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「いまをどう生きるか」を読んで [この頃思うこと]

「いまをどう生きるのか」を読んで【この頃思うこと-64-】  

 知人から誕生日にと標記の本(致知出版社)が届いた。発刊時(H20)101歳の松原泰道師(住職で66歳以降に研究書を出され102歳で亡くなった仏教者)76歳の仏教研究家で作家の五木寛之氏との80歳を超えた釈迦に関する対談だった。

 私は祖父以来3代目のイザヤベンダサンの言う日本教キリスト派的な信者かも知れないが、戦後6年間以外は、戦中と戦後の海外生活も含め英国教系の聖公会の教会に属し、早期退職後19年間勤務した大学は二つともその系列でキリスト教なしでは私の人生は考えられない。仏教は日本人としての常識ほどの知識しかなく、本書は老人同士が80歳を超え伝道途次で病没した釈迦に関する対談であることも一老人としての興味を惹いた。同時に新約聖書では老後び特化した記述が少ないのはその教えが人生を通じてのものだろうがキリストが30数歳と若く磔刑で召命されたことも感じた。

 本書で読んだ多くのうち「有無不明な死後の世のためのバラモン教徒の現世での難行苦行は無意味、生者必滅、人生は苦を背負って生きる道、四苦八苦は時間的な生老病死と、空間的な四苦、全ては移りゆくので怠らず努めよ、無常は虚無でなく成長、老いには老いの境地、生涯修行臨終定年、肉体的若さ保持には精神的な努力必要」などは心に響く。

 キリスト教徒も米国では聖書を、字句通りで進化論など論外のfundamentalistから古文書として研究する者など種々だ。私には当代の人に理解できる言葉で書かれていると思える。企業では役目柄代表者として年末年始の寺社の安全祈願参拝に際し信仰上の代役を訊かれ、寺社参拝は墓地参拝と同じく祖先へ安全を願うので一神教の神への祷りとは違い参拝すると答えた。キリスト教徒の信条ニケア信教(Nicean Creed)には信じる信条としてキリストの誕生、復活などはあるが死後に関しては「来世の命を望む」と書かれ現世を生きる宗教の点では仏陀も同じだ。但し復活はキリスト死後2000年も経ついまも事実として何億人もの信者の心と祈りの中に生きている。生者必滅で現在の科学知識では物体としての身体は死滅するが、それは無(限)から生じ無(限)に戻ると納得している。仏教の世界でも無は虚無ではなくエントロピー増加と理解できるとは知らなかった。

 私の愛唱歌は「我が行く道いつ如何になるべきかはつゆ知らねど 主は御心なし給わん 備え給う主の道を 踏みて行かんひと筋に」である。ここでは自分の人生を便宜上バラモン教のマヌ法典の「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」に分け考えてみる。私の信条はプロテスタンティズム的な「世のために働く」道を見出して励んだ「家住期」が、企業と大学の計50年あり苦も多かったが喜びと感謝であった。それに比し「学生期」は徹底的にまわりから世話を受け、とくに幼時期数年は(多くは意識外で無責任にも思いもよらなかったが)親も含め他人の援助なしでは一日も生きられなかったはずだ。「林住期」は、海外生活の実施と家住期50年の暗黙知を認識知への記述に多忙だった。

80歳を過ぎての「遊行期」のいまでは、最近まで思いもよらなかったが「食」という生きる為のエネルギー吸収に精一杯となり、肉体的にも不具合箇所を感じている。その「備えたもう道」は、可能な限りまわりに迷惑をかけずに授けられた身体能力で未だに有する高度な可能性を(衰えを加齢のせいなのか気持ちのせいだけなのか見極めが難しくなりつつあるが)最後のときまでまで大事に育むことと思ってきた。このブログも本人はその一環のつもりだが他人には迷惑をかけているのかも知れない。

  本書で「遊行期」の私の思う備えられた道が仏陀の教えにも叶っているようで嬉しく思えた。

 

 

 


 


 

 

 


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