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960年代の電子計算機のオペレーション [1960年代の計算機導入初期の頃]

960年代の電子計算機のオペレーション 【1960年代の計算機導入初期の頃-1-】
いまこれを書くのに用いているパソコンは、もちろんリアルタイムであり、内部メモリーも数十GBあって、インターネットに接続さえすれば瞬時に世界中にもがつながる。これをたかだか50年昔の電子計算機と比べると、蒸気機関車と新幹線の違いよりもっと差が大きいのではないだろうか。そう考えると昔のバッチ時代における電算機のオペレーションなどは、機関車の石炭投入作業を想像する以上に、いまの人には考えつかないかも知れない。するとそれを記録に留めておくのも、少しは意味があるかも知れないと思いそれに関連することも含めた書くことにした。
日本に電子計算機が日本企業に輸入され始めたのは、アメリカでの設置に遅れること2年ほどの1961年からで、同年に八幡製鐵所で設置されたIBM7070は世界最新鋭(トランジスター使用)のバッチ処理方式で、大きな空調付きの建物を一つ占拠するほどの大きさだった。それは内部メモリーが10kワード(1ワード数字10桁)、10桁の加算速度が10マイクロ秒といった代物だった。パソコン時代で育った人には「バッチ処理」すらも滅多に目にしない言葉と思われるので解説すると、当時は内部メモリーが小さいため、データは高さ2m、60cm角くらいの装置の中で磁気テープがクルクルと回る外部メモリーとの間でデータをやりとりする必要があった。そのため事務用データは、まずある程度にまとめて(batch)、それをソート(指定の順序通り揃える)やマージ(複数のデータを指定の順序通りにまとめる)をおこない、それからその順序に従ってデータを磁気テープとの間でやりとりしながら(その度にテープがクルクル回る)処理する必要があった。 しかも、そのような幾つかのバッチに分けた要望項目にしたがって順序並び替えた結果を幾つかのテープ別にアウトプットした(書き込んだ)あと、それらのテープとの間でバッチ処理(一括処理)せざるを得ず、それすら驚きだったので、オンラインですぐ処理結果を出すなどとは想像を絶していた。いまの机上パソコンでは、データとそれらのソフトが内蔵されているので、画面上のクリック一つで瞬時に望みの項目順序でソート、マージできるなどとはその頃を知っている私には夢のようだ。
前置きはそれくらいにして、当時のオペレーション作業の一端を振り返ってみよう。私は資質的にプログラマーには自他共に認めるほど不向きと思うが、当時では私は数少ないプログラム実務経験者という理由で給与計算のプログラマーを命じられた。というのも当時の日本には研究用デジタル型の小型機が数台あったくらいで事務用は皆無であり、私は前年夏にアメリカ留学で修士論文に電算機を使ったとの理由でその翌春設置予定の電算機要員として事務用のプログラム研修会にも参加して帰ったからだ。
当時の給与計算は製鐵所4万人近くの給与(月給)・賃金(日給)を300名くらいがPCS(パンチカードシステムといって電算機の前身の情報処理機械)を使い毎月一ヶ月弱をかけて計算していた。給与計算は20近くのバッチ処理に分かれていて最初の「異動処理」という主幹部分を担当した。機械科卒のエンジニアとして入社した身で給与計算などと初めてのことで苦労も多かったが、同僚の大多数が20歳代の若い職場で、後で振り返ると31年間のサラリーマン生活のなかで最も茶目っ気の発揮できた楽しめた職場でもあった。
大変でもあったが、想い出は古きよきもの残るというがそれらを幾つか書き留めて見る。


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オペレベルション中のヤンチャ [1960年代の計算機導入初期の頃]

