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クリーブランド(オハイオ州)の冬【留学フルブライト留学関連-17-】 [フルブライト留学関連]

クリーブランド(オハイオ州)の冬【留学フルブライト留学関連-17-】
  クリーブランドの思い出は数多くあるが、なかでもその冬の寒さは忘れがたい。九州生まれで生活の北限が東京なのでとくにそう感じるのだろう。11月を過ぎるとエリー湖からの冷たい風で日中でも零度以下となり、バス停で待つとき寒いと言うより腿やすねなどがチクチク痛かったのを思い出す。夜間は氷点下10度以下になったことも再々だった。
  入学した9月から2か月余りの借り部屋生活の後、10月下旬に日本からN教授が交換研究員として私と同じ研究室にみえた。それを機に、大学まで徒歩10分ほどの2DKのアパートを、街のメイン通りのEuclidを横切る交差点のビルの3階に見つけた。便利な割りに家賃が安い理由が分かったのは引っ越したその当日だった。夕刻に交通量が増え、信号が変わる度にすさましいエンジンを噴かす発進音と停車時のブレーキ音が夜も続く。数日で二人とも睡眠不足となり再転居を考え始めたが、不思議にも一週間を過ぎるとその騒音も余り気にならなくなってきた。そのようなある夜半、「いつもとは何かが違う」と目が覚めたが、それは「物音一つしない静寂の不気味さ」だとすぐに気付いた。 隣室のN先生も「何か変だと思ったら靜か過ぎる。どうしたのだろう」と起きてみえた。見下ろすと急な積雪らしく、車が見当たらない道路では、市の車のみが塩を撒き氷結を溶かしている。理由がわかり寝室に戻って少しすると、次第に始まった騒音が子守歌のように聞こえ眠っていた。「騒音も慣れれば、それが聞こえないとストレスになる」と気付き二人して驚いた。
  その朝の登校は、除雪されたとは言え滑らぬよう歩くのは大変だったが、友人に、冬のクリーブランドでは "Over Shoes" が必需品であることを教わった。それは、日本では見かけないファスナー付きの半長ゴム靴で、通常履く靴の上に文字通りすっぽりかぶせて履くものだ。玄関で靴を脱ぐ習慣がないので、雪解けで地面が濡れると、それを家の入り口で脱ぎ隅に置いて居間に入ることになる。早速購入し、滑り止めにもなって冬中愛用した。
  翌年秋に、留学して来た婚約者と結婚し、それぞれが徒歩で通える上述した交差点に近いアパートへ越した。当時はまだ人種差別が激しく、生活に便利な旧市内地域の比較的裕福な白人は東部の郊外へと引っ越し、その後にアフリカン系の低所得層が移り住み始めていた。その境界がアパート近くにまで迫っていた。「オリエンタルの学生夫婦が入居希望だが良いか」とアパート内住居者全員の了承が必要だったと入居後に聞いた。
  そのアパート生活は便利で、すぐに始まった真冬も寒い徒歩ではあったが、通学のほか週一回の、当時の日本にはまだなかったスーパーでの買い物は楽しみだった。寒風に吹かれて帰宅すると、建物全体が暖房されたアパートの入り口でまず "Over shoes"を脱ぎ、日本流に家の中ではスリッパに履き替え、冬中を半袖で快適に過ごせた。入浴後に窓を開けて寒気に当たるのはとりわけ心地よく、ついでに濡れタオルをヒョイト外に出すと、すぐにピンと棒状に凍るのには驚かされた。また、空気も冬はとくにひどく乾燥し、ドアのノブに触る前に、必ずそっと爪を当て静電気をパチッと飛ばすのが癖になったほどだった。
  その後クリーブランドを再三訪ねたが、そのたびに市街は寂しくなっていた。1974年に家族で訪ねたとき、以前住んでいた近辺は低所得者層居住地となって歩くのは危険と告げられた。2009年には、50年昔に結婚式を挙げた大聖堂を訪ねた際、バスで通ったその付近も含む旧市内一帯では家屋が一掃されて広場となるドーナッツ現象が実感された。
  今回改めてウェブで調べると、クリーブランドは私たちが住んでいた1960年を境に、100万人の工業都市から凋落が始まり、いまでは人口40万人弱の惨めな都市になったと言う。
  私の記憶のなかでは、いまも雪景色の美しい豊かな街であり続けるのだが----。
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日系一世の人と正月料理 【フルブライト留学関連-16-】 [フルブライト留学関連]

日系一世の人と正月料理  【フルブライト留学関連-16-】
  留学生活が始まって3ヶ月でクリスマスと正月が近づいた。大学院では私のようなフルタイム学生は極めて少数で、会社勤務をしながらその許可を取って週に一または二回夕方のクラスを二つくらい受けるパートタイム学生が大多数だった。フォードのエンジニアとして勤務し、週一日夕方の自動制御のクラスに出てくるSaburo(Sab)という二世の学生が、日本語は話せないがと英語で時折話しかけてきた。
  クリスマスはその前後一週間近く続く休暇があったが宿題に追われた。イブと当日は両親代わりのようなBond一家と教会に行き、その家でご馳走になり楽しく過ごした。でも年末は28日頃から授業が始まり、元旦のみが休みで翌二日から通常通り授業が始まる。日本流で言えばクリスマスが正月で正月は成人の日に相当し、これは後に3年間住むことになったイタリアでも同じことだったが、まことに味気ない正月になるところだった。
  このような状況の年末の授業で、Sabが遠慮がちに「迷惑でなかったら正月は両親の所へ一緒に行ってくれないか」という。「どうして」と訊くと「両親は何日もかけてテーブル一杯の料理を作って待っている。しかし、一緒に住んでいる長男夫妻はともかく、ロスから帰ってくる次男は余り和食は好まない。自分はワイフが中国系で正直いってそれほど好きではない。母親は苦労して正月料理を準備するのにそれを心から喜んで食べる人がいなくて申し訳ない。また、耳の遠い父親に付き合い意味も分からない変な節回しのレコードを聞くのも辛い。Yoshiなら両方とも喜んでくれると思うので」との返事だった。100万都市のクリーブランドでも当時は中国料理が数軒のみで日本料理店はなく、醤油など和食材店が一件あるだけで、日本食とは縁遠くなっていた私には大変嬉しい話で 喜んで受けた。
  元旦早朝にSab夫妻が迎えに来てくれて1時間あまりのドライブで郊外の両親の家についた。両親は70歳前後で、九州と関西育ちの私には少しわかり難い東北弁だったが、日本語で話し合えるので訪問を大変喜んでくれた。食堂に入って、一畳分はあるかと思われる大きなテーブル二つの上に、数々のお節料理が大皿に盛られているのには驚いた。私の幼年時代の戦前でもこのような多くの品数のお節料理ではなかったし、ましてや食糧難の戦中と、戦後十数年でやっとそれを脱しつつはあったが、万事略式になった当時の日本ではもはや見られないほどの大ご馳走だった。この料理は、彼の両親が故郷の福島県を出られた大正年代における農村のお節料理そのままの再現であったろう。私が喜んで食べるのを見て彼の母親は「私達にとってお正月は大切な行事で、ロス在住の次男に頼んで食材を送ってもらい料理をし、餅をついて準備するのが楽しみだ。息子達は何とか食べてはくれるが貴方が喜んで食べてくれれば本当に作りがいがある。気に入ればまた来年も是非きてください」と大変嬉しそうだった。Sab は母親と小声で話しあっていたので「何だ日本語が話せるではないか」と思ったが、それは東北弁の女性言葉で、彼が私にしゃべれないといった真意も理解できた。屠蘇を飲み、雑煮とお節料理で腹一杯、それに久しぶりの日本語での会話にこの上なく幸福な正月気分に浸ったところで、彼の父親がやおらレコードを出してきた。Sab はこれから数時間はYoshiに任せるといって私を残して部屋から出て行った。それは、私の子どもの頃聞いた廣澤虎三の浪花節で「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、寿司を食いねぇ」と勧める有名な清水の次郎長の台詞のところで、このときはまさか将来にその靜岡市清水区の近くに住むとは思ってもみなかったが、これも久々に思わぬところで聞けて楽しかった。その翌日、正月二日というのに早速また授業が始まった。
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日系一世の人たちと望郷の念 【フルブライト留学関連-10-】 [フルブライト留学関連]

