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電話で思うこと 【-49-】 [この頃思うこと]

電話で思うこと 【この頃思うこと-49-】

  電車やバスでは何人かが必ず携帯電話を使用している。車内では通話不可なのでメールか情報検索などだろう。わりに好奇心が旺盛な私は携帯電話も早くから使い、偶然ながら発売初日にシニア向けスマホに替えたが、主に自宅で過ごす最近はパソコンや固定電話でこと足り携帯は外出時の友人とのに連絡するくらいだった。しかし昨秋にiPhoneに切り換えその使い方習得に四苦八苦している。電話機能はごくごくその一部に過ぎないが便利だ。
   電話と言えば、それに関する思い出が次々と浮かんで来る。最初に接したのは4歳頃で受話器を耳に電話箱のハンドルを回すと交換手が出て「もしもし」と話せた時は嬉しかった。
   その後、戦中と戦後の1955年頃までの電話は日常生活とはあまり関係なかった。と言うのも、戦後でも電柱を立て電線を引く必要からだろうか、
年間の給料に近い電話債を買った上で何ヶ月か待たねばならず、商店以外の普通の家庭にはほとんど無縁だった。
   入社(1956年)時に見学した製鉄所構内の広い部屋には電磁式の電話交換機がずらっと並び交換手もいたと記憶する。その翌年には新工場の建設で高さ20mほどの作業デッキでのガスバルブの操作に下方から工場の騒音の中を開閉指示ができるだろうかと心配したが、電線をデッキまで持ち上げた有線電話で行うのが予想外にうまく行ったのは良い思い出だ。 それから数十年後なら無線電話、いまなら携帯電話で簡単に指示できるだろう。  

 その直後1958年の留学時のアメリカでは、すでに全家庭に電話があるのには驚いた。私も電話を引こうと友人に訊ねると「この研究室からATT に電話するだけで良い」と言う。早速電話で私の住所を告げ氏名のローマ字綴りを述べると「それは受け付け不可能」と言う。理由を訊くと「子音が一つで後全部母音の姓などあり得ないから」と言う。パスポートにInoueと記載しているなどとやりとりの末何とか手続きができた。帰って部屋の隅に置いてあったレンタル電話器コードを壁のコンセントに差し込むとなるほど繋がっていた。
 それに比し、帰国後の日本では1970年代に入って、所得倍増計画で給料が急激に上がりどうやら電話債も払えるようになり、手続きをして数ヶ月後に社宅での自宅電話が引けた。しかし通話料、とくに遠距離電話は極めて高額で滅多なことではかけられなかった。
 1972年に技術指導の責任者として南イタリアへ赴任した。当時のイタリアは世界的にストライキが有名で手紙も1週間近く要し発信と受信の順序が後先となるなどしたので、できる限り自己責任決めた。しかし緊急事態に電話で指示を仰ごうと、日本向け国際電話を朝早く申し込むと夕方にどうやら通じると言った具合で随分不自由な辛い思いをした。
 私的な国際電話を初めて受けたのは1978年だ。留学中親代わりをしてくれたボンド夫人から、日本ではまだ癌告知が無かった時代に、「癌で余命数ヶ月と宣告を受け自分は動けないができたら会いたい」とのこと。休暇を取って1週間ほど見舞に行ったが、半年後にもう一回お別れの国際電話があり数日後に亡くなった。これは悲しい思い出である。
 次は1980年代初めに中国へ行ったとき、この広大な国土の隅々まで電柱を立て銅線をひくには資材用達が大変だろうとそれ以前に無線電話が普及することを願ったが、それはどうにか間に合って胸をなで下ろした。(しかし同時期に心配した自動車の排ガス問題で電気自動車が間に合えばとの思いは裏切られ中国各地で環境問題を引き起こしたにのは残念だ。)
 それ以降は1990年代の携帯、そして掛け放題スマホ、現在のiPhoneとつながる。


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お祭り【この頃思うこと-48-】 [この頃思うこと]

