SSブログ

朝鮮動乱のことなど【中高生の頃-7-】 [中高生の頃のはなし]

朝鮮動乱のことなど【中高生の頃-7-】
 「佐世保駅は進駐軍の軍用列車で一杯ジャッタバイ、大変になるゴタル(ごとある)ゾ」との汽車通学の友人の話は、北朝鮮の奇襲攻撃で韓国軍は壊滅、韓国駐留の米軍も苦戦中との報道に驚愕した高校3年生の正確には1950年7月25日直後のある朝だっただろう。放課後に駅へ行くと、佐世保線終点の操車場は列車でごったがえしている。戦時中は軍港、戦後は米海軍基地だった世保港が、西日本に駐留する多国籍軍の韓国への輸送基地となったからだ。軍用以外は運用停止で休校が二日ほど続いた。ソ連戦車など周到な準備の北鮮軍が怒濤の勢いで南下し、韓国軍はなすすべもなく韓国駐留の多国籍軍も釜山北方まで追い詰められ一進一退で8月一杯が推移した。その9年前の世界大戦初戦で日本軍のマレー半島南進が英軍のシンガポール陥落につながったこと、また5年前の関西での米戦闘機の機銃掃射やB29の1トン爆弾の被爆のことが想起され、日本が戦場になる恐怖におののいた。
 街中は進駐軍の厳格な規律保持で平穏だったが、「明日は生死も分からぬ戦場」へ向かう兵隊への注意を促す町内通達もあり、外出は控え玄関には木刀を備えさえしていた。受験準備の夏休中戦況は悪化の途をたどり心配が極度に達しつつあった9月半ばに、思いがけぬ米軍の仁川での敵前上陸が奏功し、形勢が一変し北鮮軍は各地で敗退し首都平壌も陥落して北へ追い詰められ、友人と「コイデ戦争も済むとバイ」と胸をなで下ろした。
 その頃には、街中の駐留兵も少なくなり顔つきも穏やかになった。その一人に熱心に話しかられ、英会話の練習にと近くの岡の上の街や山を望む場所へ登った。「命懸けの戦で何度も死に直面した。いまは褒美で数日の休暇だが明日半島へ戻る。韓国は多くが禿げ山で街は戦禍で荒廃し、海一つ隔てた日本は平和で緑に溢れ素晴らしい。」などどうにか聞き取れ、彼は思いのたけが話せたとばかり喜んでいた。その状況も束の間、10月末に突如侵入した中国の大軍が南下し始めて新たな恐怖が生じた。米兵がまた続々渡り始めた。半島と陸続きでないことをその時ほど有り難く思ったことはない。多国籍軍の働きで38度線を挟んだ攻防の一進一退のうちに、半島での戦争拡大の恐怖と平和の有り難さを痛感した半年が過ぎ、私達は高校卒業の新年を迎えた。それから60年以上経ち、その思い出を語れる人も少なくなったいまでも、半島は北緯38度で南北に別れたまま続いている。
 その後初めて訪韓したのは1990年で、その頃は植林も始まり山には少し緑も見えたが、米兵の言は実感できた。その頃読んだ井上靖の「風濤」に、元寇の兵站基地として蒙古軍が高麗に長期間進駐して多大な労役を課し軍船の造船に大木を伐採したのが禿げ山の遠因の一つだと知った。日本人にとっての元寇は、二度とも短期間の海上の決戦と幸運な台風で侵略は免れたが一大国難として周知の歴史事実だ。「元寇が残した損害は日本より高麗が比較にならぬほど大きい」との「風濤」を読んで「同感」との感想を韓国の大学の先生方に述べたが反応は全くなかった。後で韓国の複数の友人に確認したが元寇のことは知らないという。その意外さには全く驚いた。そう言えば「中華秩序」では中国を中心にそれから離れる国ほど野蛮だと言うが、これは辻原登の「韃靼の馬」にも触れられている。
 朝鮮動乱の思い出として書き始めたが、韓国にも言い分があるにせよ「日本からの仕打ちだけは忘れられない」との意見には思わず「中華思想」に触れざるを得なくなってしまった。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。