日系一世の人たちと望郷の念 【フルブライト留学関連-10-】
  留学二年目(1960年)の春に、留学生の世話団体の人から「クリーブランド近郊在住の一世の人たちが、毎年ワシントンまでバスを仕立てて桜見に行っている。最初のうちはバス2台で満員だったが毎年亡くなる人が出て前年は一台でになり、それでも空席ができた。そこで前年は系二世の何人かを同乗さたが、彼らはメンタルに全くの米人で面白くなく、そこで日本からの留学生を思いついたという話があり受けてもらえないか」との話があった。私の修士論文の目処も立ち、留学中の家内とその友人と3人で参加した。
  戦前に渡米した日系一世の人たちは私の親達と同年代か少し年長の七・八十歳代で、近郊とはいえ100km四方ほどに散住し、日頃はできない交友を暖める場でもあったようだ。また、必要に迫られて話す幾分不自由な英語でなく、母国語である日本語で気ままに気兼ねなく昔話などを話せるのは日頃のストレス解消に役立っているようで、往路はお互い近況報告や昔の思い出話などで賑やかだった。私達も適宜に空いた席を回ってはそれらの話を聞いた。多くに共通した話は,「戦前に苦労して経済的に見通しが立ち子どもも育ってやっと一息つける状態になったときに思いがけない戦争が始まった。そして、敵国人として強制的に隔離キャンプ生活をさせられた。戦後そこから解放されて新生活が始まってまた苦労をし、いまはどうやらリタイアできた。子どもの二世達はアメリカの教育を受け、日本語は余り話さなせないし考え方も違って嬉しいような寂しい気がする」ということであった。私達に苦労話をすることで気持ちが少し明るくなる様子がみえ、聞いてはいたが強制キャンプ生活などを生々しく伺い知ることができた。
  このようにして夕方遅くワシントンへ着きホテルで一泊した。翌朝は早くからポトマック河畔の日本から送られたという満開の桜の花をバスの車窓から眺めながら、皆がそれぞれの故郷での桜見を思い出しては日本酒を飲み、各自持参の花見弁当を食べておられた様子は忘れられないひとときであった。それから帰路の12時間ほどのバスの中は、皆が花見の満足感と花見酒で良い気分になり、最初のうちは故郷の民謡などで楽しんでいられたが、一巡すると「若い留学生さんたち、何か歌って」ということになった。
  そこで、浦島太郎、猿蟹合戦、桃太郎、舌切り雀、等々と思い出す限りを歌うと、皆さんが「久しぶりにこんな懐かしい歌を聴いた」と涙ぐんで一緒に歌い始められた。それが一通り済んでもまだ物足りなそうなので、私達が子どもの戦前・戦中のに歌った「鳩ぽっぽ」「お手々つないで」などの小学唱歌や童謡を、次から次からへと一生懸命に思い出すと、一世のおじいさん、おばあさん達も「こんな歌は子どもの時歌ったきりで、四・五十年の間一回も歌っていなかったのに、不思議なことに、歌詞も節も次々思い出せたのには驚いた。同時に、忘れていた子どもの頃のことが、まわりの風景と共に思い出されて本当に懐かしく嬉しい」と帰路の間中、声も枯れよばかり一緒に歌い続けられた。私達も記憶の中から絞り出しては一緒に歌いに歌った。その時の一世のおじいさん、おばあさんのすっかり子どもに返ったような嬉しそうな顔に、ご一緒して良かったとつくづく思った。
  私自身が同じ年齢に達したいま、長い間、故郷から遠く離れ「苦労をして身を立て自分の故郷に一度は戻りたい」と思いながら戦争でその多くを失い、いまと違って簡単に故郷にも帰ることできなく、あの地でなくなった一世の人たちの望郷の念はいかばかりだったかと、当時にまして胸に迫ってくる
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日米の社会常識の違い(50年前の婚姻届の顛末))【フルブライト留学関連-15-】 [フルブライト留学関連]

日米の社会常識の違い(50年前の婚姻届の顛末)【フルブライト留学関連-15-】

  常識とはその時代と社会とに特有のものである。時代の変化は緩やかなのでその間の常識の変化には気付かないこともあるが、社会共通の常識はでは国が違えば「常識がこんなにも違うのか」と驚くことがある。 以下に述べる婚姻届の顚末(てんまつ)もその好例だ。

留学後約10ヶ月の19596月に、「結婚は二人ともが留学した後で」と約束して3年になる婚約者から、費用支給の留学試験に合格し私のいるクリーブランドで学ぶ旨の手紙が届いた。すぐ後で、両親からは「そちらでは面倒だろうと婚約者の母親と一緒に婚姻届は済ませた」と知らせてきた。両親の早手回しに驚きはしたが異存はなく了承と返事した。挙式前の教会における3回の結婚予告は、二人が在籍する東京と八幡の教会に依頼状を出し、出席できない双方の親代わりをボンド夫妻に頼みに行った。 そこでの夫妻の驚きようは私が仰天したほどだった。”What!  “You said you were married?  When? “ 「先週のいつかはわからない」、「Yoshi、日本では本人のサインなしで婚姻手続きが可能なのか?」と訊く。「親が必要書類を揃え、代理人として両家の印鑑で手続きをしたのだ」と返事をした。”That’s impossible here in US!!” 「この国での婚姻届には、当事者が役所に行きき二人揃っての同時サインが必要でこれは常識だ。例外は、前大戦中に欧州で重傷を負った米兵が、婚約者も同意のうえ欧州では軍の上司が、米国では牧師が臨席し、同時サインを電話で確認しあって届け、一面の新聞記事になった事例ぐらいだ。本人不在の手続きなど信じられない」という。それも一理はあると思いながらも「日本ではそんな常識はない。受理されたのだから可能だ」と返事したが、「日本ほどの文化国家でそうとは信じられない」とのこと。「でも、日本の離婚率は米国より格段に低い。日本の社会では相互信頼が高いから可能なのだと思う」と米国の常識が正しいとのニュアンスに若干抗議の意も込めて返答した。人生で一度しか(複数回の人もあるが)体験しない婚姻届を巡って、たまたま彼我の社会常識の大きな相違が露見したわけだ。それが米国の常識だったことは、それから40年経った10年ほど前のNHKテレビ放映でも確認できた。近年は日本の離婚率も当時の米国と同じように格段と高くなり、また知らぬ間に婚姻や養子縁組の届けが受理されていたという新聞記事に、日本の都会でも次第に当時の米国社会「他人の生活には関与しない」流に近づき、常識も米国流に変わってくる日が早晩来るのかも知れない。

そこで、同じ教派信者のボンド夫妻に、挙式まで婚約者を預かって貰うことを依頼したら、挙式は教区の大聖堂チャペルで行いそこの牧師さんに司式を委託した旨が知らされた。

9月には婚約者が到着し、司式予定の牧師に英文の告示結果と日本では入籍済みであることを告げて10月の初めの挙式を依頼した。すると「告示証明は有効だが、ここでの挙式には日本の婚姻届とは無関係に ”marriage license” が必要で、もしそれなしで挙式をすれば私は刑務所行きになる。まず、Cuyahoga County 役所に行くこと」と冗談交じりの答えが返ってきた。二人で事務所に行くと書類が渡され、「これに記入し病院での健康診断書も副えて来週の今日にまた来るように」という。「一週間待つのか?」と訊くと「離婚が増えているのでオハイオ州では一週間のcooling off period が必要となった。 即刻の結婚希望ならそれが可能な西部の州を紹介しようか」という。 結核と性病の検査済み証明書を持って、翌週二人で County 事務所に出かけた。すると、一週間待たされた理由となった質問の、”Are you still hot ?” と訊く。”Sure, we have been hot for the last three years!” というと“Oh, such a long period!”と大げさなジェスチュアで「ここにサインを」とのこと。米国の常識通り揃ってサインしたら “Congratulations!“ といってmarriage license をくれた。

次の土曜日に,市の中心部の大聖堂チャペルで挙式した。留学生援助団体関連のユダヤ系の人が約30人(異教徒のユダヤ人が多人数で入堂したのは初めてとのこと)、二人の留学先の先生・友人、教会関連など計50名ほどの出席があった。パイプオルガンの生演奏での入退場で、スナップ写真は当時の日本では珍しいカラーだった。式の直前に牧師さんからの「指輪交換のとき普通は皆の前でキッスするが日本の風習でどうぞ」とのことで「九州男児が人前でキッスなんぞできるか」とばかり ”No” と答えた。しかし、式後に二人並んで教会を出る際、両側に並んだ人たちが花婿そっちのけで花嫁のほっぺにチュウチュウとキスをするのを見て「郷に入らば郷に従え」のことわざが頭をよぎった。


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レイディズ ファースト 【フルブライト留学関連-14-】 [フルブライト留学関連]

