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私の生きた時代【この頃思うこと-77-】  [この頃思うこと]


このブログは本人の希望により、このまま見られるようにいたします。

また、ホームページも開設しましたので、そちらも今後も継続して見られるようにしますので、よろしかったらあわせてご覧下さい。

 

私の生きた時代【この頃思うこと-77-】

 

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201710月初め頃に、自宅で口述筆記したものです。ここまですらすら話して、その後は結局、書きかけのブログを仕上げることを優先にしたので、続きを聞けぬまま、途中で終わってしまいました。

本人が話していたのは、自分は面白い時代に生きた。

敗戦後の日本からアメリカに渡り、はるかに進んだ社会を見ることが出来た。その後、日本の高度成長期を経験し、今度は欧州に仕事で行って、そこの文化や社会を見ることが出来た。

一つの時代に生きながらにして、いろいろな体験が出来た。そういうことが頭をめぐっているので、最後のブログにしたいと言っていました。タイトルは、本人が構想していた内容から口述筆記した家族がにつけました。以下、書きかけですが、そのまま掲載します。

 

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宇宙が38億年前誕生に比し、人の人生のせいぜい100年は、一瞬にも過ぎない。人の管見は空間三次元と、時間の四次元で記憶される。管見は、限られた空間、直接体験できるのは、身のまわり数メーターに過ぎず、あとはTV読書で疑似体験を生かしているにすぎない。私が卒業、入社したのは、1956年で、戦争ですべてを消失し、それからの20年間で、急速な発展を遂げた年である。私の年代前後5年は、敗戦で海外に出ることはおよそ不可能だった。私は幸運にも、渡航費往復と滞在費用、授業料一切を米国政府から支給され、二年目は会社の派遣を得ることができ、1958年から60年まで2年間を、当時最盛期だった米国に留学できた。その経験で、後ほど3年間第一次第二次産業革命の盛りを過ぎた西欧に、計3年間滞在し、それを引き継いだ米国の200年あまりの第一次第二次産業革命の最盛期を過ぎ、第三次(情報)産業革命が1950年から始まった米国での揺籃期で

 

 


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住居について【この頃思うこと-76-】   [この頃思うこと]

 

私の場合日本での他に2年半以上をアメリカとイタリア、短期間ながら豪州やNZで借家をして住んだ。

 

 1958-60年は百万都市クリーブランドの大学院にいた。旧市街の大学や公園近くの、使用人用も含め十部屋以上ある大豪邸地区に、裕福な有色人種が入居し価値下落前にと郊外転居した後、学生向けに格好の貸部屋群となりそこに住んだことや、大学院の友人2人とイタリア人街の2食付き下宿もし、最後の1年は留学して来た今の家内と結婚し人種差別で苦労したがアパート住まいもした。

 

 住まいについての1950年後半に就職した我々の年代はその時々で大きく変わった。就職し結婚しても住宅難で、企業では社宅制度があったが勤続年数が不足でそれではと営業開始直後の公団住宅と思ったが、抽選で入れず借家しかなく一軒家を購入するなどは想像もできなかった。その後高度成長期には社宅も充実したが1973年の石油ショック以降は世の中が一変し、社宅制度から持ち家制度に変わり、退職金返済の借金で夢だった自分の持ち家が初めて実現した。私の場合も51歳で1976年に文字通り「終の住処(ついのすみか」を得た。しかし、早期退職で関西の大学に勤務することとなり、今度こそ終の住処と一応老後も考え駅から歩ける限度で高台の景色も楽しめる1軒にこれも退職金を抵当に何とか建て、庭や垣根など楽しんだがそれらも次第に苦なってきた。74歳で退職した後、2010年に静岡のタワービルの高層階に転居し、終の棲家(ついの住みか)として静岡市内の最寄り駅から徒歩5分という便利な立地にあるマンションを選び、今にいたる。

 

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個人の住居は時代別、同時代でも居順の別同国でも社会階層で異なる。私達1930年代前誕生者は戦争での壊滅で海外渡航が不可能だったが私は米国政府の全額支給などで5860年を米国で、その縁で1973年以降西欧も含め計6年弱海外生活を経験できその折り時空4次元の体験した管見を箇条書きで簡略紹介する。

 

 昭和38年までの日本での管見;戦後戦火で大中都市は焼け野原、極端な住宅不足 郊外の焼け残りか急造バラックの部屋ごとに数所帯住居 1950年代後半から公団住宅の賃貸が始まるも抽籤で困難 企業は社宅制度対応だが勤務年数制限で入居困難だった。

 

  米国での195860に留学のCleavelandの大学院生としての管見体験箇所:a使用人用も含め4階建て20室ほどの1大邸宅の旧雇い人用1室の間借り(旧市街一軒で外れの大学・公園に面した大豪邸街の一画(非白人の転入で克ち暴落前に郊外へ退去移転の空豪邸群)b同級生とのイタリア人街の2食付き間借りc中流家庭の一室(道路側100坪程テラス住居で裏庭200坪ほどの個人住宅新市街周辺にドーナツ型に集中)d結婚し旧市内2室アパート住まい(1軒屋の借家非白人で差別入れず)。管見場所はa低所得者:旧市内中心部の赤煉瓦アパート(黒人街)、b高所得者:裕福なユダヤ人街など c中所得者:中国人街伊人街など、低所得者:旧市街中心部の黒人 街同じ宗派でも白人と黒人で全く別。

 

 

 


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人類第三の文明渦中の「管見」【このごろ思うこと-75―】 [この頃思うこと]

*2017.10.21に書いたブログに訂正&追加したものです。

 

今年の115日に鉄鋼協会から1時間半の鉄鋼業における製鐵所生産管理システムの技術的革新に関する講演依頼を受け、その際文献にあることでなく実体験を主に講演して欲しいとの要望を受けた。11年前の引退までに書いた学術論文は実体験でその実体(Real)の検証として関連文献を参照していたので、文字通り管見を主に論じた(そこでは管見の定義を特定の場の場組織・時期に狭い範囲で潜望鏡で管見する如く)と改めて定義した程だ。しかしそれは文献やメディアによる知見ではなくなく実体験の確認の意味だった。最近考えるとその確認は文献やメディアによる仮想(Vertual)を通しての知見が無視できなくなった程強くなった事実もある。

そこで現在の我々はトフラーの言う第3の文明の渦中で管見の意味が変わっているのも気付かない程の渦中にいるのかもしれないと思い始めた。

 トフラーは人類文明の変革を、第1次文明期として採取、狩猟、漁労、牧畜から数万年もかけて農業文明へと変革して来た。それを16501975年頃のわずか400年弱の短期間に西欧で生じた第2次文明期革命を一次動力革命、第二次技術革命で実現した。そして米国で19501960年の10年間の短期間に起こり始めた第三の文明は単なる技術革命でなくコンピュータエレクトロニクス、宇宙学、海洋学、遺伝子学など技術が技術的基盤を提供する新しい文明転換期の渦中に突入した状況で、その新文明への転換は、例えば自動運転のようにコンピュータ自身が主体となりGPSも結合するなどの渦中に放り込まれ予測以上の急速転換に驚いているほどだ。

 トフラーの言う人類の新文明への移行期は19501960年、まさにコンピュータの揺籃期でその終わり頃の2年間に私は幸運にも米国留学中で日本との十年の差は仮想ではなく現実として管見でき、鉄鋼産業での応用では追い越せたが情報産業全体では今に到るも取り戻せずに居る。それに関連し第三の文明期に移った後の管見の意味も仮想(Vertualと現実の(Real体験の意味で変わりつつあると思える。私はこれまでの論文関連では第一次文明時代には人類は生まれた土地の周辺での文字通り身辺の現実的な(Realな管見のみを取り、文献で得た知識は学術論文の現実(Real性の関連補強の立場を取った。しかし第二期人類文明期の今、文献やTVで現実と見なす可能があればそれも管見とみなすと言う管見の意味の急速な変化の渦中にいるとも思われる。つまり文献やメディアは身辺で簡単に知り得る意味から実体験と見なすことも可能な事と受け入れざるを得ない状況にある。その現実性の保証がFaked情報やFaked論文の問題になっている。したがって現実性からは数年前以上に自分の体験、つまり狭義の管見にはFakedの疑いがないだけに現実(Real)体験にだけ頼るのが賢明なのだろう。ましてや自動車の自動運転のようにコンピュータとGPSが結合し自分が阻害されるほどの空間の出現などの状況が急進すると益々現実性(Realが重要で可能な限りFaked media可能性の入り込めない狭義の管見が重要となると思える。自分での経験のみ確かで安易に入手できる少なくも文献などによる知見は信じない立場を取ることが従来以上に重要だと思える。そうすればFakedな場とは無縁に居れる。しかしその時には人類文明の第三の波がそれほど加速度的に起こらないほどと思い、管見という言葉を使った。

しかし、現実はそれよりもさらに早く、管見の謙譲語とも取られる愚見ということばを使うほどで、第三の文明の革新という意味で現実に起こったと言うことを言いたいたいために、敢えて管見ではなく、愚見ということばを用いたほどだ。米国大統領がtwitterFaked Mediaといえば、たちまちそれが世界に瞬時に広まる。自分が信用している人の言うことしか信頼しないと言う、本来言うべきではない場所で言うべきではないことを言っているわけで、米国大統領自身は、それと知らずに第三の人類文明の波の渦中にあるということを認めているということになり、それほど人類の第三の波は、早く来ているということをtwitterで告白しているというわけだ。

自分が任命した官僚が言ったことがMediaに出て議論された途端に、議論されたこと自体がFaked Newsというのだから、任命した人間を全く信頼していないことになる。今までは我々がコンピュータを使っていると思っていたが、米国大統領のtwitterに反応するMediaと、一連の騒ぎを見ていると、人間がコンピュータに操作されているという風にも取れる。今まではコンピュータは人間が役立つためにあったが、ここ2年間で、その役割りは変わってしまった。今では人間が使いこなせなくなってきているということを、認めたくはないが、そうせざるを得ない。

 

 

私は体験したことだけを書いてきた。だから私はここでは、人類文明の第三の波を、小説ならば愚見と取っても良いが、現実は管見を愚見と同じ意味で用いるほどの急速な変化だったのだ。

 

第三の人類文明に入り、今は大きな転換期にあるということを主張したい。


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2017,10,21 第三の文明渦中の管見【この頃思う子ー75-】 [この頃思うこと]

第三の文明渦中の「管見」【このごろ思うこと-75―】

 今年の115日に鉄鋼協会から1時間半の鉄鋼業における製鐵所生産管理システムの技術的革新に関する講演依頼を受け、その際文献にあることでなく実体験を主に講演して欲しいとの要望を受けた。11年前の引退までに書いた学術論文は実体験でそのReal の検証として関連文献を参照していたので、文字通り管見を主に論じた(そこでは管見の定義を特定の場の場組織・時期に狭い範囲で潜望鏡で管見する如く)と改めて定義した程だ。しかしそれは文献やメディアによる知見ではなくなく実体験の確認の意味だった。最近考えるとその確認は文献やメディアによる仮想lを通しての知見が無視できなくなった程強くなった事実もある

そこで現在の我々はトフラーの言う第3の文明の渦中で管見の意味が変わっているのも気付かない程ない程の渦中にいるのかも知れないと思い始めた。

 トフラーは人類文明の変革を、第1次文明期として採取、狩猟、漁労、牧畜から数万年もかけて農業文明へと変革して来た。それを16501975年頃のわずか400年弱の短期間に西欧で生じた第2次文明期革命を一次動力革命、第二次技術革命で実現した。そして米国で19501960年の10年間の短期間に起こり始めた第三の文明は単なる技術革命でなくコンピュータエレクトロニクス、宇宙学、海洋学、遺伝子学など技術が技術的基盤を提供する新しい文明転換期の渦中に突入した状況で、その新文明への転換は、例えば自動運転のようにコンピュータ自身が主体となりGPSも結合するなどの渦中に放り込まれ予測以上の急速転換に驚き行っているほどだ。

 トフラーの言う新文明への移行期は19501950年、まさにコンピュータの揺籃期でその終わり頃の2年間に私は幸運にも米国留学中で日本との十年の差は仮想ではなく現実として管見でき、鉄鋼産業での応用では追い越せたが情報産業全体では今に到るも取り戻せずに居る。それに関連し第三の文明期に移った後の管見の意味もVertualReal体験の意味で変わりつつあると思える。私はこれまでの論文関連では第一次文明時代には人類は生まれた土地の周辺での文字通り身辺のRealな管見のみを取り、文献で得た知識は学術論文のReal性の関連補強の立場を取った。しかし第二期文明期の今、文献やTVで現実と見なす可能があればそれも管見とみなすと言う管見の意味の急速な変化の渦中にいるとも思われる。つまり文献やメディアは身辺で簡単に知り得る意味から実体験と見なすことも可能な事と受け入れざるを得ない状況にある(そのReal性の保証がFaked情報やFaked論文の問題になっている。したがってReal性からは数年前以上に自分の体験、つまり狭義の管見にはFakedの疑いがないだけにReal体験にだけ頼るのが賢明なのだろう。ましてや自動車の自動運転のようにコンピュータとGPSが結合し自分が阻害されるほどの空間の出現などの状況が急進すると益々Realが重要で可能な限りFakeVertualな可能性の入り込めない狭義の管見が重要となると思える。自分での経験のみ確かで安易に入手できる少なくも文献などによる知見は信じない立場を取ることが従来以上に重要だと思える。そうすればfakedな場とは無縁に居れる。。

