2017,08,21 天然素材と人工素材 【この頃思うこと-71-】 [この頃思うこと]
2017,08,21 天然素材と人工素材 【この頃思うこと-71-】
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当ブログは30年ほど昔に1時間半の講義の中間に眠気覚ましとして始めた大学時代の時空を超えたはなしに始まる駄文だが300編ほど溜まった。このブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリーをクリックするとそれ毎にも読める。
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科学、とくに化学の進展に伴い人工素材が急増した。その理由は「資源の枯渇」:鼈甲、象牙、動物の毛など資源保護の問題。「健康」:アスベスト防火壁など。「価格競争」:化学繊維、「代用品」の海綿、歯ブラシなどなど多様だ。 代用品と言えば我々世代では「米」に替わるいも、カボチャ、薩摩芋のつる、ヨモギ、落花生の絞りかすなど悪印象しかない。鉄も天然資源の加工物で早くからアルミ、カーボン系新素材などへの代替が言われたが鉄の安価・大量生産などで当面は将来とも生き残りそうだ。
退職して10年になるがその直後に思い出の地を長期間の旅行や住みついて見た。そのときポルトガルの有名なコルク林とその樹の皮を剥いでコルク栓の材料としているところを実際に見ることができた。それは葡萄酒の瓶詰めには欠かせないものだったが、最近は安価な輸入葡萄酒にはゴム類やネジ栓が多くコルク栓は高級酒の代名詞のようだ。
スレート葺きの屋根も50年ほど前は高級洋館にはつきものの憧れだった。そのときのドライブ旅行でWalesの山奥に滞在中にふとSlateと言う寒村に立ち寄ると、観光用の場所で老人が面積がスレートのサイズで高さが50cmほどの石の表面を金槌でトンと叩くと適度な厚さでその表面が剥がれる。叩く度にスレート板が1枚ずつできる。厚さなどのコントロールには熟練がいるだろう。その老人の話では、英国の産業革命時の労働者の家作でスレートが大流行しそれがNew York に伝わり、そこでもSlate材として大評判。村はその生産に追われたたが、類似の石が世界中のあちこちで見付かり、その村での繁盛は終わりいまは当老人の観光用生産のみという。そのときはWEBで調べるとその村の名もあったがいま調べると何の痕跡もなく忘れ去れれている。日本はまだ瓦葺きが主流だが震災復興後では耐震性、保守も含めたコストなどから新素材に変わって行くだろう。
ナノ繊維など強度や高加工度など鉄より遙かに優れているが、安価で大量生産技術ではしばらくは鉄に太刀打ちはできないだろうか?。しかし人工素材の潜在力はいまの我々の持つ悪い印象の代替品でなく、優れた素材として想像を遙かに絶し普及して行くことだろう。勿論それには私の仕事だった、そしていまは想像も付かないコンピュータの利用なしでは考えられない。
コンピュータと私【この頃思うこと-70-'d】 [この頃思うこと]
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コンピュータと私【この頃思うこと-70-】
この題でいつもの通り1400字以内にまとめようと思ったがその長さではとても無理なことと、その内容の幾つかは既にブログで紹介済みなので、少し長くなるが全部を以下のようにまとめた。目次を作っておいたので時間があるときにその部分を見ていただければ幸いです。
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「PCS-機械計算-電子計算機-コンピュータ-パソコン」の流れ
まえがき
私個人は縁あってコンピュータ誕生の地米国でその利用黎明期だった1950年代の終わりから、その革新を追いながらずっとその利用に携わった数少ない一人であることに、自分の国内外での経験を書いたブログのあちこちと出て来ることで認識を新にした。これらの場にいたものの責任として書き留めたものにこの際若干の手を加え一連の流れでまとめることにした。
目 次
1.八幡製鐵でのPCSとの出会い
2.アメリカでのPCS操作と真空管式のデジタル型電子計算機の利用
3.八幡製鐵所での1961年頃の電子計算機のオペレーション