オペレベルション中のヤンチャ 【1960年代の計算機導入初期の頃-2-】
先に述べたとおり、数日間は昼勤でプログラムをしては、また夜勤に戻ってその夕方までに溜まった別の交代番の人のプログラムテストをするという勤務がしばらく続いた。すべてがバッチ方式で、まずプログラムや要処理データをPCSの穿孔機でカードにしてておく。ついでプログラムで指定した磁気装置の何台かにワークテープ(処理の中間データ役の磁気テープをそういった)を装着しノブをまわしてしっかりと締め付ける。これはすぐ後に述べる理由で結構走り回ることになる。それが済むとコンソールのキーボードから呪文のような英語のスタート命令を打ち込む。すると、コンピュータが内部メモリー役の磁気テープとの間で忙しくデータのやりとりをしながら、コンパイラーで英文字のプログラムを機械語に変換する。変換が終わるとプログラムは一本の指定された装置のテープ(アウトプットテープといった)に記憶され合図が出て終わる。すると別のプログラムをまた同じように走り回ってはテープの準備をしてコンパイルを続行する。それらがすべて済んで時間が残れば自分のプログラムのテストを行うと行うといった案配だった。
当時のコンピュータは信じがたい程高価なもので(一ヶ月のレンタル料が当時で300人の給料に相当する1400万円、購入価格4年半分くらいしたが日進月歩なのでほとんどレンタルだった)それを使うのは1分当たりいくらと教え込まれて心理的にせわしかった。その代わり、空調などは贅沢なもので当時は所長室にもなかったほど人間様には縁遠いものだったが、電算機様々のおこぼれを頂戴して我々も夏の暑い間を快適な環境で3交代が過ごせたのは役得といえよう。
我々の昼勤の任務はプログラマと自分の書いたプログラムのオペレータだったが、夜勤の任務はオペレーターのみだった。その役割は充分に果たしたことは胸を張って言える。しかし、これから書くことは守衛さんに見つかれば処罰ものだったかも知れないが(計算機室は密室になっていてその危険はなかったのだが)、これをいまさら公開することを、一緒に仕事をした人に対しても、20歳代の若者のいたずらだったことだとお許しいただきたい。
夜勤の最初のうちは一晩中緊張してコンソールの前にへばりついていた。何かが起ると総員で手分けしての緊急処理が必要だが、それ以外はじっと座っていても退屈で、一人を除いて他は自発的に自分のプログラムを見直したりしていた。しかし、その一バッチの仕事が早ければ10分くらい長くても30分ぐらいで、プログラムするには中途半端で仕事にならない。そこで、いまとなってはどの交代組みの誰が始めたのでは定かではないが、印刷用紙を丸めセロテープで固め、計算機の横の10m四方はあろうかという場所の四隅にすぐ消せる目印を付けしサッカーらしきものを楽しみ運動不足を解消したつもりだった。それがエスカレートして、転ぶ格好も面白いというので靴下をはいてすることになったりして他の組でもこっそり楽しんでいたようだ。
さらに白状すると、それにも飽きて、誰がいうとなくピンポン球に紙を丸めた賞状入れの筒のようなものをバットにしての野球も結構面白かった。でも、それが嵩じて、私の組で筒が飛んで天井のビニールの覆いの一部を傷つけた。そんなときに限って、我々より一回り以上も年長の掛長がそれに気付かれ「井上君、ここはどうしたのだろう」と訊かれたので本当のことを言うわけにも行かず叱られるのを覚悟で「鼠は出るわけはないしどうしたのでしょうか」と答えた。掛長はわかっていわれたのだろうがその時は不問に付された。本当にヤンチャだったといまでも思う。

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職場での茶目っ気 [1960年代の計算機導入初期の頃]

職場での茶目っ気 【1960年代の計算機導入初期の頃-3-】
1961年から1965年までの間に日本鉄鋼業は第三次合理化に取り組み、粗鋼生産は1960年の年産221.2万トンから411.6万トンと倍増近くを達成した。それに呼応して事務合理化も始まり電算機が初めて設置された1962年には、八幡製鐵所でも合理化担当の二つの課には若い優秀な高卒の人に混じって入社1~6年の事務系学卒が6人余りも配属されるほど多忙だった。技術系は私のみで、年長者が多い20人余りの責任者だった前の職場と違い、多忙な難しかったが、仕事では掛長を別格として皆が同輩という自由闊達な雰囲気でまだ学生気分や茶目っ気が残っていた職場だった。
その頃は東京本社への出張は寝台車で一晩を要し、講習会出席などが時たまある程度だった。幸運にも出張すると何か手土産を買っていた。仲間の一人が出張から戻って「開けてご覧」と小箱を出したので開けると、なかから”ピョーン”と蛙がバネで飛び出すびっくり箱だった。当時はそれも珍しく、しばらく廊下で「キャッ」という声を聞くのを皆で楽しんだ。それは、彼が銀座の一郭に「いたずら玩具」の店を見つけ買ってきたのだった。
次ぎに出張から戻ったものが、今度は「お土産のお菓子を食べましょう」というので殊勝な心がけとばかり昼休みに何人か集まった.見ると、マーブルといっていた楕円形で色とりどりのジェリー状のお菓子だ。私も何人かと一緒に「ご馳走様」と口に入れた。その途端、意に反して「グニャッ」とつぶれ蝋の臭いと味が口いっぱいに広がった。周りを見ると皆もいうにいわれぬ顔をしている。「しまった」と思わず吐き出したのも後の祭り、薦めた当人は皆の顔を「してやった!」とばかり嗤っていた。
それからは出張者のお土産は皆が用心するようになった。しかし、次ぎに出張した者が今度は特殊な液体と注射器を買ってきた。密かに「その液体を白い布にかけると真っ赤に染まるが、1分もしないでその赤は見事に消えて白に戻る」という。何人かで試してみるとその通りだった。早速誰にいたずらしようかとの相談となった。皆が一様に思いついたのは掛長直前の一番先輩で優しいなかにも少し怖いダンディな人だった。皆は私にやれという。仕方なく私がそれを隠し持ち何人かの共謀者が見ている前でその先輩のご自慢の真っ白なワイシャツに”チュッ”と液を吹きかけた。先輩は「何をするのだ」とばかり液のかかった胸もとを見ると真っ赤に染まっている。「何故こんなことをするのだ。シャツが------」と怒鳴られている間中、私はひたすら黙って頭を下げながらシャツの胸が白く戻るまで待った。その長かったこと。やっと白く戻ったことを確認するや「先輩何を怒っていられるのですか」といった。「これを見ろ、こんなに真っ赤に染まったではないか」と自分の胸を指された。するとあら不思議!真っ白で何も変わっていない。先輩も一瞬言葉を失ってしまわれたが、「例のいたずらか」とばかばかしいと思われたのかどこかへ行かれた。見えなくなると皆で「成功!」とばかり喜んだのはいうまでもない。私は後の後まで先輩ご自慢のワイシャツの生地が傷まなかったろうかと心配だった。
その後、いろんないたずらを喜んだ。新婚旅行から帰って来た仲間に、「お目出とう。ささやかだがインスタントコーヒーで乾杯しよう」と昼休みに集まって一口飲みながら皆は興味しんしん新婚さんの顔をみる。新婚さんの何とも表現のしようがない表情を未だに思い出す。皆は満足げながら少しやり過ぎたかなとの表情も見せた。彼以外の分には砂糖が入っていたが、新婚さんのそれには”塩”が入っていたからだ。これなどはいささか度が過ぎたと皆で反省し当人に謝った。