 

 

 


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2017,09,19 Eurasian Plateの東端と西端【この頃思うこと-74-】  日本とアイスランドは地学上では火山帯上の島で、同じEurasian Plate の東端と西端がそれぞれ海に沈む内側にあり、後者はあまり日本では知られないが北端が北極圏に接し、北海道と四国をあわせた程の面積に人口40万弱と言う。  2006年に74歳直前で退職し体力もまだあり余暇をもてる身になったので、すぐに九州ドライブ1周した後、米国のバス周遊ツアーで8月初め2週間のアイスランド周遊に参加した。白夜の季節で朝の2時 [この頃思うこと]

2017,09,19,7Eurasian Plateの東端と西端【この頃思うこと-74-】

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 当ブログは30年ほど昔に1時間半の講義の中間に眠気覚ましとして始めた会社時代の時空を超えたはなしに始まる駄文だが300編ほど溜まった。このブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリーをクリックするとそれ毎にも読める ************************************************************************************ 

 日本とアイスランドは地学上では火山帯上の島で、同じEurasian Plate の東端と西端がそれぞれ海に沈む内側にあり、後者はあまり日本では知られないが北端が北極圏に接し、北海道と四国をあわせた程の面積に人口40万弱と言う。

 2006年に74歳直前で退職し体力もまだあり余暇をもてる身になったので、すぐに九州ドライブ1周した後、米国のバス周遊ツアーで8月初め2週間のアイスランド周遊に参加した。白夜の季節で朝の2時くらいから夜中近くまで明るかった。小型バスは首都レイキャビックを起点に時計回りで毎日8時過ぎから午後6時頃まで移動し見物をした。島民の多くが海岸近くの漁村や山寄りの放牧場、散在する観光地のホテルなどに住んでいる。昔の一時期には5割近くあった森林が伐採され(植物の生長が10倍近く遅いのに気付かず)いまは数パーセント残る程度で、至る所が茶褐色の富士山の頂上の様な溶岩むき出しの急な山や丘が連なる。そこでは多くの瀧や地獄谷を彷彿させる水蒸気の吹き上げ、池や湖水、その一つでヤブ蚊の大群に息を止め、氷河と隣接した活火山、巨大な人工の温泉プールなど、毎日適度な観光を白夜のおかげで朝8時出発し8キロ近く山や急な丘を歩かされ夕方6時近くまで楽しんだ。2週間の観光をこの短文で紹介するのは無理なのでこれで終わる。

 しかし、同国は日本と同じPlate上にありながらその両者間のあまりにも大きな違いには、短期間ながらの滞在で認識を改め驚く以外はなかった。日本は人口も圧倒的に多いし、国の7割ほどは自然豊かな森林だが、2割にも満たない平地はほとんどが舗装された道路や人工物に覆われ、そうかと思えば活火山や森林渓谷も諸所にあり、何よりも四季に恵まれ、千数百年の歴史と独特の文化がある。長年そこに住んでいて同島との比較で改めてそれらに気付かされる。

 以前【ことばの話】でも書いたがグループは英・米・豪・NZの英語圏に日・伯の6か国の夫婦と同国のドライバー兼ガイドの13人で、毎日の夕食後数時間はそれぞれの訛りのある英語で話すが皆話題も豊富でお国自慢も交え、今日は自分たちがと話を競い合っての会話は楽しめた。私達もそれに割り込むのに精一杯だったがガイドの同国に関する説明は特に興味深かった。中でも同国が純粋な同国語(ケルト語の一種)保持に国の制度として苦労し、外来の単語は英語といえども検閲があり同国の語彙に翻訳し外来語のままでは使えないとか。日本語では本来読み方は一つの表意文字の漢字を同意のヤマトことばのフリカナに遣い始めただけにいまや外来語、とくに英単語のカナ表現で日本でしか通用しない語彙語に溢れているのとは好対象だ。最近のテレビ(これもその一つだが)でその氾濫に、ふと同国のことが頭に浮かび、その連想でこの標題の駄文に発展した次第だ。


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2017,07,18 宗教について【この頃思うこと-69-】 [この頃思うこと]

下記標題の文は同日付で一旦アップしたが読者からキリスト教以外の教えを曲解しているとの指摘もあり二日後に一応は抹消した。しかし、その可能性もあるが所詮千数百字で自分の宗教観を述べるにはどう書き直しても難しいく敢えて若干の語句訂正でで連番もそのままここに再度アップする。      

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 当ブログは30年ほど昔に1時間半の講義の中間に眠気覚ましとして始めた大学時代の時空を超えたはなしに始まる駄文だが300編ほど溜まった。このブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリーをクリックするとそれ毎にも読める。

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2017,07,18 宗教について【この頃思うこと-69-】

世の中一般に宗教は縁遠くなったようだ。それは、50年程昔には短命の早婚で多くは臨終を自宅で迎えたが、いまは長寿・晩婚・親子別所帯の豊かで多忙な生活に紛れ内省の機会も少なく、宗教は「非科学的で胡散臭く、叶わぬときの神頼み的」になっているからかも知れない。一方、鬱で悩む人が多いのも事実だ。

 幼児洗礼の私は戦中も教会に在籍したが、戦後の中・高校は科学一辺倒の無宗教だった。大学の内燃機関の授業で黒板一杯「色即是空」と大書した1時間の話に驚き人生を考えた。教会門前で幾度も逡巡の末、牧師への「奇跡話は信じられない」との質問に「まず信じることで、奇跡話は次第に意味が分かってくる」との答。一大決心で堅信(自身の信仰表示)を受けた。その後50年の現役生活の間、仏教の言う四苦八苦で何度も躓き苦しい時期もあったが、後半19年はキリスト教系の大学に移り信仰を保てけた。その間に棚上げの奇跡問題はどうなったのか

日曜学校の紙芝居で習った旧約聖書の1週間の天地創造、誘惑で知恵と原罪を得る話、など宗教は人類何万年もの間少数の賢人が、迷信のみの大衆にその時代で理解可能な具体的な例え話をしてきたと思い始めた。日本では一神教に「神」と被創造の「八百万の神」の「神」と同じ文字を用いたのが混乱の源泉とは思うが、被造物の自然や先祖を尊崇するのは日本的で良い風習だと思う。仏教には日本人の常識程度の知識しかないが釈迦は死後のための現世でなく現世を大事に生き抜くことと説いたのをこの5月3日のブログで書いた。

 キリスト教にはニケア信条(信教)があり、それにはキリストの生誕と死後三日目の肉体の復活の奇跡が含まれる。現実としては十字架後に逃亡した弟子達が三日目に改心し伝道を始め、2000年経ったいまも何億人もの信者の心に生きている(精神的な復活)のは事実である。誕生の奇跡は神格性を信じる以上は信じるしかない。「死後の蘇りと来世の命」に関しては信条では「待ち望みます」と書かれている。したがって私はこの信条を全て受け入れる信者の端くれだと思っている。

 聖書の一字一句が重要と進化論も否定する原理主義者がいる一方、新約聖書の学問的研究でキリスト自体の言葉と弟子達の見解を識別研究する信者も米国には存在する。勝手な解釈だがキリスト没後の数百年でその神格化のために信者達が書き加えた(奇跡物語)が結果的には信仰を妨げているかにも思えるほどだ。信仰は個人の問題で他の宗教には寛容とは思うが、イスラム教はモハメド当時の食べ物や風習を、技術や環境が当時と大きく変わった今も絶対視する点で多くの問題を孕んでいるかに私には思える。また、死は仏陀が使命を果たし老境で、キリストが若い伝道使命の途中だった違いにも最近気付いた。これまでの西欧社会の発展に寄与した科学は、急速に進み今ではビッグバン理論でマクロな宇宙と超ミクロとの世界を統一できる多次元の新理論の研究が進行中だが未知なことが多い。

 私も現役の70歳半ばまではともかく、80歳を過ぎる頃には、与えられた身体を維持するだけで大仕事になり、自分の人生を振り返って、今まで健康に過ごせた、宇宙37億年に比べるとホンの一瞬にもならない、しかしこの長い人生で与えられ使命の一端を果たせたことも、共有された多くの人々に感謝する気持ちで、無(限)から無(限)に帰るのが必然だと思うようになっている。


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2017,09,05 アメリカ第一主義考【この頃思うこと-73-】 [この頃思うこと]

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2017,09,05 アメリカ第一主義考【この頃思うこと-73-】

 この言葉は、鉄鋼・石炭などで栄えたRUST (錆付いた)地帯 を昔の繁栄に戻すと言うトランプ氏の大統領選挙公約の人気とりアピール実現に基いている。

 米国では鉄鋼業が20世紀初頭からの寡占体制で労働者が労働貴族と自賛するほど格段の繁栄で1960頃をピークに粗鋼年産1.2億トン前後で推移、留学中59年の108日に及ぶ大規模ストで労働側の圧勝、その間の生産不足分補給に日本など海外鉄鋼の大量輸入で鉄鋼ユーザーがその良質安価を発見、米鉄鋼業界はその間も体質改善なしで65年頃まで安逸をむさぼる。70年頃気付いたときは既に遅く、突如米国鉄鋼各社はRUST地帯(シカゴから東の北米)製鐵所を廃止し雇用の労働貴族を退職金・新職場紹介もなく一方的に解雇し失業の荒波に放り出す。の時40歳だった白人がいま80歳代で懐旧の念に駆られている。

また、キング牧師の働きで人種差別論議が盛んとなり68年に牧師が暗殺されノーベル賞受賞で世論が盛り上がり、68年成立の公民権法によりある日突如に公然だった白人優先が禁句となり法的には人種差別がなくなったが、これもその頃40歳だった白人はいま80歳代でその受けた教育・環境から心情的には納得のいかない白人も結構いると思われる。それ以前の留学で実体験した60年頃、人種は「白人(最優秀)・黄色人(準白人)・黒人(知的低)」3種類の旧学説が公然で、ホテル・レストランの予約で再々RaceCaucasian Mongolian Negroの一つを選ばされた。いまにして思えば同じ部屋に黒人を入れないためだったと推測される。そう言えば米国の教会は勿論大学でもほとんど白人と準白人のみで黒人は専用のそれらがあったのには心底驚いたがすぐにそれにも慣れた。

 日本は終戦と進駐軍の占領政策で一挙に価値観が逆転、民主主義、人権尊重、平等が欧米の文化と多くの日本人が教育されて誤解していたので、留学で米国の公然人種差別に驚いた次第だ。また鉄鋼業は戦後からの米国流管理手法を懸命に学びそれを基に独自の設備と管理技術を開発し72年までに米国と同規模の粗鋼年産1.3億トンまで20倍近く急成長を遂げた。その間は労働者の給与ベースと情報技術先導は他産業に比し際立っていた。70年に入っての米国鉄鋼業の突然の閉鎖を反面教師とする日本独自の対処と努力で、地域特性も配慮し設備規模と要員の順次縮小に着手、余剰となった労働者は関連会社への(給与差額援助付き)配転、特定地域では高炉の停止など昔日王者の面影こそないが加えて6社の3社体制への合併で、何とか高品質と低コストと順当な利益をいまも堅持している。RUST地帯の再興はこれに負けぬ品質コストが必要となるがそれが可能か?

