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カエサル ルビコン以前 を読んで【この頃思うこと-65-】 [この頃思うこと]

カエサル ルビコン以前 を読んで【この頃思うこと-65-】

 友人から塩野七生著「ユリウス・カエサル ルビコン以前(上・中・下)」が送って来た。カエサル(英語読みシーザー)のことは多くの本で読んだがその圧巻は本人が書いた「ガリア戦記」だった。昔読んだので詳細は忘れたが、戦略や戦術の天才で橋や攻撃の櫓作りなど工兵・騎兵の使い方に驚いた記憶が残っている。私は本を読み始めると途中で止められなくなるので、今回も数日は躊躇したが、案の定3日間は通読以外に何もできなかった。

 その読書感は、著者の広範囲な研究に基づく博識と歴史家としての優れた洞察力・記述力よるのだろうが、その幼年・青年期のことがわかり、さらに上記のカエサルへの印象に加え今回はとくに三つの点に興味を覚えた。

一つは当然の見解ながらカエサルは戦略・戦術家は言うに及ばず、魅力ある人物で信頼される偉大な指揮官であり、しかも遠いローマでの情報交換と適切なタイミングを逸さない政治家としても天才であったという点である。二つ目はそれから2000年は経ているのだが、いまも人間性そのものはその当時からあまり変わらず、その集合社会である当時の政治的な動きはいまでも通じそうなこと。そして三つ目は、人間が使える技術に関しては過去200年ほどの間に蒸気機関・電力・原子力などのエネルギー源とその使用が進歩し、それも私が経験したこの50年ほどの間に想像もつかないほど加速度的に進歩していることである。とくに情報処理や伝達に関してはこの20年ほど前にはパソコン・インターネットの出現などで想像以上に急速な変化を遂げていることだ。

つまり、それらの諸技術の急速・大幅な進展に比べ、私達の人間性やそれに基づく政治が、2000年前とあまり変わっていないことの印象に圧倒された。私のHPにも紹介しているが、1965年の米国のカルフォルニア大学バークレイ校で受けたExecutive Program後ほど世界的に有名になる当時の最先端の行動科学をいまも通用する実例を挙げて論じた二人の若い学者によるMiddle Managementコースで採った講義録を読んでも、人間性と言う意味ではそのほとんどが、いまも、当時も、そして2000年前も、あまり変化なく通用するという事実をこの本で再認識したと言うことだ。

 最近の北朝鮮の核開発や米国大統領の環境破壊への無関心などを思い起こすと、人間が使用できる技術は加速度的に進歩しているにも拘わらず、それを使う人間の本来の性質は何千年もの間ほとんど変わっていないことを改めて痛切に感じさせられた読書だった。


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「いまをどう生きるか」を読んで [この頃思うこと]

「いまをどう生きるのか」を読んで【この頃思うこと-64-】  

 知人から誕生日にと標記の本(致知出版社)が届いた。発刊時(H20)101歳の松原泰道師(住職で66歳以降に研究書を出され102歳で亡くなった仏教者)76歳の仏教研究家で作家の五木寛之氏との80歳を超えた釈迦に関する対談だった。

 私は祖父以来3代目のイザヤベンダサンの言う日本教キリスト派的な信者かも知れないが、戦後6年間以外は、戦中と戦後の海外生活も含め英国教系の聖公会の教会に属し、早期退職後19年間勤務した大学は二つともその系列でキリスト教なしでは私の人生は考えられない。仏教は日本人としての常識ほどの知識しかなく、本書は老人同士が80歳を超え伝道途次で病没した釈迦に関する対談であることも一老人としての興味を惹いた。同時に新約聖書では老後び特化した記述が少ないのはその教えが人生を通じてのものだろうがキリストが30数歳と若く磔刑で召命されたことも感じた。

 本書で読んだ多くのうち「有無不明な死後の世のためのバラモン教徒の現世での難行苦行は無意味、生者必滅、人生は苦を背負って生きる道、四苦八苦は時間的な生老病死と、空間的な四苦、全ては移りゆくので怠らず努めよ、無常は虚無でなく成長、老いには老いの境地、生涯修行臨終定年、肉体的若さ保持には精神的な努力必要」などは心に響く。

 キリスト教徒も米国では聖書を、字句通りで進化論など論外のfundamentalistから古文書として研究する者など種々だ。私には当代の人に理解できる言葉で書かれていると思える。企業では役目柄代表者として年末年始の寺社の安全祈願参拝に際し信仰上の代役を訊かれ、寺社参拝は墓地参拝と同じく祖先へ安全を願うので一神教の神への祷りとは違い参拝すると答えた。キリスト教徒の信条ニケア信教(Nicean Creed)には信じる信条としてキリストの誕生、復活などはあるが死後に関しては「来世の命を望む」と書かれ現世を生きる宗教の点では仏陀も同じだ。但し復活はキリスト死後2000年も経ついまも事実として何億人もの信者の心と祈りの中に生きている。生者必滅で現在の科学知識では物体としての身体は死滅するが、それは無(限)から生じ無(限)に戻ると納得している。仏教の世界でも無は虚無ではなくエントロピー増加と理解できるとは知らなかった。

 私の愛唱歌は「我が行く道いつ如何になるべきかはつゆ知らねど 主は御心なし給わん 備え給う主の道を 踏みて行かんひと筋に」である。ここでは自分の人生を便宜上バラモン教のマヌ法典の「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」に分け考えてみる。私の信条はプロテスタンティズム的な「世のために働く」道を見出して励んだ「家住期」が、企業と大学の計50年あり苦も多かったが喜びと感謝であった。それに比し「学生期」は徹底的にまわりから世話を受け、とくに幼時期数年は(多くは意識外で無責任にも思いもよらなかったが)親も含め他人の援助なしでは一日も生きられなかったはずだ。「林住期」は、海外生活の実施と家住期50年の暗黙知を認識知への記述に多忙だった。

80歳を過ぎての「遊行期」のいまでは、最近まで思いもよらなかったが「食」という生きる為のエネルギー吸収に精一杯となり、肉体的にも不具合箇所を感じている。その「備えたもう道」は、可能な限りまわりに迷惑をかけずに授けられた身体能力で未だに有する高度な可能性を(衰えを加齢のせいなのか気持ちのせいだけなのか見極めが難しくなりつつあるが)最後のときまでまで大事に育むことと思ってきた。このブログも本人はその一環のつもりだが他人には迷惑をかけているのかも知れない。

  本書で「遊行期」の私の思う備えられた道が仏陀の教えにも叶っているようで嬉しく思えた。

 

 

 


 


 

 

 


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