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アワビ取りと艪漕ぎ【中学生の頃のはなし-8-】 [中高生の頃のはなし]

アワビ採りと艪漕ぎ【中高生の頃のはなし-8-】
 
  終戦翌々年1947年の旧制中学2年生の夏、私の部屋に下宿していた友人の帰郷について小さな客船で佐世保から当時は6時間ほど要した(いまでは高速艇で1時間半)小値賀島へ行った。風景も抜群だったが、何より食糧難の当時に新鮮な魚など腹一杯食べられたのは嬉しかった。綺麗な海での水泳を楽しんだある日、友人と漁師さんにアワビ漁へつれて行って貰った。伝馬船を沖にこぎ出した3人の男の海女(あま)さんが一組で、まずその一人が腰に採れたアワビを放り込む網袋、小刀風の棒と腰縄とを付け、海底に早く着くためドンブリと称した径30cmほどの縄の付いた石を抱え、ヒューヒューと大きな息を数回吸った後ザンブと海へ飛び込んだ。澄んだ海は数十mはあろうかと言う海底まで良く見える。上にいる漁師二人が底に着いたドンブリを引き揚げる間に、海底では岩に少し隙間を空けへびりついたアワビを棒でヒョイト剥がし網袋にいれる。船上の二人は腰縄の一端を持ち急いで繰り上げるべく合図を待っている。息がまだ大丈夫かと心配しながらの2分近くが経つ頃、海底からの腰縄引きの合図に二人が渾身の力であまを腰縄ごと引き揚げる。するとすごい勢いで海面から1mほど飛び出てその瞬間にヒューと驚くほどの音を立て息を吸い込む。それを2ないし3回繰り返すと、その人は真夏の炎天下なのにガタガタ震えながら船上の焚き火身体を温める。そのように3人ともが潜り終わるとその日の漁は終わる。一回潜るごとに数個以上は採っていたように思う。何でも棒を岩とアワビの間に入れ一瞬で剥がすのがコツで下手に指でも挟もうものなら離れなくて死に到るとか。そのアワビを船上で刺身にして食べたときの美味さと共に舌の上でアワビがピクピク動く感触はその漁の経験と共に70年以上も経ついまでも忘れられない。
  その頃の漁師さんの船はみな長さ10mもない木造の伝馬船(てんません)だった。漁師さんが船尾で船に横向きに立ち両手で握った艪(ろ)を身体ごと前後に動かすだけで舟がスイスイと進むのか不思議だった。自分でも漕いでみたくなり別の日に漁師さんに頼み漕ぎ方を教えて貰った。コツを覚えるまでは艪を海中に流すなど一苦労したが一旦覚えると後進こそできないが(源義経と梶原景時の論争と源平の故事にあるが)真っ直ぐや左右への方向変換も力の入れ方で自由自在にできる。進む理屈は艪の動きを考えると簡単だ。 艪は舟の後部(艫:とも)の船首に向かい左に付けた球状の支点上に、それが埋まる穴のある棒状で先の両平面が突翼面状となった櫂(かい)をはめ込み両平面部分を海面下に入れる。立った姿勢で身体全体で櫂を押すと支点で動きが逆転しその突翼面が水を平面が手前に切り船の右前方向の推力が生じる。向こうに行きついた所で手首を返して水中の翼面を上下ひっくり返し身体ごと引っ張るとその下の面が水を切り左に進む。立ったまま手首の捻りを変え全身を前後に動かすだけで交互に舟の左右の推力に自由に推力に変換できる誠に力学の理に叶った構造だ。ボートは座ったままで主として腕と上半身の引く力のみを船の推力に変換するが、艪を漕ぐ場合は立ったまま腰も含め重心と全身の力を支点を通してより効率良く前進の力へ変換できるので、もっと楽でスイスイと進む合理的なものだ。しかし、それは廃れいまでは時代劇の映画やテレビでくらいしか見られなくなったのは残念だ。


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朝鮮動乱のことなど【中高生の頃-7-】 [中高生の頃のはなし]