 この様に日米の当時の社会状況と鉄鋼会の踏んだ対処の違い、それに該当時期に教え込まれた白人主義のRust地帯で古き良き時代を過ごしその後貧困にあえいだ高齢の白人達にとってトランプの公約に飛びつくのは心情的に分かる気がするし、同時に頼朝の前で静御前が「しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今になすよしもがな」と舞った故事にまつまでもなく歴史上の昔に戻すことの難しさに目覚める日もそう遠くない様に思える。

 


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2917,08,26 甲子園高校野球雑感【この頃思うこと-72-】 [この頃思うこと]

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2917,08,26 甲子園高校野球雑感【この頃思うこと-72-】

 

 今年夏の甲子園野球全国大会では花咲徳栄高校の優勝で終わり、閉会式も見たがその間いろいろな雑感が浮かんだ。

 

 まずは全国の4000校弱の高校の中から地域代表を次々と勝ち抜いて甲子園でトップの座に着いた同校の実力と栄冠に拍手を、が最初の感じだ。野球は投手陣が優れ、打陣も強打で、エラーが少ないことが強い条件だろうが、そのときの自軍と対戦相手のちょっとしたことで勝敗が分かれるのも見る方にとっては野球の醍醐味だ。幸運も実力の一つとは言うが同校はその意味でも両方を兼ね備えていると思う。閉会式は若者らしいキビキビした動作、とくに状況に応じた帽子の着脱を見て、終戦後再開され、当時から引き継がれた大会の伝統を感じとった。と言うのも、最近は女性の着帽は少なくなり、男性は室内外それに食事中さえも着帽が普通に見られる風景なのでの、以前は男性の着帽は屋外に限られ、女性は正式には室内でも着帽するのが礼儀だったと感じることそれ自体が、いまは古臭く異常なのかも知れないと思えるからだ。 

 

  また、私は甲子園の西方一駅の今津小学校(国民学校と言った)4・5年の頃に毎日阪神電車で乗り換えのため甲子園球場の外観は見ていたが、球場内には、いま思えば軍事関係だったのだろうか、近寄りもできなかったような記憶がある。球場内に入ったのは20年くらい前の阪神巨人戦で応援した阪神が負けたときが最初だ。

 

 今津の小学校と言えば、3角の隅が塁の(狭いので2塁なしの)柔らかい軟式の球(コンニャク玉と言っていた)を腕と拳骨(バットの代わりに)で叩いて遊んだが、それは野球の変形だったのだろう。転校する前にいた九州では騎馬戦とか軍艦ごっことはやったがそんな野球に類する遊びは全く知らなかった。

 

 甲子園の駅では良くアメリカ兵の捕虜グループを見たが、決して興味深く見つめたりましてや指先で指すなどするべきではないと強く注意されていたのに、最近のトランプ大統領の記者連への非難めいた指差しには悲しい思いがするなども思い出してしまった。      

 私は高校時代の大車輪の練習などで指の付根にできるタコを十年以上経っても削っていたが、会社で隣席の先輩で投手をしていた人の指の先のタコを同じように削っているのを見て、削る場所は違え、お互いにそれは知らなかったと笑ったことも思い出された。

  何はともあれ、野球がこんなに全国の人を熱狂させるとは平和の有り難さも実感させられる。                 


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2017,08,21 天然素材と人工素材 【この頃思うこと-71-】 [この頃思うこと]

2017,08,21 天然素材と人工素材 【この頃思うこと-71-】

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 科学、とくに化学の進展に伴い人工素材が急増した。その理由は「資源の枯渇」:鼈甲、象牙、動物の毛など資源保護の問題。「健康」:アスベスト防火壁など。「価格競争」:化学繊維、「代用品」の海綿、歯ブラシなどなど多様だ。 代用品と言えば我々世代では「米」に替わるいも、カボチャ、薩摩芋のつる、ヨモギ、落花生の絞りかすなど悪印象しかない。鉄も天然資源の加工物で早くからアルミ、カーボン系新素材などへの代替が言われたが鉄の安価・大量生産などで当面は将来とも生き残りそうだ。

 退職して10年になるがその直後に思い出の地を長期間の旅行や住みついて見た。そのときポルトガルの有名なコルク林とその樹の皮を剥いでコルク栓の材料としているところを実際に見ることができた。それは葡萄酒の瓶詰めには欠かせないものだったが、最近は安価な輸入葡萄酒にはゴム類やネジ栓が多くコルク栓は高級酒の代名詞のようだ。

 スレート葺きの屋根も50年ほど前は高級洋館にはつきものの憧れだった。そのときのドライブ旅行でWalesの山奥に滞在中にふとSlateと言う寒村に立ち寄ると、観光用の場所で老人が面積がスレートのサイズで高さが50cmほどの石の表面を金槌でトンと叩くと適度な厚さでその表面が剥がれる。叩く度にスレート板が1枚ずつできる。厚さなどのコントロールには熟練がいるだろう。その老人の話では、英国の産業革命時の労働者の家作でスレートが大流行しそれがNew York に伝わり、そこでもSlate材として大評判。村はその生産に追われたたが、類似の石が世界中のあちこちで見付かり、その村での繁盛は終わりいまは当老人の観光用生産のみという。そのときはWEBで調べるとその村の名もあったがいま調べると何の痕跡もなく忘れ去れれている。日本はまだ瓦葺きが主流だが震災復興後では耐震性、保守も含めたコストなどから新素材に変わって行くだろう。

 ナノ繊維など強度や高加工度など鉄より遙かに優れているが、安価で大量生産技術ではしばらくは鉄に太刀打ちはできないだろうか?。しかし人工素材の潜在力はいまの我々の持つ悪い印象の代替品でなく、優れた素材として想像を遙かに絶し普及して行くことだろう。勿論それには私の仕事だった、そしていまは想像も付かないコンピュータの利用なしでは考えられない。

 


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コンピュータと私【この頃思うこと-70-'d】 [この頃思うこと]

 

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 当ブログは30年ほど昔に1時間半の講義の中間に眠気覚ましとして始めた大学時代の時空を超えたはなしに始まる駄文だが300編ほど溜まった。このブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリーをクリックするとそれ毎にも読める

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コンピュータと私【この頃思うこと-70-】

 この題でいつもの通り1400字以内にまとめようと思ったがその長さではとても無理なことと、その内容の幾つかは既にブログで紹介済みなので、少し長くなるが全部を以下のようにまとめた。目次を作っておいたので時間があるときにその部分を見ていただければ幸いです。

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   「PCS-機械計算-電子計算機-コンピュータ-パソコン」の流れ

まえがき

 私個人は縁あってコンピュータ誕生の地米国でその利用黎明期だった1950年代の終わりから、その革新を追いながらずっとその利用に携わった数少ない一人であることに、自分の国内外での経験を書いたブログのあちこちと出て来ることで認識を新にした。これらの場にいたものの責任として書き留めたものにこの際若干の手を加え一連の流れでまとめることにした。

 

目      次

1.八幡製鐵でのPCSとの出会い

2.アメリカでのPCS操作と真空管式のデジタル型電子計算機の利用

3.八幡製鐵所での1961年頃の電子計算機のオペレーション

 

 以下の文はこのブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリの 1960年代の計算機導入初期の頃 を見ていただくと出てくる。

5.計算機導入初期の頃の職場での茶目っ気

6.計算機導入初期の頃の職場での茶目っ気-続き-

7.漢字入力で思うこと【この頃思うこと-27-】

8.キーボードと英文タイプライタ【この頃思うこと-28-】

 

1 八幡製鐵でのPCSとの出会い

 機械工学を学び、就職難の時期に幸運にも八幡製鐵に入社できたのは1956年だった。同期生はそれぞれ半年間、各工場での現場作業や主要な事務業務を研修させて貰った。米国製のデータ処理機械PCS(punched Card System)の存在をこの時に知った。日本では製薬会社に続いて事務合理化の目的で1952年に導入されたという。手の平倍大のカードを百枚くらいを静電気防止にさばき、法人には高すぎる機械の背丈補足の台上でPCS上に並べ目にも留まらぬ速さでカード上の穿孔位置で英数字を読み取り計算する。当時約3万6千人いた従業員の給与や賃金を現場事務員の算盤に代わり300人弱のPCS要員で正確に計算し印刷まですると聞き驚いた記憶がある。10月の本配属で希望通り自動制御担当箇所に行けたが、事務系の友人は俗称「アイビーエム」の機械計算課に決まり彼が若い女性パンチャーが大勢いるとも言っていた。

 

2 アメリカでのPCS操作と真空管式のデジタル型電子計算機の利用

 入社3年目の1968年夏に全額米国政府支給の留学生として米国の大学院に入学した。渡航船上で日本電気からの友人がデジタル型コンピュータに行くのだと聞き、アナログ型意外にデジタル型もあると初めて知った。Case工大には、当時の日本にはまだ1台も存在しなかった巨大なドームに無数の真空管があるUNIVCⅡや、技術計算用の比較的小型のIBM650型があるのに目を見張った。早速IBM650の技術計算プログラミングを受講した。まずはPCS機器の構成で始まりそのプログラミングに当たるwiring(ボード配線)の実習で「名前で英文、生年月日で数字をカードに穿孔し読み込ませてプリントする、でき次第解散」だった。皆はJohn Smith とか短くてすぐ済むのにYoshisuke Inoueと長いスペルに「子供は短い名だ!」と恨めしく思った記憶がある。修士論文には勿論IBM650を使った数式モデルで加熱炉の最適化を求めた。その翌1961年春に日本初の大型計算機が八幡に入荷予定でそのプログラミングを学び帰国との社命で、卒業後2週間のIBM社の事務計算講習会に通った。最初の数時間は技術計算と違いバッチ処理のデータを順序よく揃えるためのsortmergeの必要性の理解に一日目は相当苦労した。簡単な給与計算の実習もあった。ランダム処理しか必要ない現在ではバッチ処理の言葉を聞くこともない。

 その他、企業での応用が始まったORを世界的な名著「Operation Research」の著者直々のの講義をとり、その自由課題で「倉庫における最適保有量」を設定し、自学した、まだ発表直後のコンピュータ使用前提のダイナミック・プロがラミングの技法を試みみた。これは「プログラミング」コースの課題も兼ねさせた。クリスマス休み前でIBM650利用は一時間ほど待ち数分の計算で終わる学生が列をなしていた。ミスがないように何回もチェックしPCSカードにパンチして読み込ませた。理屈では在庫初日の解の計算に全体の半分以上の時間を要し、その解で次の日の解が出て最後の月末分は一秒もかからない筈だった。"Cross Your Fingers"(旨く行きますように)と唱えながらデータを読み込ませた。IBM360のパネル上はランプが点滅する。10分以上経っても答えのカードがでない。列をなす学生が「ループしているぞ」と催促する。「解は幾つ出るのだ?」「30」「そんなには待てない。」「最初の解は時間がかかるが後は短くなる。」ループでないことを念じやりとりしている間に15分くらいで最初の解のカードが出た。皆あきらめ顔で20分強待ってくれた。帰国して翌年IBM7070で解いたら2分ほどで済んだのには驚いた。

 

3.八幡製鐵所での1961年頃の電子計算機のオペレーション

1.1 IBM7070の導入」

 これを書いているパソコンは、言うまでもなくリアルタイム処理で、内部メモリーも数十GBあって、インターネットに接続すれば瞬時に世界中にがつながる。これをたかだか50年昔の電子計算機と比べると、蒸気機関車と新幹線よりもっと差が大きいと思える。それで連想すると昔のバッチ時代の電算機のオペレーションは、機関車の石炭投入作業の想像以上に、いまの人には想像できないかも知れない。するとそれを記録に留めておくのも、少しは意味があるかも知れないと思いそれに関連することも含めた書くことにした。

 電子計算機が日本企業に輸入され始めたのは、アメリカでの設置に遅れること2年ほどの1961年からで、同年に八幡製鐵所で設置されたIBM7070は世界最新鋭(トランジスター使用)のバッチ処理方式で、そのために作られた当時は珍しい空調付きの大きな建物の一階を占拠する大きさだった。それは内部メモリーが10kワード(1ワード数字10桁)、10桁の加算速度が10マイクロ秒といった代物だった。パソコン時代で育った人には「バッチ処理」すらも滅多に目にしない言葉と思われるので解説すると、当時は内部メモリーが小さいため、データは高さ2m、60cm角くらいの装置の中で磁気テープがクルクルと回る外部メモリーとの間でデータをやりとりする必要があった。そのため事務用データは、まずある程度にまとめて(batch)、それをソート(指定の順序通り揃える)やマージ(複数のデータを指定の順序通りにまとめる)をおこない、それからその順序に従ってデータを磁気テープとの間でやりとりしながら(その度にテープがクルクル回る)処理する必要があった。 しかも、そのような幾つかのバッチに分けた要望項目にしたがって順序並び替えた結果を幾つかのテープ別にアウトプットした(書き込んだ)あと、それらのテープとの間でバッチ処理(一括処理)せざるを得ず、それすら驚きだったので、オンラインですぐ処理結果を出すなどとは想像を絶していた。いまの机上パソコンでは、データとそれらのソフトが内蔵されているので、画面上のクリック一つで瞬時に望みの項目順序でソート、マージできるなどとはその頃を知っている私には夢のようだ。

前置きはそれくらいにして、当時のオペレーション作業の一端を振り返ってみよう。私は資質的にプログラマーには自他共に認めるほど不向きと思うが、当時では私は数少ないプログラム実務経験者という理由で給与計算のプログラマーを命じられた。というのも当時の日本には研究用デジタル型の小型機が数台あったくらいで事務用は皆無であり、私は前年夏にアメリカ留学で修士論文に電算機を使ったとの理由でその翌春設置予定の電算機要員として事務用のプログラム研修会にも参加して帰ったからだ。

当時の給与計算は製鐵所4万人近くの給与(月給)・賃金(日給)を300名くらいがPCS(パンチカードシステムといって電算機の前身の情報処理機械)を使い毎月一ヶ月弱をかけて計算していた。給与計算は20近くのバッチ処理に分かれていて最初の「異動処理」という主幹部分を担当した。機械科卒のエンジニアとして入社した身で給与計算などと初めてのことで苦労も多かったが、同僚の大多数が20歳代の若い職場で、後で振り返ると31年間のサラリーマン生活のなかで最も茶目っ気の発揮できた楽しめた職場でもあった。

大変でもあったが、想い出は古きよきもの残るというがそれらを幾つか書き留めて見る。

  (blog  inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302341260-1 他

 

 