以下の文はこのブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリの 1960年代の計算機導入初期の頃 を見ていただくと出てくる。
5.計算機導入初期の頃の職場での茶目っ気
6.計算機導入初期の頃の職場での茶目っ気-続き-
7.漢字入力で思うこと【この頃思うこと-27-】
8.キーボードと英文タイプライタ【この頃思うこと-28-】
機械工学を学び、就職難の時期に幸運にも八幡製鐵に入社できたのは1956年だった。同期生はそれぞれ半年間、各工場での現場作業や主要な事務業務を研修させて貰った。米国製のデータ処理機械PCS(punched Card System)の存在をこの時に知った。日本では製薬会社に続いて事務合理化の目的で1952年に導入されたという。手の平倍大のカードを百枚くらいを静電気防止にさばき、法人には高すぎる機械の背丈補足の台上でPCS上に並べ目にも留まらぬ速さでカード上の穿孔位置で英数字を読み取り計算する。当時約3万6千人いた従業員の給与や賃金を現場事務員の算盤に代わり300人弱のPCS要員で正確に計算し印刷まですると聞き驚いた記憶がある。10月の本配属で希望通り自動制御担当箇所に行けたが、事務系の友人は俗称「アイビーエム」の機械計算課に決まり彼が若い女性パンチャーが大勢いるとも言っていた。
2 アメリカでのPCS操作と真空管式のデジタル型電子計算機の利用
入社3年目の1968年夏に全額米国政府支給の留学生として米国の大学院に入学した。渡航船上で日本電気からの友人がデジタル型コンピュータに行くのだと聞き、アナログ型意外にデジタル型もあると初めて知った。Case工大には、当時の日本にはまだ1台も存在しなかった巨大なドームに無数の真空管があるUNIVCⅡや、技術計算用の比較的小型のIBM650型があるのに目を見張った。早速IBM650の技術計算プログラミングを受講した。まずはPCS機器の構成で始まりそのプログラミングに当たるwiring(ボード配線)の実習で「名前で英文、生年月日で数字をカードに穿孔し読み込ませてプリントする、でき次第解散」だった。皆はJohn Smith とか短くてすぐ済むのにYoshisuke Inoueと長いスペルに「子供は短い名だ!」と恨めしく思った記憶がある。修士論文には勿論IBM650を使った数式モデルで加熱炉の最適化を求めた。その翌1961年春に日本初の大型計算機が八幡に入荷予定でそのプログラミングを学び帰国との社命で、卒業後2週間のIBM社の事務計算講習会に通った。最初の数時間は技術計算と違いバッチ処理のデータを順序よく揃えるためのsortとmergeの必要性の理解に一日目は相当苦労した。簡単な給与計算の実習もあった。ランダム処理しか必要ない現在ではバッチ処理の言葉を聞くこともない。
その他、企業での応用が始まったORを世界的な名著「Operation Research」の著者直々のの講義をとり、その自由課題で「倉庫における最適保有量」を設定し、自学した、まだ発表直後のコンピュータ使用前提のダイナミック・プロがラミングの技法を試みみた。これは「プログラミング」コースの課題も兼ねさせた。クリスマス休み前でIBM650利用は一時間ほど待ち数分の計算で終わる学生が列をなしていた。ミスがないように何回もチェックしPCSカードにパンチして読み込ませた。理屈では在庫初日の解の計算に全体の半分以上の時間を要し、その解で次の日の解が出て最後の月末分は一秒もかからない筈だった。"Cross Your Fingers"(旨く行きますように)と唱えながらデータを読み込ませた。IBM360のパネル上はランプが点滅する。10分以上経っても答えのカードがでない。列をなす学生が「ループしているぞ」と催促する。「解は幾つ出るのだ?」「30」「そんなには待てない。」「最初の解は時間がかかるが後は短くなる。」ループでないことを念じやりとりしている間に15分くらいで最初の解のカードが出た。皆あきらめ顔で20分強待ってくれた。帰国して翌年IBM7070で解いたら2分ほどで済んだのには驚いた。
1.1 IBM7070の導入」
これを書いているパソコンは、言うまでもなくリアルタイム処理で、内部メモリーも数十GBあって、インターネットに接続すれば瞬時に世界中にがつながる。これをたかだか50年昔の電子計算機と比べると、蒸気機関車と新幹線よりもっと差が大きいと思える。それで連想すると昔のバッチ時代の電算機のオペレーションは、機関車の石炭投入作業の想像以上に、いまの人には想像できないかも知れない。するとそれを記録に留めておくのも、少しは意味があるかも知れないと思いそれに関連することも含めた書くことにした。