朝鮮動乱のことなど【中高生の頃-7-】
 「佐世保駅は進駐軍の軍用列車で一杯ジャッタバイ、大変になるゴタル(ごとある)ゾ」との汽車通学の友人の話は、北朝鮮の奇襲攻撃で韓国軍は壊滅、韓国駐留の米軍も苦戦中との報道に驚愕した高校3年生の正確には1950年7月25日直後のある朝だっただろう。放課後に駅へ行くと、佐世保線終点の操車場は列車でごったがえしている。戦時中は軍港、戦後は米海軍基地だった世保港が、西日本に駐留する多国籍軍の韓国への輸送基地となったからだ。軍用以外は運用停止で休校が二日ほど続いた。ソ連戦車など周到な準備の北鮮軍が怒濤の勢いで南下し、韓国軍はなすすべもなく韓国駐留の多国籍軍も釜山北方まで追い詰められ一進一退で8月一杯が推移した。その9年前の世界大戦初戦で日本軍のマレー半島南進が英軍のシンガポール陥落につながったこと、また5年前の関西での米戦闘機の機銃掃射やB29の1トン爆弾の被爆のことが想起され、日本が戦場になる恐怖におののいた。
 街中は進駐軍の厳格な規律保持で平穏だったが、「明日は生死も分からぬ戦場」へ向かう兵隊への注意を促す町内通達もあり、外出は控え玄関には木刀を備えさえしていた。受験準備の夏休中戦況は悪化の途をたどり心配が極度に達しつつあった9月半ばに、思いがけぬ米軍の仁川での敵前上陸が奏功し、形勢が一変し北鮮軍は各地で敗退し首都平壌も陥落して北へ追い詰められ、友人と「コイデ戦争も済むとバイ」と胸をなで下ろした。
 その頃には、街中の駐留兵も少なくなり顔つきも穏やかになった。その一人に熱心に話しかられ、英会話の練習にと近くの岡の上の街や山を望む場所へ登った。「命懸けの戦で何度も死に直面した。いまは褒美で数日の休暇だが明日半島へ戻る。韓国は多くが禿げ山で街は戦禍で荒廃し、海一つ隔てた日本は平和で緑に溢れ素晴らしい。」などどうにか聞き取れ、彼は思いのたけが話せたとばかり喜んでいた。その状況も束の間、10月末に突如侵入した中国の大軍が南下し始めて新たな恐怖が生じた。米兵がまた続々渡り始めた。半島と陸続きでないことをその時ほど有り難く思ったことはない。多国籍軍の働きで38度線を挟んだ攻防の一進一退のうちに、半島での戦争拡大の恐怖と平和の有り難さを痛感した半年が過ぎ、私達は高校卒業の新年を迎えた。それから60年以上経ち、その思い出を語れる人も少なくなったいまでも、半島は北緯38度で南北に別れたまま続いている。
 その後初めて訪韓したのは1990年で、その頃は植林も始まり山には少し緑も見えたが、米兵の言は実感できた。その頃読んだ井上靖の「風濤」に、元寇の兵站基地として蒙古軍が高麗に長期間進駐して多大な労役を課し軍船の造船に大木を伐採したのが禿げ山の遠因の一つだと知った。日本人にとっての元寇は、二度とも短期間の海上の決戦と幸運な台風で侵略は免れたが一大国難として周知の歴史事実だ。「元寇が残した損害は日本より高麗が比較にならぬほど大きい」との「風濤」を読んで「同感」との感想を韓国の大学の先生方に述べたが反応は全くなかった。後で韓国の複数の友人に確認したが元寇のことは知らないという。その意外さには全く驚いた。そう言えば「中華秩序」では中国を中心にそれから離れる国ほど野蛮だと言うが、これは辻原登の「韃靼の馬」にも触れられている。
 朝鮮動乱の思い出として書き始めたが、韓国にも言い分があるにせよ「日本からの仕打ちだけは忘れられない」との意見には思わず「中華思想」に触れざるを得なくなってしまった。
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模型機関車作り【中高生の頃の話-6-】 [中高生の頃のはなし]