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80歳からの私なりの健康法【この頃思うこと-68-】 [この頃思うこと]

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80歳からの私なりの健康法【この頃思うこと-68-】

 85歳も数ヶ月を過ぎたいまは社会奉仕どころか消費一方で気がひける毎日だが、せめて健康寿命(介護保健不使用)であるのと、74歳直前まで50年間を現役で平均より10年ほど長く働いたことで許して戴きたいと思っている(勤労が善で消費は悪と言う幼時の価値観の影響か)。それなら80歳以前から始めてみようと思う人が居られれば参考の一助にでもなれば望外の喜びと、恥ずかしながら、私生活の一部を暴露することにした。

 父母も含め多くの80歳超の人に接し、その気持ちを察したつもりだったが、自分の身になって初めてそれを実感している。幸運にもこれまでは、50歳頃からの腰痛、70歳を超えて働いた運動不足が原因の糖尿病・前立腺肥大など以外は自分の身体を意識することはなかった。しかし脊椎管狭窄症の手術で平常の腰痛は解消したものの連続歩行が500mほどしかできず、また益々姿勢が悪くなり、80歳からヨガ教室に週一回通い始めた。
 ヨガでは末梢の足の指から始まり驚くほど多数(
206個くらいあるようだ)の腰・上半身など全身各部の関節を捩る。それで初めて左足の指が下方に折れ曲がり(HAMMER TOEと言うらしい)爪の代わりに下部皮膚が硬いこと、背骨が正面から見て逆S地肩に曲がり左肩が下がっていることなどに初めて気付かされた。

 教室での基礎を自分でやれるまでにひと月以上を要したが朝夕ひたすらいままでそれを実施し続けた。すると1年2か月ほど経ったら連続歩行が無制限にでき姿勢も良くなり家での朝夕20分弱のヨガが楽しみになって身体の柔軟度ももとに戻った。足の指も毎日ケアし続けたら4年経つ頃から上方に戻り爪も普通に生え揃ったのには我ながら驚いている。手の人差し指も第一関節が膨らんでいるのに気付きそのケアも始め、今はあまり目立たない程度に戻った。このブログの-65-と-58-でホメオスタシスのことを書いたが人間の身体はとても精巧にできている。
 西洋医学は薬効による対症療法で即効性はあるが完治を保証するわけではない。東洋医学は自己治癒力増進なので遅効性で治癒力改善の効果が出るまでは年単位と長期間を要しその間完治を信じて辛抱強い持続が肝要なようだ。生来怠け者の私には日常生活に組み込むことで継続につなげた。朝は新聞やテレビを見ながら、夜は眠る前の着替え時、風呂の中では足の指のケア・深呼吸数回・腹ばいに入り背を伸ばす。散歩の途中(パソコン作業の後も)で眼球を上下・左右・斜め上・下に動かし焦点を遠近に数回あわせる(これで老視・近視の眼鏡不要になった)、朝食事前に日に一度臀部を踵まで
10回は落とし立ち上がる、などなど。以前からの継続もあるが(歯のケアは昔からで、ほとんどが治療済みだが1本も欠けていない)医者による科学的文献説明によりこれらの効果を信じて単純愚直な継続が私の80歳以降の健康法になっている。天与の寿命には逆らえないだろうが個々の効果は上記のように自分でも信じがたいほどだ。早く気付いて継続していれば寿命も延び糖尿や腰痛にもならずに済んだかも知れないと思うこの頃だ。

 


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2017-06-29 カエサル ルビコン以降を読んで【この頃思うこと-67-】 [この頃思うこと]

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カエサル ルビコン以降 を読んで【この頃思うこと-66-】

   ルビコン以前の読書感を書いたら、同じ友人から「カエサルの政治家としての真価はルビコン以降により強い」とその上・中・下の3巻が送ってきた。これも決心して数日を要したが面白く読み通した。まさに友人の言の通り、類い希なる軍人の他に政治家としてのカエサルの面目躍如たるものを再認識した。

 当時のローマは元老院と市民集から選ばれる3人の執政官らによる共和制で、拡張したローマの版図にその機能が十分に果たせず、カエサルが道を開いて修身独裁官に選ばれ、志半ばで暗殺されるまでが上・中巻である。下巻はその後、遺言で指名したオクタヴィアヌスがそれを継ぐという粗筋は周知の通りである。多分に著者の塩野七生の見解にもよろうが、それ以来2000年の各国の多くの政治家と比して、カイサルの並外れた軍人としての能力に加え、政治家としての国を思い、経済的に私欲がなく(公的な支出をまかなうための膨大なる借金はしたが)、正確な情報の迅速な収集とそれに基づく明確な指示、周到な事前準備と迅速な行動力、失敗を次に活か仕方、彼に逆らった人々への寛容さ、等々は余人には見られないほど際立っていると思う。その寛大さにより凶刃に倒されるのだが。

 いまの政治を見ると、それが一国内の問題から世界的に拡大し利害が反して機能し難くなっている。それに加え、民主主義派と称する米国・EU・日本と独裁的に近い北朝鮮・中国・ロシアの政治体制・効率の違い、それにテロ国家、EUの分裂・米国の国内第一主義などより多難な状況に進みつつあり他山の石とは思えな。それにしても、前にも書いたが、当時と2000年を経た今の社会にでは違う点も多いが、それを構成している人間は、相変わらず私利私欲・競争心が強く寛容さに欠けている点は進歩どころか退歩しているいように思える。


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2017,06,25 ホメオスタシス再考【この頃思うこと-66-】 [この頃思うこと]

2017,06,25 ホメオスタシス再考【この頃思うこと-66-】

60年以上前に「機器設計では寿命想定が肝要で、寿命が来て部品だけ動いても仕方がない」と講義で教わった。家電寿命も20年くらいはあったがいまは半減し、部品の修理より新型機種へ換える方針のようだ。我が家の冷蔵庫・洗濯機・掃除器も10年で買い換えたが、その間の追加新機能と高性能化に驚いている。でも自分の身体ではそうは行かない。

201611月1日に急遽入院し医師の「膵臓癌の末期で年齢を考え手術はしないし抗がん剤も使いません」との言に、自分でも不思議なほど冷静に「分かりました」と答えていた。2年前の誕生日頃以来「折角授かった身体だから長生きは望むが死は必然」と思っていたからだろう。(http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2015-05-02)

先が長くないと思い、例年恒例の大学同級会と、それに合わせ東京で予定の高校クラス会(20人弱)、新日鐵後輩との会(十数人)への6日と7日の出席希望を強く医師に述べたら「東京で入院を一晩外泊にして、肝臓からの応急の管を替える手術は帰院後にする」と許可され家内同伴で上京し16日には無事退院できた。退院後は体力減退を感じたが家での日課を徐々に始め1週間ほどで体力はある程度戻った。そう分かると、念願はそれまで半年間準備してきた、翌2017116日の鉄鋼協会での1時間半の講演会を無事済ますことだった。するとまた欲が出て、同月26日の八幡での職場関連と佐世保での旧制中学での会合にも出たくなり、医者の同意と緊急時紹介状持参でその双方と旧友の墓参りに小値賀島までも行けた。以降12月には君津製鐵所の会も出席し、正月を迎え念願の16日の講演会も何とか役は果たせた(もう一人の講演者はその朝急遽入院され亡くなられた由)。それ以降は、家での日課の繰り返しで85歳の誕生日も迎え、疲労感は感じるが家内に食事ほかの多大な負担を掛け申し訳なく感謝しながら何とか毎日が過ごせている。

その間の所感は私のブログと、とくにホメオスタシスの本文は(*)にあり、ここでは、その本文関連部分を要約すると、人の身体は全く巧妙に自主性のある部分からなり、私の場合は膵臓部分だけはその障害で食事のエネルギー化低下を来しているが、それ以外の部分例えば「懸垂3回」「平行棒的な胸筋10回」など、体重減のせいか楽にでき「歩行の筋肉」もまだ4000歩分は充分にある。これらは毎日少し実行すれば持続するが2日もしないと退化する。つまり、患部以外は正常で自分で病気だと思い込んでサボらない限りその機能が現状程度の維持は可能と自身で実験できた。
(*)詳細は 
http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2017-03-20クリック【-59-】)

80歳で始めたヨガを自分なりにアレンジして朝晩20分ほど行うと血行が良くなり自己免疫性が向上する結果だろうが、ここまで進行しているのだから患部の完治は無理だろう。食事での摂取カロリーが減り、患部以外の他部分も自然に弱るかも知れないが、それまでは自然治癒力があるとして平静な毎日を過ごすつもりだ(病気は気の病として)。しかし毎月1回に痛み止めをもらいに行く担当の医師にはただ診るだけで治癒のしようもなく気持ちの上で負担だろうと申し訳なく思う。

 


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カエサル ルビコン以前 を読んで【この頃思うこと-65-】 [この頃思うこと]

カエサル ルビコン以前 を読んで【この頃思うこと-65-】

 友人から塩野七生著「ユリウス・カエサル ルビコン以前(上・中・下)」が送って来た。カエサル(英語読みシーザー)のことは多くの本で読んだがその圧巻は本人が書いた「ガリア戦記」だった。昔読んだので詳細は忘れたが、戦略や戦術の天才で橋や攻撃の櫓作りなど工兵・騎兵の使い方に驚いた記憶が残っている。私は本を読み始めると途中で止められなくなるので、今回も数日は躊躇したが、案の定3日間は通読以外に何もできなかった。

 その読書感は、著者の広範囲な研究に基づく博識と歴史家としての優れた洞察力・記述力よるのだろうが、その幼年・青年期のことがわかり、さらに上記のカエサルへの印象に加え今回はとくに三つの点に興味を覚えた。

一つは当然の見解ながらカエサルは戦略・戦術家は言うに及ばず、魅力ある人物で信頼される偉大な指揮官であり、しかも遠いローマでの情報交換と適切なタイミングを逸さない政治家としても天才であったという点である。二つ目はそれから2000年は経ているのだが、いまも人間性そのものはその当時からあまり変わらず、その集合社会である当時の政治的な動きはいまでも通じそうなこと。そして三つ目は、人間が使える技術に関しては過去200年ほどの間に蒸気機関・電力・原子力などのエネルギー源とその使用が進歩し、それも私が経験したこの50年ほどの間に想像もつかないほど加速度的に進歩していることである。とくに情報処理や伝達に関してはこの20年ほど前にはパソコン・インターネットの出現などで想像以上に急速な変化を遂げていることだ。

つまり、それらの諸技術の急速・大幅な進展に比べ、私達の人間性やそれに基づく政治が、2000年前とあまり変わっていないことの印象に圧倒された。私のHPにも紹介しているが、1965年の米国のカルフォルニア大学バークレイ校で受けたExecutive Program後ほど世界的に有名になる当時の最先端の行動科学をいまも通用する実例を挙げて論じた二人の若い学者によるMiddle Managementコースで採った講義録を読んでも、人間性と言う意味ではそのほとんどが、いまも、当時も、そして2000年前も、あまり変化なく通用するという事実をこの本で再認識したと言うことだ。

 最近の北朝鮮の核開発や米国大統領の環境破壊への無関心などを思い起こすと、人間が使用できる技術は加速度的に進歩しているにも拘わらず、それを使う人間の本来の性質は何千年もの間ほとんど変わっていないことを改めて痛切に感じさせられた読書だった。


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「いまをどう生きるか」を読んで [この頃思うこと]

「いまをどう生きるのか」を読んで【この頃思うこと-64-】  

 知人から誕生日にと標記の本(致知出版社)が届いた。発刊時(H20)101歳の松原泰道師(住職で66歳以降に研究書を出され102歳で亡くなった仏教者)76歳の仏教研究家で作家の五木寛之氏との80歳を超えた釈迦に関する対談だった。

 私は祖父以来3代目のイザヤベンダサンの言う日本教キリスト派的な信者かも知れないが、戦後6年間以外は、戦中と戦後の海外生活も含め英国教系の聖公会の教会に属し、早期退職後19年間勤務した大学は二つともその系列でキリスト教なしでは私の人生は考えられない。仏教は日本人としての常識ほどの知識しかなく、本書は老人同士が80歳を超え伝道途次で病没した釈迦に関する対談であることも一老人としての興味を惹いた。同時に新約聖書では老後び特化した記述が少ないのはその教えが人生を通じてのものだろうがキリストが30数歳と若く磔刑で召命されたことも感じた。

 本書で読んだ多くのうち「有無不明な死後の世のためのバラモン教徒の現世での難行苦行は無意味、生者必滅、人生は苦を背負って生きる道、四苦八苦は時間的な生老病死と、空間的な四苦、全ては移りゆくので怠らず努めよ、無常は虚無でなく成長、老いには老いの境地、生涯修行臨終定年、肉体的若さ保持には精神的な努力必要」などは心に響く。

