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「25年前のホームステイ型語学研修」【大学勤務の頃-7-】   [大学勤務の頃]

「25年前のホームステイ型語学研修」【大学勤務の頃-7-】  

 大学へ転職の翌年、講義以外の仕事として国際センターの担当となり、豪州の大学からの語学研修提案の手紙を見つけた。以前から考えていた「英語学習は生活体験から」の実現好機と、当時では珍しかった「ホームステイ型語学研修」を提案し航空便十回ほどの往復で、その秋には翌1989年2月から1か月、私が同行し必要に応じ現地で改善して行く条件の試行契約が成立した。すぐに学生を募集し一年から三年生の十四名ほどを選抜した。女子学生が半数いてそのケアを考え留学経験のある家内を自費で同伴することにした。  南半球の初夏2月に学生を引率しメルボルンのラトローブ大学へ到着した。生活を通じて英語を学ぶため個人別のホームステイを前提としたが、その時点で二名分が未定とわかった。取りあえず男二人女二人の二組のステイで対応し二軒の至急追加を強く要請した。 一人を残し全員をステイ先の迎えの車で送り出し、レンタカーで自分たちの一か月の借家を確認して大学へ戻ると、彼は遅れて来た女子学生に伴われたとのこと。気になってそこを探し当てて行くと、迎えに来たという女子学生が現れ「一軒の家を借り自分用以外の数部屋を男女の学生に又貸しをし、その一室に彼を入れている」というのにいささか驚いた。  翌朝から大学の授業がスタートし、開講前に大学へ行きクラス分けや幾つかのクラスで聴講して授業の内容を確かめ、三人分のホームステイ探しを再度強く要求した。午後になってもステイ先探しは予想外に困難という。その問題を含め同国の社会状況全般の把握のため大学チャペルの牧師を訪ねたが要領を得ない。しかしその紹介で、十年ほど同大学で社会学を研究中と言う日本人教授を訪ねた。専門分野だけあり「生活を通じ英語習得は大賛成だが、いまより三十年前に経験された米国東部のクリスチャンホームのイメージを、教会に行く家族も少ないこの地のいま求めることは無理で、十軒も見つかっているのは上出来だ。ここでは男女無関係に高校と同時に家を出て学生同士で一軒を借り共同生活するものが多く、それも良い経験だと思う。」との言に、時代の推移と土地柄の相違を認識させられた。二日ほどの大学の努力もむなしくステイ先は見つからず、学生五人が「もう移りたくない」との希望でステイ先探しは諦め同市郊内外の分厚い番地付き地図を購入した。  翌日以降、夕食後ステイ先に電話をしては家内と二人して地図を頼りに夜道を遠くまで車で訪問をした。学生の生活状況把握と助言に加え自分達の子供と似た年頃の学生を預かった責任上その両親に報告の手紙を出そうと思ったからだ。事前準備の授業で「ホームステイは客ではなく家族の一員と思い何か手伝うこと」と話していたせいか、各家庭では、水撒き、食事準備、犬の散歩などの手伝いなども含め好評で安堵した。ステイ先は様々でプール付きの家もあれば夫婦共働きで部屋提供程度のところもあった。食事もステイ先で格段の差があり、恵まれなかった学生数人を家内の手料理で当時の日本では高嶺の花だったステーキを「腹一杯食べられた」と喜んで貰ったこともある。滞在中間の週末に学生達がペンギン見物のバス旅行を企画実施したのも良い思い出だ。また、最後の週末は、ホームステイ先の家族を招待し「すき焼きパーティ」で感謝も込め交流を楽しんだ。  学生が英語で生活したのは一か月ではあったが、そのわりには、英語での授業と相まって不自由ながらも意思疎通をする度胸は付き、また自分の育った家庭以外の種々の家庭生活が経験できて期待した成果は充分にあったようだ。帰路には一泊のシドニー見物も楽しんだ。帰国後十年くらい集まっていたが、二十五年経ったいまもその多くと交流が続き各人それぞれの道で頑張っている報告が舞い込む度に当時のことが脳裏に浮かぶ。