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模型機関車作り【中高生の頃のはなし-6-】
  ここ靜岡では、年に一回の大規模で多種な模型展示会がある。そこで、レール幅16mmの "HOゲージ"で、実物1/90大きさの極めて精巧なプラモデル列車の遠隔運転を見て、すっかり忘れていた模型作成に夢中だった頃を思い出した。
  終戦の翌年、神戸より転校した中学2年からの2年間、模型の蒸気機関車作りに文字通り熱中した。食べるのが精一杯の時代で、模型屋など佐世保には一軒もなく、都会で "O guage"と称する実物の1/45大でレール幅32mmの模型作りが始まったばかりだった。C51型蒸気機関車の1/30の設計図を入手しそれを作ろうと思い立った。車輪・歯車・軌道・連結器など製作に工作機械を要するパーツのみは模型会社から取り寄せ、あとはすべて手作りと決めた。駆動が蒸気でないのが残念だったが、近くの駅で見られる蒸気機関車の雄姿、特にピストン周りの機構の精緻な動きを、如何に実物に近く再現しようかその製作過程に加え完成後の運転を楽しみに、それほどのめり込むことになるとはつゆ知らず始めた。
  2畳程の広さの工作部屋に、必要な諸道具:万力・金切り鋸(のこぎり)・金切り鋏(はさみ)・鑢(やすり)・ペンチ・ハンダ鏝(こて)、等々は旧海軍工廠の放出品などで容易に揃った。それに、真鍮丸棒に鑢(やすり)をかけ頭を球形にしたハンマーや鉛を溶かして作った金床(かなどこ)など、自分で工夫した特製工具も加えていった。近所の銅細工が得意な鋳掛け屋さんから諸種の細工の要領を学べたのは幸運だった。銅板は七輪に木炭の火力でもすぐ真っ赤に焼け、それをバケツの水に入れジュンと急冷すると、少しの間は信じ難いほどフニャフニャやとなる。その間に、その銅板を金床(かなどこ)上に乗せ特製ハンマーで旨く叩き伸ばす。これを根気良く続ければ次第に望む球面ができてくる。こうして時間と労力を掛け、機関車上部に乗っている上が半球形のsteam dome(蒸気溜)の2個、最前面の凸面型煙室扉などの曲面成型を完成させた。 曲面同士の接合部分の作成に必要な展開図は懸命に自分で試行錯誤して描いたが、これは十年後に大学の図学の授業で学んだ方法だった。それ以外の部分は、細工がし易く錆びない真鍮版を使用し金切り鋸(のこぎり)・ハンダ鏝(こて)などで細工した。
  ピストンの動きを動輪に伝える部分はcross head, main rod, connectinng rod, それに前後進や速度を制御するための三日月型の溝がある加減リンクなど、その構造は複雑だが、それだけに躍動美を再現できるのは楽しみだった。機関車ごっこのシュッシュポッポの腕に相当する三つの動輪間の連結棒(connectinng rod)は、強度上断面が凹型の溝がある。その形状を小さく再現するのは大変難しかった。試行錯誤の後に、幅3ミリの厚み1ミリの真鍮板の両端に、直径1ミリの銅線を正方形に鑢(やすり)で削ってハンダ付けをするなど、それに類した数々の工夫もこらした。その他の部分も、学校からの帰宅後すぐ駅に行き、停車中のC11とかC51などの実物の機関車で当日の製作箇所をよく観察し、工作部屋でその製作に熱中する日々だった。こうしてシリンダーと連結棒周りを作り、左右の動輪の連結棒取り付け位置を90度ずらして動輪の車軸をフレームに取り付け、その上に電動機を乗せworm gearを用い車輪が回るようにした。その全体に銅細工のボイラーと運転室を載せて完成だ。本物ではシリンダーへの蒸気の制御で動力が伝わるのだが、模型では逆に電動機で動かすことになる。それでもシリンダー周りの動きは本物そっくりで迫力があった。
  夏休み過ぎには、十畳の間一杯に敷設された3線式のレール上を猛スピードで(実物換算は時速約100キロ)シリンダー周りを本物そっくりに動かしながら走る雄姿を見たときは本当に嬉しかった。友達に見せたら評判となり、市内のデパートで運転展示を要請されて多くの見物者に喜ばれた。その後は経験を活かせて、1/45大の "O guage"で、レールの曲率半径短縮のためC62型の前輪と後輪を1個ずつ減らし、2台同時に半年ほどで完成させた。その頃には、銅細工や真鍮版細工の腕も相当に上がっていた。 次いで、蒸気駆動で1/20大の自分が乗れる蒸気駆動の機関車を作るべく苦心してボイラーまで作った。しかし、熱中の余りの学業成績の急落したのと蒸気エンジンの注文製作が高価だったことから、夢中となっていた模型の世界からはきっぱり縁を切ったが、その集中力だけは身についた。
  大学では機械科に進み、その講義で蒸気エンジンを機構学的に学び模型に夢中だった頃を思い出していた。  C62型は2台とも手許にはなく写真も行方不明になったのは残念だ。C51型は半ば壊れたまま、大型ボイラーと友人に引き取って貰った。その際撮った写真を載せる。


「骨折り損で学んだこと」【中高生の頃のはなし-5-】 [中高生の頃のはなし]

「骨折り損で儲けたこと」【中高生の頃のはなし-5-】

  昔から「骨折り損の草臥れ儲け」と言う。私は中学2年のときに鎖骨の斜骨折をした。当時は外科手術より私が選んだ整骨院での自然治癒が多く、二か月程の辛い目にあい損をした。でも、その「損な」辛い経験から学んだことが、私の人生に以下に述べるような「もうけ」をもたらしてくれた。