電子計算機が日本企業に輸入され始めたのは、アメリカでの設置に遅れること2年ほどの1961年からで、同年に八幡製鐵所で設置されたIBM7070は世界最新鋭(トランジスター使用)のバッチ処理方式で、そのために作られた当時は珍しい空調付きの大きな建物の一階を占拠する大きさだった。それは内部メモリーが10kワード(1ワード数字10桁)、10桁の加算速度が10マイクロ秒といった代物だった。パソコン時代で育った人には「バッチ処理」すらも滅多に目にしない言葉と思われるので解説すると、当時は内部メモリーが小さいため、データは高さ2m、60cm角くらいの装置の中で磁気テープがクルクルと回る外部メモリーとの間でデータをやりとりする必要があった。そのため事務用データは、まずある程度にまとめて(batch)、それをソート(指定の順序通り揃える)やマージ(複数のデータを指定の順序通りにまとめる)をおこない、それからその順序に従ってデータを磁気テープとの間でやりとりしながら(その度にテープがクルクル回る)処理する必要があった。 しかも、そのような幾つかのバッチに分けた要望項目にしたがって順序並び替えた結果を幾つかのテープ別にアウトプットした(書き込んだ)あと、それらのテープとの間でバッチ処理(一括処理)せざるを得ず、それすら驚きだったので、オンラインですぐ処理結果を出すなどとは想像を絶していた。いまの机上パソコンでは、データとそれらのソフトが内蔵されているので、画面上のクリック一つで瞬時に望みの項目順序でソート、マージできるなどとはその頃を知っている私には夢のようだ。
前置きはそれくらいにして、当時のオペレーション作業の一端を振り返ってみよう。私は資質的にプログラマーには自他共に認めるほど不向きと思うが、当時では私は数少ないプログラム実務経験者という理由で給与計算のプログラマーを命じられた。というのも当時の日本には研究用デジタル型の小型機が数台あったくらいで事務用は皆無であり、私は前年夏にアメリカ留学で修士論文に電算機を使ったとの理由でその翌春設置予定の電算機要員として事務用のプログラム研修会にも参加して帰ったからだ。
当時の給与計算は製鐵所4万人近くの給与(月給)・賃金(日給)を300名くらいがPCS(パンチカードシステムといって電算機の前身の情報処理機械)を使い毎月一ヶ月弱をかけて計算していた。給与計算は20近くのバッチ処理に分かれていて最初の「異動処理」という主幹部分を担当した。機械科卒のエンジニアとして入社した身で給与計算などと初めてのことで苦労も多かったが、同僚の大多数が20歳代の若い職場で、後で振り返ると31年間のサラリーマン生活のなかで最も茶目っ気の発揮できた楽しめた職場でもあった。
大変でもあったが、想い出は古きよきもの残るというがそれらを幾つか書き留めて見る。
(blog inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302341260-1 他)
80歳からの私なりの健康法【この頃思うこと-68-】 [この頃思うこと]
当ブログは30年ほど昔に1時間半の講義の中間に眠気覚ましとして始めた会社時代の時空を超えたはなしに始まる駄文だが300編ほど溜まった。このブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリーをクリックするとそれ毎にも読める。
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80歳からの私なりの健康法【この頃思うこと-68-】
85歳も数ヶ月を過ぎたいまは社会奉仕どころか消費一方で気がひける毎日だが、せめて健康寿命(介護保健不使用)であるのと、74歳直前まで50年間を現役で平均より10年ほど長く働いたことで許して戴きたいと思っている(勤労が善で消費は悪と言う幼時の価値観の影響か)。それなら80歳以前から始めてみようと思う人が居られれば参考の一助にでもなれば望外の喜びと、恥ずかしながら、私生活の一部を暴露することにした。