レイディズ ファースト 【フルブライト留学関連-14-】
“Ladies First” という言葉は、男女同権のいまの世の中では余り耳にしなくなった。しかし、戦後しばらくの日本ではそれは横行した。それには学ぶ点もあったが、日本旧来の習慣とは違い、ましてや九州生まれで小学生時代を「男女7歳にして席を同じうせず」と教わってきた私には、その形式的な面では違和感を抱いていた。しかし、1958年にアメリカ留学して、それが当時までの彼らの日常生活で習性として根付いていたことを実感し、それを心情的には理解できたが、同時に戸惑いもした。
それを最初に實体験したのは、ボンド夫妻の家に彼らの車で招かれたときのことだ。 Mr. Bondは家の前で車を駐めるとすぐに降りて車の前を回る。何事かと思ったらミセスのために外から車のドアを開けまた自分の席に戻って車庫入れをした。そのときは少し不思議に思った程度だったが毎回そうであり、他の人の場合も車では男性が女性のドアを開けに降りるのが多いことに気づいた。そこで、日本で行えば気障っぽいが、これも彼の地のetiquetteだろうと、努めてさっと降りて女性のドアを開けるようにした。
一年後の私たちの結婚に際し親身に世話してくれたボンド夫妻から「この前、テレビで日本のEmperorの数歩後方にEmpressが続いて歩いていられるのを見て東洋的だと思ったが、同じようにMotoko もYoshiの少し後を歩いていたね。」といわれたことがある。そういわれれば、話ながら歩くとき以外は私が先行することが多いのに気づき、家内からもそういわれて、以降は意識して並んで歩くようにした。これはかなり納得できた。
それからしばらくして、今度は家内から「Ricky Bondはまだ10歳そこそこの少年なのに、私とスーパーに一緒に行くと、道を曲がるときなどすぐ自然に自分の歩く位置を変え常にRickyが車道側に回ってエスコートしてくれる。それが無意識にできるのは、男の子の幼児からのしつけなのだろう。ここではそれが慣習のようだし、あなたにとっては付け焼き刃だろうが、この国での滞在期間だけでもそのように努力しよう---」といわれた。「大人になって急に変えろといわれても----」と努力はしたものの、20歳代後半ではすでに遅く、これは私が気づかず家内が位置を変えることがしばしばだった。
その他、“Ladies First” では種々と失敗談もあるが、その最たるものは,家内とオフィスビルの途中階から最上階にエレベーターで上ったときのことだ。 当時のゼントルマンの通例で何人かはソフト帽をかぶっていた。乗るときに気づくべきであったが、その中には女性はいなかった。我々二人が乗ると、着帽の男性が、昔の洋画に出てくるように、一斉に頭上のソフトを右手でとり胸の前で留めるのにまず驚いた。最上階では誰も降りようとする気配がない。そこでドアの前にいた私が降りると家内が続き、それに続いて皆が出てくる。雰囲気が何となく変だなと思った途端、家内が私に日本語で「男性は皆、女性である私が降りるのを待っていたのに、あなたが私より先にさっさと降りるので大変恥ずかしかった」とささやいた。それ以降、留意して見ると女性が奥の方にいる場合でも男性が隙間を作り女性を降ろして男性が出るのに気づいた。以降はエレベーターに乗るときには、女性の存在有無に注意を払うようになった。これぞ字句通り“Ladies First” だった。
でも、“Ladies First” の意味するところを実感したのは次のできごとである。修士論文が承認され、40社余りのスポンサー会社に報告すべく、60部ほどの論文を大学構内で印刷し自分の研究室に運ぶことになった。同室の友人に手伝いを頼んだが、すぐには動いてくれない。それではと、私が10冊ほど、家内が数冊を持って何往復かしようと運び始めると、部屋の窓から私たちを見つけた友人3人が大声で ”wait !” と叫びながら走って来る。「何事か」と立ち止まると、彼らは口々に「レディにそんな重いものを運ばせるなんて」と私に文句をいう。こちらにすれば、「すぐ手伝ってくれなかったのでワイフに頼んだのに---。」と思ったが、そこで、彼らにとっての認識は 「”Wife” であるより ”Lady” であることが優先しているのだ」ということに気づいた。先のエレベーターのときもそうだったのだ。このとき、改めて” Ladies First” なる言葉の意味を実感させられた。
この50年余りで日本では男性と比しての女性の地位が高まり、アメリカでも女性の進出で女性を大事にしすぎる ”Lady First” もそれほど過度ではなくなったので、いまの若い日本人がアメリカに行っても、私が感じたほどのことはないのかも知れない。

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氷川丸で太平洋横断 【フルブライト留学関連-12-】 [フルブライト留学関連]

氷川丸で太平洋横断 【フルブライト留学関連-12-】
①太平洋とは静かな大きな海洋だと実感
米国政府全額支給留学生の我々28名は1963年7月3日に氷川丸で横浜港からアメリカに向かって出港した。映画のシーンで良く見るような銅鑼が鳴り響き桟橋との紙テープが切れた時には、留学実現の第一歩が始まった感動で胸が一杯だった。
その前年度までは2等船客であったが、フルブライトの予算が少し減り人数を絞るか3等にするかの選択で後者に決まり、そのお陰で私も行けるようになったのかも知れない。
我々の船室はそのような次第でデッキ(甲板)の直下の階にある二段ベッドの部屋だったが、それでもホテルに泊まるなど縁遠かった当時としては快適な部屋だった。最初の数日はすべてが珍しくデッキまで上って大海原の景色に見入っていた。氷川丸は静かな海原の波を切って進み、その周りはぐるりと海原が広がり一日中海以外に船一艘も見えない日があった。そのような時には、たとえ遠方にでも船の煙が見えると一大事だ。その情報が船内で放送されると、多くの人がデッキに出て来て、「どれどれ、どこだ」などとその船が遙か遠くの地平線ならぬ海平線に消えるまで見ていた。
東向きの航路なので、一日が30分単位で短くなる日ができ、船内の放送とニュースで周知される。船内はアルコール類も免税で、日本では高価で飲めなかった洋酒を楽しんでいた仲間は飲む時間が減るといって残念がっていた。そのかわり日付変更線を跨ぐ日は同じ日付が二日続くのも初めての経験で面白かった。
その通過当日,船内放送で「ただいま日付変更線の上を通りつつあります。ご覧になりたい方は直ぐデッキに出て下さい」とアナウンスされると、途端に近くの階段で大勢が上がるドタドタという音がする。一瞬私もその気になったがそんなはずはないと気づいてゆっくり階段を上がって様子をみると、「ン?」「そうか。見えるはずはないナ」と引っかかった人が結構いたので面白かった。だまされるほど皆は退屈していたのだろう。また、その翌日の夕食時に、アメリカ人宣教師の小さい子が、「私は大勢の人に二日続けてハッピバースデイの歌とケーキで祝って貰ったのに歳は一つ増えただけなのよ」と喜んでいるのが可愛かった。そのような我々を乗せ氷川丸はエンジンの音を響かせながらひたすらハワイ目指して東進して行く。
次ぎ述べるように波が荒れた日もあったが、シアトルに着くまで三週間近くもほとんど毎日のようにデッキで360度グルッと海原を見渡していると、地球はとてつもなく大きな球体であり、太平洋とは名前の通り普段は靜かな大洋なのだとつくづく実感させられた。 しかし、いつも太平ではないことを次で述べる様に思い知らされる。
②嵐のなかでの氷川丸の食堂風景
航海が何日か経ったある日、エンジンルームなど船内の見学の後で船長から航海について話を聞いた。50年近く昔の事なので記憶違いもあるかも知れないが大筋で次のようだったと思う。「これまでは静かな海だったが、嵐になると船橋より高い波に遭遇する。船の揺れ方にピッチング(縦揺れ)とローリング(横の回転揺れ)の二つがある。太平洋で嵐に遭うと波の高さはマストくらいもあり、波の間隔も船長くらい長い。船が波と直角になると船の前と後ろが波で支えられることとなり折れる心配があるのでそれは避けたいが、船が波に並行になると横転する恐れがある。そこで波の大きさを見ながら波の方向とある角度を保つように操船する。その結果、船はピッチングとローリングの組み合わさった揺れとなる。」
その話を聞いた後しばらくして、氷川丸は暴風圏内に入るという船内放送があった。私はもともと船酔いには強かったが、すこし揺れ始めたときに船首の近くに行き「いまから上がるぞ、右に傾きながら降りるぞ」とあたかも自分が自分の身体も含めた船全体を動かしているような自己暗示をかけた。それが功を奏したのかは不明だが、揺れが大きくなってもブランコに乗っているようで船酔いはしなかった。外を見るとなるほど船長の言ったとおり波間では船が深い大きな谷底に取り残されているようで怖かった。揺れ始めると同室の人など多くが船酔いで苦しそうになった。
その後の最初に行った食堂では食べに来た人は半数くらいだった。その時に気づいたが椅子の下に鎖があり床と繫いてあり椅子が机から離れていかないようになっていた。次の食事では来ている人数は四分の一くらいとなり、テーブルクロスに水が撒かれてお皿が滑らないようになっていた。その次の食事では今度は何の仕掛けがあるかと半ば楽しみながら行ったら、人はまばらでテーブルの縁をビリヤードのように囲む枠が上げられネジで締め固定されて、お皿が滑り落ちないように工夫されていた。その次の食事には、まさによろめきながら行くと、今度はボーイさんが直接にお皿を手渡ししてくれ、皿の上のものをこぼさずに揺れに合わせて傾けながら食べるのは大変だった。そこまで経験したのは数人しかいなかった。その次の時はさすがの台風も過ぎて元通りの食堂風景に戻り食べる人も毎回次第に増えた。同僚はその間吐くものもなくなるくらいの思いをしたらしく、何年経ってもその時の話をするときは苦しげだった。


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アメリカ大陸の鉄道横断 【フルブライト留学関連-13-】 [フルブライト留学関連]