  終戦の翌年春、裏の家の門に「寺島整骨院」と大きな看板が掲げられた。柔道6段で中学の柔道を教えて居られた実直な寺島先生が終戦で武道禁止となり開業されたのだ。それを見て「これで骨折しても困らなくなった」と家では冗談を言った。それから数日後、家の部屋の畳で相撲をとっていて、身体が滑り横転した肩の上に友人がドシンと落ちてきた。その途端に「ボッキン」と自分でも驚くほどの大きな音がした。少し離れた台所にいた母が何事かと走ってきた程に大きな音だったそうだ。私は骨が折れたと感じ、ものすごい痛みを耐えるのに懸命だったが、そのなかで「冗談が本当になってしまった」と思った。

  早速、友人が裏の先生を呼びに行く。先生は私を見るなりシャツを脱がしに掛かるが上半身が少しでも動くと痛い。先生が下着を挟みで切り開き、背中に両膝首を当てエイッとばかり肩を拡げてくれた。「斜めに折れとるケンガ、やおなかですバイ。動けばずれて尖った骨の先が首の肉に突き刺さって痛かケン、動かんゴト辛抱スットバイ」と佐賀弁丸出しで言われる。鎖骨の折れた左側の腕や肩は勿論、首を少し横に向けるだけでも斜めに折れた骨がずれて鋭い先端が首の付け根に、別の先端が体内に刺さって我慢できぬほど痛い。その夜は二回ほど先生をお呼びしてグイッとやって貰った。先生は「人の身体はようできていて、折れて十日くらいから数日の間だけ折れた骨の両側から膠分が出てきてそれで自然に接着する。その接着時期が大変に重要で、そのときに動くと付かなかったり変形したまま付いたりする。それまではひたすら我慢し動かぬように勤めるだけだ」と言われる。それでも無意識に首が横に向くと我慢できないほど痛くなる。先生も二日ほどきて貰ったが、これはたまらんと思われたらしく、薄い板切れを胸の前後に当て包帯で身体にぐるぐる巻きにして下さった。膠分が出てくるという前後の一週間くらいは、上半身を動かさないのは勿論、ものを見るにも目で追うようにして首も回さないよう必死に辛抱した。

  先生は「膠が出る期間に良く辛抱して動かさなかったから旨くつながった。」と喜ばれ三週間目くらいに起床を許されたが、立とうとしても立てない。見ると足の筋肉が落ちてまるで「骨皮筋右衛門」である。その翌日より杖をつき裏の治療室に行ってからがまた大変だった。全く一か月近く動かさなかった左腕が棒のようになって肘が全然曲がらない。それから一週間以上、元柔道の先生が毎回力一杯に腕を曲げてくれ指先が肩に触れるようになるまで大変に痛い、今流に言えばリハビリの日々だった。40日目くらいで中学へ行くことになった。4kmの徒歩通学を特別の許可で汽車通学にして貰った。でも混雑する列車内で押されてまた折れると大変だと、しばらくの間は今度は先生から作っていただいた厚い板の十字架を包帯で背中にくくりつけて、皆からからかわれながら通った。首の付け根の骨先端突出傷は最近まで残っていたし、いまでも骨折部分の近辺に触られるのは嫌で、車の助手席のシートベルトが左鎖骨に当たると不快でいまでも少しずらさざるを得ない。このような肉体的な苦痛の他に40日の学校の欠席による学業遅れで全くの「骨折り損」だった。でも、この骨折により、以降の私の人生に大きな影響を及ぼす「もうけ」もあった。

  その一つは、使うことのなかった足や腕が一か月で萎えて歩けなくなったことから、筋肉と同じく頭も働かさねばすぐ衰え始めるう思ったことだ。歳をとるほどにそれを実感する。二つには折れた骨から膠分が出るのは決まった期間が一回こっきりでそれを逃すと再びチャンスが来ないと言うことから、これは人生のすべてのことに通じると実感したことだ。そして三つ目は先生の「君の背骨はグニャグニャに曲がっとるバイ。何か運動バして背骨バ伸ばさんバ病気ばっかりするゾ」と言われたことだ。これが高校2年で器械体操をしようと思うきっかけになり、そのお陰で80歳まで病気らしいことも経験せずに過ごせたことにつながったことだ。


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木炭自動車と代替品のはなし【中高生の頃のはなし-4-】 [中高生の頃のはなし]