父母も含め多くの80歳超の人に接し、その気持ちを察したつもりだったが、自分の身になって初めてそれを実感している。幸運にもこれまでは、50歳頃からの腰痛、70歳を超えて働いた運動不足が原因の糖尿病・前立腺肥大など以外は自分の身体を意識することはなかった。しかし脊椎管狭窄症の手術で平常の腰痛は解消したものの連続歩行が500mほどしかできず、また益々姿勢が悪くなり、80歳からヨガ教室に週一回通い始めた。
ヨガでは末梢の足の指から始まり驚くほど多数(206個くらいあるようだ)の腰・上半身など全身各部の関節を捩る。それで初めて左足の指が下方に折れ曲がり(HAMMER TOEと言うらしい)爪の代わりに下部皮膚が硬いこと、背骨が正面から見て逆S地肩に曲がり左肩が下がっていることなどに初めて気付かされた。
教室での基礎を自分でやれるまでにひと月以上を要したが朝夕ひたすらいままでそれを実施し続けた。すると1年2か月ほど経ったら連続歩行が無制限にでき姿勢も良くなり家での朝夕20分弱のヨガが楽しみになって身体の柔軟度ももとに戻った。足の指も毎日ケアし続けたら4年経つ頃から上方に戻り爪も普通に生え揃ったのには我ながら驚いている。手の人差し指も第一関節が膨らんでいるのに気付きそのケアも始め、今はあまり目立たない程度に戻った。このブログの-65-と-58-でホメオスタシスのことを書いたが人間の身体はとても精巧にできている。
西洋医学は薬効による対症療法で即効性はあるが完治を保証するわけではない。東洋医学は自己治癒力増進なので遅効性で治癒力改善の効果が出るまでは年単位と長期間を要しその間完治を信じて辛抱強い持続が肝要なようだ。生来怠け者の私には日常生活に組み込むことで継続につなげた。朝は新聞やテレビを見ながら、夜は眠る前の着替え時、風呂の中では足の指のケア・深呼吸数回・腹ばいに入り背を伸ばす。散歩の途中(パソコン作業の後も)で眼球を上下・左右・斜め上・下に動かし焦点を遠近に数回あわせる(これで老視・近視の眼鏡不要になった)、朝食事前に日に一度臀部を踵まで10回は落とし立ち上がる、などなど。以前からの継続もあるが(歯のケアは昔からで、ほとんどが治療済みだが1本も欠けていない)医者による科学的文献説明によりこれらの効果を信じて単純愚直な継続が私の80歳以降の健康法になっている。天与の寿命には逆らえないだろうが個々の効果は上記のように自分でも信じがたいほどだ。早く気付いて継続していれば寿命も延び糖尿や腰痛にもならずに済んだかも知れないと思うこの頃だ。
2017-06-29 カエサル ルビコン以降を読んで【この頃思うこと-67-】 [この頃思うこと]
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当ブログは30年ほど昔に1時間半の講義の中間に眠気覚ましとして始めた会社時代の時空を超えたはなしに始まる駄文だが300編ほど溜まった。このブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリーをクリックするとそれ毎にも読める。
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カエサル ルビコン以降 を読んで【この頃思うこと-66-】
ルビコン以前の読書感を書いたら、同じ友人から「カエサルの政治家としての真価はルビコン以降により強い」とその上・中・下の3巻が送ってきた。これも決心して数日を要したが面白く読み通した。まさに友人の言の通り、類い希なる軍人の他に政治家としてのカエサルの面目躍如たるものを再認識した。
当時のローマは元老院と市民集から選ばれる3人の執政官らによる共和制で、拡張したローマの版図にその機能が十分に果たせず、カエサルが道を開いて修身独裁官に選ばれ、志半ばで暗殺されるまでが上・中巻である。下巻はその後、遺言で指名したオクタヴィアヌスがそれを継ぐという粗筋は周知の通りである。多分に著者の塩野七生の見解にもよろうが、それ以来2000年の各国の多くの政治家と比して、カイサルの並外れた軍人としての能力に加え、政治家としての国を思い、経済的に私欲がなく(公的な支出をまかなうための膨大なる借金はしたが)、正確な情報の迅速な収集とそれに基づく明確な指示、周到な事前準備と迅速な行動力、失敗を次に活か仕方、彼に逆らった人々への寛容さ、等々は余人には見られないほど際立っていると思う。その寛大さにより凶刃に倒されるのだが。