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インドの大学訪問記(2003年1月)【大学勤務の頃-6-】 [大学勤務の頃]

インドの大学訪問記(2003年1月)【大学勤務の頃-6-】
 1月になると、それからの11年で変化したとは思うが、インド滞在4日間の強烈な印象を思い出す。大学の勤務先を変えた2002年夏に、NYの国際会議でインドの学長と「学生がインドでの2週間の講義とField workでその伝統的な面と現代社会面を学び、教授が日本で一学期研究する」大学間交流を企画した。 翌年1月早々に予備調査でインド西海岸Chennai(旧名Madras)南南西約550kmのMadurai(人口100万)を駆け足訪問した。インドには約90の国立大学と約9,000校私立collegeがある由だが、訪問校は米国大学との交流実績があった。
 まず学長から学生利用予定の外来宿舎や教室施設の案内を受けた。女子大だけに構内は完全に高塀で囲まれ、学生数は2,200名(うち500名が構内寄宿舎生)で設備は全般的に立派で衛生的だった。学外での Field work は大学のバス使用など学内外とも安全面も心配ない。貧富の差が大とは聞いていたが、車での通学者が運転手付きの送り迎えだったのには驚いた。一方、カースト制を認めない学内では奨学金で学生寮から通う貧しい学生もいる。
 学外 Field work 対象として、担当教授の30分ほどのドライブでカースト制度では最下層の貧しい村を訪ねた。同制度は憲法では存在しないが、実際には日常社会生活上で結婚や就職での厳しい制約となると言う。その村で活動中のNGO代表から自立目的の若い女性へのミシンで製縫指導などの活動実態を見聞した。その後、直面する産児制限と幼児健康問題(日本では戦後すぐの課題だった)の解決目的で設立されたと言う政府援助の相談所を訪れたが、両所とも多くの真剣な表情の参加者で問題の深刻さを感じた。
 学長の夫君は牧師で、インド社会の異質な一面が見られる場所を選び案内してくれた。まず街中の10階建てほどの巨大な外壁に無数の動物や人が彫られたヒンズー教の大寺院を訪ねた。入り口で靴を脱ぐにしては床は寺院外と余り変わらないが、その内外の壁の装飾の多様さ多彩さには圧倒された。寺院内は驚くほど多くの人がいて内陣には教徒教しか入れなかったが大変印象深い経験だった。学生の研修内容とは別に、翌朝は夫君の案内で街外れにある結構な敷地の寺院で金曜日の儀式を見学した。道すがら一緒に付いて来た子羊が、一人の何やら短い祈りの後、少し離れたところで「首と足一本を寺院に捧げる奉献儀式」として瞬時に屠られる残酷な場面に遭遇した。旧約聖書の似た記述箇所が思いだされた。少し行くと別の参拝一家が奉献以外の部分を料理し会食していた。側のお堂では、祈祷師が呪文を唱えると横の女性が恍惚となって倒れ、またそこへ走りながら神懸かり的に身もだえする光景も見られた。それらは何千年と続いてきたものだろうが、それまでの国内外での経験とは全く異質な一面であった。勿論、近代インドの姿も見てきた。
 その夏帰国した学生たちは、私自身もそうだったが、「経済的には貧困者も多いが、異質で豊かなインド文化とその生活」に直接触れて大きなカルチャーショックを受け、予期以上に人類の文明と文化を真剣に考える機会を得たようだった。Maduraiについては下記サイトでも参照できる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%A9%E3%82%A4 
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1999年度生を送り出すにあたって 【大学勤務の頃-5-】 [大学勤務の頃]

  14回作成したゼミ論集ではその冒頭に「はなむけの言葉」を贈った。ここにはその最終ゼミの分を転載する。なお、当ブログの2011/10/22「心をとらえる二つの文章」でも英文訳も含め触れている。

1999年度生を送り出すにあたって 【大学勤務の頃-5-】         2002年3月
                                                              ゼミ担当教員 井上 義祐