職場での茶目っ気の続き [1960年代の計算機導入初期の頃]

職場での茶目っ気の続き 【1960年代の計算機導入初期の頃-4-】
それに懲りて、しばらくはいたずらも休止した。だがそれくらいでは茶目っ気は収まらない。一人が東京から"プープークッション”なるものを買ったきた。椅子の上に置いてその上に座ると”プー”と大きな音を出すと言う代物だ。しかし、それを直接椅子の上に置くと「これは何だ」と音を出す前に取り除かれる恐れがある。椅子の上にクッションを敷いていればその間に入れると旨く行きそうだ。話は変わるが、当時は職制の担当者・掛長・課長で机の大きさはもちろん違ったが、椅子も、それぞれ、肘掛けなし、あり、ビロードで肘掛けと背もたれ一体型、と違っていた。 我々の掛長は40代半ばと思われる温厚な思いやりのある方だったが何故か椅子はビロード椅子だった。(それに資格:事務員・主事補・主事など、でも差があったのかも知れないが、今の民主党の誰かと違い正真正銘の時折ではそこまでは伺い知れなかった。)したがって、仕掛ける対象は課長か掛長に限定される。
課長では恐れ多いのと、クッションをして居られるのは掛長だけだったので掛長が対象に決まった。言い忘れたが当時は課長も含め課全員が同じ部屋で仕事をしていた。(生産現場では課長は何百人の工場長でもあり立派な課長室があった。)掛長が部屋を出られた時、一人がさっとクッションの下にそれを忍びこませ、席に戻られるのをいまや遅しとばかり待っていた。待ちに待った掛長はそんな悪巧みがあることもご存じなく、トンと椅子に腰を落とされた。途端に、大きな”プー”という音が響き渡る。瞬時を入れず、掛長は飛び上がられられながら「俺じゃないぞ!」と叫ばれた。皆が”プッ”と笑いたいのを我慢しようと努めていた。掛長は皆の様子を見って気づかれ「俺も引っかかったか」と決まり悪そうに笑われた。それを見て今度は皆も遠慮なく大きな声で笑った。
それくらいで止せば良かったのに、また一人が今度はインク瓶がひっくり返りそこから真っ青なインクが5センチ四方くらいにこぼれて溜まっているとしか思えないようなブリキでできた物を買ってきた。誰にイタズラするかと相談が始まると、皆が一様に課長のノートを思ったらしくて意見が一致し、恐れながら課長にしようということとなった。それには理由がある。当時の課長は、我々ペイペイの一兵卒から見ると雲の上のような在だった。我々の課長は、やはり40代半ばの教育熱心な方で、皆にノートをしっかり取るようにといわれ、またそれの書いた報告書などを自ら丁寧に赤字で添削してくださる方だった。また、ご自身も細かいカタカナと漢字混じりの文字で大学ノートにびっしりとメモを取られてることでも有名だった。その課長にイタズラしようというのだから大それたことを考えたものだ。
課長が部屋を出られたとき、一人が無礼にもその有名なびっしりと書き込まれた大学ノートを開き、その上にインク瓶が横たわり書かれた文章の上にインクが青々とこぼれ溜まっている状態を作り出した。このときは課長へのイタズラだったのでさすがに皆は緊張していた。課長が席の戻られてノートを見られるやいなや「誰がこの大事なノートの上でインクをこぼしたのだ!」とノートを持ち上げられた。すると、ノートの上に置かれていたブリキでできた瓶とインクが”カランカラン”と音を立てて机の前に落ちた。どうなることかと我々が首をすくめていると、「何だ、またか」とこれも不問に付された。この課長は大変に人徳のある方で、その頃から50年近くも経とうといういまでも90歳を超えられたその方を時折囲んではこのような思い出話に花を咲かせている。
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