いまの政治を見ると、それが一国内の問題から世界的に拡大し利害が反して機能し難くなっている。それに加え、民主主義派と称する米国・EU・日本と独裁的に近い北朝鮮・中国・ロシアの政治体制・効率の違い、それにテロ国家、EUの分裂・米国の国内第一主義などより多難な状況に進みつつあり他山の石とは思えな。それにしても、前にも書いたが、当時と2000年を経た今の社会にでは違う点も多いが、それを構成している人間は、相変わらず私利私欲・競争心が強く寛容さに欠けている点は進歩どころか退歩しているいように思える。
2017,06,25 ホメオスタシス再考【この頃思うこと-66-】 [この頃思うこと]
2017,06,25 ホメオスタシス再考【この頃思うこと-66-】
60年以上前に「機器設計では寿命想定が肝要で、寿命が来て部品だけ動いても仕方がない」と講義で教わった。家電寿命も20年くらいはあったがいまは半減し、部品の修理より新型機種へ換える方針のようだ。我が家の冷蔵庫・洗濯機・掃除器も10年で買い換えたが、その間の追加新機能と高性能化に驚いている。でも自分の身体ではそうは行かない。
昨2016年11月1日に急遽入院し医師の「膵臓癌の末期で年齢を考え手術はしないし抗がん剤も使いません」との言に、自分でも不思議なほど冷静に「分かりました」と答えていた。2年前の誕生日頃以来「折角授かった身体だから長生きは望むが死は必然」と思っていたからだろう。(http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2015-05-02)
先が長くないと思い、例年恒例の大学同級会と、それに合わせ東京で予定の高校クラス会(20人弱)、新日鐵後輩との会(十数人)への6日と7日の出席希望を強く医師に述べたら「東京で入院を一晩外泊にして、肝臓からの応急の管を替える手術は帰院後にする」と許可され家内同伴で上京し16日には無事退院できた。退院後は体力減退を感じたが家での日課を徐々に始め1週間ほどで体力はある程度戻った。そう分かると、念願はそれまで半年間準備してきた、翌2017年1月16日の鉄鋼協会での1時間半の講演会を無事済ますことだった。するとまた欲が出て、同月26日の八幡での職場関連と佐世保での旧制中学での会合にも出たくなり、医者の同意と緊急時紹介状持参でその双方と旧友の墓参りに小値賀島までも行けた。以降12月には君津製鐵所の会も出席し、正月を迎え念願の16日の講演会も何とか役は果たせた(もう一人の講演者はその朝急遽入院され亡くなられた由)。それ以降は、家での日課の繰り返しで85歳の誕生日も迎え、疲労感は感じるが家内に食事ほかの多大な負担を掛け申し訳なく感謝しながら何とか毎日が過ごせている。
その間の所感は私のブログと、とくにホメオスタシスの本文は(*)にあり、ここでは、その本文関連部分を要約すると、人の身体は全く巧妙に自主性のある部分からなり、私の場合は膵臓部分だけはその障害で食事のエネルギー化低下を来しているが、それ以外の部分例えば「懸垂3回」「平行棒的な胸筋10回」など、体重減のせいか楽にでき「歩行の筋肉」もまだ4000歩分は充分にある。これらは毎日少し実行すれば持続するが2日もしないと退化する。つまり、患部以外は正常で自分で病気だと思い込んでサボらない限りその機能が現状程度の維持は可能と自身で実験できた。
((*)詳細は http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2017-03-20クリック【-59-】)
80歳で始めたヨガを自分なりにアレンジして朝晩20分ほど行うと血行が良くなり自己免疫性が向上する結果だろうが、ここまで進行しているのだから患部の完治は無理だろう。食事での摂取カロリーが減り、患部以外の他部分も自然に弱るかも知れないが、それまでは自然治癒力があるとして平静な毎日を過ごすつもりだ(病気は気の病として)。しかし毎月1回に痛み止めをもらいに行く担当の医師にはただ診るだけで治癒のしようもなく気持ちの上で負担だろうと申し訳なく思う。
日本語変革の渦中?【言葉のはなし-11-】 [言葉のはなし]
日本語変革の渦中?【ことばの話-11-】
ことばには興味があるものの全くの素人で、以下は常識の範囲内での私見に過ぎないが、日本語はいま3回目の大変革中の渦中にあるように思えてならない。
1回目は6世紀頃の隋・唐からの漢字の習得時期で、漢字は本来表音・表意文字なのに、まずは万葉かなに見られる通りヤマトと言葉の発音記号として用いられ、それが日本独自の表音文字「ひらがな」や「カタカナ」に発展した。同時に漢字本来の中国での表意記号の使い方に、日本流の読み方の「漢音読み」や「呉音読み」と日本読み(例:正義・正月・正しい)が加わり、その時期に急速に日本語の語彙が増え表現方法が多様化したように思われる。
