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住居について【この頃思うこと-76-】   [この頃思うこと]

 

私の場合日本での他に2年半以上をアメリカとイタリア、短期間ながら豪州やNZで借家をして住んだ。

 

 1958-60年は百万都市クリーブランドの大学院にいた。旧市街の大学や公園近くの、使用人用も含め十部屋以上ある大豪邸地区に、裕福な有色人種が入居し価値下落前にと郊外転居した後、学生向けに格好の貸部屋群となりそこに住んだことや、大学院の友人2人とイタリア人街の2食付き下宿もし、最後の1年は留学して来た今の家内と結婚し人種差別で苦労したがアパート住まいもした。

 

 住まいについての1950年後半に就職した我々の年代はその時々で大きく変わった。就職し結婚しても住宅難で、企業では社宅制度があったが勤続年数が不足でそれではと営業開始直後の公団住宅と思ったが、抽選で入れず借家しかなく一軒家を購入するなどは想像もできなかった。その後高度成長期には社宅も充実したが1973年の石油ショック以降は世の中が一変し、社宅制度から持ち家制度に変わり、退職金返済の借金で夢だった自分の持ち家が初めて実現した。私の場合も51歳で1976年に文字通り「終の住処(ついのすみか」を得た。しかし、早期退職で関西の大学に勤務することとなり、今度こそ終の住処と一応老後も考え駅から歩ける限度で高台の景色も楽しめる1軒にこれも退職金を抵当に何とか建て、庭や垣根など楽しんだがそれらも次第に苦なってきた。74歳で退職した後、2010年に静岡のタワービルの高層階に転居し、終の棲家(ついの住みか)として静岡市内の最寄り駅から徒歩5分という便利な立地にあるマンションを選び、今にいたる。

 

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個人の住居は時代別、同時代でも居順の別同国でも社会階層で異なる。私達1930年代前誕生者は戦争での壊滅で海外渡航が不可能だったが私は米国政府の全額支給などで5860年を米国で、その縁で1973年以降西欧も含め計6年弱海外生活を経験できその折り時空4次元の体験した管見を箇条書きで簡略紹介する。

 

 昭和38年までの日本での管見;戦後戦火で大中都市は焼け野原、極端な住宅不足 郊外の焼け残りか急造バラックの部屋ごとに数所帯住居 1950年代後半から公団住宅の賃貸が始まるも抽籤で困難 企業は社宅制度対応だが勤務年数制限で入居困難だった。

 

  米国での195860に留学のCleavelandの大学院生としての管見体験箇所:a使用人用も含め4階建て20室ほどの1大邸宅の旧雇い人用1室の間借り(旧市街一軒で外れの大学・公園に面した大豪邸街の一画(非白人の転入で克ち暴落前に郊外へ退去移転の空豪邸群)b同級生とのイタリア人街の2食付き間借りc中流家庭の一室(道路側100坪程テラス住居で裏庭200坪ほどの個人住宅新市街周辺にドーナツ型に集中)d結婚し旧市内2室アパート住まい(1軒屋の借家非白人で差別入れず)。管見場所はa低所得者:旧市内中心部の赤煉瓦アパート(黒人街)、b高所得者:裕福なユダヤ人街など c中所得者:中国人街伊人街など、低所得者:旧市街中心部の黒人 街同じ宗派でも白人と黒人で全く別。

 

 

 


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のり

寄せていただいた高台のお家も静岡のお住まいも、どちらも明るい居心地の良いリビングと書斎があって、海と緑の素晴らしい景観が臨めたように記憶しています。 日本と海外の雰囲気が混ざりあったお家のしつらえは、さまざまな文化のよいところのハイブリッドだったのですね。
by のり (2017-10-29 17:56) 

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