木炭自動車と代替品のはなし【中高生の頃のはなし-4-】

  戦争が終わりに近くなると物資が不足し、代替品が多くなった。いまは忘れ去られたが、車も代替燃料を用いた木炭使用の貨物自動車が幅をきかせたた。この話には、西宮鳴尾の川西航空機で海軍の名戦闘機「紫電」の翼桁加工の工場長をしていた父のことに触れざるを得ない。空襲が始まると爆撃目標となるので、工場全体が軍需用に接収された兵庫県土山と和歌山県岸和田の二繊維工場に疎開し父もそこと家の間を往復していた。工場移転の翌日の空襲で、父の事務所は爆弾が直撃し危うく命を落とすところだったそうだ。

  そういうわけで鳴尾から翼桁の材料となるジュラルミン材を工場に運び、帰路で加工された機材を組み立て工場のある鳴尾へ持ち帰っていた。その往復の運搬で、主題の木炭自動車(当時はトラックとかガソリン、タンクなどの横文字は敵国語で使えなかった)が出番となる。それは、国内では産出しない貴重なガソリンを国内での調達可能な木炭で代替するために発明されたものだった。

  春休みだったろうか、珍しく父が私に、助手としてその貨物自動車に乗って来るようにという。会社の近くから、材料を満載といいたいが、半載程度の貨物自動車の荷台に乗って国道3号線の阪神国道を大阪方向へ走る。少し前に怖い経験をしていたので艦載機の機銃掃射があれば何処に逃げ込むかと探しながら乗っていた。そのせいかそのときの国道の情景は記憶にない。しかし、同じ頃に西宮の阪神国道で、自動車の後輪が一つ脱輪しそれが国道の幅一杯にクルクルと回転し続け最後にパタンと倒れた。 車はすぐ気付き少し先で走って停まった。その珍風景は不思議に一部始終が鮮明な動画として残っている。その記憶では、阪神国道電車といっていた路線電車が走り、走行の自動車は少なく、代わりに馬力と称した馬車が物品の搬送手段だった。いまでは想像できないほど自動車も少ない頃だったので、燃料が木炭とはいえ貨物自動車は軍需だったから使えたのだろう。

  ところで主題の木炭自動車というのは、荷台の運転席の後ろに、私の記憶では、径が60cmくらい高さが1.5mくらいのガス発生タンクが設置され、木炭をくべ送風機で空気を送るのだが、力が出ないときは手回しでも送風を補った。木炭の不完全燃焼でタンク内で発生する一酸化炭素をガソリン代わりに使用する原理で走った。大阪に近い緩やかな坂道になるとガスの発生が間に合わずエンジンが息切れして遅い車が気息えんえんと益々遅くなる。材料満載でない理由がここまで来て理解できた。すると、貨物自動車を路肩に止めて運転手さんと交代で木炭をくべ送風機を回す。充分にガスが発生するとやおらまた走り出す。そのようなことを何遍も繰り返して、悪路の中を長時間をかけてやっと岸和田まで着く。帰りはまた加工済みの翼桁を積んで西宮へ帰る。いまの高速道路を快適な車で行くのとは想像もできないほど大きな違いだ。土山の工場までも同じような記憶がある。いま考えても木炭を代替燃料によく走ったものだ。でも、その当時は軍国少年だった私さえ、こんなことで戦争には勝てるのだろうかと若干心配にはなっていた。

  公私に厳しかった父は、仕事のことなど家で話したことはなく、初めて工場での翼桁加工の作業を見てエンジニアになろうと強く思った。父が私を疎開先の工場に連れ出したのは私への動機付けもあったろうが、いま察すると私に米飯を好きなだけ食べさせようとの親心もあったのだろう。当時では、一日あたり二合三勺が配給されていた米が二合一勺と減った。都市住まいでは耕す土地もなく、道ばたで作ったカボチャやサツマイモなどの代用食で腹を充たそうとしたが、それも充分でなく常にひもじい思いをしていた。しかし、岸和田郊外では周囲に田んぼが多く、父が泊まっていた家で、その晩だけは夢ではなく本当にご飯のお替わりができ、それで満腹感が得られたのだった。

  ガソリンの代替が木炭で、お米の代替が当時代用食といわれたサツマイモややカボチャだった、余り思い出したくはない戦時中の二つを結び合わせて、このはなしを終わらせる。

 


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堺大空襲の悲惨なパノラマ 【中高生の頃のはなし-3-】 [中高生の頃のはなし]