 キリスト教徒も米国では聖書を、字句通りで進化論など論外のfundamentalistから古文書として研究する者など種々だ。私には当代の人に理解できる言葉で書かれていると思える。企業では役目柄代表者として年末年始の寺社の安全祈願参拝に際し信仰上の代役を訊かれ、寺社参拝は墓地参拝と同じく祖先へ安全を願うので一神教の神への祷りとは違い参拝すると答えた。キリスト教徒の信条ニケア信教(Nicean Creed)には信じる信条としてキリストの誕生、復活などはあるが死後に関しては「来世の命を望む」と書かれ現世を生きる宗教の点では仏陀も同じだ。但し復活はキリスト死後2000年も経ついまも事実として何億人もの信者の心と祈りの中に生きている。生者必滅で現在の科学知識では物体としての身体は死滅するが、それは無(限)から生じ無(限)に戻ると納得している。仏教の世界でも無は虚無ではなくエントロピー増加と理解できるとは知らなかった。

 私の愛唱歌は「我が行く道いつ如何になるべきかはつゆ知らねど 主は御心なし給わん 備え給う主の道を 踏みて行かんひと筋に」である。ここでは自分の人生を便宜上バラモン教のマヌ法典の「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」に分け考えてみる。私の信条はプロテスタンティズム的な「世のために働く」道を見出して励んだ「家住期」が、企業と大学の計50年あり苦も多かったが喜びと感謝であった。それに比し「学生期」は徹底的にまわりから世話を受け、とくに幼時期数年は(多くは意識外で無責任にも思いもよらなかったが)親も含め他人の援助なしでは一日も生きられなかったはずだ。「林住期」は、海外生活の実施と家住期50年の暗黙知を認識知への記述に多忙だった。

80歳を過ぎての「遊行期」のいまでは、最近まで思いもよらなかったが「食」という生きる為のエネルギー吸収に精一杯となり、肉体的にも不具合箇所を感じている。その「備えたもう道」は、可能な限りまわりに迷惑をかけずに授けられた身体能力で未だに有する高度な可能性を(衰えを加齢のせいなのか気持ちのせいだけなのか見極めが難しくなりつつあるが)最後のときまでまで大事に育むことと思ってきた。このブログも本人はその一環のつもりだが他人には迷惑をかけているのかも知れない。

  本書で「遊行期」の私の思う備えられた道が仏陀の教えにも叶っているようで嬉しく思えた。

 

 

 


 


 

 

 


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誕生日 Compleanno【この頃思うこと-63-】 [この頃思うこと]

誕生日 Compleannoこの頃思うこと-63-】

 今日は私の誕生日だ。ついでで言うのも無礼至極だがエリザベス女王とローマ市の誕生日も同じ日のようだ。英語では誕生日の人には文字通りHappy Birth dayと挨拶する。しかし、40数年前に3年近く生活したイタリアでは誕生日を迎える人には”Buon compleanno”と言っていたのをふと思い出した。英語から語源を辿るとcomplete(完結する)anniversaryanno(一年)で、「さようなら」がgood-byの意となった類の「一年の完結お目出とう」が「誕生日お目出とう」の意に転じたと思われる。念のためe-mailでイタリア人の旧友に確認したら「その通りで誕生日はその人の一年が完結し次の新たな歳の始まりを祝う日だから」だと返事が来た。ついでに私が少し囓(かじ)った言語を調べてみるとラテン語系のフランス・ポルトガル・スペイン語では同じ発想で似た表現だがドイツ語・中国語は英語・日本語と同じ発想だ。その過程で私自身も高校までは「満の歳」ではなく「数え歳」で過ごしそれにまつわることを幾つも思い出した。「数え歳」で加齢するのは全員が共通の正月元日のみで、家族揃って「新年お目出とう」の後でそれぞれが「今日で何歳になりました」と報告したものだ。したがって誕生日そのものは当人が生まれた日以外の意味はなかったはずだが、事実は、昨今の満年齢で加齢する当人を囲んでバースデーケーキとご馳走で誕生日を派手に祝うのより何倍も嬉しい「ハレ」の経験を家族一同で共有していた。と言うのも、私の幼年時代の昭和十年代後半の社会には、現今に見られる毎日が「ハレ」のような豊かさはなく、社会全体の日常が「ケ」のつましい毎日だっただけに、多くの家庭では、少なくも我が家では、その加齢には関係ない筈の家族の誰かの誕生日を祝って盆・正月・祝祭日と同じく家庭内の皆にとって「ハレ」の日となり「ぼた餅や赤飯」などのご馳走が食べられよそ行きの服装を着られる大変に嬉しい日となったのだった。私のすぐ上の兄とは4年違の全く誕生の月日が同じだったから誕生祝いは二人一緒で済まされ、一日でも違えば二日は楽しめたのにと姉・兄から恨みがましく言われ自分も残念に思ったほどだ。

 昨年までと違って、この歳にもなると「よくぞこの一年を健康に生き延びたものだ。御心に沿うのなら今日からの新しいもう一年も完結したい」というラテン語系の発想の方に実感が湧く。「これからの一年間を、衰えを感じる身体で、今さら社会貢献などは望むべくもないが社会への迷惑を可能な限り少なくし、自身の少しの努力で達成可能な程度の心身の目標を持ち続け、毎日をゆったりとした気分でその目標達成に満足し、それが可能な備えられた道ならば健康寿命を全うすべく毎日少しでも進歩させ」ながら、死も生がある以上必定と受け入れたいと思っている。このブログ書きもその一環の最初だが、当人の自己満足とひきかえに読まれされる人に迷惑をかけていることだろうが、それはcompleanno に免じてお許しを乞いたい。

 

 

 


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ピエタと父親・母親・子供【この頃思うこと-61-】 [この頃思うこと]

ピエタと父親・母親・子供【この頃思うこと-61-】

 身近な人の死はこの世にある人に悲しみを残す。祖父や弟の死は幼な過ぎて覚えていないが、小学校にあがる前に多くの話を聞かせ面倒を見てくれた祖母は、私が8歳のとき病に伏し家族中が枕元に集まって皆で「末期の水」を口に含ませ最後を看取った。82歳だったので悲しかったが諦めもついた。父母のときも悲しかったが高齢で覚悟はできていた。

 しかし私が66歳のとき30歳も若く召された長女の場合は、逆縁でもあり私達家族に大きな悲嘆を長い間残した。その死の前に、以前に居住した米国加州の学界に参加を予定していたので、傷心を少しでも癒そうと家内と二人でそれに出かけ、帰りに娘と一緒にと考えていた、そして娘も幼時を過ごした、欧州を回った。娘の死の打撃は私より家内の方が強く永続して、私が仕事に多忙なせいなのか家内に比し非情なせいなのかと思ったりするほどだった。

 その旅の帰路で立ち寄ったフランクフルトの教会入り口にピエタがあった。有名なローマのサンピエトロ寺院の、ミケランジェロによる聖母マリアが十字架から降ろされたキリストの身体を抱えている像と同じ主題の彫像で、私も聖母の悲しみに同感して立ち止まったが家内はしばらく泣き崩れていた。聖母の「抱えている死せるキリストに自分の身体の一部が死に絶えた気持ち」を見出し耐えられなかったという。確かに男性と違い女性は子供の肉体を自分のものとしている時期があり、自分の子供に対する思いが強いのかも知れない。

 娘の他界後の6年間に、所属していた大学の学生4名が亡くなり、学部長や学長として身につまされながら葬儀に参列しお悔やみを申し上げた。いずれも予期せぬ事故死だったので両親の嘆きはなおさら大きかったが、どの場合も共通して父親よりも母親の悲しみが比較にならないほど強く言葉のかけようもないほどの取り乱し方だった。このことから女性が男性より感受性が強いのではないかとも思われた。しかしそれはピエタで気付かされた、より本質的な、女性が男性と違い子供を自分の身体の分身としても感じていることによる方が大きいようにも思えた。

 一般に親と子との関係では、男親の方が淡白で理屈っぽいが女親は理屈にまして愛情に溢れていると言われ、私の場合もそうだと思う。加えて日本の男性(父親)はシャイで愛情表現が旨くない。このピエタの前で感じた性による違いで私が薄情なのかととの思いも薄められたような気もしている。これを読まれる方が男親・女親・子供の立場からどのような見解なのかを知りたい気がする。


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私の読書【この頃思うこと-61-】 [この頃思うこと]



私の読書【この頃思うこと-61-】2017,4,15

 記憶は二種類の体験で蓄積されるように思える。一つは自分が実在した時間・空間のなかで直接に五感全体を通して得られる狭義の体験で、もう一つは五感のうちのとくに視聴覚から得る狭義の疑似体験とも言うべき広義の体験だ。狭義体験では時間・空間的に限られているが広義の体験はそれらに束縛されず自由自在である。記憶ではそれらが渾然となって広義の体験となっているようだが読書に負うところが意外に大なように思われる。なお、疑似体験では最近は読書よりもTVなどによることが多くなったが、私個人にとって読書は積極的だがTVなどは受動的な気がする。

 私の読書量は少なくその期間・範囲も限られている。高校・大学・留学まではそれらの準備や学習を言い訳に殆ど読書はしなかったが、ただ大学2年の夏休40日間は朝から晩まで近くの大学図書館から世界文学全集を借りて有名な小説の多くをを片端から文字通り乱読した。それを通してその國の社会事情を想像することで世界に興味が広がった気はするがとくには何も記憶に残っていない。会社勤務期間は当時最先端のコンピュータ使用のシステムの開発に追われその関連以外の分野の本には殆ど無縁だった。

 ただ、南イタリアに駐在した3年近くは例外で、日本とは手紙も1~2週間、電話は2日かかったし、時間的にはコンサルティングが仕事で夕方以降は自由になったので持参した「三国志」や「坂の上の雲」の類の幾つかの限られた手持ちの本を何回となく読み返しいまでもそれらを見ると内容が思い浮かぶほどだ。

 54歳で早期退職して大学へ移り、工学系の修士が準備もなく経営学部に籍を置くこととなった。最初の一年は授業を週に1時間半の3コマにして貰い、同僚が大学院やその後の研究で読んだというアメリカ経営学の専門書・論文など原書も含め31年分をキャッチアップすべく朝から晩まで必死に読んだ。その間の実務経験に照らしかなりの部分は充分納得できたが、難解な箇所や重要な点はノートに書き写した。それ以降も専門書は読み続けたが、中には実務を通して個人的体験としてしか残らない暗黙知を誰にでも伝わる認識知としてこのように理論的に記述するのかと驚いたものもあり、それらは自分達がしてきた仕事の理論付けや論文まとめに極めて役立った。

 研究分野が日進月歩だっただけに74歳近くの退職後は専門を離れ海外生活で狭義の体験を楽しんだ後、いまは興味の赴くまま多分野の本を楽しんでいる。 本を読み始めると全体に何が書いてるかに興味が湧いてくる。そこで最初の一回は速読し全体を見るが、私の頭のできが悪いか訓練が不足か、その両方だろうが一回だけでは充分に理解はできない。そこで興味あるところや不明の箇所は後で何回も読み直す。「宇宙は何でできているか」などは大学で学んだ物理の続きで多くが不明ながら何回か読んでいると「そういうことか」と少しずつわかってくる。そのようにいろんな本を忘れた頃に読み返すのも醍醐味だ。歴史ものや経済関連の本も友人から紹介されると読んでは、衰えた体力の維持と並行して、社会と直接関わりのない現状で他人に迷惑をかけない疑似体験を楽しみながら記憶を少しずつ増やしている。




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日本平の向こう(東)側【この頃思うこと-60-】 [この頃思うこと]


日本平の向こう(東)側【この頃思うこと-60-】

 日本平は、静岡と清水の間の約東西6km南北4km高さ307mの、南端の東照宮近くは崖崩れもあるが、総じてなだらかな丘陵だ。戦中は小学校で日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征時に「草薙の剣」で災難を防ぎすぐ南の日本平の頂上でその絶景に見入ったと習った伝説の地で、晴天時の絶景を除けばありふれた低いただの丘陵だ。
 最近はパソコン使用が減り部屋から風景を眺めることが多い。高層南面ガラス戸の東から日本平の西側全貌と眼下の市街地に続き目を右に転じると4km先に海岸と海、それがさらに焼津の向こうまで続く。約5km先の丘陵頂上にはアンテナと日本平ホテルがえる。時折は最上階で北東の富士山、北の南アルプスの銀嶺、西の静岡市街など眺める。

