的だった。寿司屋や銭湯にも連れだって行ったし、旅館では浴衣や日本酒に日本料理を喜んで楽しんでいた。
  アメリカでは彼の大きな車でドライブして貰ったので、会社の外車(当時の言葉で外国製車)で近郊を案内しようと思っていた。しかし、エンジニアの彼は私が話題にした愛用車スバル360に格別の興味を示し、是非それに乗りたいと言う。問題は彼らの大男ぶりで、彼の部下も背丈は彼並みでしかも太っていた。私の第一の心配は、あの狭い車体に彼ら二人がその長い足で後部座席に入り込めるか、もし入れても窮屈ではないか、そして最大の心配は「大男二人と私を乗せて坂のある八幡の街中を走る馬力が充分あるか」だった。彼のたっての依頼を断り切れず試しに後部座席に乗せるだけはしてみようと思った。170cmもない会社の同僚すら「乗るには靴べらが要る」とこぼしたほど乗り難く狭い後部座席へ、ドアを前方に開けて助手席の背もたれを前に倒し、まず、彼が身体を前に丸めたままその上を跨いで、どうにか後部座席に滑り込めた。二人目も同じように何とか入れた。見ると二人とも長い足を折り曲げ、膝が胸に付かんばかりだ。「窮屈だから降りる」と言うと思ったのに、彼は「乗れた」と喜び「是非ドライブをしよう」と言う。少し走れば「もう充分」と言うかと思いきや、スバル特有の独立懸架のトーションバーが良く効いたのか「思ったより乗り心地が良い」と褒める。言葉につられ、少し走ってみると目前にかなり急な長い坂道が展開している。「しまった、別の道を選ぶのだった」と思ったのも後の祭り。坂に到るまでトップギアで走り勢いを付け、坂を上り始めるとロウギアでアクセルを一杯に踏み込む。彼ら二人も初めは「フレーフレー」と車に応援をしていたが、坂の頂上が見える頃はエンジンは気息奄(えん)々(えん)で停まる寸前。混合油使用のエンジンは加熱で排ガスは黒煙濛(もう)々(もう)。大男二人は「降りて車を押そうか」と真顔になって言い始めたが、この場になってのそれはスバルの名折れだ。内心はエンストを怖れながらもスバルに「何とか登り切れ」と念じながらアクセルを踏み続ける。やっとナガーイ坂を登り詰めたときには、3人で思わず「ブラーボー」と歓声を上げた。それから郊外へ出てドライブを無事終えた。スバルを降りると折り曲げていた長い足を伸ばし背伸びをしながら、「とっても小さいが、見かけによらず力もありナイスカーだ」と大男二人から褒められたのは同じエンジニアとしてわがことのように嬉しかった。
  彼らの質問に、スバルの設計と生産は戦争中に「隼(はやぶさ)」などの名戦闘機を製造した中島飛行機の後継会社の富士重工で、軽自動車の規格としてエンジン内容積が360cc以下で車幅や車長に制限があること。この車の特徴は空冷2気筒のエンジンに独立懸架の足回りであることを説明した。彼は戦争中に有名を馳せた「隼」と同じエンジニアの設計製作と言うことで充分納得したようだ。
   また、彼は「必要は発明の母」で、エンジン容量を規制したのは賢明な策だ。イギリスでは規制がピストン直径だったので、同直径で大容量を得るのに規制なしの長ストロークと言う奇形のエンジンが流行(はや)ったと言う。「アメリカの車もスバルのように原点に戻り経済性や効率性に配慮すべきだ」とアメリカ車の大型化を批判していた。急成長を始めたばかりの1963年頃のスバル360 を起点に、それから30年もしないうちに日本の自動車産業がアメリカに肩を並べ追い抜くようになろうとはそのときには思いもよらなかった。
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