 諸君がこのゼミに参加希望した時に、「私は諸君と同じ時期に桃山学院大学を定年で去るので、私にとって諸君が最後のゼミ生になる」といった。しかし、予期しないことで諸君より一年早く去ってしまった。替わった先の大学が近くだったこともあり、その後の1年間も諸君のゼミを続けることができた。そして、学生論集の締切である12月2日に8人が提出でき、3人も年内に書き上げて、一人も欠けることもなくこの卒業論文集が出せることは大変に喜ばしい。一方、今年度は、学生論集の入賞者が昨年度までの複数には及ばず1名となり残念だったが、後期にはゼミのある金曜日に4時間ほどしか論文指導ができなかったこともあって諸君に申し訳なく思っている。
 論文らしい書式で調査し論述するということで、10回前後書き直させるなど大変厳しい指導であったと思うが、その間の諸君のいろいろな意味での成長は大きなものがあったと思うし、また、諸君自身もそう感じているだろう。一昨年秋の本ゼミ卒業生との合同コンパの折、「お話しによると仕事とは苦しいばかりのようですね」との諸君の質問に、卒業後10年ほどの先輩が「仕事をしている間は楽しいことより苦しいことが多い。でも苦しいほど、終わったときの満足感は大きい」と答えていた。諸君がこれから出ていく実社会では、問題を見つけ設定し、正解がないなかで、いかによりよい解決策を見出すかという厳しい現実に直面するだろう。今回の経験でその真似ごとを実感できたのではないかと思う。
 また、できるだけ楽しい学生生活の思い出も共有したいと、3回生の夏には4回生と白浜で合宿したし、4回生の昨年夏には、欠席者もあったが往復ともフェリーで高知へ行き、四万十川までドライブしたりしたことは、良い思い出となった。そのようなこともあり4回生の終わり頃にはゼミとしてのまとまりが大変良くなったと感じる。卒業後、離ればなれになってもこの友情を続けて欲しい。
 私にとっての最後となるゼミ生を送るに当たって、はなむけの言葉を二つ贈りたい。一つは、諸君がゼミに入った折、最初の課題とした下記の英文である。意味はゼミで十分に話したはずだ。この気持ちで自分の将来を切り開いて欲しい。
    The future is not some place we are going to, but one we are creating. 
    The paths to it are not found but made, and the activity of making them
    changes both the maker and the destination.      (John Schar)
 もう一つは、本学の建学の精神である「キリスト教精神」に基づくものでチャペルで一緒に祈ったことのある言葉である。
   「神よ、変えることのできるものについては、それを変えるだけの勇気が与えられますように、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さが与えられますように。 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵が与えられますように。」 (R.ニーバー「現代の祈り」)
      "O God, give us serenity to accept what cannot be changed, courage to change       what should be changed, and wisdom to distinguish the one from the other." 

  人生では自分の思うままになることなどほとんどない。                                                                           以 上


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アイダホポテトと薩摩芋【会社勤務の頃-4-】 [大学勤務の頃]

