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2917,08,26 甲子園高校野球雑感【この頃思うこと-72-】 [この頃思うこと]

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 当ブログは30年ほど昔に1時間半の講義の中間に眠気覚ましとして始めた大学時代の時空を超えたはなしに始まる駄文だが300編ほど溜まった。このブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリーをクリックするとそれ毎にも読める

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2917,08,26 甲子園高校野球雑感【この頃思うこと-72-】

 

 今年夏の甲子園野球全国大会では花咲徳栄高校の優勝で終わり、閉会式も見たがその間いろいろな雑感が浮かんだ。

 

 まずは全国の4000校弱の高校の中から地域代表を次々と勝ち抜いて甲子園でトップの座に着いた同校の実力と栄冠に拍手を、が最初の感じだ。野球は投手陣が優れ、打陣も強打で、エラーが少ないことが強い条件だろうが、そのときの自軍と対戦相手のちょっとしたことで勝敗が分かれるのも見る方にとっては野球の醍醐味だ。幸運も実力の一つとは言うが同校はその意味でも両方を兼ね備えていると思う。閉会式は若者らしいキビキビした動作、とくに状況に応じた帽子の着脱を見て、終戦後再開され、当時から引き継がれた大会の伝統を感じとった。と言うのも、最近は女性の着帽は少なくなり、男性は室内外それに食事中さえも着帽が普通に見られる風景なのでの、以前は男性の着帽は屋外に限られ、女性は正式には室内でも着帽するのが礼儀だったと感じることそれ自体が、いまは古臭く異常なのかも知れないと思えるからだ。 

 

  また、私は甲子園の西方一駅の今津小学校(国民学校と言った)4・5年の頃に毎日阪神電車で乗り換えのため甲子園球場の外観は見ていたが、球場内には、いま思えば軍事関係だったのだろうか、近寄りもできなかったような記憶がある。球場内に入ったのは20年くらい前の阪神巨人戦で応援した阪神が負けたときが最初だ。

 

 今津の小学校と言えば、3角の隅が塁の(狭いので2塁なしの)柔らかい軟式の球(コンニャク玉と言っていた)を腕と拳骨(バットの代わりに)で叩いて遊んだが、それは野球の変形だったのだろう。転校する前にいた九州では騎馬戦とか軍艦ごっことはやったがそんな野球に類する遊びは全く知らなかった。

 

 甲子園の駅では良くアメリカ兵の捕虜グループを見たが、決して興味深く見つめたりましてや指先で指すなどするべきではないと強く注意されていたのに、最近のトランプ大統領の記者連への非難めいた指差しには悲しい思いがするなども思い出してしまった。      

 私は高校時代の大車輪の練習などで指の付根にできるタコを十年以上経っても削っていたが、会社で隣席の先輩で投手をしていた人の指の先のタコを同じように削っているのを見て、削る場所は違え、お互いにそれは知らなかったと笑ったことも思い出された。

  何はともあれ、野球がこんなに全国の人を熱狂させるとは平和の有り難さも実感させられる。                 


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2017,08,21 天然素材と人工素材 【この頃思うこと-71-】 [この頃思うこと]

2017,08,21 天然素材と人工素材 【この頃思うこと-71-】

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 科学、とくに化学の進展に伴い人工素材が急増した。その理由は「資源の枯渇」:鼈甲、象牙、動物の毛など資源保護の問題。「健康」:アスベスト防火壁など。「価格競争」:化学繊維、「代用品」の海綿、歯ブラシなどなど多様だ。 代用品と言えば我々世代では「米」に替わるいも、カボチャ、薩摩芋のつる、ヨモギ、落花生の絞りかすなど悪印象しかない。鉄も天然資源の加工物で早くからアルミ、カーボン系新素材などへの代替が言われたが鉄の安価・大量生産などで当面は将来とも生き残りそうだ。

 退職して10年になるがその直後に思い出の地を長期間の旅行や住みついて見た。そのときポルトガルの有名なコルク林とその樹の皮を剥いでコルク栓の材料としているところを実際に見ることができた。それは葡萄酒の瓶詰めには欠かせないものだったが、最近は安価な輸入葡萄酒にはゴム類やネジ栓が多くコルク栓は高級酒の代名詞のようだ。

 スレート葺きの屋根も50年ほど前は高級洋館にはつきものの憧れだった。そのときのドライブ旅行でWalesの山奥に滞在中にふとSlateと言う寒村に立ち寄ると、観光用の場所で老人が面積がスレートのサイズで高さが50cmほどの石の表面を金槌でトンと叩くと適度な厚さでその表面が剥がれる。叩く度にスレート板が1枚ずつできる。厚さなどのコントロールには熟練がいるだろう。その老人の話では、英国の産業革命時の労働者の家作でスレートが大流行しそれがNew York に伝わり、そこでもSlate材として大評判。村はその生産に追われたたが、類似の石が世界中のあちこちで見付かり、その村での繁盛は終わりいまは当老人の観光用生産のみという。そのときはWEBで調べるとその村の名もあったがいま調べると何の痕跡もなく忘れ去れれている。日本はまだ瓦葺きが主流だが震災復興後では耐震性、保守も含めたコストなどから新素材に変わって行くだろう。

