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子供の喧嘩【子供の頃-2-】 [小学校の頃]

子供の喧嘩【子供の頃-2-】
 取っ組み合い喧嘩の記憶は小学校時代の10回弱しかない(もある?)。その多寡は別に、負けず嫌いと怖さ知らずで、入学や転校の初日にした喧嘩が、その後に一回もいじめを受けない結果につながったと思う。
 最初の思い出は、昭和14(1939)年、長崎県佐世保市の小学校入学式でのことだ。男女組の白組の旗を両手に最前列にいた私に、男の子が「オイ(俺)にも旗バ持たセロ」と背中を突つくが両手は使えない。式後「うるさかったゾ」と喧嘩となり相手はあっけなく泣いた。素手での喧嘩は泣いたら負けだ。「井上はチビバッテン喧嘩は強カトバイ」との初印象を級友に与えた。それからしばらくは「コイ(これ)がワイ(お前)よりツヨカと言いヨルゾ」と当人を連れてくる。「オイに勝つテ(と言う)カ」とにらみ「ウン」ならば喧嘩、「ウンニャ(否)」なら「ソウヤロ」で終わる。どうしても泣かない子には悔しくてこちらが先に泣き、その他何人かと喧嘩の後、白組喧嘩2番のランクが定着した。3年では男女別となる学級編成で、図体の大きい子が入り3番に転落したが皆で仲良く遊んだ。
 4年進級のとき兵庫県尼崎の学校に転校した。その登校早々「変な言葉ヤンカ」とからかわれた。大きな図体に少しひるんだが怖いもの知らずで殴り合いとなった。相手は図体のわりに喧嘩は下手で先に泣き始め皆が驚いていた。後で学級の喧嘩大将だったことを知った。翌朝、家の門前にその子が高学年とおぼしき4人と待ち伏せていた。出るに出られず彼らが去ったあと、母と共に校長室へ行った。校長は顛末を聴き、担任とその子等を呼び出しその場で仲直りさせた。彼らは初めて会った韓国系で、それを機に仲良くなり彼らの家に遊びに行ったり韓国語の単語や風習を教わったりもしたのだが、後ほど海外で生活し異文化と接触することになる始まりだ。お陰で以降いじめに遭うこととは無縁だった。
 5年で隣の西宮市今津国民学校へ再度転校した。これも初日に、背丈は低いが頑丈な体つきの子が、廊下で「どこから来たンヤ」とからかってきた。前回の経験からも、「初めが大切」と喧嘩になった。取っ組んで相手が予想外に強く「しまった、強すぎる」と思ったがもう遅い。そのとき、廊下の窓側に上部が帽子掛けの傘立てが目に入った。「良し、これだ」とわざと散々殴られながら油断させて気取られぬように窓側に移動し、突如相手の背中を帽子掛けの金具に、力を加減したが「ゴツンゴツン」と押しつけると相手は驚き「痛い!」と泣きだした。強かったはずで彼は隣の学級での名負うての乱暴者だった。関西では喧嘩の序列はなかったし、腕力のある者が不当にそれを振るうとその当人を皆が共同で阻止すると言う雰囲気で九州とは違う喧嘩文化だった。
 当時の国民学校には2年制の高等科が併設されていた。6年生の秋に高等科生が学徒動員に校外に出て名実共に最上級生となった。高等科の腕白な兄貴を笠に着て弱いのに強ぶっていた子が相変わらず虚勢を張った。それまでの忍耐が爆発し言い争いとなり同じ思いの同級生も私をけしかけた。放課後に裏庭で同級生の立ち会いのもと素手での喧嘩を始め、積もる鬱憤を晴らした。意気揚々と校庭を横切っているとき、後ろからの叫びで振り返ると彼が高下駄を私の頭上に振り下ろし、次の瞬間には血が周りに飛び散った。同級生が彼を取り押さえ、私に「養護室で消毒して貰え」と言うが先生には内緒にしたいと水道で傷を洗うと止血した。後で化膿もせず家人にも気付かれずに済んだ。傷に薄皮ができた頃、自習時間に別の子がいたずらでそこを叩きまた血が吹き出て今度は医務室に行った。簡単に出血するのはおかしいと言うことで、彼をかばうので内緒にした前の喧嘩が先生にばれてしまって叱られたのも思い出だ。それからもう一回他校の不良との大喧嘩もあったが、翌年に灘中学に入学して一年後に佐世保中学への転校と続くのだが、それ以降はさすがに殴り合いは皆無でこれが喧嘩の最後の思い出となった。


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