アイダホポテトと薩摩芋【会社勤務の頃-4-】
  1967年6月中旬ことだった。同僚と一緒の海外出張で、金曜日にシカゴで用件を済ませ、その日のうちに飛行機でSalt Lake近郊まで飛んだ。空港で、当時の日本では憧れだったFordのMustangをレンタカーして翌日朝から近郊を昼過ぎまでドライブした。どの辺りだったか定かではないが、前後左右が緑一色のポテト畑の真ん中に4車線の高速道路が地平線の果てまで、多少のアップダウンはあるが、見渡す限りまっすぐに延びていた。視野のなかに車は一台も入らず、自分で起こさない限り事故の心配は全くない。その道をMustangで時速130 kmほど出してドライブするのは爽快だった。昼近くなったのでレストランを探すがそれらしきものは全く見当たらない。やっと道から1kmくらい入り込んだところに小さな店を見つけた。そこに入ると、70歳くらいのおばあさんが出て来て「しゃれた料理はできないが、近所で採れたポテトとステーキならできる」と言う。客は他にはいなかった。人懐っこいっこそうなおばあさんは、料理を作り終えて持ってくると、そのまま側に腰をかけて西部訛りの英語で「どこから来たのか」と訊く。「日本からだ」というと「私の息子は戦後しばらく日本に駐留していて、朝鮮戦争で韓国にも行った。日本は風光明媚だし人も親切で本当に素晴らしい国だといつも話していた。自分も一度は行って見たいがとても実現できそうにない」などなどと語りかけてくれた。その料理、とくにポテトはアイダホポテトの本場に近いだけあって美味しかった。そのおばあさんとの心温まる会話を充分楽しんだ後、「幾らですか」と訊くと、「このところ物価が上がって、昔では想像もできないほどになった」と繰り返し言い訳をしながら「そんな訳で遠くから来た人に田舎料理をこんな値段でと言うのは申し訳ないが----」と金額を書いて渡してくれた。そんなに高いのかと覚悟して見ると、こちらが申し訳ない気がするほど安価でだった。 出張途次に寄ったNew YorkやChicagoでのウェイトレスの乱暴な言葉遣いや、日本の都会での丁寧ながら決まり切った言い回しとは全く異質の心温まる会話だと痛感した。そして、その瞬間に「ン?これと同じような経験があったな?」と思った瞬間、その風景を即座に思い出していた。
  それは、その5年前の1962年の春、購入2年目の愛車スバル360を駆って、北九州の八幡を起点に家族4人の九州一周を試みたときのことだ。と言えば格好は良いが、いまでは想像もつかないほど当時の国道10号線はほとんどの箇所で未舗装の砂ほこりやドロンコ道の凹みがあり、それを避けながら軽自動車の制限速度40 km/hで何とか鹿児島近くまで辿り着いたのが実情だった。車の中でラジオを聞いていたの家内の母が「何故こんなところで韓国語の放送だろう」と東北育ちの家内共々いぶかる。私が耳を澄ますと、地域のおばあさんが何か話しているようだ。更に良く注意して聴くと、佐世保育ちの私でも薩摩独特のアクセントで聞き取り難かったがどうにか意味は分かった。「鹿児島弁ですよ」と言うと「良くわかるものだね」と感心される。指宿温泉を楽しみ、鹿児島を通って北上し、まっすぐ行く道と右折すれば国道3号線となる三角路にさしかかった。昼時で食事をしよう少し道から入り込んだ個人食堂に入った。70歳過ぎくらいの上品なおばあさんが、注文したうどんと、名物の焼き芋をおまけに持ってきて、我々に話しかけてくれて一時の会話を楽しんだ。戦争で亡くなった主人や成長した子供たちの話だったように思う。そして勘定を済まそうと声を掛けると、「有り難うございます。この頃はこんな田舎でも物価が高くなり、これぽっちにこんなに戴かなければならないのは心苦しいのですが」と、薩摩訛りの丁重な言葉遣いで勘定書が差し出された。それほどの高額なのかと見ると、今度は「本当にこれだけで良いのですか」とこちらが恐縮するほどの額で、日本の古き良き時代に戻った、すがすがしい気がしたのだった。
  この二つの情景から、一つにはアイダホポテトと薩摩芋とそれぞれが共にその名産地の近くだったと言う偶然さに加え、二つには、洋の東西を問わず昔の田舎の人に見られた人情豊かさに触れると本当に心が和むのだという、より重要な必然性が重なり合っていることを感じる。


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ドレミの由来【大学勤務の頃-4-】 [大学勤務の頃]