 3kmほど先の丘陵は年中緑豊かな景色を提供してくれる。その麓を西方へ抜ける東名高速の小さな車を東西に目で追うのも面白い。しかしその丘陵が向こう側の伊豆半島を隠し、一帯が駿河湾内ではなく太平洋に面しているかのように錯覚させる。バスに30分ほどの日本平頂上からは、快晴だと眼下に三保の松原や清水の港、その先を駿河湾沿いに目を東へ転じると興津や沼津海岸、さらに東南に戸田や土肥そして伊豆半島が果て南の水平線まで駿河湾一帯が一望に見渡せる壮大なスケールの感嘆に値する絶景が楽しめる「はず」だ。「はず」というのは、少しの雲でも全くその絶景は分断され曇天ではただの低い丘からの眺望に過ぎなくなるからだ。夏場は月の半分以下、冬場でも三分の一ほどは雲がかかって絶景の全貌は望めず、来客の案内で瞬時でも富士山周辺に雲一つないのに遭遇したことは1回くらいだ。数年前に頂上の日本平ホテルが改築を終えその部屋一杯のガラス戸越しの景色は絶景だと聞いてはいたが、好天を見越し予約しても雲が少しでも出ると絶景は消え失せて景色は保証の限りではない。
 雲一つない好天の日にはその向こう(東)側を想像し一度はそんな日に日本平ホテルに泊まり長時間かけて瞬時でも雲のない絶景に遭遇したいとはかねがね思っていた。3月9日に珍しく雲一つなく丘陵を朝日が上り天気予報では翌日も晴天とある。多分ホテルは満室だろうと駄目元で電話をすると何と空室があった。少し贅沢だったが予約して近くを通るホテルのバスに乗り2時半に着いた。快晴なのにそれでも雲は富士山の頂上付近のみに少し漂っていた。ベッドに横たわったり椅子にゆったり座ったりで雲が消えるのを待ったが残念ながら富士山の手前の雲は位置を変えても切れることがなかった。それでも丘陵の西側とは全く異質の、部屋一面の壮大な昼夕朝の景色を二日がかりで楽しんだ。駄文では表現
できず写真でも充分には伝わらないが紹介する。
                  

                    
  富士と清水市街  駿河湾と伊豆半島    夕景

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健康寿命とホメオスタシス【この頃思うこと-59-】 [この頃思うこと]

健康寿命とホメオスタシス【この頃思うこと-59-】
 昨年11月に半月ほど入院する羽目になった。退院して驚いたことに足・腹部の筋肉・脂肪がげっそりと落ちたことだ。一瞬「加齢のせい?」と感じたがすぐに思い出した似た状況は、中学2年の時左鎖骨を斜骨折し整骨院の指導による自宅治癒で1か月ほど寝ていた後のことだった。足が棒のように細くなり歩くのに数日を要し、さらに全く固定化して動かさなかった左腕を曲げ指先と肩がつくまで毎日強制的なリハビリに1ケ月ほどを要したことだった。
 入院前まで毎日5000歩近く歩いていたので歩行回復はすぐにできたが、ヨガに加え少しずつ日課にしていた腰まわりや腹筋・背筋などの入院前の状態回復までは自信がなかった。しかし「その人の身体成長期に鍛えた筋肉は加齢しても使えばその60%は戻る」との説を読み、40歳から60歳代までに数回試みて実証済みだったので、80歳になって久しくご無沙汰していたぶら下がり器で、三浦雄一郎氏の例も思いながら。また懸垂を試みた。最初は身体が全く持ち上がらなかったが1週間ほど毎日続けたら1回、半月ほどでそれが4回までになり、平行棒の静的な胸筋・腹筋・背筋運動も退院前には何とかできるほどになっていた。そこで、加齢のしかも病後でいまさら無理かとは思ったが退院後に毎日少しずつ実行し続けたら2週間以上を要して入院前の状態までは戻ったのには我ながら驚いていた。同時に、72歳で学生に混じり半日のスキーレッスンを受けたがその時初めて使った感覚の腿の筋肉は半年たった後も痛かったのも思い出し、今回の成長期に鍛えた筋肉での感覚とは全くの違うとも思った。手の指の付け根はいまでも鉄棒の時のタコの痕跡があり刺激すると盛り上がる。頭のなかでは風化している65年も昔のことを身体の各部分はまだ確実に覚えそれに備えているようだ。
 平均寿命に加え最近は健康寿命(健康上で日常生活の制限なしで生活できる期間)が話題となっている。友人からの情報でWHOの2016年の資料で日本の平均健康寿命が74.9歳、平均寿命が83.7で共に先進7か国では1位でありその差8.8歳でも最短であると知った。平均寿命を超えてまで健康寿命でいられることに有り難みを痛感する。
 自動制御工学の究極の手本は人体のホメオスタシス(生体恒常性―体温・血圧・血糖値などー)であり旧くは新約聖書(コリント12章12節)にもあるとおり身体は多くの部分からなり、それらは。病原体への免疫力も含め各部分には独自の治癒・現状維持力が自立的に働いている。生きている限り、加齢しても若い時に比し遅くまた程度の差はあろうが、治癒・維持力は充分に残っているようだ。不調を訴えると「年齢相応で」と医者に言われることが多い。今回も歳が歳だからと入院以前までの体調復帰は諦めかけていたが、身体の各部はまだ自立的復元力が残っているはずだと実行し、それが一応は実証できた。身体は効率良くできていて使用しない部分は無駄として再生しないが、加齢するとそれが顕著にはなるものの現存しているのは間違いない。
 確かに85歳も近くなると加齢は加速度的に進んでいるようだし、いつまで続くかは分からぬが、無意識で働いている各部分での免疫力・現状維努力に報いるためにも身体が許す間は意識して昔鍛えた体力の何分の一かの維持には努めようと思っている。その気力が健康寿命を保つには重要なのかも知れない。
 

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「苔(こけ)」について【この頃思うこと-58-】 [この頃思うこと]



苔(こけ)」について【この頃思うこと-58-】

 知人から自宅を売却するのでとその立ち会いを依頼され、その席上で売却先の人が「苔」の研究者であることを知った。日頃興味を持ちながら苔について何を質問するかその糸口すら見つからぬほどの無知さに気付き、分かり易い入門書の紹介を受けるのがやっとだった。
 早速その書物をWEBで調べると購入するには結構な値段と大きさなので図書館で借りようと探すと遠方まで借りに行く必要があることが分かった。常識的なことを知りたいだけなので近くの本屋で秋山弘之著「苔のはなし」と言う中公新書を見つけ早速読んだ。
 米・伊・豪・NZ・東南亜など一か月以上滞在した経験からすれば、日本の天候は総じて湿気が多く、その文化も異常なほど苔と深い関わりがあるように感じてはいたが、苔については殆ど無知に近くその本から多くが学べた。企業勤務の社宅住まいの頃はその機会もなかったが、大学へ移り一軒家で小さな庭を持って苔をそのあちこちで見かけるようになった。近くでよく観察すると、「もし自分がそれなりに小さくその中に入れるならば、大きな杉の様な苔が林立したなかからそれらを見上げているのだろう」と想像をたくましくしたりしていたことを思い出した。
 しかし、その本によると苔の種類は未発見も含めてとてつもなく多く、その恐るべき環境適応能力で地球上に極寒の地から深海まで、また短命なものから長命なものまで存在すること、根もなく胞子で増えること、茎に見える維管束には水や栄養を運ぶ管がないこと、など我々が日常接する大きな植物に持つ常識とは異なる次元のことを知った。「苔」は水分がなければ生存できないが、全くの乾燥環境におかれてもそれに少しでも水分を与えると復活することなどその生命力に驚くことも多く、いままでの無関心さを恥ずかしくさえ思った。

 日本以外で長期間住んだ南伊は降雨が年に数えるほどの乾燥地帯で苔とは無縁に近かったし、米国では気持ちの余裕もなく苔には思い及ばなかったが、何度も訪問した英・独・北欧など西欧にも森林の中には確かに苔はあったような気がする。インドネシアでは1か月近く密林と隣り合わせで住んでいたのだから当然見たであろうが暑さと生活環境の違いから全く思いも付かなかった。その点日本は湿気が多く四季がはっきりしていて、梅雨時には少し日陰に行くと多種な苔が自然に目に付く。苔寺など有名な場所もあるし国歌の歌詞にも見え、苔に関する気持ちが諸外国とは違い特別のものがあるようにも思えてはいた。この本でも「苔と日本人」に関する6ページ強の記述があり「詫び・寂び」文化、とくに和歌や日本の古典での扱いなど日本人としての「苔」との関わりの深さを改めて知り、この歳になって、私的な感情だけでなく「苔」が日本文化と深く長い間の関わりがあったことと、その一部分にでも気付かされたことをありがたく思えた。




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「炭水化物が人類を滅ぼす」とシステム思考【この頃思うこと-57-】 [この頃思うこと]

「炭水化物が人類を滅ぼす」とシステム志向【この頃思うこと-57-】

 50数年前になるが、留学時の米国で草創期だったシステム制御工学を研究していた頃、当時の体験から「米食」と「肉食」の違いとして類似の蒸気ボイラーの燃焼工学と対比し
http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12に記述したように、人間のエネルギー生成消費と工学的燃焼理論との関係には興味を持っていた。加えてこの10数年間は糖質制限をしたので、その賛否両論の書物はかなり読んだ。それらは当然ながら栄養学的であり納得する面もあるがその多くは両論とも各個性を持つ人体を複雑な総合システムとしてではなく、医学面から見たエネルギー生成・消費の基礎計算面を中心に論じてと思える。そして現状のところは可とする少数論者が、優勢な否意見の多い学界や専門医を啓蒙する立場のようにも映る。

 その可否は別にして、それら書籍のなかでも標記の夏井暁著光文社新書の内容は、「システム思考」(20世紀に入りニュートン・デカルト以来の専門化・細分化へと一方的に加速化するのに警鐘を鳴らし、同時に事象を広く全体的に捕らえる必要性を主張する思考法)のことばこそ皆無だが、その思考の産物として圧巻と言えよう。専門化・細分化は、理工学・社会学など社会全般に及ぶが、医学でも顕著で、最近までの病院では「内科」「外科」などの大区分でよかったが現在はそれが「消化器内科」「呼吸器内科」など細分化専門化されている。そのこと自体は望ましとしても、同時にその諸器官が部分をなしている当該個人の人体全体も重要だと説くシステム思考はとくに医学に於いては益々重要性を増すと思われる。近くの病院にも2年ほど前から緩和科ができ患者の問題を良く話し合い対応するようになったと言うだがその思考に基づくものだろう。

 通常、この種の書物では、ある「仮説」を立てその論証に広範囲な事象研究や文献調査を試みるのが常だが、本書ではその「あとがき」に記述通り、敢えてリスキーを承知の上で次々と新しい仮説を考えて発表する立場をとっている。本書の初めの80頁ほどは糖質制限に関する実証例などだが、Ⅴ章以降残り300余頁は、外科専門医の著者が、時空を超えた専門外の「太古からの気象や地殻の大変動、それに伴う地球環境変化生命の起源と動植物の壊滅・生き残り、動植物の進化、文化の変貌と農耕の誕生、人類の食と歴史、果ては資源問題まで」と25冊の各分野にわたる文献を読破し、そのそれぞれに「可」する自説を支援する事実を見つけながらその全体をまた一つの仮説援護に仕立てたのが興味をそそる。その多くの個々の部分、例えば同じ草食でも牛と馬では消化消化器の構造とそれに寄生する細菌が異なる等々は、読者が長期間かけて断片的にテレビや書籍で知見可能だが、それらを共通のテーマに一気に読める様にまとめているのは見事だ。その中には初めての個々の知見も多々見られる。私にとって動物の血糖濃度がその筋肉の使用方法で異なり鳥類は200代後半から300mg/dlで肉・草・雑食の動物のそれは100代、亀トカゲなど10代とかなどはその一例だ。

 ただ宗教と食物に関するテーマがないのは残念だが、それを除くと言及は広範囲に亘っており短時間で広範囲の知識が再整理できた満足感はある。論の可否に関わらずこだわらず多くの分野に興味は持つ方にはまず一読に値すると思った。
 

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富士山と駿河湾【この頃思うこと-56-】 [この頃思うこと]

富士山と駿河湾【-この頃思うこと-56-】

 高所にある家の南向きガラス戸東側3/1ほどは日本平の丘陵で伊豆半島は全く隠れ、南西側の2/3は靜岡の街並みとその5kmほど先に海が広がりそれが西方の焼津やその先まで続いていて駿河湾内にいるとは思えない。しかし東へ20キロも行くと清水や興津の海岸から北東の富士山と西へ伊豆の山々の連なる海岸が見え駿河湾にいるこが実感できる。

 先日東京の娘夫妻の誘いで、快晴だし清水港から土肥(トイ)までフェリーで渡った。清水湊と聞けば私の年代は「お茶の香りと清水次郎長」を連想するが、それが東海地方とは思っていたものの靜岡に隣接しているとは知らなかった。新幹線が通る前に勤務先の北九州と東京本社間の出張で何十回となく夜間に寝台車で東海道線の同駅を素通りしていた筈だが真夜中だし気付かなかったのだ。また幼時を過ごした佐世保で見た銭湯一面の壁画で馴染みだった三保の松原越えにそびえる壮大な富士山の実物が清水港への入り口の小さな半島の外側にあるのを知ったのもこの20年ほど前だ。

 ここでの生活は7年目を迎えるが、富士山は毎日2~3キロの散歩道の2箇所で見られる。とは言え、5月を過ぎ夏場には雲と湿気に遮られ見えない日が多いが、見えても冠雪がなく普通の高い山の感じだ。しかし10月も半ばを過ぎての冬場には青空にくっきりとその姿を現し「語り継ぎ言い継ぎ行かん富士の高嶺は」と昔の人が詠った通り霊峰の感じさえする。 このような馴染みの富士だが、清水港を発って船上から眺めた霊峰は方向により刻々と表情を変え1時間もの間見飽きることがなかった。