アメリカ大陸の鉄道横断 【フルブライト留学関連-13-】
53年も昔のことを未だに覚えているのはよほど印象に残ったのだろう。1958年7月に氷川丸で3週間を要しSeattleに着き、そこからOrientation CenterのあるKansas へ行った。当時の列車には高価なPullmanと安価なCoach の2種類あったが、米刻政府から往復ともPullmanでももっとも贅沢な個室寝台の券を貰った。その個室内には洗面台とトイレがあり、朝と夕にボーイが、座席を昼間にはソファに夜にはベッドにと作り替えてくれた。勤務地の八幡出発前に、フルブライトでの留学から前年帰国した先輩より「井上君、アメリカでは驚くことが多いが次第に慣れるだろう。ただ、私の失敗から一つだけ事前に注意しておくと、日本では事務所でも設置されていない空調設備がなんと寝台列車にも付いている。後で思えばそのせいで砂漠を通ってもそれ程暑くはなかったのだが、Seattleで乗るときは涼しいし空調が入っているとは想像も付かなかった。しかしカンサス駅で降りたとき、急にしかも全く予期しなかった暑さで卒倒してしまった。それだけは注意するように。あとはGood luck!」と言われていたのを思い出した。なるほど列車内に入ると真夏の夕方にしては涼しい。それと列車が何の合図もなくスルスルと出発するのには驚いた。一眠りした後で夜中に山中で1時間以上も停車していたので、ボーイに「事故か」訊ねると「2時間の遅れはすぐ取り戻せる。それよりも降りていると警笛もなく動き出すので残して行かれないように」と注意されKansasに着くまでは列車を離れないことにした。翌日は行けども行けども砂漠の中を延々と走っていく。最初のうちは空調が効いて快適で外は暑いのだろうなどと物珍しく眺めていたが、何時間も砂漠しかない景色に見飽きてきた。すると、戦時中の国民学校(小学校)で「太平洋で米国海軍を殲滅し、西海岸に上陸したら次はニューヨークまで進軍だ」などと聞いたのを思い出し「列車でも半日以上もかかる酷暑の砂漠が横たわるこんな広大な国と良くも戦ったものだ」と改めて思い知らされた。その翌日の昼頃だったと思うがKansasの駅に着いた時には先輩の言葉を思い出し覚悟して降りたが、そうでなければひっくり返ったであろうほどに暑かった。
University of Kansasでの一ヶ月のOrientation からは、次の留学先であるCleveland Ohio へ向かったがChicago で乗り換える必要があった。その間のことは延々と続く広大な農地と牧場に驚いた以外はほとんど覚えていない。しかし、いまも強烈な記憶として残っているのはChicago 駅での食事を済ませて食堂から出て来た時のことだ。いま流にはアフリカン-アメリカンと言うべきだろうがBlackの人が私を追いかけてきて「いまどこから出て来たか」と訊くので「ここからだよ」と出て来たところを指すと「そこはWhite の食堂で我々Colored は此方の部屋でしか駄目だ。良くそこで食べられたものだ。以後注意するように。我々はここで食べるのだ。」と連れて行かれた部屋を見ると、なるほど中は全員Black だ。そこで、出発前に米国大使館の人から「皆さんはBlack との区別がある場所でもWhite の方に入ってください」と言われたことをこのことだったのか何となく気まずく思い出した。そういえば、それまでに入国してホテルだったかで何度か記入させられた "Race" 欄になんと書けば良いのかとわからずに訊くと「Caucasian, Mongolian, Blackから選んでくれ」と言われ、そう言われれば「Mongolianだな」と書いたのも思い出された。あの当時は、そういった差別とか差別用語がまだまかり通っていて、数十年後にいまのようになるとは思いもよらないほどだった。Chicago からCleveland の間はLake Erie やアメリカ大陸の農地の広大さに圧倒された以外にはとくに記憶の留まることはなかった。標題では大陸横断と書いたもののSeattle からCleveland までが3,000 km 強、Cleveland からNew York まではさらに800 km近くもあるが、それは半年後以降に鉄道ではなく空路とバスを利用したのでその点はお許しを願う。


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Due Dateのはなし 【フルブライト留学関連-11-】 [フルブライト留学関連]

Due Dateのはなし 【フルブライト留学関連-11-】  
これまでとは少々趣を変えて、今回は私の言葉に関する失敗談を紹介しよう。私が米国政府の留学生として、ケイス工大大学院に入学早々の話である。留学最初の講義は月曜日の「超音速流体力学」であった。英会話はまだ不自由な状態だったが、超音速機の翼や機体設計の基礎の学問で英語が不自由でも数学で何とかなるだろう思った科目だ。教授は基礎例題を幾つも解いた後、講義の理解に必須の数学課題のプリントを渡し全部解いて提出するように言われた(と思った)。難解な沢山の数式で、機械科卒業後3年間の企業勤務中は留学受験英語のみで数学とは疎遠だった私が解くには、40~50時間は要すると直感した。これは大変と周りを見渡すが皆は平然としている。彼等だって大変なはずと一瞬いぶかったが、確認するのもおっくうで(これが大失敗)次の月曜日までの一週間で解くしかないと観念した。月曜日の夕方から多数の難問を解き始めた。学期第一週なのに、他の3科目の講義も皆2時間は要しそうな課題が出た。次の日曜日は初対面の教会のボンドさんが迎えに来て礼拝後家に来るように電話を貰っていたので(それくらいは聞き取れた)、数学の課題は遅くも土曜の夜までに済ます必要がある。そのために、他科目の課題は次週の講義前にやることにして、月曜日から土曜日までに毎日何題まで解くべきかの日課表を作成した。それからの毎日は、日課を終えるのに翌朝2~3時までかかったが予定通りには進まず、金曜日は一日中、土曜日も過ぎて翌日曜日の午前4時頃までほとんど寝ずに頑張り通し、やっと解き終わった。「万歳!」。頭が朦朧とし朝8時にボンドさんが来るまで一寸ベッドまどろむつもりが熟睡してしまった。「キンコン」チャイムがどこかでしつこく何回も鳴っている-------「あっそうだ教会だ!」。寝ぼけ眼でパジャマのままドアへすっ飛ぶ。これで、後々まで「Yoshiとの初対面はパジャマ姿だった」と笑われることとなる。
教会での礼拝後は夜遅くまで家族で歓待してくれた。課題のことはすっかり忘れられたが、わからない英語が眠りこけながらなのでますますトンチンカンだった。翌月曜日、授業開始と同時に教授の席に課題を出しに行ったが、クラスの皆は誰も出さず変な顔をしている。授業の後で何人かが「課題を全部解いて提出したのか」と訊ねるので「そうだ、で君は」と言ったら「あれは3週間後の月曜日がdue dateなので今からだよ。一週間で全部できたとは驚きだな」と言う。それで分かったのだが、due dateという単語が分からなかったばかりに一週間死ぬ思いの苦闘を続けたわけだ。以後、この失敗を肝に銘じ、課題が出ると最初にdue dateを確かめることにしたことはいうまでもない。また、わからないことはすぐに聞くことを鉄則にした。若い頃の数多い失敗談の一つである。


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 「東西各国一見一筆」より転載 2【フルブライト留学関連-8-】 [フルブライト留学関連]