ドレミの由来【大学勤務の頃-4-】
  いまから20年ほど前の大学在勤中のこと。半年の研究休暇でアメリカに行く途次に一週間の北イタリア旅行を計画した。 その前の会社勤務で2年ほどイタリア駐在をして家内と私は言葉も若干は話せるようになっていたので、旅の最初であるジェノアと最後のローマ以外でのホテル予約はせずに、気の向くままに行った場所でペンシオーネ(民宿)を探しては泊まる気楽な旅を計画した。事前に幾つかの訪問予定地を考えたがその中にArezzoの町を含めた。それはイタリア語も話し音楽に詳しいスペイン語担当のペール人の同僚教授の助言によるものだった。彼は「9世紀から10世紀にかけて活躍したベネディクト派修道院の僧 Guido da'Arezzoがそれまでなかった音楽の表記法である4本の線上に四角な音符を初めて用いた。それが現在の楽譜の表記法であるドレミファの5線譜の原型となったとする説が有力だ。名前が示すとおり、Guido は Arezzo の出身で、自分は彼が生まれて育ったと称する家を見てきた。その家の入り口の上に、4線の楽譜とドレミファソラシ の額が掲げてあり、それだけが見るべきものと言った所だが、通り道なので是非寄ったら良い」と言う。 Arezzoのことも含め、そのほか訪問を予定したオルヴィエートや他の都市のことなどを調べようと思った。当時、そのような調べ物は一仕事であった。大学の図書館を利用し、そこでまず関連の書物を図書カードで当たり、それらの書物を取り出して調べるのに一日は優に要したと記憶する。
  旅では最初にジェノアを見物し、200kmほど南東のフィレンツェにも2泊してイタリア美術を堪能した後、列車でそこから60kmほどの Arezzo と言う駅で列車を降りた。イタリアの街は何処も似たような風景だが、そこも煉瓦作りの建物が並んだ街だった。Guido da'Arezzoの肝心の家は何処にあるかを訊いてどうやら辿り着けた。記憶では緩やかな坂道を登り始める左側の、それと言われなければ見過ごすような煉瓦壁一郭に門らしき構えがあり、その上に額が掲げられ、ラテン語で「ここでda'Arezzoが生まれ育った」とあった。その下に、4本の横線と Ut re mi fa sol la の字と四角い符号が少しずつ高くなるような位置に記されているのが見えるだけで、門の中には入れなかった。確かに同僚の言うとおりで、ドレミの由来に付いて学びそのゆかりの場所を訪ねることはできた。しかし、Arezzoの市は観光にそれほど力を入れていた風でもなく、関連の見学は2時間もかからずに済んで、折角来たのだからと街で昼食を楽しんだ。ちょうど夏の真っ盛りのフェスタ(お祭り)だったらしく、賑わっていた公園の一隅で、ラグビーボールの形をした大きなスイカの切り売りが冷たく美味しかった。ドレミの由来と言われるものを見た満足感と共に次の場所のオルヴィエートへと列車で発ってその短い訪問は終わった。
  これらを書くに当たり、昔のことなので幾つかのことを確かめたいと思った。いまは驚くほど便利な世の中となったものだ。当時だと大学の図書館に行き、まず関連図書名を調べ、それらの本のなかから関連記事を見つけるなど一日掛かって調べたであろうことも、いまは机上のパソコンのキーを叩くと瞬時にその場で関連事項が画面に出てくる。
  そのようにして「ドレミの由来」をWikipediaで調べると、幾つかの記事が出てくる。それらをまとめると概要次のようになる。「七節からなる聖ヨハネ賛歌のラテン語歌詞の①Ut ueant laxis  ②Resonare fibris  ③Mira gestorum  ④Famuli tuorum  ⑤Solve polluti  ⑥Labii reatum ⑦ Sancte Johannesno  の各節の頭の一つの音が、この賛歌を歌うときには1音ずつ順に音程が上がっている。これは「ドはドーナッツのド、レはレモンのレ---」のようにドレミとその音階が一致していることと同じだろう。なお、①Utは発音しにくいのでDominius (神)のdoになった」と言うことのようだ。
  調べたついでに Google map でイタリアの地図やArezzoの市街図、それに市内要所の写真なども楽しめた。しかし、それらを調べる気になったのも、さらに言えば、ドレミの由来やその市名を知ったのも、短時間ながらそのとき同地を訪問できたからだろう。でも、調べ方が良くないのか、ネット上の市の広報でも家の場所や写真は見つけられなかったのは残念だ。
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バリ島での「暗闇と満天の星」【大学勤務の頃-3-】 [大学勤務の頃]