 また、船から見る伊豆半島西岸は海外線まで山が迫り断崖になっている。沼津から戸田(ヘタ)・土肥・堂ヶ島と平地は少なく車は殆どが海岸でなく山のなかや嶺を通っている。温泉もあり観光地としては勿体ない気がする。半島の東海岸も山が迫っているが東京に近いせいか車は海岸線沿いの温泉地熱海・網代・伊東・下田を通り観光地として賑わっている。我々は土肥について山のなかが殆どだったが北上し戸田(ヘタ)へ向かった。今回初めて戸田港の入り口の堤防まで行ったが駿河湾を望んでの富士も良かった。
 途中で撮った素人写真だが駄文での描写よりはイメージが湧くと思い載せる。なお戸田海岸からの写真で左端の黒い雲は翌日の朝刊によると富士川近くの製紙工場の火事だった。
  

  清水港からの富士        駿河湾からの富士        戸田海岸からの富士清水港からの富士  戸田からの富士 駿河湾の富士 

 

 


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製鐵業とコンピュータ・システム【この頃思うこと-55-】 [この頃思うこと]

2017年以降は http://www.yoshinsukie.com/ のブログ欄にも掲載する。2016年の分まではこのブログで見てください。新しいホームページでも随筆欄でそのカテゴリー別にまとめつつあります。  

製鉄業とコンピュータ・システム【この頃思うこと-55-】
   一昨年(2015)末頃、日本鉄鋼協会「歴史を変える転換技術研究フォーラム」運営委員の方から「従来話題にした転換期は技術面でそれに管理面も加えたい」との話があった。私より適切な人が居られる筈と答えたが昨年初夏に再度打診された。理由は私の、ブログ表題分野での留学や海外協力など当該分野の揺籃期からの関わりと聞いた。戦後10年前後は渡航が困難で、米国政府全額支給で留学しその後も欧米に出張調査できたことは同時代者では数少なく、社内での計算機の新利用に取り組んだ経験は別として、その海外体験の報告義務はあるようにも感じた。そこで私はごくその一部をシステム面から経験したに過ぎない一歯車の前提でお引き受けした。

   社史・所史・参考資料と私の著作などの再調査に数ヶ月を要し、講演を1時間半に納めるのに呻吟した。結局PowerPoint 30画面の電気紙芝居で、主題は「日本鉄鋼業における製鐵所管理システムの転換期(1965~1970年頃)」、副題を「新日鐵・八幡製鐵での一管見」とした。主論点を「世界初のオンライン生産管理がなぜ鉄鋼の先進国の欧米でなく日本の八幡製鐵君津製鐵所だったか」に絞り、孟子の「天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず」の観点で纏めた。

   講演の要点を記すと、「天の時」では鉄鋼業の最盛期は欧州では1800年代、米国では1900年代前半は鉄鋼が産業の王者で、1965年を最盛期に1980年代には衰退期に向かう。それに比し日本は1960年頃から経済急成長期に突入しその後20年間で鉄鋼の生産が5倍の1.1億トンに急成長、各社が新鋭臨海製鐵所を林立させる幸運の時期だった。またまさにその時期に鉄鋼製造工程上の技術革新(転炉・連続鋳造・プロセスコンピュータによる制御)に遭遇し各社が競ってその新製鐵所で導入取り組んだ幸運もある。加えて1962年の大不況で臨海製鐵所建設時期の2年ほどの遅れさえも、バッチ処理のみだった計算機でオンライン可能なIBM360の発表が1964年と君津の製鐵所建設時期(1967-68年)にちょうど時期が重なったと言う幸運に恵まれた。まさに日本はこのように日本の「天の時」は“幸運の重なりだった”と言えよう。

  「地の利」でも、欧米では製鐵所は原料の関係で内陸立地だが、日本では臨海製鐵所を消費地近くに埋立造成し大型輸送船で高品質・低価格で入手できたこれも極めて有利だった。

   加えて「人の和」では、数年間の海外での技術協力でその差が実感できたことだが、当時の欧米に比し日本は、終身雇用 転勤の可能性 臨海製鐵所の林立で新規管理職場とポストの増大とそれに必要な人材供給のための超大規模社内教育実施 急成長に起因する若年3交代勤務者の採用難(無人化の必要制) 大部屋制による容易な情報交流 事務・技術・現場との密着性 事務用とプロセス用コンピュータ技術の交流 等々、国内勤務のみでは当然として気付けない強い人の和があった。それに、何よりも皆が若かった。
 
君津製鐵所がトップバッターだったことは、国内各社とも実力的にはその前後で実現可能だったかも知れないが、世界初のオンラインが不成功なら何千億の設備投資が十分機能できない大きなリスクに踏み切ったトップの大英断とそれに応え必死で製造各設備とその生産管理システム稼動を期限内に何とか実現した多くの従業員の努力の結晶と言えよう。

 私の鉄鋼業での31年間大学でのその経営学的観点からの研究19年間の総まとめでもあった。


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「小値賀島と紫電改」【この頃思うこと-54-】 [この頃思うこと]

新しく http://www.yoshinsukie.com/ を開設し論文・随筆・ブログなどを統合しようとしているので、ブログはこれでも続けますが、そちらも見てください。



「小値賀島と紫電改」【この頃思うこと-54-】


 昨年(2016)11月初め、予期せず半月入院する羽目となったが、例年の佐世保の高校・早稲田大学の同級会と会社での同僚との会は東京で、数年ぶりの旧制中学同級会は生まれ故郷佐世保でと、医者は心配気味だったが何とか予定通り楽しめた。その後、半年前より依頼を受けて今年1月16日予定だった鉄鋼協会の新日鐵と八幡製鐵での仕事に関する1時間半の講演の準備に追われたが、それも無事終え一息ついてこのブログを書いている。

 佐世保では、84歳ともなると出席者は減って10名だったが、その一人梶野英州君にくっついてフェリーで2時間半の五島北端ながら五島には属しない小値賀島へ行ってきた。同島からは旧制佐世保中学に7名が下宿して学んだが梶野君以外6名は亡くなっている。同島訪問は、梶野君の従兄弟でもあり私の部屋で中高と5年を過ごし兄弟同様に育ち23歳で早世した鴛淵守雄君との思いでの地再訪と墓参りが目的だった。当時のことは本ブログでもアワビ採りのことなど書いたが、戦後すぐの食糧難の折には漁業や農作で人口も7千人あまりあった町が、いまは老齢化が進み4千人弱となり時代の推移を感じた。

 表題の「紫電改」とは何?と思う人がいまは殆どだろう。爆弾・焼夷弾・機銃掃射で死ぬ目にあった戦中の事はあまり思い出したくないが、当時は陸軍の「隼」とともに海軍の「紫電改」が優れた戦闘機だった。今回、梶野君から直木賞作家豊田穣著の「蒼空の器」の贈呈を受けた。その中の339頁に町役場にいた梶野君が案内したとあるが、小説の主人公で梶野君と守雄君の叔父である鴛淵孝少佐の名も同じ鴛淵家の墓碑に見られた。

 帰路二つの理由からその本を夢中で読んだ。一つは、紫電改にまつわることで、主人公の鴛淵少佐は海軍兵学校出身の名パイロットだったが終戦直前に紫電改で戦死されたこと、その愛機は紫電改の翼の桁削り工場長だった父の井上新の工場で作られていただろうこと、それに鴛淵少佐が使用した航空地図は父の弟で数少ない生き残り将官だった秋吉利雄が関わっていたこと、という三つの偶然に読んでいて気付かされたからだ。

 もう一つの理由は、私はかっての軍港佐世保で育ち叔父の影響もあって海兵には終戦までずっと憧れていた。この本にはその海兵での教育と生活とが一体として詳しく紹介されていて私がもう何歳か早く生まれていたらこのような生活だったろうと思ったからだ。そう言う生活にも魅力は感じるが、戦争中のことを思うと矢張りその後ずっと平和な時代を過ごせたことは何にも代えがたい有り難かった思いがする。


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Epock-makingで思うこと【この頃思うこと-53-】 [この頃思うこと]

Epock-makingで思うこと(改訂版)【この頃思うこと-53-】

 ふっとEpock-making incident(出来事)とかachievement(達成)の語が浮かんだ。その前後で世の中の常識が一変する事象だ。偶発だが必ず社会的な背景があり、その変化の実現には遅速がある。科学技術史はその好例に溢れている。力学で有名なニュートンが造幣局長官で錬金術に興味を持つユダヤ教の研究者だったと言う。また二千年前には少数のローマ貴族家庭で最低十数人の奴隷の労力で成立した生活レベルを、現在では遙かに超える豊かさをどの家庭も電力(洗濯機・掃除機・冷蔵庫などの電化製品で)使用で享受しているが、その電力を作る電磁波は、ファラデイ(1791-1867が製本職人として貴族学者の論文を装飾製本し進呈して幸運を掴んだ後、電気を流す電線を丸く囲む電磁波を発見し、その原理応用で発電機や電動機が発明されて世の中を一変させた。その揺るぎない信念は彼の属したキリスト教サンデマン派の円環に不思議な力が宿るとする信仰だった言う。発電機以前に電流?と調べると、少し前にVolta 伯爵(1745-1827)が二種類の金属板間での蛙の足の痙攣で電気の存在を知りその原理で化学電池をすでに発明していた、等々話題には事欠かない。
 Epock-makingの語は、昔経験した鉄鋼生産オンライン操業を再考中に浮かんだ。米国で誕生後20年余りの超高額で便利なIBM社の商用コンピュータが技術的にオンライン使用可能となり、先進の欧米でなく日本の新設君津製鉄所でS43年に初めてそれなしでは生産管理が不可能な操業を開始した。コンピュータ関係の記述に隠れ、それを使用して高度で安定した操業・整備現場に於いて重要な役割りを果たした人達の苦労は忘れられがちだ.

 信じがたいが、S30年頃では、八幡製鉄所約3.3万人の現場従業員の7割ほどの学歴が高等小学校卒(6~8)だったと推定される。(昭和38年以降全員新制高校卒以上採用)S40年代の経済急成長期にはその年齢層を中核に電子管使用など高度技術使用の最新鋭巨大設備群を操業・整備することになるがその間はわずか十年余りしかなかった。そのため八幡製鉄所ではS36年時点の2万名の在籍教育対象者の他、S39年までに採用した1.9万人も含め計4万人にも及ぶ対象者に独自の社内教育一大プロジェクトを展開して全員を新制高卒並の学力まで育て上げ、うち7千人超をS69年までに君津や他新製鉄所に基幹要員として転勤できた。S34年頃は、当時の週間48時間で3交代勤務の労働の帰途に週3日3時間3か月の座学を受講した。労使研究者が「経営側の過酷な搾取」と断じたのはもっともの面があるが、受講者の多くは極めて辛くはあった学べたことを喜んでいたと言う。その苦労の成果で高度成長を乗り切れて現在があるのも事実で、従業員の90%超の高出席率や家族ぐるみ(ローマ字を初めて見てYは両手を挙げた形と子供に習うなど)と職場ぐるみの熱心な応援とで達成した受講者本人や家族の強い心意気に頭が下がる思いがし、その多くが幽明境を異にされたいまその方々のご冥福を祈る。




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体操競技をテレビで視て【この頃思うこと-52-】 [この頃思うこと]


体操競技をテレビで視て【この頃思うこと-52-】

 オリンピック体操団体での日本優勝の一部始終を手に汗握り観戦し、試合後の「一番心臓に悪く幸せな日」との白井選手の感想に「演技の場と技内容」では月とスッポンの差で比較にもならないが、52年昔の高校2年時の国体予選試合出場での感覚と興奮が蘇った。

 戦後5年目の物資欠乏時代で、鉄棒・平行棒・飛箱(跳馬)下のマットも薄く、床運動は講堂の木張りの上で、吊り輪とあん馬はなく4種目だった。このブログのカテゴリー「中高生の頃」で述べたが、その春までは私は懸垂1回もできなかった。しかし鉄棒にのめり込み3か月後の夏休過ぎには逆車輪・正車輪が回れて体操部から国体予選の練習をするように誘われた。当時の技難易度は規定種目が正逆車輪の持ち変え反転降り程度と極めて低かった。大学受験の身体鍛えで始めたのに急遽放課後は未経験の平行棒、跳馬、床体操の練習となり受験勉強は帰宅夕食一眠り後の深夜にとなって挙げ句は浪人の羽目になった。しかし身体成長期と重なり痩せぽっちが奴凧の渾名ほどの逆三角体型となり県予選に出場した。各競技の前は自然に技の一連の動きを心の中に復習していた。テレビで見る選手の競技前の真剣な表情とかすかな身振り手振りにこの実感も掘り起こされ、自分の中では彼らと一緒に気持ちでは手足身体を動かしていた。しかし1回の空中前後回転しか実体験がない私には、空中で何回転も捻っての着地には実感が伴わないない。それは幼時からトランポリンなどで空中の位置関係把握を瞬時に把握する訓練の成果で得るのだろう。