 「東西各国一見一筆」より転載 2【フルブライト留学関連-8-】
八幡製鐵所旬刊誌『くろがね』1266号(昭和33年11月25日)
計量管理課 井上 義祐  
  十月も半ばを過ぎ、当地クリーブランド(オハイオ州)は街路樹の葉も落ち始め、またエリー湖の水も寒々とした色となり秋の気配を感じさせます。もう一ヶ月もすると寒い冬がやってくるそうです。八幡からそして日本から遠く離れての生活で、日本のニュースもほとんど分からない状態ですが、時折航空便で送ってくる「くろがね」に会社の様子を知らされ、大変嬉しく、またなつかしく読ませていただいています。
 私も七月の三日に日本から二十九名の留学生の一員として横浜港を出港してまだ三月余りにしかなりませんが、なんだか何年もたったと思うほど、いろんな楽しく珍らしい、経験をいたしました。以下思いつくままに少しずつ書いてみましょう。
  船では来る日も来る日も見えるのは大海原ばかりで、地球って本当に大きいものだと改めて感じ、また日付の変更で七月九日が二日続いて、隣室の子供の誕生祝いを二日させられたりしました。毎晩時計を三十分ずつ進めるので朝が大変に眠たかったことを思い出します。
 ハワイの近くで海の色が一変して、美しいエメラルド色となったのには大変感心しました。ハワイに着く頃までにはデッキで日焼けして真っ黒になってしまいました。ホノルルではちょうど二十四時間停泊しましたので、大枚5ドルを出して(各人の手持ちがわずか30ドルだったので大変なわけです)遊覧バスに乗りました。ところがバスのガイドがなんと男性でドラ声の英語でペラペラやるのにはがっかりしました。(でも後でわかったのですが、運転手の他にガイドがいるのはいい方で、バンクーバーでは、運転手がガイド兼務なのです)その点日本はうるわしいガイドがいていいなと改めて感じました。
 ワイキキの浜で泳いできましたが、聞きしにまさる美しい海でした。売店で水着を借りられるのですが、店番の女の子に「ウエストのサイズは何インチですか」と聞かれ(女の子ではあるまいし)知る由もなく、でたらめに32インチなどと言って借りたのはよかったが、水に入ってしまってから大きすぎて二、三かきごとにパンツを引っ張りあげねばならぬ有様になった友人もいました。 浜のちかくにワイキキサンドと称する店があり、1ドルで好きなものを食べ放題と書いていたので、泳いで十分に腹のへったところでその店にかけこみ、ここの名物パイナップルを皆で大いに食べました。後でパイナップルの酸のために舌が痛くなるとはつゆ知らず。
 ハワイの店では英語の使い始めとばかり張り切って出かけたのですが、店員の方から日本語で話し掛けられてがっかり……という光景も見られました。でも挨拶とかが通じたと言っては自信をつけていました。前々から聞いてはいましたが、おつりをもらう時には品物の値段におつりのお金を足しながら元の金額になるまでつりを出すのは奇異に感じました。ハワイでの一日もつつがなく終わって再びカナダ領バンクーバーへと出航。今度は日一日と肌寒く感じながらの航海でした。大陸棚へ入るとまた海の色が変わり、それから数時間の後に十八日間も船上で待ちに待った大陸を見たわけで、一寸した感動でした。 「大陸見ゆ」と電報した人もいたぐらいです。翌二十日ライオンゲートブリッジの下をくぐって美しいバンクーバー港へ入りました。日本でいえば北海道より北になるのですが、割に暖かく(もっとも真夏ですが)きれいな港でした。
港で会った人が第一次大戦の時フランスで日本人と一緒に戦ったとか。その人と食事を共にし、また家族の人と一緒にスタンレーパーク、エリザベスパークなどに伴われドライブできたのは大変嬉しくなつかしい思い出となりました。外国で親切にしてもらうということは、何よりも嬉しいことで、私達も日本の外人には親切にしようと話し合ったことでした。外国ではじめて自分の英語を実用したわけですが、どうにかこうにか通じたようで、それもまた嬉しいことの一つでした。今でこそ何とも思いませんが、あんなに白人をたくさん見たのは初めてで、何だか変な気持ちでした。
  二十一日夕刻やっと目的地シアトルに向けバンクーバーを発ちました。その夕方に一寸した事件が起こり、最後の晩をにぎわせました。出港直後外国の貨物船が隣接して出港しているので皆喜んで手を振っているうち見る見るうちに接近、あれよあれよと言う間に衝突してしまったのです。船が大きく傾いて真っ青になった人もいましたしまた入港すると電報代が高くなるというので前もって「無事入港」なんて電報を頼んだひとなどは「大変なことになったなァー、もう電報は着いているだろうに。無事どころか船が沈んじゃって」などと考えた人もいたようです。しかし留学生の中で新聞社に勤めている人は、さすが商売、チャンスと写真を、四、五枚撮っていたというのには・・・。幸い私のいた部屋と隣室がへこんだ程度で、ぶっつかった相手の船もたいしたことがなくて済みました。その晩は一同で送別会をしました。三十五歳を年長とし平均二十八才くらい。大学の助教授、助手、お役人、会社の研究所の人等々一年間アメリカの大学院で学ぼうという連中で、二十日も一緒に生活したわけですから、一同大変仲良くなり、いろんな人とめぐり合えて得ることが多かっただけに別れるのも残念でした。また船のなかでは、酒、タバコが免税でウィスキー、ビールなど大変安かったのも友情を深めた理由のひとつかもしれません。でも何と言っても待望の米国に明日は着くのだという興奮に、送別会の方は気もそぞろといった有様だったようです。写真はスタンレーパークの入り口で、同公園には自然林や、野球場、劇場、動物園などもありました。 (筆者は米国留学中)


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「東西各国一見一筆」より転載 1 【フルブライト留学関連-9-】 [フルブライト留学関連]

「東西各国一見一筆」より転載 1 【フルブライト留学関連-9-】
旬刊八幡製鐵所報『くろがね』1273号(昭和34年2月15日)掲載
計量管理課 井上義祐
 米国での一日目は、親切なアメリカ人の家庭に招かれシアトル市内をドライブしてもらうなどして、楽しく過ごしました。
翌日、急行列車でアメリカの真中に位置するカンザス州へと出発しました。一日目はロッキーの山沿いでしたが、二日目から、行けども行けども全くの大平原で、土地と言う土地はすべて耕してある日本と比べ、アメリカの国土の豊かさを身を持って感じました。
  カンザス大学では、すでに国務省の援助による留学生のための予備教育が始まっていて、世界二十三カ国から五十名近くが集まっていました.初めの数日は難しいことばかりで、相当に神経を使ったらしく、夜ベッドに入ってもなかなか寝付かれないぐらいでした。
 大学では、英会話、発音、文学鑑賞、作文、米国事情一般について、アメリカ魂の実際的な教育を受けました。また週末は近郊の“アメリカ的なもの”を選んで見学したり、家庭に招ばれて数日を過ごし、アメリカ人の日常生活を体験したりしました。非常にうまく仕組まれていて、アメリカ人の生活を知る上に有益でした。
 米会話では、日常語のほかに、学生語(オースの類)を覚えたり、講演の練習をしたりしましたが、インド人はなかなか雄弁でした。作文、文法は大したこともありませんでしたが、われわれ日本人からの留学生には、発音の時間が一番の鬼門でした。RとL、BとVの区別、IとEの発音、それに調子を上げる、下げると言われるごとに顔をしかめたり下をモゴモゴさせたり。
  日本語は英語と全く違うし、日本ではあまり使わないのだから仕方が無いと自らなぐさめながら、チープに録音された自分の英語に、こんなに下手だったのかとあらためて感心しました。そんなわけで発音では、大分失敗しました。
  ある晩餐会に招待された時、隣席の教授と話している折、その室内にも米国旗があったので、「米国に来て奇異に感じたのは、一日に少なくとも二、三箇所で米国旗を見ることだ。戦後の日本では旗日以外には国旗(フラッグ)を見かけなくなったのに・・・」と話したところ、「ヘェー、皆で食ってしまったのか?」。フラッグ(旗)をフロッグ(蛙)の言い違い(聞き違いであって欲しいのですが)とわかり、大笑い。教授いわく、「いくら腹がへっても蛙までは食べませんよネ。」。
 またある週末に、大分離れた町から、一団五十名に招待がありました。町をあげての歓迎で、巡査が車で先導し、町の紳士連の車十数台に分乗して見物したり、又新聞に出たりで大騒ぎでした。そこで五十軒の家庭に分かれて一泊しました。私の行った家にはラウレルという娘がいました。その発音はRとLのまじった一番不得手のもの。ラウレルと言ってもノーという。舌を先に出し、後に引っ込め苦心の末、十回目ぐらいにやっと「イエス」と言ってくれた時には全くホッとしました。おかげで以後、RとLの区別が大分うまくいくようになりましたけど。後日談として、苦労の甲斐あって、彼女からの別れのキッスまでしてもらえる程の大の仲良しになりました。(彼女とは三才の女の子でした。) 
社会問題では、歴史、政治などと共に、黒人問題も予想以上に講義の話題にのぼりました。日本の事情と比べて非常に違う点も多々あって、今まで当たり前だと思いこんでいたが、変だなと思うようになったり、また逆だったり。大学のこともその一つでした。州立大学には、その州で高校を卒業した希望者すべて入学させる義務があるとか。しかし卒業させる義務はない由。したがって、大学の一年生と言うのは非常に多いが、卒業する頃はずっとへって、工学部では四分の一にも満たない場合もあるそうです。また、女子学生の中には、学士号ではなくミセス(夫人)号をとりにきているのが多いという説まで出たくらいで、その説によると、在学中に夫となる人をみつけて、さっさと結婚するために入学するのだそうです。もちろん皆がそうではありますまいが・・・。
 講義が終わったあとの夕方は、世界各国からの友人との交流に明け暮れました。粋なベレー帽のフランス人、フラメンコという民謡がうまく外見に似合わず熱心なカトリック信者のスペイン人、親日家のビルマ人、国歌を日本語で歌ってくれ、また荒城の月をアメリカの月夜に一緒に歌った東南アジアの友人は、宗教上、右手しか使えないので、顔を洗う時に右手に手袋をはめたて片手で洗うとか、またワイフは四人までもてるけれど2人にするというアラビアの友人、ダンスの上手なペルー人、幕末の志士のような趣のあるパキスタン人。民族習慣は異なっても、本当の友人になれる人たちでした。彼らと話していて、日本は工業力が世界でも有数のものであるという自覚をもつとともに遅れている国のエンジニア達が自国の工業振興にいかに熱心になっているか分かり大変励まされもしました。
  このようにして、四十日間の間忙しく学び、世界各国の友人を得、またアメリカ英語にも大分なれて、いよいよ専門の分野を学ぶべく、皆と別れて単身、オハイオ州クリーブランドへとやってきたのでした。
(著者はアメリカ勉学中)


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英語での口頭試問【フルブライト留学関連-7-】 [フルブライト留学関連]