お祭り 【この頃思うこと-49-】
 お祭りは秋が多いが、ここ靜岡では徳川家康と家臣の花見にあやかる今年で60回目の「靜岡まつり」が盛大で、教会帰りに通った駿府城公園内や市民愛称「おまち」の商店街は出し物や登城行列を見る多くの人でごった返していた。しかしその前日に小規模だが、知人の誘いで行った遠州横須賀の祭りには「日本の故郷のまつり」を満喫する格別な情緒を感じた。
 横須賀は神奈川県との思い込みに、2年ほど前の浜松から御前崎への海寄りの道で横須賀城跡を見つけ驚いた。案内板に「1707年の宝永地震で近辺が盛り上がり海に面した城の良港が消失した」とあり、行き届いた公園に強い郷土愛を感じ再訪したい地だった。
 お祭りは城跡の東方の旧街道に面した町の鎮守然とした三熊野神社の祭礼だ。祭りの支援者である知人から「祢里(ねり)と称する神輿は大きな二輪の車上に飾られ、神社前を東西に通る旧街道と一部北側の狭い道をくねくねと自由にシタッ、シタッの掛け声で練りく」と説明を受けた。5箇所あると言う各町総代の開放された軒下に腰を下ろし、またその辺りを歩く土地の老若男女全てが「白足袋に町の組名入りで組ごとに異なる柄の江戸火消し風のハッピ姿」と揃いのハレ姿で、ことに手を引かれた幼児が可愛く町の強い一体感が感じられた。13台の祢里が揃った境内には祭り用の低い櫓舞台上で、祝詞に始まり祭礼囃子の笛太鼓に合わせた踊りなどが繰り広げられ身近に満喫できた。資料では寛永時代の神田明神の流れを汲み寺社奉行差配だった祭りを12ケ町(隣組ほどの単位と思われる)の町民が主体となり伝統を引き継いできたと言うが本当に「日本のふるさと」を感じるお祭りだった。 
 お祭りは古今東西、各民族固有の宗教的なものだ。これを機に私の「お祭り」を思い出すと、幼時の佐世保での八幡神社の「おくんち」、戦中に住んだ西宮での恵比寿さんの賑わい、学生時代の東京での盆踊り、木更津での製鐵所一員で浴衣姿の連に加わり街を踊り廻った夏祭り、船上で「船渡御」を見ながらご馳走を食べた大規模な大阪での天神祭などがある。いずれもその熱気に圧倒されたお祭りへの参加者だったが、今回の舞台裏も管見できた小規模な祭りで、伝統を守り楽しむ人達との距離が狭まり良い思い出となった。
 国内のみならず外国の祭りも思い出深い。インドネシアのバリ島では街中の高い椰子の木々に多彩な布がひらめきヒンヅー教の祭りが近いと知ったが参加はできなかった。悲しいお祭りも経験した。それは住んでいた南イタリアのイースター(復活祭)前のキリスト受苦の金曜日に始まる。場所は紀元前数百年頃ギリシャの植民地での時代から存続するタラントの旧市街の大聖堂前で、目だけ丸くくりぬいた黒頭巾姿の僧侶十数人の列の後に、十字架を捧げ本当に涙をポロポロ流している青年僧侶、それに続く30人ほどの肩に担がれた大きな台(山車?)上にある高い十字架に付けられ頭を垂れ苦渋の表情のキリスト像が続く。その一隊が揃って右を一足差し出すとしばらく留まり、そして左足を出しては留まる超スローテンポの行列だ。その間、両側の参加者はロザリオを持ち悲痛な表情で祈っている。そしてそれが明けると復活祭だが教会のミサのほかは各家庭で祝っていたようだ。インドの家族的な祭りは旧約聖書に出て来るような子羊を生け贄に捧げ料理する場面も見た。
 今回それ等の思い出に地域の人がハレの日を喜び合う「日本のふるさと」の「和」の源泉の一つを見出した貴重な思いが加わった経験だった

      
横須賀祭りは http://kasaiya2.sensyuuraku.com でも見られる)


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