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 「日本語が亡びるとき」を読んで 【この頃思うこと-43-】 [この頃思うこと]

 「日本語が亡びるとき」を読んで 【この頃思うこと-43-】

  友人から水村美苗著の標題書物を紹介された。浅学で知らなかったが、著者は10歳で家族と渡米し日本の文学全集を読破、大学では仏文学を専攻しソルボンヌ大学にも留学した米国の大学仏文学教授で、日本語での著名な文学賞受賞の経歴だと言う。本書ではその主張が最終の七章に集約され、枠組として言語を普遍語・国語・現地語に区分し、「普遍語と日本語(国語)の総バイリンガル化には反対でそれは一部の人に限るべきであり、多くの日本人にはもっと国語力を付けさせるべきだ」と要約できよう。さらにそれを文学風に展開し、一章ではアイオワの大学寮での世界各国で著名な二十数名の作家・詩人との一か月の生活を通しての国語・現地語(母語)と普遍語となりつつある英語に触れ、二章では仏語が17~19世紀で「世界語から国語」への変遷経過、専攻の仏語での「日本近代文学-その二つの時間」講演原稿書きの困難さなど、三章では地球各地の先住民族に語り継ぎ書かれてきた現地語が国語となり、それ等が多大な労力の翻訳で普遍語(英語・世界語)としての機能可能となっていること、四章では日本語という国語の誕生、万葉集漢字 ひらがな カタカナ 漢読み・訓読み などの特徴、江戸文学 明治の翻訳 日本語英語採用論 漢字廃止論 カナ文学者論 ローマ字論者 などを詳しく論じ、五章の日本近代文学ではその奇蹟、六章のインターネット時代の英語と国語、科学の急速な進歩 文化商品化、英語の世紀への突入、そして100年後日本語での小説が書かれようかとの問で最終章へつながる。各章とも内容と表現法に惹かれるが四章はそのなかでもとくに圧巻だ。
 
 私は体験から「ことばの修得の早道は生活の場で言い方を真似ることだ」との思いが強くグローバル化に備えた小学生全員への英語教育よりは日本語をもっとしっかり教え、英語が必要な人はその言語生活を通し時間的に無駄なく学ぶのが良いと思う。これに類した主張を、私とは全く異なる外国語学習環境で育った著者がしてることに強い共感を覚えた。 その私の体験は、小学4年の転校当初で方言の違いに戸惑ったのに始まる。家での佐世保弁「なんばしよっとね」が友人の関西弁では「何しとんねん」となる。しかし、違いに気付いたときその場ですぐに真似ることで一月もしないうちに戸惑いは解消した。次の苦い経験は、米政府支給の留学目的での英語習得時で、英語の生活には無縁な20歳代前半4年間の毎日の貴重な数時間を英語の速読や駐留軍向けの放送聴取などに費やさざるを得なかった効率の悪さだ。それでも留学当初は日常会話が不自由で困った。その度に適切な幾通りかの表現法を相手に訊ね、その場で発音を真似し修正して貰う方法で英語が急速に身につき数ヶ月で英語で考えるようになれた。三番目はイタリア駐在となった40歳で初めて伊語を学び始めた楽しい経験だ。3ヶ月間の会話の個人レッスンで文法を学び、日常の会話の中での表現を真似て半年ほどで片言の意思疎通が可能になった。それは読書学習だけの独語と違いと30年経ったいまもその場になると自然に出てくる。しかし著者の言とおり書くのは別だ。英語の論文や報告書は昔鍛えられただけにネイティブの校正程度で何とかなるが、伊語はそうは行かずメールは英語で書き伊語で受ける始末だ。ついでに言えばこれを日本語で原稿用紙4枚程度に纏めるのも全く四苦八苦だ。

  その他、インドや東南アジア諸国と違い日本語は大学の授業ができるほど語彙が豊富なこと、同じ漢字文化の中国や韓国と違い漢字が表意・表音文字として融通無碍な発音可能なことなど、このブログでも幾つか書いたが、全く共感することが多い楽しい読書であった。
その最近の一つ: http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2015-07-31

  


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