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2012,8,6 通訳事始めとその失敗談【言葉のはなし-8-】 [言葉のはなし]

2012,8,6 通訳事始めとその失敗談【言葉のはなし-8-】
  通訳で内容をすべて漏らさず正確に伝えるのは至難の業で、私などにはとてもできない。しかし、外人を交えた小人数の英語での会議で、限られた時間内に当方の説明や相手の言い分の要点を双方の出席者に伝えるのに、やむなく自分で通訳らしい役割も果たす場面は多かった。出席の同僚からは「井上さんの話は日本語より英語の方が遙かに理解し易い」とよく言われたものだ。それも一理あると思うのは、日本語では最初から結論の諾否を明確にする必要がなく、また、母語なので語彙や表現方法は自由で、相手の出方を見ながら、話の途中で良い例などを思いつくと回り道をし、それと気付かぬ間に話題はおろか主語、ときにはあろう事か諾否さえも変えることもできる。それに比し、英語では文法上からも最初に「イエスかノーか」の結論を明確に整理して話し始める必要があり、また私の英語力では語彙や言い回し方も不十分で、表現が直截・端的にならざるを得なかったからだ。
  「イエスかノーか」で思い出すのは、イタリア駐在のとき同僚の一人が相手から "Mr. Yes but no"とのあだ名を頂戴していた事だ。彼は「相手にいきなり否定はしにくく、言い分を一応 "yes" で同受け止め、それからその言い分に "No" と否定しているのだ」と言う。同僚の多くも外人と接し始めた最初のうちはそうで、次第に "No" から始められるようになったのだが、彼は急速にはその対応変化に馴染めなかったようだ。「私も同じ経験をしたので、その心情は充分に理解できるが、外人相手では混乱させるだけだ」と忠告すると、さすがの彼も不本意であったようだが数日で最初から "no" と言えるようになった。しかし、そのあだ名だけは彼の帰国後もイタリア人の間でずっと残ってしまったのだった。
  そのような私が通訳の難しさを「知らぬが仏」で始めたのは英会話に興味を持った大学2年のときだった。半世紀以上も前で、録音テープなどは当然この世に存在せず、ネイティブと話せる機会としてYMCAの英語会話教室と大学の英会話や米国会話の授業が受けられたのが幸運な時代の事だ。その状況で、私と教派は違うがプロテスタント系宣教師のBible classの手伝い依頼が舞い込んできた。自信はなかったが英語で聖書の勉強もできると引き受けた。宣教師は50歳代のミセスで、米国の所属教区から一年間宣教のため東京に派遣されてきたとのこと。早速その20人ほどのクラスに出てみると、皆は私以上に聞き取れぬらしい。私は引き受ける条件として、「私の実力ではいきなり本番は無理なので1時間のクラスの前に予行練習をして欲しい」と申し入れ了承された。始まる前の1時間は当日分の聖書を英語で一緒に読みその解説を聞き質問した。その週一回2時間は一言一句聞き漏らすまいと必死で英語と聖書とに集中した。少し経って、彼女の信仰では、「聖書に書いてあることは旧約の世界創造なども含め一言一句がその通り真理で疑う余地もなく、進化論などはとんでもない」と言うことで、fudamentaristと言われる人の存在も知った。見解を異にする私は予習のときは議論もしたが、クラスでは彼女の言うとおりの通訳に徹した。ただ、信仰心の強さの余り自然に早口になりがちで、再々 "slowly"と頼み、それでも聞き取れなくて "please repeat again" と頼むことも多かった。ある日など、キリストが十字架に付けられる場面になると、彼女は感極まって猛烈な早口で涙ながらに話し始めたので聞き取りにくかった。でも、どう考えても涙をもう一度流させる訳には行かず、そのときだけは、多分こう言ったのだろうと想像も交えて通訳をし冷や汗たらたらだった。
  そのような通訳の事始めだったが、一年の宣教が終わり彼女が帰国すると同時にそれも終わった。それを通して、原理主義的ではあるが深い信仰心を知り、英会話と英語聖書講読の貴重な経験が得られた。同時に通訳の難しさが痛感され、以降は留学後も自分の専門分野も含め公式の会合での通訳は可能な限り断る事とした。
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