バリ島での「暗闇と満天の星」【大学勤務の頃-3-】
  バリ島と言えば観光地として良く知られている。南国の美しい風景に加え、ケチャ舞踏、ガムラン音楽、影絵芝居等々、同島独特の文化・芸術には引きつけられるものが多い。しかし、より強く印象に残ったのは、初めて行った2000年の8月後半からの3週間近く、当時在籍していた大学の学生約20名と現地の大学生10名と一緒に、島西部の村落でホームステイと奉仕作業をしたときの生活経験だ。 キリスト教系の同大学では、その10年以上前から、現地のバリ・プロテスタント教会による児童施設の建設作業奉仕のワークキャンプを毎年行ってきていた。 当時のバリ島全体の人口は300万強と記憶するが、ほとんどがヒンズー教徒で、バリ・プロテスタント教会には8,000人の信者と70ほどの教会があった。キリスト教信徒の対総人口比は日本よりはるかに大きいが、農業の多い同島では、村中がヒンヅー教の行事を中心に毎日の生活がなされ、キリスト教徒がその中で生活するのは困難が多いとのことだった。そのような理由で、その一部の人が島の西部のジャングルにクリスチャンの村を開発し定住した。その後、島内に散住する信徒のなかで希望する子供たちの宿泊と教育が可能な養護施設を作り、数百人の子供たちを収容できる程になっていた。我々の仕事はその増設設備基礎の溝掘り作業の奉仕であった。日陰は微風があり涼しく感じるが、真上から照らす太陽は日差しが強く、その中での労働はかなりきつかった。日本だとその暑さも夏の間だけだが、かの地では雨期と乾期の差はあっても一年中続くわけで、変な話だが、日本の四季の有り難さを常夏の国に来て初めて感じさせられた。
  その村落では電気と川の水を引いた水道らしきものこそあったが、他は全く田舎風の生活様式だった。 昼間かいた汗を流すには、大きな亀に溜めた水を頭から手桶でかぶるといった案配だ。郷土色豊かな立派な教会を中心に民家が散在し、それらは村落をめぐらす道路から少し入り込んで建てられていた。それぞれの庭では、子供の頃の田舎で見られた風景のような、鶏や犬が駆け回っていると言うのどかなものだった。昼間は学生に混じって増設施設の基礎の溝掘りに汗を流し、夜は日本人やバリの大学生とともに民家に別れてホームステイをした。
  私も小学校の先生の家に泊まらせてもらっていた。最初の晩にふと目が覚めるとすぐ耳元で聞き慣れない奇妙な鳴き声がする。夕食時に聞いた話では、大きなトカゲの一種だが危害は加えないとのことで不安ながら眠りに就いた。それらにも慣れたある夜、夜道を探検しようと一人で家の庭を横切り、その先が道路へとつながる細い道へ出てみた。気付くと月の出ない夜らしくまわりは真っ暗だ。ひき返すのも癪なので、背後に家からのほのかな光を感じながら草藪の間の曲がりくねった凸凹道を懐中電灯頼りに上り続けると、細い道が急に下り坂となった。その途端、背後の光が全くさえぎられ、手許の懐中電灯に照らされた狭い円形部分以外の辺り一帯は、それこそ鼻を摘ままれてもわからない程の真っ暗闇となった。暗闇と言っても、それまでに経験した事がない、すべてが暗黒の中に吸い込まれる感じだ。暗黒を表す形容詞には「漆黒のような」を思い浮かべるが、漆から艶を取り除いたらこのような感じになるだろう。恐る恐るライトを消すと、一寸先も見えない暗闇で無用と化した視覚を補うかのように聴覚が研ぎ澄まされ、辺り一帯のシーンとした静寂の中に聞き慣れない奇怪な鳴き声が耳をつんざく。暗黒に一人だけ取り残された恐怖に急いでライトを点じ、急いで道を戻るべく坂の上の方を振り返って見た。その瞬間、真っ暗闇の上方に、満天の星がキラキラと輝いていた。 無数の星に見守られた永遠の世界に生きている一瞬が感じられた。地上が真の闇であったことが、無数の星をキラキラとより美しく金色に輝いて見せたのだろう。この世のものとは思えぬ素晴らしい「暗闇と満天の星」だった。
   