英語での口頭試問【フルブライト留学関連-5-】
先に同じ関連の-2-「英語の速読法」(11月4日掲載分)に何とか受験2回目で一次試験に合格したが二次試験の英語による20分強の口頭試問の難関が待ち受けていたと書いた。受験票の表が日本語、裏が英語で、受験の目的などを記入する欄は前年と一緒だった。前年の受験では、受験票に英語では工学士であるし当然ながら "Engineer"と書いた。日本語でもそう書けば良かったが馬鹿正直に私の社内での職分名の「技術員一級」と書いた。アメリカ人の試験官の一人が英語で「君はエンジニアと言っているが本当は "Technician" なのではないか」としつこく訊く。「いや、正真正銘のエンジニアだ」と何回か言い返していると「英語ではそう書いているが日本語では"技術員"すなわち英語の "Technician" と記述されている」という。漢字が読めるとは思わなかったが、それで彼の頑固に言い続ける理由がわかったので「それは社内制度上での言葉で、-----」と下手な英語で説明している間に時間切れとなった。その結果、補欠にはなれたが米国には行けず翌年はまた一次試験から受けなおす羽目になり、二回目の一次試験の対策として速読法をしたことは前に書いた通りだ。
前年の失敗で二次試験の要領はほぼわかったので、二年目の受験ではその対策を練った。勤務地の八幡市近辺では英会話の学校もなく、ヒアリングは米軍人向け一日8~10回のニュースを聴いて練習できたが、話す機会は皆無に近く発音と会話ともに自信がなかった。そこで、前年の経験から20分強の口頭試問の初めにまず面接員が切る口火を考えると「留学の目的は」、「留学して帰国後は学んだことをどう活かすか」、「大学で行きたいところがあるか、それは何故か」、「いまどんな仕事をしているか」等々とおよそ想像できるし、少し違ってもそれらに話題が誘導できると考え、それぞれの場合に対する簡単な答え、それに "Because ------" から始まるつなぎを英作文し、すらすらと言えるように練習した。続いて、面接員が細切れに訊きたいと思うであろう内容のすべてを含みそれを20分の間一気に話すことで、①面接員の矢継ぎ早な質問を封じ、英会話力が端的にわかる対話形式が避けられる、②短時間に自分の思いの全部が述べられる、③事前に充分準備できる、と戦略を立てた。その内容は下記のようなことだった。「私はこれからの社会では "automation" が重要になると確信する。しかし残念ながら日本の大学ではまだその講義はない。私が調べた限りでも米国ではMITをはじめ著名な工科大学や主要大学の工学部では学部はもちろん大学院では関連の講義が幾つもある。理論ではなく実用面の研究内容ではどこが私の今後の活動に有効かを調べた結果、産業プロセスでの自動制御の分野で著書があり多くの論文もあるProf. Donald Eckman が在籍されるCleveland Ohio にあるCase Institute of Technology 大学院に是非行きたい。また、帰国後もいま自動制御エンジニアとして勤務している会八幡製鐵に戻って学んだことを役立てたい。Cleveland はPittsburgh に次いで鉄の街として有名でJones and Laughlin など製鉄所があり是非そのような工場も訪ねたい----------。」これを英語で20分間、途絶えることなく一気に言えるように必死に暗唱し準備した。
二次試験は福岡の米国領事館で、米国人3人と日本人が面接員だった。昨年にやり合ったその一人が予想通り英語で「どこで何を学ぼうとしているか」と訊いてきた。そこで待っていましたと "I want to study Automatic Control at the Graduate School of Case Institute of Technology in Cleveland Ohio ------------" と上記の暗記していた文章をはなし始めた。途中で何度か質問の気配を感じたが、その隙も与えずBroken な発音ながら一方的に終わりまでしゃべりまくった。終わり頃は面接員たちも私の作戦を見破ったかのように笑みを浮かべながら聞いていた。でも終わりまで中断させることなく「君の希望は良くわかった」と言ってくれた。私も意図が見透かされたかと、はにかみながら "thank you for your patience ---"と言って試験会場を後にした。結果は、多くの幸運に恵まれて、思い立って準備を始めてから4年目にして米国政府からの全額支給の留学試験に何とか合格することができた。


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アラビア数字の由来と漢字のはなし【フルブライト留学関連-6-】 [フルブライト留学関連]

アラビア数字の由来と漢字のはなし【フルブライト留学関連-4-】

 アラビア数字.jpeg                                                              
  カンサス大学でのオリエンテーションで、世界各国からの留学生に英語で5分ほどのショートスピーチの練習をさせる授業があった。インストラクターから「自国のことで、何か聴衆の興味をひく話題を選び所定時間内に話してください」といわれた。
各国の学生からは興味深いスピーチが次々とあったが、そのなかでもモロッコのサブランカから来た幼顔にチョビ髭の留学生の話は、その最たるもので未だに忘れられない。それは「私の出身地Casablanca は16世紀半ばにポルトガルがその地に要塞を築いたとき、まわりの集落の家が白かったので、Casa(家)blanca(白)と呼ばれました。また、私が若いのに髭を生やしているのが奇異にみえるでしょうが、これはアラビアの男性が成人の証しに蓄える習慣によるのです」と始まり、本題に入って、黒板に上図のよう絵字を描き「ヨーロッパではこのように7に横棒を入れることが多いがそれは何故でしょう?」と皆に問いかけた。するとドイツからの留学生が「そのように書くのを良く見かけるが、多分1と7は紛らわしくその区別のためだと思う」と答えた。「そう思うでしょう。でも私の答えは違って、その由来にさかのぼります」と、 彼は上図を指しながら、皆に「この絵を見て何か気づくことがありますか」と再び問うた。皆で考えたが答えはでない。すると彼は「ヒントを出します。それぞれの絵字を構成している角の数を数えてください」と言った。数えると、あら不思議、1には一つ、2らしき絵には二つ----、7らしき絵には七つ、9らしきのには九、そして0には零だ!! 皆がびっくりした顔をした。「これで7に横棒を入れる人がいる理由が分かったでしょう」とのことに皆が納得した。
その後私が調べた範囲では、これに類した説明は見たことがなくその真偽のほどはわからない。しかし、後にイタリアに住むことになって、彼らの多くも7に横棒を入れるので、その理由を聞くと一瞬困った顔をして、やおらクラスでの最初の答えと同じ「1と紛らわしいからだろう」というのがほとんどだった。そこでこの「角の数」の説明をすると「なるほど、そんなことをよく知っているな」と私の株が少しくあがったものだ。
ついでに、私のスピーチは漢字の象形性で、「漢字は本来中国で象形文字・表音文字として(一つの漢字に特有の意味を持たせ一つの発音をさせる -つまり北京弁と上海弁では意味は一緒でも発音は異なる -)ずっと昔に中国で作られ、日本では1300年くらい昔に借用した。最初は表音文字として使用し、それから日本独特のカタカナとひらがな表音文字を作り、それ以降は主として象形文字すなわち絵のように意味だけを持たせ、その読み方は、同じ意味の日本古来の幾通りもの発音が可能とする日本独特の使い方をしてきた」と説明した。これはどの程度皆に理解されたか怪しいが、その後で「山」や「川」、「魚」「鳥」などその形に合うように漢字を形取ったとして連想を楽しんで貰った。最後に子どもの頃習った「亀」という字の本字「龜」を必死に思い出し、それを黒板に書いて「これは動物の名前だが何だろう」と訊ねようとしたが書き終わる前に 「"Turtle"だ、亀の甲羅に頭としっぽがあるからすぐ分かる」との答えが一斉にあがって皆が大喜びであった。


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英語発音の苦労と失敗談(2) 【フルブライト留学関連-5-】 [フルブライト留学関連]

