SSブログ

私のくるま遍歴 【くるま関連のはなし-7-】 [くるま関連のはなし]

私のくるま遍歴【くるま関連の話-7-】

 ブログのマイカテゴリ【くるまま関連の話】を書いて4年近く経ち今回のその後の遍歴でその幕を引きたい。http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302381225-1) 
   1963年頃はいまではそのいずれも想像もできないが、国道でも夜の対向の車は極めて少なく、またヘッドライトの電球も良く切れた。以下はその二つに絡んだ話である。山口県の光から友人と八幡への帰路、関門トンネル内で片方のライトが切れた。アップビームでは双方点灯しそれで走り続けた。小倉に近づき何台目かの遙か向こうからの対向車についライトをダウンにし、しまったとアップに戻した途端に交番の警官から「片目運転の整備不良だ」と切符を切られた。同乗の法科卒の友人との事情説明と抗議
で初めは納得気味だった警官はすでに切った以上罰金だと言う。こちらも納得せず結局はその切符を持って翌日本署に行くことになった。そこでは晴れて無罪となったが、現在では起きえない二重の出来事だろう。

 その後東京転勤で、スバルの悪路運転を覚悟したが引っ越し荷物で輸送でき、多忙な仕事の合間の週末には高尾山など近郊のドライブが楽しめた。ハプニングもあった。正月早々なのに信号に入るタイミングが遅いと警官に免許証提示を求められ、警官の「えっ!佐世保出身ですか。私もそうです。すると高校の後輩でもあります」との言に二人とも奇遇に驚いた。また、冬の郡山では雪に閉じ込められ停車のままでの空冷エンジンが過熱がし、それが冷め再起動できるまで待つ間じゅう震え上がったこともある。そんな愛車のスバルだったが子供が3人となり、1971年に自動三輪で有名だったダイハツが初めて発売する四輪車の5人乗りベルリーナに乗り換えた。モノコックの軽自動車と違い貨物車のような鉄枠フレーム方式の頑丈さが売り物のくるまで1トン近くあり安心して運転できたのは良いが、点火栓まわりが時折り不調となり発火点を時々自分で磨く必要があった。 

 1972年の海外転勤でそれも手放し、以降は帰国後の東京や君津では車なしで済ませた。しかし1987年に関西の堺に転居し、久しぶりのドライブだったので中古車を買い、ついで以降トヨタのカローラのハンドシフトの新車に数回乗り換えた後、(ナント驚いた事に2006年のロンドンでの大きなレンタカー会社数社が全てハンドシフトしかないと言われ、その時の経験が役立ち何とかドライブはできたが)家内の要望で自動シフト車へと切り替えた。

 1989年に世界初のハイブリッド車プリウスがトヨタから発売され、好奇心の強い私は発表後すぐに買い換えを頼んだが入手したのは6月だった。早速親類の結婚式に出るため珍しかったカーナビに長崎のホテル名を入れて走り始めた。高速道路の走行は予想以上に快適で1リッター20km以上も走り驚いた。念のため岡山のGSで給油したが、発売直後で珍しいプリウスだと気付いた店員の要望に、ボンネットを上げるとまわりの給油客も集まって「これがハイブリッドだ」としばし賑やかだった。
その後2001年に新車へ、2003年に2代目モデルのプリウスに乗り換えて、2006年の退職後はそれで何回にも分けて九州や四国・山陽・山陰・東北など家内と二人でドライブを楽しんだ。しかし、最後の旅行で青森の高速を下りたところをスピード違反でつかまりそれまでのゴールデン免許が終わった残念だった。
 いまは住まいが駅前でくるまなしでも不便はないし、2014年の免許更新時に、少々淋しくは感じたが私の50年近くのくるま遍歴は無事故で終わることができて感謝している。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。