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「消費」と「生産」に関する感情 【この頃思うこと-33-】 [この頃思うこと]

 「消費」と「生産」に関する感情 【この頃思うこと-34-】

  ボランティア活動と聞くと、年金など毎日「消費」するだけで「生産」への関与がない最近の生活に何となく申し訳なさを感じる。でも、貢献度は別として31年間は高度成長期に鉄鋼業で、その後の19年間は大学で人材育成にと同年配の人より長く50年間働いたことで勘弁願えるかとの感情もある。新聞で「資本主義社会では年率数パーセントの成長が望ましく、消費で新しい需要を喚起し雇用を生み出して経済を活性化する」などと読むと若干救われた気にもなる。しかし、赤字の高齢者対象収支のなかでのやりとりは落語の花見酒に類似のようでもあり、しかもそれが可能なほどの財がこの半世紀余りで日本に蓄積されたとは思えず懸念も残る。と言って高齢者の身では選択肢が別にあるわけでもない。財政予算は収入に匹敵する大幅な借金依存構造であり、健康に留意して医療費や介護費負担をできるだけ少なくし生活の質を高める努力をするので精一杯のようだ。
 このような「消費」への強い「負」の感情は、次世代層とはとは異なるのかも知れない。それは、私が戦前・戦中の幼時に「倹約は美徳」と頭に刷り込まれ、また戦争直後の食欠乏時代には「土地と労力を使った食料の生産」を痛感させられた時代の残滓かも知れない。 また、敗戦後11年目の製鐵会社入社時に、幹部から「日本には天然資源は皆無に近く、豊富なのは勤勉な人材だけだ。引き揚げ者で人口がひしめく狭い敗戦国で貧乏な日本は、資源を海外から輸入しその豊富な人材で付加価値を高めて輸出し、その際の利益で辛うじて生きて行く他には道はない」との講話にその通りだと感銘を受けたことも大きい。
  会社では生産にコンピュータを使用し生産効率を高める仕事だったが、日本経済の急成長期に精一杯に働く場が与えられ幸運だったし、また、大学では2年間を共に過ごした100人以上のゼミ卒業生の活躍ぶりを聞くのも楽しみだ。
 経済構造の変化に関連し、米国の大学で「1950年代の話だが、NYで放送会社の社長が中西部の大農場主の父親に親孝行したいと会社へ招待しもてなしたら、父親が『自分は永い間朝から晩まで小農場で骨身を惜しまず身体を動かしてやっといまの農場を自分のものとした。だのにお前は身体を動かすでも、人の口に入る麦の一粒でも生産するのでなく、動かすのはただ口先だけで若くしていまの自分より高レベルの生活をしている。このような社会の仕組みには納得できない』と怒って帰った」との話に続き、教授は「世の中が第一次産業からものを生産する第二次産業、その流通・情報を担う第三次産業へと変わって行く過程では価値観が急激に変化し、この例のように高齢者は付いて行きにくい」と講義を結んだ。これを50年近く前に聞いたときはこの父親の反応を他人事のように思えたが、これを書きながらいまは自分に当てはまるように感じる。格差はあるが社会一般に衣食住が充たされ、日常必要なものに何とか事欠かなくなり、次は生活に伴う消費を楽しむ段階になったと言うわけなのだろうか。なるほど、第一次産業から第二次、三次産業への移行は「物」や「情報」への付加価値が認めあられある程度納得できるが、いまの「金融操作」だけで巨万の富をえることには半世紀以上も前の米国の老農夫と同じく納得しかねる感情がある。今さらと笑われそうだが、このような人間の欲望と貨幣・消費と関連した資本主義についてもう少しは学び考えたいと思っている。


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