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大学の単位制根拠について 【大学勤務の頃-2-】 [大学勤務の頃]


大学に移って最初に気になったのは単位制だった。自分の経験からも理工系と文系、日・米間の相違があるがそれにしても単位の認識があまりにも違いすぎると感じた。
単位制は戦後に新制大学となったとき米国の制度を導入し、それまでのドイツの制度とは大きく変わったことは聞いていた。単位の根拠は大学入学の時に教わったとも思われるが記憶には残っていない。日本でも、2000年頃から単位制度の運用に関する文科省の規制が、4単位の授業では2時間の講義には試験の時間は除き正味年間30回が必要などと厳しくなった。しかしその根拠について改めての説明はなかったように思う。いまでは根拠は周知の事実なのかも知れないが、それにしては学期中の学生アルバイトがまだ盛んなのは不思議な気がする。そこで以下に、大学からの海外研修を利用しておこなった米国のMBA(経営学修士)コース運営の実体研究のついでに1993年に調べた単位制の根拠をもとに紹介する。
大学単位制の根拠となるのは、「労働」、それも「知的労働」という考えにある。私の知見した限りでは、単位制発祥のアメリカの場合、1時間の授業につき、それに2時間の予復習を課し、合計3時間の勉学(知的労働)とするのが前提となっている。この勉学の、週1回で15週完結をもって1単位(知的労働1単位)と考える。すると、大学の1年を2学期制と考えて、1学期(1semester)〔-蛇足ながら英語のsemesterの語源はラテン語というが、その流れをくむイタリア語についての私の知識でも、6はsei、一ヶ月がmeseつまり6ヶ月のことだろうと推測できる-〕に16単位(仮に2単位の4科目)をとると、3(時間/単位)x16(単位/週)=48(時間/週)となり、少なくも大学の講義期間については、当時の労働者の週48時間労働と同じ負荷となる。これが大学の1年間2学期(休暇期間を除く)で32単位の取得に相当する。このような知的労働を4年間続けると128単位となりなり、学士取得の必要単位数となっていて「単位制の根拠」と考えられる。日本の大学では、90分をもって2時間と見なして週15回で2単位分としているのが多い。(その場合、授業を文字通り90分で計算すると週36時間の知的労働に相当し現行週40時間の一般の労働時間よりも短くなる。)
私の体験したアメリカでの大学講義では、工学系の数学や力学などで毎回多量に出される演習課題を提出させ、評価を付して学生に戻していた。文系の経営学部門でも毎回数十頁は課されるreading assignment を読んだ前提でなされる講義や討論の中での評価と、それに加えての中間試験や期末試験の評価があった。それらは講義の始まる前にシラバスで予め書いてある学生との約束に基づき算出された総合評価がA:90点台、B:80点台、C:70点台D:60点台、F:59点以下の落第、となされていた。しかも、平均点が規程点に達しないと場合や、同じ必修科目を2回続けてFをとった場合は退学となり、入学は比較的簡単だが卒業は厳しかった。また、1学期に4科目16単位をとるとアルバイトを学期中にするなどは時間的に考えられなかった。したがって、アルバイトは休暇期間中にフルにやって学期中は学業に集中するか、昼間パートで働き夜間の講義で少しずつ単位を取って何年も余分に通うパートタイム学生になるのが常だった。
私が在職中の、日本のことに文系の学部ではこのような認識が不十分なように思われ、自分の講義では可能な限り趣旨に沿いたかったが、対象の学生数が米国の数倍もあり、授業料も米国の半分ほどで助手も雇えないので、講義の最初に単位の意味を説明し課題は毎回出したが、その実行は学生に任せるより仕方がなく忸怩たるものがあった。
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ドラッカー教授の想い出 【大学勤務の頃-1-】 [大学勤務の頃]