英語発音の苦労と失敗談(2) 【フルブライト留学関連-5-】
こうして始まった留学生活だが、授業は工学部だったので、数式が理解できれば英語での説明は少々分からなくても理解できる、答案を書くときにも数学で"∴"と書けば「したがって」、"∵"で「何故ならば」と世界共通の数学用語で、余り英語では不自由しなかった。ただし当時もてはやされ始めたOR(Operations Research)だけは毎回当時世界的に草分けとして有名な教授から自著の教科書の40~50頁を毎回読む課題があって大変だった。
しかし日常生活では悪戦苦闘した。まずアクセントの場所を間違えると驚くほど全く通じない。とくに地名などはそうだ。一年経ってもそれは続いて、2年目で初めての夏休みに入りRochester にある計器会社での実習を思い立った。鉄道で行くことにして、駅の切符売り場で「Rochesterまで片道1枚」といった。すると駅員が「どこまで」と聞き返す。アクセントが問題なのだと察して4~5回ほどアクセントをあれこれ変え繰り返して通じない。「ニューヨーク州の大きな都市の名前だ」といっても「そんな都市はない」との返事。困り果てて最後の手段とばかり"Rochester, N.Y."と書いて示したら「Oh! Rochester"」との答え。今度はこちらが驚いた。なんとアクセントが思いもよらなかった最初の「ロ」の所にあり、Rの音がK のような破裂音に近く、「ハッ チェスタ」と聞こえるほどだった。それを真似て発音すると「何故最初からそう言わぬ」とばかり直ぐに切符をよこした。NY州の大都市といえば想像してくれても良さそうなものだと思ったが、朝鮮事変のとき佐世保の街中にあふれるほど集結したアメリカ兵に「セースボ・ステーションはどこ」と聞かれたり、また、そののち東京の山手線車内で「これはケブクーロを通るか」と聞かれそれが「池袋」だと思い到るのに数回は聞き直したのを思い出してどうやら納得できた。
ついでに関連してもう一つ思い出すと、夏休み期間に学会が開催されたシカゴで、東大の磯部教授とご一緒した翌日、夕食で同席した私の指導教授に「磯部教授が宜しく言っていました」と伝えたところ「イーソベ?そんな人は知らない」との返事である。「昨日会った教授ですよ」「いや、そんな人には会ってない」という。「夕食の時に横に座っていた人ですよ」「??ああ、プロフェッサー アイソビーのことか」(とっさにIsobeのisoはisotope のiso、beはbe動詞と同じだ。Isobe と書けば「アイソビー」と発音するのが当然?
以降、地名の発音時には音節(syllable)ごとに最初から順次アクセントを変えて発音して相手の反応で正解を探ることにした。ワシントンではポトーマックは二音節目にあるから簡単だったが、ナイアガラの場合は三回目で正解の「ナイアーガラ」に到達できた。逆にアメリカ人にとってアクセントなしで読むことは非常に難しいようで、「セースボー」 「ケブクーロ」の発音も許せる気がした。 そもそも日本語をローマ字綴りで表現するのが無理な話。日系二世のハワイ出身上院議員のダニエル・イノウエが"Inouye"と表記する理由が分かった。いまはともかく留学時代には"Inoue" だと私の経験では「アイニュイ」、「イーニュー」かせいぜい「インドゥー」と呼ばれるのを覚悟し、それに近い発音・
アクセントの名前が呼ばれたら一応自分のことかと思えるようになった頃に留学が終わった。「ギョエテとはわれのことかとゲーテ言い」。英語の発音の話がいつの間にか日本語ローマ字読みの苦労話になってしまった。

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英語発音の苦労と失敗談(1) 【フルライト留学関連-4-】 [フルブライト留学関連]

英語発音の苦労と失敗談(1) 【フルライト留学関連-4-】
外国語の発音は若い時にその国で少し生活し、直面した場の言い方を真似して覚えれば簡単学習できると思う。しかし、自費留学は法律・経済上で不可能だった当時(1958年)は、八幡近郊には英会話学校はなく、またテープレコーダーも存在せず、英語のヒアリングは英語の駐留軍向けニュースを聞くのがやっとで発音練習は自己流だった。これから述べる失敗談や苦労話は、海外でのホームステイや旅行が自由でテレビも英語付きで見られるいまの若い人には、想像ができない時代のことと承知願いたい。
やっと太平洋と大陸を客船と列車で横断した後、大学院の9月新学期開始に備えて、全米で6箇所の大学に設置されたOrientation Centerの合宿で、6週間にわたり世界各国からの留学生向けの英(米)語およびアメリカの文化や生活習慣などを学んだ。
最初に、英語の文法・読解力・英作文・発音別に能力別クラス分けテストがあった。日本からの留学生は4名とも文法では90点代で授業免除になり、発音では私も含め最下級となった。その際、インド留学生の一人が特有の巻き舌風の発音で「自分は英語のnative speakerでいままで何不自由したことがない。その私に発音練習をせよとは無礼だ」とすごい早口で抗議した。先生は「貴方の母国ではそうだろうが、アメリカでの発音は少し違うのでそれに慣れる意味で・・・」と答えたが、「私のが正しい英語で、いまさら米国なまりになるなど真っ平だ」と受講拒否したのにはその自信のほどと剣幕とには驚いた。
発音クラスには日本人の他にスペイン人数人などがいた。 日本人共通の悩みは、R とLの区別であった。最初の時間のこと、先生が後方からの、私達には「ライト」としか聞こえない声に、それがrightなら左腕を、lightなら右腕を上げよという。自信のない私たちが右や左と手旗信号宜しく上げ下げする様を見て「どうして分からないの?」と他のクラスメイトからの失笑を買う。その一幕が何とか終わると今度は先生が "speak" といえという。何故?といぶかりながら発音すると、どうしても "espeak"としかいえない一団がいる。見るとスペイン人達だ。今度は我々が「どうしてエが付くの」と笑う番だ。スペイン語では "espania" のように語頭のsが必ずesとなるらしい。この授業のおかげで私の発音も少しは米語らしくなってきたと思った頃、カンサス郊外にホームステイすることとなった。そこのLaurelいう3歳くらいの女の子がいた。この発音でこそ練習を重ねた成果が出せると、細心の留意で彼女に呼びかけたが、その度ごとに、彼女は両親とは違い情け容赦なく "no" とRとLの区別を10回ほども訂正させられたのには参った。やっとそれに"Ok"が出て安心・油断をし、ふと庭をにると隣人が芝生を機械で刈り始めている。それをガラス戸越しに見て「芝は機機でカットするのだ」といったら"No, with diamod"と返事が来た。いくら金持ちのアメリカでも芝をカットするのにダイアモンドを使うとは?? そこで、はっとgrass(芝)のつもりがglass(ガラス)ととられたのだと気づき、注意して発音し直すとRaurelの件での苦闘を見ていた両親も気づいたらしく爆笑となった。常に細心の留意が必要だ!!。 ついでに「芝」はgrassでなくlawn(またR とLの区別に細心の留意)は「芝を刈る」にはcutは使わずmow、「芝刈り機」はlawn-mowerというと聞き、日常生活単語を体得すると同時に当時の日本家屋と庭園では珍しかった彼らの芝生文化の一端を感じた。
朗読のレッスンでは、エドガー・アラン・ポーの詩Annabel Leeを先生が毎回幾つかのフレーズに分けて美しい抑揚で朗読されるのを聞いてはそれを真似て朗読した。また、先生の朗読が入った大きなテープリールを自習室の初めて見たテープレコーダで再現できたときはその便利な文明の利器に感激した。確かにそれを使って何回も繰り返し先生の朗読を聞くことができ微妙な発音・抑揚の真似が納得がいくまで学習でき、文明の利器のありがたさをつくづくと感じた。

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外国語の学び方 【フルブライト留学関連-3-】 [フルブライト留学関連]

外国語の学び方 【フルブライト留学関連-3-】
私の20歳から25歳までは英語の習得にほとんどの自由になる時間を費やし他のことができず残念に思う。これも当時では米国政府の全額支給留学生試験に合格するにはやむを得なかったろう。しかし、いまの時代ならもっと効率よくできると思う。外国語の学習をhearing speaking reading writing に分けると、その順序に学べるのが自然で最も効率良いのだろう。帰国子女などはその好例だ。でも、日本で育つ場合はそれも難しいが、いまならテレビでもその気になりさえすればある程度それに近い状況で学べよう。私の世代が英語を学んだ頃では、地方都市では英会話学校もなく、テープレコーダーなども存在しかったので、せいぜいFEN という駐留米軍向けのEvery hour on the hour つまり毎時間きっかりの10分のニュースを一日に何回か聞くのと、readingで語彙を増やし、簡単な分を文法的に間違いのなく英作文してそれを話す練習に時間を費やすしかなかった。
しかし、留学できて米国で生活することになって以降、以下に述べるような工夫をすることで初めて上に述べた自然な順序に近く学ぶことができ、それ以降は効率的だった。
その始まりは、留学して間もない頃、ピッツバーグに当時世界一であったUS Steel 社を訪ねた時だ。ホテル前から市街電車に乗るのに、電車がUS Steel 本社に行くのか確認したかった。即座に英作文をして、主語が電車だから述語は3人称単数としてなどと考え、運転手に少し堅苦しいとは思ったが"Does this street car go to the US Steel head office?"と訊いた。彼は一瞬戸惑った風だったが"yes"と答えた。即座の返事ではなかったので「いまいったので通じたと思うが普通はなんと訊くのか」と訊ねると"Do you go to the head office?"と語尾を上げていえば良いという。「なるほど運転手が行かねば電車は行かないわけだ」と変な感心をしていると、さらに"Go to head the head office?"で良いという。私の感心した顔を見て「"to the head office?"でも良いよ」といってニヤリと笑った。文法的にどうあろうと通じれば良いのだ。日本語だって八幡では「本事務所に行くの?」と訊くではないか。(その頃のピッツバーグでヘッドオフィスといえばUS Steel のことだった。)
それを機に,何かいって相手が少し怪訝な様子で応答する時は「このような場合には普通どう言うの?」と訊ね、ついでに幾つかの別の言い方も教えて貰った。そして重要なことはその場でこっそりモゴモゴと繰り返し発音し、なるべく早くそのような状況を作って直ぐ使ってみることだ。すると次からは自然にそれが出てくる。単語と同じで必要なときに直ぐ出てくるようなセンテンスの束を覚えておけば考える手間もないわけだ。この方法を覚えたらあとは雪だるま式に会話が楽になって来た。
別な実例としては、たまには映画でもと思って映画館で通路側に座った。すると若いカップルの先に来た男の方が"Excuse us"といって前を二人で通った。の世代では"Excuse me"という表現は習ったがusは初耳で「なるほど二人だと"us"で彼女の分までいっているんだ」と変な感心をした。これを使うチャンスは家内が来るまでは作れなかったのだが直ぐに覚えた。さらに、この類で困ったのは赤ん坊との会話だ。赤ん坊だけだと「イナイ、イナイ、バー」で通じたが、ママが来たのでこれも訊くと"peek-a-boo"というそうで、そう言っても通じて笑った。(何を隠そうこのスペルはいま初めて和英辞典で知ったのだが。) お悔やみなどは日本語でも難しい。英語でいう必要に迫られて友人に訊いたら、ムニャムニャいうのだよといった類のことでこれも日本語と同じだなと変なことで感心をした。
このようなことは、日本語だと子どもの時から自然にその場に適した言い回しを真似して(学ぶの語源は真似ると聞いたこともあるが)覚えていくのだから、大人が英語を学ぶのも、それが一番効率良いのだろう。その環境に身をおけない場合には私が体験した方法が次善の策だと思って学生達にはそのように伝えていた。