堺大空襲の悲惨なパノラマ  中高生の頃のはなし-3-

  敗戦の年6月頃には、昼夜となく頻繁となった空襲に備え、すぐ防空壕へ入れるよう昼着のまま寝るようになっていた。7月に入ると空襲は一層激しくなり、改めてWebで確認した、10日の夜半に始まる堺への無差別大空襲は、地上では非戦闘員の木造家屋を紅蓮の炎で焼き尽くす地獄絵だった。しかし上空では南北一対の入道雲を挟んだ遠い夏の夜空に、朝まで続いて展開された壮大な火炎のパノラマで、この対照的な二つの情景は脳裏に焼き付かれ生涯忘れることができない。 以下にその情景をその時の感情も込めて記述する。

  その時、私は堺とは大阪湾を挟んだ対岸で直線距離にして20km余りの武庫川べりに住んでいた。真夜中に空襲警報で起こされて外に出ると、探照灯で明るく照らされた右側の入道雲からB29の一機がヌッと姿を現した。それに向けて高射砲が一斉に火を噴くが、その遙か上空を飛ぶ敵機には全く届かない。その一機は真っ暗な夜空を傍若無人に左手へ進みながら左右中間の正面で落下傘に付けた照明弾を落とす。それがゆっくり下降するにつれ、投下管制下の真っ暗な堺一帯を真昼間のように明るくなる。その敵機がゆっくりと左側の入道雲に消える去る頃合いを測るかのように、右側の入道雲から別の一機が出て来る。それが中央部に達すると照明弾で下方に白昼のように明るく照らされた市街に爆弾状の物体を落下する。その物体が途中ではじけて無数の小さな焼夷弾となって雨のような降り注ぐ。 その敵機がゆったりと左の雲中へ消える頃には焼夷弾が地上に達して大火炎が上がる。と、時を空けずに次の敵機が右の入道雲から出て来て、落下した照明弾に替わり民家の炎上で明るくなった市街目がけて焼夷弾を幾束も落とす。すると更に火炎が下方で左右に広がる。その間に、絶え間なく無数に打ち上げられる高射砲弾は、残念ながら敵機の遙か下方で無数に炸裂するのみで敵機には届かない。このような一方的な無差別攻撃が延々と限りないように繰り返された。 それはWebによれば一時間半にもわたったという。その間に、これでもかとばかり続いて、火の手は一層左右に広がり高く大きくなるのに、ただ傍観するだけで手も足も出せない悔しさに、私にはずーっと長く感じられた。その間に、憎き米機を蜂とすれば蟻大の日本の戦闘機が何回か敵機後方から機銃掃射をかけるが米機には届かず打ち落とされる、えもいわれぬ悔しさ。その時、私は「もう少し年上ならば少年飛行兵として体当たりで鬼畜の敵機をやっつけるのに」という心情で切歯扼腕していた。その悔しさ憎さは私のみでなく地上にいた全員に共通だったろうと思う。

  対岸の堺一帯は、空襲が終わっても夜明けに燃え尽きるまで炎々と燃え続け十万を超える人を一晩でホームレスにし、多くの死傷者を出し続けた。人口が多い東京はもっと悲惨であったろうが、堺の空襲でも、後に歴史で学んでネロのローマへの放火よりも大規模で無慈悲だったろう。地上の炎上地獄を考えなければ、まことに見事な光のパノラマであっただけにその夜のことは鮮明に脳裏に残り、花火を見る度に思い出される。それから一ヶ月余りの間に焼夷弾の被爆経験もしたが大した被害もなく戦争には破れ、あれほど激しかった相互の憎しみ合いもそれと共に終わった。

  その13数年後には、「鬼畜米英」と思った米国に2年間も留学し、また、42年後には、激しい焼夷弾攻撃を被り再興したその堺市で、その後19年もの間、同市在の二つの大学に勤務することになろうとは、その時にはついぞ思っても見ないことだった。人生にはいろいろと思いもかけぬ展開になるものだ。 (空襲の日時はウィキペディア 日本本土空襲 で確認)
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大車輪を廻れるようになった『時』 [中高生の頃のはなし]