【ドラッカー教授の想い出 【大学勤務の頃-1-】
  D002_edited-1.jpg縁あって1992年秋から翌年3月まで、Claremont 大学院大学のDrucker Centerに客員研究員として滞在した。その経緯などは別にのべるとして、ここでは短期間ながら同教授との個人的な想い出を記す。
著名な思想家であり経営学者でもあった同教授についての研究が目的ではなかったが、直接お会いできるのは大きな楽しみだった。職員の勧めに従い、”Drucker-hour”と永年通称されてきたという、「秋学期の月曜日午後1時から4時までの講義」前に、その教室で着任のご挨拶をした。同時にその講義聴講の許可も得た。
さすがに大学院の看板講義だけあって、テキストは同教授著作集から抜粋の ”The Management Cases” と題する冊子だった。当時82歳の高齢で足腰が若干はご不自由な様子だったが、教卓にドッカとこちら向きで腰をかけると、3時間はその姿勢を崩さず休みなく親しく話しかけられる授業だった。内容は、ギリシャ、ローマ時代から現代に到るまでの、洋の東西を問わぬ歴史から小説までに例をとった、「意思決定」に関連するまさに博覧強記の名講義であった。その中には日本の小説の主人公も出てくるし、鵯越・川中島での合戦など、「ここには日本の教授もいるから」と、私の方を向いて ”Isn’t it Yoshi ?” としばしば同意を求められた。受講者は、この大学院では例外的に多い30名ほどで、テストはなかったが、15回の講義のなかで課題が数回出され、周囲の受講生の返却されたレポートを見渡すと、どれも赤インクのペン書きでびっしりとコメントが記入されていた。ドイツ語なまりで聞きづらいときもあり、隣席の受講者にそっと確かめると「聞き取れない」との返事で妙な安を心した覚えがある。
講義の途中で脱線して別の話題に移り、そこからまた別の話に飛ばれることが再々あり、最初のうちはその度に心配した。というのも、私も講義の中でよく脱線し、脱線先の話に夢中となり過ぎ、「何の話からこうなった?」と学生に訊ね恥ずかしい思いをしていたからだ。しかし、教授に関してはその心配は皆無で、間違いなく元の話題、そしてそのまた元へと見事に3段くらいもとに戻って話を完結されるその記憶力の確かさに感じ入った。講義の中で、新しい構想の話に脱線されることが結構にあったが、翌年に出版された著書「ポスト資本主義社会」の中に講義で聞いた内容が書かれているのを見出し、毎年のように出版されていた著書は、講義でも構想をまとめておられたのだと思えた。
個人的にもご縁があり、私達夫妻が行っていたアングリカンの教会で、ドラッカー夫人のドリスが信者で親しくなった。少し経って、私の招聘者であるゴールド教授夫妻と共に夕食に自宅に招かれた。私どももお招きを返したが、次には私ども二人で夕食に招待された。二回とも、食事はドリス夫人の手料理で、食後のコーヒーのサービスはドラッカー教授の役割だそうで、皆の分のコーヒーを自分で淹れられ、若干震えられる手でトレーに乗せて運んで来られた。夕食での話題は教授夫妻が日本に行かれたときのことなど、私達への気遣いが感じられる心温まるものだった。ドラッカー教授は日本を愛され、日本芸術への見識は広く深く、年に一回は大学でそのコレクションの一部を紹介されていた。
その後、日本へ数回来られ、その度に講演会とその後の会食に夫妻で招かれた。2005年には日経新聞の「私の履歴」に教授のことが掲載された。その秋の11月11日に亡くなられ「11月19日には例年通り大学院の教職員が教授の96歳の誕生日祝いを心待ちにしていたのに」との便りも届いた。本当に偉大なそして個人的にも素晴らしい人格者だった。
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