⒉回目の変革は明治になっての言文一致だろう。それまでの候文的なものから話ことばで書くことになったのは大きな変革だったろう。それも口語体と文語体があるのだから面倒だ。これも過去100年強の間に起こった。
3回目の変革は、これこそ全くの私見だが、この50年ほどの期間だと思う。その間に日本語としての英語の仮名書き単語が急増した。会社の部課名には日本語のみだったのだがカタカナ名が出現したのは1960年以降で、いまでは会社名も英語のままも茶飯事だ。その正反対に異国の単語を一切拒否し必要ならばそれを自国の単語語彙で置き換える(例えば飛行機なら「空飛ぶからくり」の類)のは実際に訪問して聞きWEBでも確かめたアイスランドだ。彼の国のことばは中世から全く変化していないと言う。
また、新聞では文意伝達の効率性から敬語は文末の動詞のみとなり、それも省かれつつある。いまの新聞では「天皇陛下は東北地方に出かけた」となるが戦中までは「畏れ多くも今上天皇陛下におかせられては東北地方に行幸あらせられた」と書かれただろう。これだと確かに長さ辺りの情報量は半減する。50年でもう「おそれ多く」などは死語に近くなった。最近までは文章途中の敬語は省きそれでも文末は「されている」の類で終わっていたのだが、最近はそれも「した」になる場合がある。その意味ではTVのニュースの方がまだ忠実にそのルールだけは守っているようだがそれでも若干の違和感はある。
それほど極端ではないが、昨年入院したおりの看護師さん達の話しかけ方は大別して二種類と感じた。一つは努めて年長者への配慮として敬語らしく「気分はどうですか」と言う人、もう一つは他人行儀でなく親しみを込めようと「気分はどう?大丈夫?」と敢えて友人らしく言うタイプ(タイプも英語からの語彙!)だ。どちらも私の気持ちを案じての言葉で、後者は気取らずにと言った気持ちが滲む。私はどちらへも「有り難うございます」とお世話になっている人への敬語が自然に出てくる。日本語では男女・老若の差があり敬語に加えて卑下語があった。数十年前までは「父が行った」と言ったものだが、いまでは「お父さんが行かれました」とTVで観て異様に思う。
これらのことは日頃あまり気付かないが、それは自分がその渦中にあるからだろうか。
カエサル ルビコン以前 を読んで【この頃思うこと-65-】 [この頃思うこと]
カエサル ルビコン以前 を読んで【この頃思うこと-65-】
友人から塩野七生著「ユリウス・カエサル ルビコン以前(上・中・下)」が送って来た。カエサル(英語読みシーザー)のことは多くの本で読んだがその圧巻は本人が書いた「ガリア戦記」だった。昔読んだので詳細は忘れたが、戦略や戦術の天才で橋や攻撃の櫓作りなど工兵・騎兵の使い方に驚いた記憶が残っている。私は本を読み始めると途中で止められなくなるので、今回も数日は躊躇したが、案の定3日間は通読以外に何もできなかった。
その読書感は、著者の広範囲な研究に基づく博識と歴史家としての優れた洞察力・記述力よるのだろうが、その幼年・青年期のことがわかり、さらに上記のカエサルへの印象に加え今回はとくに三つの点に興味を覚えた。
一つは当然の見解ながらカエサルは戦略・戦術家は言うに及ばず、魅力ある人物で信頼される偉大な指揮官であり、しかも遠いローマでの情報交換と適切なタイミングを逸さない政治家としても天才であったという点である。二つ目はそれから2000年は経ているのだが、いまも人間性そのものはその当時からあまり変わらず、その集合社会である当時の政治的な動きはいまでも通じそうなこと。そして三つ目は、人間が使える技術に関しては過去200年ほどの間に蒸気機関・電力・原子力などのエネルギー源とその使用が進歩し、それも私が経験したこの50年ほどの間に想像もつかないほど加速度的に進歩していることである。とくに情報処理や伝達に関してはこの20年ほど前にはパソコン・インターネットの出現などで想像以上に急速な変化を遂げていることだ。