大車輪を廻れるようになった『時』  中高生の頃のはなし-2

  1949年に高校2年の新学期を迎えた。当時の大学進学率は十数%と低く、少人数で帰り道にある校庭一隅の鉄棒に集まり鼓舞し合った。 皆は懸垂くらいはでき、私ひとりがそれの一回もできない”木偶の坊”で恥ずかしかった。密かに自宅裏に簡易鉄棒を作り毎日懸垂を試みた。一週間ほどで懸垂ができるようになり、嬉しくて足を鉄棒まで上げようとしたができない。これも毎日少しずつ続けると腹筋が付き上がるようになり、ついで後ろへ思い切り反れるようにもなった。すると放課後の鉄棒が面白くなり、5月の中頃には蹴上がり、小振りまでできるようになった。このように瘦身な身体に筋肉ができ始めたある日、全身の筋肉が炎症を起こし高熱となって二日ほど寝込んだ。熱が下がると体質が変わり、不気味なほどに上半身の筋肉が隆々となっていた。放課後の鉄棒が益々楽しみとなり気が付いたら大振りもできるまでになっていた。それを見た体育の先生から「大振りまでできるのだから器械体操部に入って逆車輪が廻れるようになれ」との声がかかった。「受験勉強の身体作りが目的なので」と断ると「両立させればよい」との言葉。もっともだと、家業を継ぐという鉄棒の得意な親友と一緒に入部した。予科練帰りの先輩や「硬派だ」と自称する暴れん坊だが気持ちの優しい友人・後輩の十人足らずだった。受験希望の私は皆の配慮で練習を短時間にしてもらったが、それでも体力の消耗は激しかった。練習の半ばで先輩が「ちょっと一服」と部室に入るのでついて行くと「二人は入るな」と最後まで入れてくれなかった。それは煙臭い本当の一服から二人を守る気遣いだったようだ。

  6月の終わり頃、逆車輪への初挑戦時は両側に先輩が竹棒を持って立ち、「逆手で鉄棒を握り思い切り逆手大振りをすると鉄棒の真上で倒立の姿勢になる。そこで顎を引くと自然に身体が前に落ちるので足先に力を入れ身体を伸ばすと、その勢いで廻りまた鉄棒の上にくる。怖いだろうがやれば簡単だ。この期に及んで怖いと逃げればこの棒で力一杯何回も殴る。やれば失敗しても砂場に落ちるだけで痛くない」という。観念し必死の思いで断行するとなんと廻れた。 練習するにつれ必要な筋肉も付き要領もわかって、しばらくすると正車輪も廻れるようになった。受検組では私だけが続けていた。受検と両立させると鉄棒を始めた手前、受験準備も手は抜けない。受験科目別の参考書を一年で読了する計画を立てそれを各月、各週のノルマに分割し紙に書いて机の前に貼り付けた。でも、毎日一時間弱の器械体操の練習は若かった私でも運動量としては大きく、夕食後は猛烈に眠くなった。食後2時間ほどの睡眠をとりそのあと週別・日別のノルマの達成するまで頑張った。睡魔に打ち勝つのに冷水で顔を何度も洗いに行ったのも、不眠がちないまとなれば羨ましい。

  3ヶ月経った夏休み前に、以前の”痩せぽっち”が”やっこ凧”といわれるほどの逆三角形筋肉質の体型となったのには我れながら驚いた。秋の国体県大会への出場を告げられ、校庭の一隅の砂場を掘り起こして鉄棒・床・跳び箱などの危険な回転技の要領を覚え、 講堂で平行棒。床運動など練習した。まだ吊り輪は種目外だった。人一倍硬かった身体も風呂上がりに毎日柔軟体操を続け、前屈では胸と腿が、後屈では立ったまま反って後ろの床に手が着くほど柔軟になった。秋には県予選に出場したが所詮半年の付け焼き刃なので、成績はよくなかったが一応チームメンバーとしての役割は果たせた。懸垂の一回もできない”木偶の坊”が半年もしないうちに”大車輪が廻れる”ようになった”のは先生にとっても希有の例だったらしく、「長い間後輩におまえのことを話したものだ」とあとでいわれた。

  いま振り返ると、骨格が整うまさにその短い期間に、体操に熱中し半年で驚くほど筋肉質の頑丈な身体に変身でき、運動音痴でも熱中すれば人並みまではなれるという自信を得、また同時に、自分の資質では並の努力では一流にはなれないという自己の限界もわかった。 これは、先に昨年1229日に記載したように、人生の中でその時期以外は絶対不可能な唯一回だけ訪れる『時』の経験だった。 

