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右と左【この頃思うこと-47-】 [この頃思うこと]

右と左【この頃思うこと-47-】

  人には生まれつき右利きと左利きがあると言う。それを矯正するのは心理上好ましくないらしく、いまでは利き手は左右どちらでもよいようだ。しかし、全員が全て右利きに矯正されていた頃の教育を受けた私には、テレビで生徒が左で箸や習字の筆を左手に持っているのを最初に見たときには眼を疑った。

  人の身体は大まかに見ると左右対称だが、心臓は多くの人は左にあるし、内臓全般では左右非対称のようだ。顔も各人右半分と左半分は表情などでは微妙に違い、その違い方と差異の大きさ場所などは人によって異なる。
洋の東西でも左右に関する見方は異なると言う。多数意見では西洋では左右対称が重要視され、それは西洋庭園に見事に表されている。パリのヴェルサイユやウイーンのベルベデ-レ公園などはその最たるものだ。東洋とくに日本では、これに比べ庭園での左右対象などはあり得ない。池、築山に庭石、草木、ときには小さな滝さえも配し非対称の極致だ。枯山水などを前に大自然を自分の瞼に想像し愛でるなどと言うのは対称などを超越している。 

  ところで、話は戻るが、人の利き手は決まっているようだが、私の経験では別な手も訓練で若干の不自由さはあるが同じように使える。私は右利きで幸い左右矯正の辛さは知らない。しかし60歳代半ば過ぎ頃、左も使い慣れれば結構使えるのではないかと思いつき、その頃毎日のようにしていた家内との簡略ピンポンで早速お互いに左手でやってみようと言うことになった。最初は二人とも失敗ばかりで、もう止めようかと思うほどにもどかしかったが、数日も我慢すると少しずつ慣れて来た。それからは徐々にではあるが相互同時に左右を変えて楽しめるようになり、いまも時折機会があれば左も使う。しかし、最近は適度な運動量と瞬間判断力維持のため毎日のようにテレビ画面相手で昔購入した任天堂のWiiのテニスゲームを家内と楽しんでいるが、二人とも一プレイごとに疑似ラケット(コントローラー)を左右に持ち替え、どちらでも変わりなくプレイを楽しんでいる。
しかし、利き手でない方はしばらく使わないと使いづらくなるようだ。それを実感したのは毎朝食べる納豆をかき回すときだ。このところ右手ばかり使っていたが10年ほど前には左手も使っていたような記憶が戻った。早速左手でかき回すと20回もしないうちに手の動きが鈍る。100回疲れなく回せるようになるのに一週間ほど要した。一か月ほど日ごとに左右交代でやっているいまは完全とは言いきれないがほぼ同じに使えるようになった。

  これらのことで、加齢して始めても少しずつ継続して訓練すれば身体は左右ともあまり変わりなく使えるようになるが、しばらく使わないと身体は後で身に付けたことは忘れるように思える。同じことが身体中の筋肉にも言えそうだ。歩くとかの毎日無意識に使う筋肉は努力して使わなくても衰えは少ないが、腕や腰腹部の筋肉は自分で意識しない限り使わない部分が多い。私も80歳になるころそれに気付き、毎日徐々に始め継続を心掛けていまは懸垂が数回でき腰痛も治った。「それがなんだ。自己満足に過ぎないではないか」と言われれば返す言葉もないが、自分の身体には自分の意識に応じる潜在能力がまだ若干は残っているのだと、このブログ書きもそうだが、嬉しく感じられるこの頃に免じ許して貰いたい。

  左右の話が洋の東西の文化論に展開するものと読み始めたら、急転直下に自分の身体のことでで終わるのかとお叱りを受けそうで申し訳ないが、読者が若い頃から試みられる価値はあると思って駄文を終える身勝手をお許して願いたい。


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海外での和食の今昔【この頃思うこと-46-】 [この頃思うこと]

海外での和食の今昔【この頃思うこと-46-】

  和食が世界文化遺産に選ばれ、世界中に和食店が出現して(中には日本人経営でない店もあると言うが)現地の人を主な顧客に寿司や刺身が賞味されるような日が来るとは、60年弱前の米国留学の頃には全く想像もできなかったことだ。当時は冷凍技術も未成熟で海から遠い米大陸内部での魚は臭いと不人気だった。当時招待された多くの家庭料理でも魚料理はあまり口にしたことはなかったように思う。進駐軍として日本に滞在した人でも、天ぷらやすき焼きを賞味したと言う人はいたが寿司や刺身は食べず嫌いが多く賛美者は少なかった。したがって当時の海外の和食店は日本人目当てが主で、戦後の外貨制限下の日本からのNYとかLAなどの大都市に限られて単身赴任を強いられた数少ない大会社の駐在員を主顧客に数軒がある程度で、100万都市の Clevelannd には中国料理店が数軒あるのみ(留学生には少々高価だったが)和食の店など思いもよらなかった。中国料理は、当時から世界中に住んでいた華僑相手でもあったろうが、確かにその多種多様な高カロリーの美味さはフランス料理と共に世界的に好まれた。それに比し生の食材を生かし奥行きはあるが地味で蛋白な和食は、当時の海外では料理としての魅力に欠けていたのだろう。
 
 魚と言えば、仲の良い大学院の友人でさえ「君たち日本人は卵や魚を「生」で食べるんだって」との "生(row)" に力点のある若干侮蔑的な質問だったので、「そうだよ、生(なま)はまだ米国のように各家庭に冷蔵庫はないので、採れたての "新鮮(fresh)" な間だけ味わえる贅沢だよ」と答えた。事実、日本でも当時は刺身や卵は贅沢品で日常の食卓とは無縁だった。さらには「日本では水槽で魚を飼って半身を刺身で食べてそこが再生するとまた食べるそうだが」と冗談交じりとは言え半ばまじめに問いかける者さえいたほどだ。日本の魚屋に類する店魚専門店などはなくスーパーの一隅で魚が置いてある程度だった。その頃はカトリックの家ではキリスト受難の金曜日に肉の代わりに魚を食べると言われていた。

 
 その人達がいまや「生の魚なんて」と言っていた刺身に醤油をつけて堪能するようになるとは思ってもみなかった。日本食材も留学当時の市内には米国統治領の沖縄の人の店が一軒だけありそこでお米や醤油とか、松茸や竹の子などの缶詰を月に一回ほど買いに出かけるのが精一杯で、スーパーでは "soy sauce" と称する中国風の醤油があり一度買ったが醤油とは似て非なものだった。いまは重宝される調味料としての日本の醤油も慣れない人にはあの独特の臭いが気になったようだ。
 
 親切で食事に招いてくれる家庭に、たまには恩返ししたいと土曜の昼食を和食でサーブしようとすき焼きを何回か供したが、ナイフ不要の箸で野菜と一緒に食べられ醤油味と砂糖とがうまく合って臭みも感じないらしくどこでも毎回好評だった。料理の手間は野菜を適当な大きさに揃える程度で簡単なようだが、当時の肉屋(Butcher)では塊でしか売らないのでそれをすき焼き用に薄くスライスするのが大変だった思い出がある。
 
 ともかく、あの時代に見向きもされなかった和食が欧米のみならず世界各国でもてはやされるようになったことは、食文化の背景にある平和な、和を重んじる日本文化自体が一定の評価をえ始めていることと共に留学当時のことを思い出して嬉しく思っている。
 


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