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英語の速読法 【フルブライト留学関連-2-】 [フルブライト留学関連]

英語の速読法 【フルブライト留学関連-2-】
学生時代に小説を多読し和文は速読できていたと思う。英文は辞書を頼りに考えて意味が取れる段階で、読解力が「一定時間内に理解できる文章量」だとは、「合格後すぐに米国の大学院の授業に適応できる人を選ぶ」留学生試験を受けるまでは認識がなかった。 入社年度での試験では補欠ながら不合格で、翌年度に一次試験から受け直す羽目になった。原因は、長文を読みその内容に関する設問20の各5個ある短文回答から一つの正解を選ぶ問題で、解答欄の半分にも届かず時間切れになったことが大きかった。秋までの短期間に速読力を養うのに何か効率良い方法があるはずだとR財団資金で留学中の姉に訊ねたら、大学の新入生が受けるコースの速読と語彙を増やす二冊のテキストが送ってきた。
速読の本は最初にテストがあり、「問題文を読み10問の各設問に5個の解答文から一つ正解を選ぶ。正解が80%以上であれば採点対象となり要した時間を計れ」とあり、留学試験と同じタイプだった。次頁の表で、要した時間の一分当たりの単語数(word数、1wordが5英字相当)換算と対応年齢表があった。それを試すと、私は120語/分弱の小学6年生なみで、300が高校生、400が大学生、600で管理職相応とあった。次頁には110語/分以下の人は音読を止めること、それ以上を望めば速読の理屈を納得し以降の頁で訓練を要するとあった。
その理屈を要約すると、「眼球が動く間はものが視えない。それは、電車に座り前に立っている人の眼球を見ると左右に往復していることでもわかる。読書速度は一行読むのに何回眼球を止めるかで決まる。150語/分前後の人は一行読むのに単語の数だけ止まり、400語/分の人は一行を2回ほど止めるだけで文意を理解する。つまり読書速度は、at a glance (一瞥)で同時にイメージ化できる単語数による」というものだった。それは和文でも同じはずが、漢字は象形文字なので見た瞬間に意味が採れるが、英語は表音文字であり意味のイメージは湧かないものとの思い込みが間違っていただけだった。
以降の頁はその練習であった。縦8mmで、横が2.5cm、3cm、5cmほどの四角い3種類の小窓を切り抜いた付録の白紙部分で、羅列された4桁ずつの数字を隠し、紙をサッと上下に動かし狭い子窓で一瞬それを眺めて、数値でなく一連の数字配列としてイメージする練習を繰り返す。次ぎに、5桁で同じ練習をする。退社後に毎日練習して8桁まで可能になった。次は配列が数字でなく4字からなる単語(例えばbook)をサッと子窓から一瞬眺めて意味を思い浮かべる練習となる。次第に一語の字数が増え8字の単語になるまで毎日繰り返す。その結果、不思議なことに漢字と同様に一瞬で意味が取れるようになった。次には、一番広い窓で一行に2,3個の任意長さの単語を一瞬だけ眺めて意味を思い浮かべる練習をする。このように3ヶ月間毎日20分弱これを続けたら、最初に試したテストで倍速の300語/分となったのには驚いた。ただし、当然のことながら、その単語の意味が不明では語を構成する英字のイメージは浮かんでも語としてのイメージは湧かない。
そこで、途中から2冊目の語彙の本に取り組むこととなる。これも最初に日常生では使用せず新聞や高級雑誌のみで出てくる100の単語がリストされており、速読の本と同じく相応年齢一覧が表が付いている。私は18単語しかわからず中学生なみの実力だった。語彙を増やす方法は、語源にさかのぼる理解する、漢字でいえば旁から想像する、類でこれも3ヶ月近く20分くらいの訓練で80単語近くの大学高学年並みにはなったほど効率良く覚えられた。
こうして迎えた2回目の試験では、まわりの受験者が昨年の私と同様、半分くらい答えたところで終わりの時間がきたが、私は何とか最後の回答までたどり着けて一次試験に合格できた。二次試験は前年度の失敗への対策を考え、二度目で辛うじて留学できた。

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フルブライト留学体験とその後の人生 【フルブライト留学関連-1-】 [フルブライト留学関連]

「米国政府全額支給フルブライト留学体験とその後の人生」 【フルブライト留学関連-1-】 井上 義祐
(「フルブライト’58 四十年の歩み」1999年7月発刊の記念誌より転載)

留学したのは,大学を出て就職後三年目で,私の人生の大きな路線は決まった後であった。それでも,留学以下に述べるようにその後の人生を大きく変えた。
 留学の目的は,当時最先端の技術分野でその発祥の地であるアメリカの大学院で自動制御工学を学ぶことで,帰国後は会社の研究所に戻るつもりであった。二年目は会社からの留学生となり,婚約中の家内も留学してきたので,向こうで結婚した。修士論文は「バッチ加熱炉の最適制御」コンピュータを使用した。その中間報告を会社に送ったところ,「IBM7070という世界最新のコンピュータを導入するが,プログラムできる人がいないので,それも勉強して,帰ったら一年ほどはその業務に従事して欲しい」といってきた。
 一ヶ月滞米を延ばし帰国すると,給与計算のプログラミングが待っていた。それが済んで研究に戻ろうと思ったところ,「給与計算だけでは高価な計算機(一ヶ月の借り賃が当時の300人分の給料に匹敵)が遊んでいるので何か有効な利用法を考えてくれ」という。結局,生産管理をいまの言葉でいえば人工知能的に使うことに成功した。その辺りで設備・計器対象よりは人間対象の計算機利用が効果も大きいし,面白いと思い始め,技術分野から事務分野に社内での路線を変更した。1964年頃には各大学で自動制御のコース増設があり幾つか大学からの誘いもあったが,会社での仕事を採ることにした。BerkeleyのExecutive Programに派遣された後,社長室で経営計画に参画し年度経営計画立案を通してそのシステム化などに取り組んだ。その実施の翌年,君津製鐵所で鉄鋼業では世界で初めてのオンライン生産管理システムを企画・設計することになった。その後,当時流行となった全社MISの企画や,新日鐵の誕生に対応したオーダー・エントリー・システムの開発に取り組んだ。
 1972年から三年ほどは,君津製鐵所の技術移転ということでイタリア最南端にある製鉄所の生産経営管理システム面での技術支援の団長として駐在し,おかげでイタリア語も少し話せるようになった。氷川丸で一緒だった武井敦さんと偶然その地で出会ったのも思い出である。
 その後,日本鉄鋼業も成熟期を迎え,社内では大きな仕事は望めなくなったので,ベルギー・中国(宝山)・韓国・などへの技術支援の企画などをした後,我々が学んだアメリカの製鉄所への管理システム面での技術支援なども経験し,その前後に君津製鉄所への転勤や本社へ戻るなどして,大型プロジェクトの管理を行った。
 1987年に大学への転職の誘いがあった。大学へ戻ることは,1964年時点の自動制御関連の研究を諦めたことで縁がなくなったと思っていたが,今回は思いがけない経営学部でのシステム教育の担当という。思い切って早期退職で大学へ移る決心をした。文系の研究や論文書きは新しい経験であった。 1991年から半年はClaremont Graduate Schoolで研修の機会があり,Peter Drucker 教授に公私ともに接することができたことは良い経験であった。そのようなことで,この大学で経営管理や経営情報システムの研究と,若い学生相手の生活が十年あまり続いている。十年目で,やっとここへ来た時以来まとめたいと思っていた日本鉄鋼業の経営情報システムについての本も4月には出版できた。二年間の経営学部長の役職もこの3月で済み,ここでのあと五年の任期を有意義に過ごしたいと思う。
 このように振り返ると,フルブライターとして留学した経験は,そこで学んだ広義のシステム工学的思考法,語学力,異文化との接し方など,私が次々と会社での新しい仕事を見つけ遂行する上で不可欠であったと思う。にまた一年留学を延長してMSを修得したことは,社内ではほとんど評価はなかったが,外国での仕事や大学へ移るときには役だったと思う。留学中に世話になった多くの人とも文通が続いているが,亡くなった人も多くなり寂しくなった。
(フルブライトで一緒に留学した仲間で出版した記念誌へ1999年5月投稿原稿、一部訂正)

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