 ナノ繊維など強度や高加工度など鉄より遙かに優れているが、安価で大量生産技術ではしばらくは鉄に太刀打ちはできないだろうか?。しかし人工素材の潜在力はいまの我々の持つ悪い印象の代替品でなく、優れた素材として想像を遙かに絶し普及して行くことだろう。勿論それには私の仕事だった、そしていまは想像も付かないコンピュータの利用なしでは考えられない。

 


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コンピュータと私【この頃思うこと-70-'d】 [この頃思うこと]

 

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コンピュータと私【この頃思うこと-70-】

 この題でいつもの通り1400字以内にまとめようと思ったがその長さではとても無理なことと、その内容の幾つかは既にブログで紹介済みなので、少し長くなるが全部を以下のようにまとめた。目次を作っておいたので時間があるときにその部分を見ていただければ幸いです。

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   「PCS-機械計算-電子計算機-コンピュータ-パソコン」の流れ

まえがき

 私個人は縁あってコンピュータ誕生の地米国でその利用黎明期だった1950年代の終わりから、その革新を追いながらずっとその利用に携わった数少ない一人であることに、自分の国内外での経験を書いたブログのあちこちと出て来ることで認識を新にした。これらの場にいたものの責任として書き留めたものにこの際若干の手を加え一連の流れでまとめることにした。

 

目      次

1.八幡製鐵でのPCSとの出会い

2.アメリカでのPCS操作と真空管式のデジタル型電子計算機の利用

3.八幡製鐵所での1961年頃の電子計算機のオペレーション

 

 以下の文はこのブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリの 1960年代の計算機導入初期の頃 を見ていただくと出てくる。

5.計算機導入初期の頃の職場での茶目っ気

6.計算機導入初期の頃の職場での茶目っ気-続き-

7.漢字入力で思うこと【この頃思うこと-27-】

8.キーボードと英文タイプライタ【この頃思うこと-28-】

 

1 八幡製鐵でのPCSとの出会い

 機械工学を学び、就職難の時期に幸運にも八幡製鐵に入社できたのは1956年だった。同期生はそれぞれ半年間、各工場での現場作業や主要な事務業務を研修させて貰った。米国製のデータ処理機械PCS(punched Card System)の存在をこの時に知った。日本では製薬会社に続いて事務合理化の目的で1952年に導入されたという。手の平倍大のカードを百枚くらいを静電気防止にさばき、法人には高すぎる機械の背丈補足の台上でPCS上に並べ目にも留まらぬ速さでカード上の穿孔位置で英数字を読み取り計算する。当時約3万6千人いた従業員の給与や賃金を現場事務員の算盤に代わり300人弱のPCS要員で正確に計算し印刷まですると聞き驚いた記憶がある。10月の本配属で希望通り自動制御担当箇所に行けたが、事務系の友人は俗称「アイビーエム」の機械計算課に決まり彼が若い女性パンチャーが大勢いるとも言っていた。

 

2 アメリカでのPCS操作と真空管式のデジタル型電子計算機の利用

 入社3年目の1968年夏に全額米国政府支給の留学生として米国の大学院に入学した。渡航船上で日本電気からの友人がデジタル型コンピュータに行くのだと聞き、アナログ型意外にデジタル型もあると初めて知った。Case工大には、当時の日本にはまだ1台も存在しなかった巨大なドームに無数の真空管があるUNIVCⅡや、技術計算用の比較的小型のIBM650型があるのに目を見張った。早速IBM650の技術計算プログラミングを受講した。まずはPCS機器の構成で始まりそのプログラミングに当たるwiring(ボード配線)の実習で「名前で英文、生年月日で数字をカードに穿孔し読み込ませてプリントする、でき次第解散」だった。皆はJohn Smith とか短くてすぐ済むのにYoshisuke Inoueと長いスペルに「子供は短い名だ!」と恨めしく思った記憶がある。修士論文には勿論IBM650を使った数式モデルで加熱炉の最適化を求めた。その翌1961年春に日本初の大型計算機が八幡に入荷予定でそのプログラミングを学び帰国との社命で、卒業後2週間のIBM社の事務計算講習会に通った。最初の数時間は技術計算と違いバッチ処理のデータを順序よく揃えるためのsortmergeの必要性の理解に一日目は相当苦労した。簡単な給与計算の実習もあった。ランダム処理しか必要ない現在ではバッチ処理の言葉を聞くこともない。

