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2017,10,21 第三の文明渦中の管見【この頃思う子ー75-】 [この頃思うこと]

第三の文明渦中の「管見」【このごろ思うこと-75―】

 今年の115日に鉄鋼協会から1時間半の鉄鋼業における製鐵所生産管理システムの技術的革新に関する講演依頼を受け、その際文献にあることでなく実体験を主に講演して欲しいとの要望を受けた。11年前の引退までに書いた学術論文は実体験でそのReal の検証として関連文献を参照していたので、文字通り管見を主に論じた(そこでは管見の定義を特定の場の場組織・時期に狭い範囲で潜望鏡で管見する如く)と改めて定義した程だ。しかしそれは文献やメディアによる知見ではなくなく実体験の確認の意味だった。最近考えるとその確認は文献やメディアによる仮想lを通しての知見が無視できなくなった程強くなった事実もある

そこで現在の我々はトフラーの言う第3の文明の渦中で管見の意味が変わっているのも気付かない程ない程の渦中にいるのかも知れないと思い始めた。

 トフラーは人類文明の変革を、第1次文明期として採取、狩猟、漁労、牧畜から数万年もかけて農業文明へと変革して来た。それを16501975年頃のわずか400年弱の短期間に西欧で生じた第2次文明期革命を一次動力革命、第二次技術革命で実現した。そして米国で19501960年の10年間の短期間に起こり始めた第三の文明は単なる技術革命でなくコンピュータエレクトロニクス、宇宙学、海洋学、遺伝子学など技術が技術的基盤を提供する新しい文明転換期の渦中に突入した状況で、その新文明への転換は、例えば自動運転のようにコンピュータ自身が主体となりGPSも結合するなどの渦中に放り込まれ予測以上の急速転換に驚き行っているほどだ。

 トフラーの言う新文明への移行期は19501950年、まさにコンピュータの揺籃期でその終わり頃の2年間に私は幸運にも米国留学中で日本との十年の差は仮想ではなく現実として管見でき、鉄鋼産業での応用では追い越せたが情報産業全体では今に到るも取り戻せずに居る。それに関連し第三の文明期に移った後の管見の意味もVertualReal体験の意味で変わりつつあると思える。私はこれまでの論文関連では第一次文明時代には人類は生まれた土地の周辺での文字通り身辺のRealな管見のみを取り、文献で得た知識は学術論文のReal性の関連補強の立場を取った。しかし第二期文明期の今、文献やTVで現実と見なす可能があればそれも管見とみなすと言う管見の意味の急速な変化の渦中にいるとも思われる。つまり文献やメディアは身辺で簡単に知り得る意味から実体験と見なすことも可能な事と受け入れざるを得ない状況にある(そのReal性の保証がFaked情報やFaked論文の問題になっている。したがってReal性からは数年前以上に自分の体験、つまり狭義の管見にはFakedの疑いがないだけにReal体験にだけ頼るのが賢明なのだろう。ましてや自動車の自動運転のようにコンピュータとGPSが結合し自分が阻害されるほどの空間の出現などの状況が急進すると益々Realが重要で可能な限りFakeVertualな可能性の入り込めない狭義の管見が重要となると思える。自分での経験のみ確かで安易に入手できる少なくも文献などによる知見は信じない立場を取ることが従来以上に重要だと思える。そうすればfakedな場とは無縁に居れる。。

 

 

 


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