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コンテッサ(公爵夫人) 【イタリア関連のはなし-4-】 [イタリア関連のはなし]

コンテッサ(公爵夫人) 【イタリア関連のはなし-4-】
家族との南イタリア在住も一年が過ぎ、英語混じりながら何とか会話もできるようになって製鉄所幹部と相互に自宅に招く晩餐交流を始めた1970年代中頃、その関連でコンテッサと近郊の人から呼ばれている人の家に招かれた。
私が中・高生時代の終戦直後に相次いだ貴族制度廃止、農地改革、新円への切り換えなどで、日本では農耕地の大規模所有はいなくなった。しかし、欧州では、英国を除いて他の各国は貴族制を廃止したが大地主が多く残存していると聞き、イタリアでのその実情が確認できると喜んでこの招待を受けた。
ある休日のpranzo(正餐、昼食)に、家内と10歳を頭に3人の娘は着物姿で、車で一時間あまり郊外一帯の葡萄畑やオリーブ林を通ったあと、岡の中腹に立つ立派な正門に着いた。電話で解錠して貰い大きな屋敷までさらに2kmくらい進んだ。ポーチのある玄関ではコンテッサと20歳代前半の娘さんが待っていた。その家は300年ほど昔から先祖代々が住んできた石造家屋とのことで、広い応接間にはアンティークで豪勢な家具があり、飾り家具には銀の食器や綺麗なお皿などの装飾品が並んでいた。家具は自庭の百年以上経ったオリ-ブの木材製とのことだった。ご主人のConte(伯爵)は今日を楽しみにしていたが急用でローマに行って留守とかで、二人から日本のことを興味深げに訊かれ説明した。
やがて昼食となり、とても台所とは思えない大きな台所との間で料理皿を出し入れする50X300cm程の小窓のある、何十人ものパーティができそうな大広間の食堂へ案内された。
正餐は給仕人付きで時間をかけ会話を交わしながら進んだ。その話では、製鉄所の稼働以前は周辺に雇用が少なく低労賃で使用人を多く雇えた。しかし、稼働により高賃金での何千人という雇用が生じ、使用人確保に苦労している。昔はここで葡萄摘みやオリーブの実集めしかしなかった人たちに機械の運転などできているのだろうか、とのことだった。
食後は、2階の多くの部屋を見せて貰ったが、祖父・母の部屋は生前そのまま保存されていた。ベランダから四方見渡せる限りは所有のオリーブの木々で、「皇居より広いかも知れない」というと「これが東京なら大金持ちでしょうに」との答えだった。「労働力不足で膨大なオリーブの実はどうするのか」と訊くと、「いまは便利で、オリーブ油精製会社に頼めば、機械で木を揺すって実を落とし集め、持ち帰って製油し代金だけが送付されるので、昔みたいな手が掛からない」との返事で、「それならまわり全部が金のなる木ですね」というと「まあそうですね」との答えであった。上の娘と息子はパリに住んでいて、年に何回かは自分たちも往来するとのこと。先祖からの相続財産でしかもそれが一回植えれば百年以上も毎年実を結び代金が入る見渡す限りのオリーブの木々に囲まれ、公認ではないが近郊の人には認められ、まさに貴族とはこのような生活をいうのだろうと思った。
帰りの車のなかで家内と、「彼らの財産は石造の家で、家具、銀製品の食器など何世代も相続できるのに比べ、日本の家は木造で布団や箸など自分の世代も保たないのと比べると、日本は豊になったというが社会のストックという意味では比較にならない。イタリアルネッサンスの芸術もこのような生活のゆとりから生まれたのだろう」と話し合った。
貴族といえば、所長のコスタ氏は背丈も高く堂々として貫禄・威厳あるなかに思いやりもあり、名門の家柄といわれるだけのnoblesse obligeの風格を感じさせた。また、一軒先隣のロマノという人の大きな屋敷に招かれ、子どもが自転車で走り回れるほどの広さの地階の書庫にはロシア語の装飾本がぎっしりと詰まり、幾間もある2階の一間は祖母の生前のままの部屋が残されていて驚いた。しかし、コンテッサの家はその比ではなく上には上があるものだと思わされた。
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