   あとになって「骨格がほぼ整う時期にそれに見合った内臓ができるので、その時の体重が適正である。また、その時期に鍛えた筋肉だけは加齢してもその類の運動をすると何分の一かの筋肉はすぐに復活する」ことを本で読んだ。71歳の時にゼミ卒業旅行に帯同し、初めてのスキーで受けた半日のレッスンだけで、それまで全く未使用だったことを認識させられた腿や腰回りの筋肉の痛みが半年くらいも続いた。それに比べると、胸筋・腹筋・背筋などは毎日一・二回の簡単な腕立て伏せや前後屈などでそれなりに維持できている。いまがまた、書かれていることが真実であると実感できる『時』なのだろう。
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1トン爆弾被爆のはなし 【中高生の頃のはなし-1-】 [中高生の頃のはなし]

1トン爆弾被爆のはなし 【中高生の頃のはなし-1-】
灘高卒業60年の会が2011年5月半ばに芦屋駅前のホテルであった。私は中学一年時に在学したのみだが、いままでも東京や関西での会に何回も特別参加させて貰っていた。今回も、年一回の例会は5年前で終わったがもう皆で集まるのもそうないだろうというので靜岡から出掛けた。入学時に1学年50人のクラス4組で200名だったが、戦後の学制改革で中高校一貫校となり卒業生のうち約1/4の50人が集まった。毎度ながら出席したすぐは戸惑うが、ちょっとでも話し始めると表情や仕草から「ああ彼だったか」と思い出す。なかには「ここでの友人だったのか」と思う人もいる。いつも話題はいまのことから自然に昔に戻る。今回は両隣に座った友人と東日本大震災、阪神淡路大震災、そして1トン爆弾を喰らった戦中へのことへと話題が移る。「あの時はほんまに死んだ思うたわ」と、日頃使うこともない神戸弁が自然と口から出てくる。その被爆の話を再現しよう。
中学1年の初夏、いまも現存するというコンクリート校舎の4階教室での授業中、ふと右手の大阪湾を見ると、遠くに黒点が幾つも見える。目をこらすと、何かしらの音が次第に轟音となるにつれ敵機の大群襲来とわかる。「空襲だ、待避!」と日頃の指示通り防空頭巾をかぶりながら階段を地下室めがけて必死に駆ける降りる。2階くらいまで降りたとき「ザー」とすごい音が次第に大きく近づいてくる。「爆弾が落ちてくる音だ」と気付き目の前の大きな円柱にしがみつく。その音がどんどん大きくなって、「スッ」と消え一瞬の静寂の後、すごい地響きと共にぐらぐらと地面が揺れた。爆弾が近くに落ちたらしい。「それっいまのうち」とばかり地下階を目指して夢中で跳び下りる。もう一度すざましい落下音に襲われたが今度は「スッ」と消えて地響きまでの時間が先ほどより短く揺れも大きかった。瞬間に、「ザー」の音が大きくなっている間は爆弾が近づき頭上を越えると音がと消えるのだと直感した。そうわかってから何回もなかったかも知れないが、音が大きくなっていく間じゅう「これで人生も終わりか」と観念しては「スッ」----- 「ビリビリ、ドカン」。ついに、「ザー」が大きくなり最大になった瞬間に地面もろとも揺れ動き、気が付くと辺りは「シン」と静まりかえって周りは真っ黄色で何も見えない。「そういえば古事記だったかに”よみの国”という死後の最初に行くところは”黄泉の国”と書いてあったが、周りが真っ黄色なのはそこに来たのだな」と思った。しかし、近くで何だか咳き込む音らしいのが聞こえる。「ひょっとして生きているのかな。それならば、」と腿をつねると痛い。「生きているのだ」と気づいたとき、周りのあちこちから「死ななかったんや」と嬉しい叫び声が聞こえてきた。投下されたのは1トン爆弾だったとか。
いつもなら中学の直ぐ前を通る阪神国道電車に乗って帰るのだが、なんとその国道の東方に、幅の2/3程の丸い穴が正確に互い違いとなるように三つほどえぐり、歩ける程度の幅を曲がりくねって残すのみで国道を100m近く通れなくしている。もちろんレールはちぎれ跳ね上がったままだ。これが先程の一連の爆撃だったのだ。それ以後1~2年くらいは電車が鉄橋を渡る音を聞いたり、音楽のクレセント・デクレセント(<、>)の記号を見たりする度に、その瞬間の恐怖を思い出しゾッとしたものだ。数日して電車が通い学校に行ってみると、近くでは直撃弾で手足がばらばらに吹っ飛んだそうで、それから終戦まで毎晩、教えてくれた友人たちと手・足・お腹に自分の氏名を書いていたことも思い出す。
今回も、そのような昔話なども交わしながら「ほんまに生き残れて良かったな。また会おうな。」と若い頃を共にした友人との会合の心地よさを感じながら別れた。

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