つまり、それらの諸技術の急速・大幅な進展に比べ、私達の人間性やそれに基づく政治が、2000年前とあまり変わっていないことの印象に圧倒された。私のHPにも紹介しているが、1965年の米国のカルフォルニア大学バークレイ校で受けたExecutive Programや後ほど世界的に有名になる当時の最先端の行動科学をいまも通用する実例を挙げて論じた二人の若い学者によるMiddle Managementコースで採った講義録を読んでも、人間性と言う意味ではそのほとんどが、いまも、当時も、そして2000年前も、あまり変化なく通用するという事実をこの本で再認識したと言うことだ。
最近の北朝鮮の核開発や米国大統領の環境破壊への無関心などを思い起こすと、人間が使用できる技術は加速度的に進歩しているにも拘わらず、それを使う人間の本来の性質は何千年もの間ほとんど変わっていないことを改めて痛切に感じさせられた読書だった。
「いまをどう生きるか」を読んで [この頃思うこと]
「いまをどう生きるのか」を読んで【この頃思うこと-64-】
知人から誕生日にと標記の本(致知出版社)が届いた。発刊時(H20年)に101歳の松原泰道師(住職で66歳以降に研究書を出され102歳で亡くなった仏教者)と76歳の仏教研究家で作家の五木寛之氏との80歳を超えた釈迦に関する対談だった。
私は祖父以来3代目のイザヤベンダサンの言う日本教キリスト派的な信者かも知れないが、戦後6年間以外は、戦中と戦後の海外生活も含め英国教系の聖公会の教会に属し、早期退職後19年間勤務した大学は二つともその系列でキリスト教なしでは私の人生は考えられない。仏教は日本人としての常識ほどの知識しかなく、本書は老人同士が80歳を超え伝道途次で病没した釈迦に関する対談であることも一老人としての興味を惹いた。同時に新約聖書では老後び特化した記述が少ないのはその教えが人生を通じてのものだろうがキリストが30数歳と若く磔刑で召命されたことも感じた。
本書で読んだ多くのうち「有無不明な死後の世のためのバラモン教徒の現世での難行苦行は無意味、生者必滅、人生は苦を背負って生きる道、四苦八苦は時間的な生老病死と、空間的な四苦、全ては移りゆくので怠らず努めよ、無常は虚無でなく成長、老いには老いの境地、生涯修行臨終定年、肉体的若さ保持には精神的な努力必要」などは心に響く。
キリスト教徒も米国では聖書を、字句通りで進化論など論外のfundamentalistから古文書として研究する者など種々だ。私には当代の人に理解できる言葉で書かれていると思える。企業では役目柄代表者として年末年始の寺社の安全祈願参拝に際し信仰上の代役を訊かれ、寺社参拝は墓地参拝と同じく祖先へ安全を願うので一神教の神への祷りとは違い参拝すると答えた。キリスト教徒の信条ニケア信教(Nicean Creed)には信じる信条としてキリストの誕生、復活などはあるが死後に関しては「来世の命を望む」と書かれ現世を生きる宗教の点では仏陀も同じだ。但し復活はキリスト死後2000年も経ついまも事実として何億人もの信者の心と祈りの中に生きている。生者必滅で現在の科学知識では物体としての身体は死滅するが、それは無(限)から生じ無(限)に戻ると納得している。仏教の世界でも無は虚無ではなくエントロピー増加と理解できるとは知らなかった。
私の愛唱歌は「我が行く道いつ如何になるべきかはつゆ知らねど 主は御心なし給わん 備え給う主の道を 踏みて行かんひと筋に」である。ここでは自分の人生を便宜上バラモン教のマヌ法典の「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」に分け考えてみる。私の信条はプロテスタンティズム的な「世のために働く」道を見出して励んだ「家住期」が、企業と大学の計50年あり苦も多かったが喜びと感謝であった。それに比し「学生期」は徹底的にまわりから世話を受け、とくに幼時期数年は(多くは意識外で無責任にも思いもよらなかったが)親も含め他人の援助なしでは一日も生きられなかったはずだ。「林住期」は、海外生活の実施と家住期50年の暗黙知を認識知への記述に多忙だった。
80歳を過ぎての「遊行期」のいまでは、最近まで思いもよらなかったが「食」という生きる為のエネルギー吸収に精一杯となり、肉体的にも不具合箇所を感じている。その「備えたもう道」は、可能な限りまわりに迷惑をかけずに授けられた身体能力で未だに有する高度な可能性を(衰えを加齢のせいなのか気持ちのせいだけなのか見極めが難しくなりつつあるが)最後のときまでまで大事に育むことと思ってきた。このブログも本人はその一環のつもりだが他人には迷惑をかけているのかも知れない。
本書で「遊行期」の私の思う備えられた道が仏陀の教えにも叶っているようで嬉しく思えた。