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靜岡に住んで【この頃思うこと-45-】 [この頃思うこと]

靜岡に住んで【この頃思うこと-45-】
  富士が見え気候温暖で東京にも近く車なしの生活に便利で娘の嫁ぎ先でもあるこの地に移り住み6年目を迎える。靜岡に関する知識は、列車で何回も通過した県庁所在地徳川家康ゆかりの地程度で、加えて「靜岡」の地名が日本史に見ないのも気になっていた。住んでの印象は、地の人が「おまち」と愛称する駿府城公園と駅間の商店街など、旧城下町とは異なる「町人の町」の感じだ。この地に愛着を覚え少し調べると、外来者の私には、それ等がこの地特有の若干屈折した長い歴史に由来しているように思える。
  まず時代を遡ると、最後の将軍慶喜による大英断で政権が無血に近く明治政府へと移り、その後継者の徳川家達は徳川800万石から駿河府中城主70万石に移封された。慶喜も一部の旧家臣と家族・従者3000人近くと駿府(駿河国府中の略称)に移住したが、その多くが無録で農業や商売、茶の栽培などを始めたと言う。また、版籍奉還後に恭順の意から、奉行所の通達で「府中は不忠に通ずるので裏の賎機山にちなみ平和で靜かな岡と改名する」趣旨の経緯記述があり、日本史に「靜岡」が現れないない理由もわかった。移転当初は幕府育成の優秀な人材や開成校・兵学校(沼津)などの高等教育機関が開かれたが、ごく短期間で東京に戻されて、以降の靜岡は歴史の表舞台からは遠ざかったようだ。
  維新以前300年の徳川幕府の時代を通して、この地駿府は裏舞台に徹した。家康は引退後は大御所として府中に入った六年間に行った街割りや築城などで暫時は栄えたが、その没後の城主10男頼宣は在住3年で紀伊へ移封された。その後の忠長は二代将軍秀忠の3男だが幾ばくもなく将軍の勘気に触れて追われ駿府は直轄領となった。駿府城の奉行所には少数の武士が派遣され、城主や武家集団不在の変則な城下町となった。その初期頃は「権現様の御由緒」と経済的にも恵まれたが、武家屋敷のない町人主体の町で、幕府の経済状態の悪化と共に困窮度も高まった。それ等の状況は残された記録とその研究に詳しく、1700年頃の人家数4千軒、人口1.万6千人くらいで、明治4初めの4500軒、人口2万人弱と比較し人の流入は少なかったと言う。江戸後半の駿府は「町共同体」で町規約を作り、町運営には町頭を中心に月行事制(組頭以外の平町民が月15日ずつ勤務)が当たった。武家不在で格別の特産品もなく東海道の一宿場に過ぎない城下町の運営は、典型的な城下町の金沢や商人の町の大阪での町人の役割りと比較すればその特徴が指摘できようがそこまでは調べられなかった。
 
 徳川300年の以前の駿府は、今川家初代範國(1294)に始まり九代義元が織田信長に桶狭間で敗れて日本史の表舞台には出損じたが、300年続いた名門守護今川氏の居城の城下町として重臣達の駿府集住地区、浅間神社門前町と町人それに街道沿いの町などあったようだ。その後徳川の世となっていまの靜岡には今川の記憶は薄れているように思える。

    その前に遡れば、富士川の源平の合戦、鎌倉時代、律令制度下の駿河国、万葉の時代 神話時代の日本武尊や焼津・草薙・の地名、弥生時代の登呂遺跡と歴史の宝庫である。
  日頃通る散策道から晴天の日に端麗な富士を仰ぎ見るとき、それ等の歴史を持つ駿府、いまの靜岡に住んでいることを実感する
。(逐一の引用は省くが若尾俊平「駿府町人の町」靜岡谷島屋 1998年、 小和田哲男「今川氏の研究」 清文堂 2000年 などを参照した)

  


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