 その他、企業での応用が始まったORを世界的な名著「Operation Research」の著者直々のの講義をとり、その自由課題で「倉庫における最適保有量」を設定し、自学した、まだ発表直後のコンピュータ使用前提のダイナミック・プロがラミングの技法を試みみた。これは「プログラミング」コースの課題も兼ねさせた。クリスマス休み前でIBM650利用は一時間ほど待ち数分の計算で終わる学生が列をなしていた。ミスがないように何回もチェックしPCSカードにパンチして読み込ませた。理屈では在庫初日の解の計算に全体の半分以上の時間を要し、その解で次の日の解が出て最後の月末分は一秒もかからない筈だった。"Cross Your Fingers"(旨く行きますように)と唱えながらデータを読み込ませた。IBM360のパネル上はランプが点滅する。10分以上経っても答えのカードがでない。列をなす学生が「ループしているぞ」と催促する。「解は幾つ出るのだ?」「30」「そんなには待てない。」「最初の解は時間がかかるが後は短くなる。」ループでないことを念じやりとりしている間に15分くらいで最初の解のカードが出た。皆あきらめ顔で20分強待ってくれた。帰国して翌年IBM7070で解いたら2分ほどで済んだのには驚いた。

 

3.八幡製鐵所での1961年頃の電子計算機のオペレーション

1.1 IBM7070の導入」

 これを書いているパソコンは、言うまでもなくリアルタイム処理で、内部メモリーも数十GBあって、インターネットに接続すれば瞬時に世界中にがつながる。これをたかだか50年昔の電子計算機と比べると、蒸気機関車と新幹線よりもっと差が大きいと思える。それで連想すると昔のバッチ時代の電算機のオペレーションは、機関車の石炭投入作業の想像以上に、いまの人には想像できないかも知れない。するとそれを記録に留めておくのも、少しは意味があるかも知れないと思いそれに関連することも含めた書くことにした。

 電子計算機が日本企業に輸入され始めたのは、アメリカでの設置に遅れること2年ほどの1961年からで、同年に八幡製鐵所で設置されたIBM7070は世界最新鋭(トランジスター使用)のバッチ処理方式で、そのために作られた当時は珍しい空調付きの大きな建物の一階を占拠する大きさだった。それは内部メモリーが10kワード(1ワード数字10桁)、10桁の加算速度が10マイクロ秒といった代物だった。パソコン時代で育った人には「バッチ処理」すらも滅多に目にしない言葉と思われるので解説すると、当時は内部メモリーが小さいため、データは高さ2m、60cm角くらいの装置の中で磁気テープがクルクルと回る外部メモリーとの間でデータをやりとりする必要があった。そのため事務用データは、まずある程度にまとめて(batch)、それをソート(指定の順序通り揃える)やマージ(複数のデータを指定の順序通りにまとめる)をおこない、それからその順序に従ってデータを磁気テープとの間でやりとりしながら(その度にテープがクルクル回る)処理する必要があった。 しかも、そのような幾つかのバッチに分けた要望項目にしたがって順序並び替えた結果を幾つかのテープ別にアウトプットした(書き込んだ)あと、それらのテープとの間でバッチ処理(一括処理)せざるを得ず、それすら驚きだったので、オンラインですぐ処理結果を出すなどとは想像を絶していた。いまの机上パソコンでは、データとそれらのソフトが内蔵されているので、画面上のクリック一つで瞬時に望みの項目順序でソート、マージできるなどとはその頃を知っている私には夢のようだ。

前置きはそれくらいにして、当時のオペレーション作業の一端を振り返ってみよう。私は資質的にプログラマーには自他共に認めるほど不向きと思うが、当時では私は数少ないプログラム実務経験者という理由で給与計算のプログラマーを命じられた。というのも当時の日本には研究用デジタル型の小型機が数台あったくらいで事務用は皆無であり、私は前年夏にアメリカ留学で修士論文に電算機を使ったとの理由でその翌春設置予定の電算機要員として事務用のプログラム研修会にも参加して帰ったからだ。

当時の給与計算は製鐵所4万人近くの給与(月給)・賃金(日給)を300名くらいがPCS(パンチカードシステムといって電算機の前身の情報処理機械)を使い毎月一ヶ月弱をかけて計算していた。給与計算は20近くのバッチ処理に分かれていて最初の「異動処理」という主幹部分を担当した。機械科卒のエンジニアとして入社した身で給与計算などと初めてのことで苦労も多かったが、同僚の大多数が20歳代の若い職場で、後で振り返ると31年間のサラリーマン生活のなかで最も茶目っ気の発揮できた楽しめた職場でもあった。

大変でもあったが、想い出は古きよきもの残るというがそれらを幾つか書き留めて見る。

  (blog  inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302341260-1 他

 

 


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