 また競技順番では試合前の駆け引きも思いだした。最初の鉄棒競技前で心理的に他校を圧しようと自校エースに試技させたが、見事な車輪に続く反転宙返りの直前に掌保護の革紐が切れ空中に高く舞い上がり落下した。体操では失敗時の落下では瞬時に体位を判断し身を処すのだが、彼は空中で失神し無意識の間に肉の塊の如くドシャッと音をたてて床上に落下した。声を掛けても返事がなく慌ててバケツの水をかけたら気付いた。幸い怪我はなかったが彼は欠場でチームは惨敗だった。彼は当時入手困難な掌保護のなめし鹿革に自分で紐を縫い付け着用していたのだった。また、いま平行棒で二の腕を保護しているテープ覆いも当時はなく、じかに当たる腕内側の薄い皮がバー上を滑るときに剥け、皮膚修復までの数日ヒリヒリと痛かった感触をいまでも思い出す。

 大学では国体県大会で優勝した選手よりも遙かに上手な体操部員が何人も練習しているのを見て入部はせず体育の単位で体操を選んだ。そこで初めて吊り輪に遭遇し、ぶら下がるだけで身体が前後左右に揺れその静止にタイミングと筋力が必要なのを体感した。鉄棒とか平行棒とか固定した器具なら当時数秒間は身体を任意の位置に留める筋力はあったが、前後左右と自由に動く吊り輪では揺れを静止するだけでも特別の筋肉とそれを維持し動かすタイミングが必要なことを体験した。吊り輪では蹴上がりまではできたが、より高度な十字懸垂などは至難の業で加えて高得点の揺れなく静止するのはさらに難しい。

 幼時から訓練したスペシャリストとしての高度な技の連続には感嘆のほかないが、私のように高2までは懸垂一回できなかった者が器械体操で身体を鍛え、いまも懸垂や胸筋など当時の何分の一かの筋肉を保持して健康に過ごしている者から見ると体操を趣味程度で楽しむ人が減っているのではないかと若干の危惧も覚える。




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西暦115年の古代ローマ人の生活といまの生活 【この頃思うこと-51-】 [この頃思うこと]

西暦115年の古代ローマ人の生活といまの生活 【この頃思うこと-51-】
 毎日の生活は十年一日のように感じるが幼児期と比べると信じられない程変化している。一世代内でもそうだから先祖を辿り仮に100年で4世代8人、1万年で800人、人類の誕生から10万年で8000人のご先祖様の生活を考えて見たくもなる。日本の2000年昔は縄文時代で記録はないが最近の集落跡の遺跡発掘でイメージが浮かび始めた。
 その頃のローマ帝国での生活様式は記録が多く、また西暦79年の噴火で埋没したポンペイ遺跡の発掘などで当時の生活をかなり想像できる。直近のポンペイ訪問後友人からAlbert Angela著「古代ローマ人の24時間」2010年刊を紹介され読んだのを再読した。著者はイタリアで著名なテレビキャスター且つ科学ライターで、科学的調査結果に基づきローマ絶頂期時代の西暦115年のローマ人生活の一日を、時刻・社会の各階階層場所ごとにテレビの映像のように描いた、興味が尽きない図書館で借りてでも一読に値する425頁の本だ。
 その関連部分のみを要約すると、当時のローマ帝国の人口は数百万人、ローマ市内は100~150万人で、一部裕福な人は5~10人ほどの奴隷を有しドムスと称するポンペイで見るような一戸建ての家に住んだが、大多数はインスラと言う道路で四辺を囲まれた一画に、外壁が煉瓦の、驚くことに6~7階もある、木造高層集合住宅に住んでいた。残存の土地台帳ではドムスはわずか1797戸でインスラは4万6602棟だったとある。インスラには家主がいてプロの管理人に2階から上を5年契約で貸しその代償として1階の賃料だけを求める。1階は商店が多く2階はテラス付きの裕福な住まいで、3階以上は又貸しの連鎖で階の上ほどほど狭く非衛生で貧乏人が住んだ。何故ならエレベータは勿論、水道・トイレ・キチンがなく上層ほど構造上と火事などの危険を伴うからで、飲み水は持参で、トイレは溲瓶(しびん)に溜め翌朝持ち下りた。したがって又貸しの連鎖である3階以上はただ寝るだけの場所で当時のローマ人は、ドムスやインスラの2階の住人を除き、巨大なキャンプ場での生活だったと言える。つまり家は寝るだけのテントで食事・トイレ・入浴は全てが家の外の公共施設を利用したので昼間の道路は大変な人混みだったそうだ。労働は日照時間の6時間くらいで平均寿命は男41歳、女は29歳で出産時の高死亡率で短かった。
 非人道的な奴隷の労役が当時は合法的で、それが裕福な家だけでなくインスラも含め給水や物運搬など当時の社会構造には不可欠に組み込まれていた。その奴隷には寝る場所すら廊下の一隅と言った家畜にも似た悲惨なものだった。いまではその奴隷が果たした労役を電力器機に、洗濯→洗濯機、調理→電子レンジ、給水→水道、溲瓶運び→水洗トイレ、掃除→掃除機、湯沸し→給湯器、理容→シェイバー・ヘアドライヤー、3階以上の運び上げ→エレベーター、などと言った具合に代替している。つまりいまの我々の生活は、当時の奴隷使用と言う非人間的な部分を、一部の裕福な家のみでなく全ての家で「電気」動力の一種のロボットが担うことで当時より遙かに便利な生活ができる訳で、まさに本ブログに先月書いた「電気」さま、さまだ。
  しかし、人間のより楽な生活への欲望はいまも2000年前と変わっていないようだ

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電気について思うこと【この頃思うこと-50-】 [この頃思うこと]


電気について思うこと【この頃思うこと-50-】

 電気はいまや日常生活で空気と同じようにそれなしでは過ごせない存在だ。しかしその電気も、子供の頃には夜に点る電灯と、(当時は壁コンセントなどなく)天井からぶら下がった電灯の二股ソケットとコードでつないだラジオを聞くに過ぎなかった。戦時中ラジオは重要な情報源だったが、電灯は灯火管制でその直下以外は照らせず、戦後には電力不足の蝋燭送電で暗かった。戦後数年で、電気が手軽な熱源になるのをニクロム線使用の手作りパン焼き器で、動力になるのを模型電車作りで実感した。電気が生活の一部となるのは1956年頃に始まる経済高度成長期に「三種の神器」として白黒テレビ洗濯機・冷蔵庫が普及した以降だ。
 その見えない難解な電気の理屈を調べ多少は理解できた感じだが、これ以降の一段落はその私なりの抄訳で所詮は資料の半可な受け売りの一部なので、考え込まず流し読みのしていただきたい。まず「電気」は「電荷の移動や相互作用により生じる様々な物理現象の総称」であり、その「電荷」は「原子内の原子核にある素粒子の持つ性質の一つ」で、「素粒子」は陽子と電子からなるクオークと名付けられる文字通りそれ以上分割できない最終・最小の粒子であり波の性質を併せ持つ」とある。「クオーク」は素粒子研究の「標準モデル」では「レプトン」と共に物質を構成する「フェルミ粒子」(12種類)に位置づけられ、それと別に素粒子間の相互作用を媒介する「ボース粒子」(
光、ボソン、グルーオンと未発見の重力伝達の可能性を持つと考えられるグラビトンも?)もあると言う。
 調べる過程での内容はさておき、研究最先端で扱う範囲の長さ単位が、極小分野では電荷を議論する10-35 mから他方極大の宇宙研究分野の 1027 mまでの想像を絶する超広範囲さは一驚に値する。しかも世界中の物理学者がその2分野の同一数式で同時に説明可能な理論構築に取り組んでいると言う。文中での(10-35)mは日常見慣れぬ表記だがこれは1m1035回割った単位で、1027)mは1027回掛けた単位のメートルを意味する。これらは我々の日常生活で使う長さの単位の1mm~1kmのこの表記法である(10-3)m~(10)
と比べればそれ等が文字通り桁違いに広範囲であることが実感できよう。
 また、この宇宙は、正体不明で宇宙全体の原子の5倍と言う未知の暗黒物質を除き、全てが素粒子で構成され、素粒子はその名の如く粒子であるが同時に波でもあると言うので、見えないながらも想像できる波長でイメージしてみる。それを短い方からnmすなわち(10-9)メートル単位で表すと、ガンマ線(0.01より小) X(0.110紫外線(10~380)可視光線(380760)赤外線(7601x10)超短波が(1x101x1010)長波(1x1011x1013
)で、波長が短いほどエネルギが大きく有害であると言う。
 人の身体の細胞は種々の分子からなりそれ等は全て原子の結合で、原子は上述の電荷の性質を持っている原子核をなすクオークから構成され、我々はその細胞どうしを刺激する神経の微小な電荷の移動(電流)の働きで生きていると言う理屈になる。
 これらを知る以前には、電気は自分とは縁遠く感じられたが、冒頭の「空気と同じ」どころでなく、自分の身体そのものが電荷の性質を持つ素粒子からなり、この文が書けるのも素粒子のフェルミ粒子やボース粒子などの働きで脳中と腕や指の中を電荷が移動する賜物なのだと思い知らされている。
 (本文の性格上個々の出典参照は省くが村山斉「宇宙は何で出来ているか」幻冬舎新書と数々のウェブサイトを参照したことと生半可な理解で纏めたことを許されたい。)




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電話で思うこと 【-49-】 [この頃思うこと]

電話で思うこと 【この頃思うこと-49-】

  電車やバスでは何人かが必ず携帯電話を使用している。車内では通話不可なのでメールか情報検索などだろう。わりに好奇心が旺盛な私は携帯電話も早くから使い、偶然ながら発売初日にシニア向けスマホに替えたが、主に自宅で過ごす最近はパソコンや固定電話でこと足り携帯は外出時の友人とのに連絡するくらいだった。しかし昨秋にiPhoneに切り換えその使い方習得に四苦八苦している。電話機能はごくごくその一部に過ぎないが便利だ。
   電話と言えば、それに関する思い出が次々と浮かんで来る。最初に接したのは4歳頃で受話器を耳に電話箱のハンドルを回すと交換手が出て「もしもし」と話せた時は嬉しかった。
   その後、戦中と戦後の1955年頃までの電話は日常生活とはあまり関係なかった。と言うのも、戦後でも電柱を立て電線を引く必要からだろうか、
年間の給料に近い電話債を買った上で何ヶ月か待たねばならず、商店以外の普通の家庭にはほとんど無縁だった。
   入社(1956年)時に見学した製鉄所構内の広い部屋には電磁式の電話交換機がずらっと並び交換手もいたと記憶する。その翌年には新工場の建設で高さ20mほどの作業デッキでのガスバルブの操作に下方から工場の騒音の中を開閉指示ができるだろうかと心配したが、電線をデッキまで持ち上げた有線電話で行うのが予想外にうまく行ったのは良い思い出だ。 それから数十年後なら無線電話、いまなら携帯電話で簡単に指示できるだろう。  

 その直後1958年の留学時のアメリカでは、すでに全家庭に電話があるのには驚いた。私も電話を引こうと友人に訊ねると「この研究室からATT に電話するだけで良い」と言う。早速電話で私の住所を告げ氏名のローマ字綴りを述べると「それは受け付け不可能」と言う。理由を訊くと「子音が一つで後全部母音の姓などあり得ないから」と言う。パスポートにInoueと記載しているなどとやりとりの末何とか手続きができた。帰って部屋の隅に置いてあったレンタル電話器コードを壁のコンセントに差し込むとなるほど繋がっていた。
 それに比し、帰国後の日本では1970年代に入って、所得倍増計画で給料が急激に上がりどうやら電話債も払えるようになり、手続きをして数ヶ月後に社宅での自宅電話が引けた。しかし通話料、とくに遠距離電話は極めて高額で滅多なことではかけられなかった。
 1972年に技術指導の責任者として南イタリアへ赴任した。当時のイタリアは世界的にストライキが有名で手紙も1週間近く要し発信と受信の順序が後先となるなどしたので、できる限り自己責任決めた。しかし緊急事態に電話で指示を仰ごうと、日本向け国際電話を朝早く申し込むと夕方にどうやら通じると言った具合で随分不自由な辛い思いをした。
 私的な国際電話を初めて受けたのは1978年だ。留学中親代わりをしてくれたボンド夫人から、日本ではまだ癌告知が無かった時代に、「癌で余命数ヶ月と宣告を受け自分は動けないができたら会いたい」とのこと。休暇を取って1週間ほど見舞に行ったが、半年後にもう一回お別れの国際電話があり数日後に亡くなった。これは悲しい思い出である。
 次は1980年代初めに中国へ行ったとき、この広大な国土の隅々まで電柱を立て銅線をひくには資材用達が大変だろうとそれ以前に無線電話が普及することを願ったが、それはどうにか間に合って胸をなで下ろした。(しかし同時期に心配した自動車の排ガス問題で電気自動車が間に合えばとの思いは裏切られ中国各地で環境問題を引き起こしたにのは残念だ。)
 それ以降は1990年代の携帯、そして掛け放題スマホ、現在のiPhoneとつながる。


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