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お祭り【この頃思うこと-48-】 [この頃思うこと]

お祭り 【この頃思うこと-49-】
 お祭りは秋が多いが、ここ靜岡では徳川家康と家臣の花見にあやかる今年で60回目の「靜岡まつり」が盛大で、教会帰りに通った駿府城公園内や市民愛称「おまち」の商店街は出し物や登城行列を見る多くの人でごった返していた。しかしその前日に小規模だが、知人の誘いで行った遠州横須賀の祭りには「日本の故郷のまつり」を満喫する格別な情緒を感じた。
 横須賀は神奈川県との思い込みに、2年ほど前の浜松から御前崎への海寄りの道で横須賀城跡を見つけ驚いた。案内板に「1707年の宝永地震で近辺が盛り上がり海に面した城の良港が消失した」とあり、行き届いた公園に強い郷土愛を感じ再訪したい地だった。
 お祭りは城跡の東方の旧街道に面した町の鎮守然とした三熊野神社の祭礼だ。祭りの支援者である知人から「祢里(ねり)と称する神輿は大きな二輪の車上に飾られ、神社前を東西に通る旧街道と一部北側の狭い道をくねくねと自由にシタッ、シタッの掛け声で練りく」と説明を受けた。5箇所あると言う各町総代の開放された軒下に腰を下ろし、またその辺りを歩く土地の老若男女全てが「白足袋に町の組名入りで組ごとに異なる柄の江戸火消し風のハッピ姿」と揃いのハレ姿で、ことに手を引かれた幼児が可愛く町の強い一体感が感じられた。13台の祢里が揃った境内には祭り用の低い櫓舞台上で、祝詞に始まり祭礼囃子の笛太鼓に合わせた踊りなどが繰り広げられ身近に満喫できた。資料では寛永時代の神田明神の流れを汲み寺社奉行差配だった祭りを12ケ町(隣組ほどの単位と思われる)の町民が主体となり伝統を引き継いできたと言うが本当に「日本のふるさと」を感じるお祭りだった。 
 お祭りは古今東西、各民族固有の宗教的なものだ。これを機に私の「お祭り」を思い出すと、幼時の佐世保での八幡神社の「おくんち」、戦中に住んだ西宮での恵比寿さんの賑わい、学生時代の東京での盆踊り、木更津での製鐵所一員で浴衣姿の連に加わり街を踊り廻った夏祭り、船上で「船渡御」を見ながらご馳走を食べた大規模な大阪での天神祭などがある。いずれもその熱気に圧倒されたお祭りへの参加者だったが、今回の舞台裏も管見できた小規模な祭りで、伝統を守り楽しむ人達との距離が狭まり良い思い出となった。
 国内のみならず外国の祭りも思い出深い。インドネシアのバリ島では街中の高い椰子の木々に多彩な布がひらめきヒンヅー教の祭りが近いと知ったが参加はできなかった。悲しいお祭りも経験した。それは住んでいた南イタリアのイースター(復活祭)前のキリスト受苦の金曜日に始まる。場所は紀元前数百年頃ギリシャの植民地での時代から存続するタラントの旧市街の大聖堂前で、目だけ丸くくりぬいた黒頭巾姿の僧侶十数人の列の後に、十字架を捧げ本当に涙をポロポロ流している青年僧侶、それに続く30人ほどの肩に担がれた大きな台(山車?)上にある高い十字架に付けられ頭を垂れ苦渋の表情のキリスト像が続く。その一隊が揃って右を一足差し出すとしばらく留まり、そして左足を出しては留まる超スローテンポの行列だ。その間、両側の参加者はロザリオを持ち悲痛な表情で祈っている。そしてそれが明けると復活祭だが教会のミサのほかは各家庭で祝っていたようだ。インドの家族的な祭りは旧約聖書に出て来るような子羊を生け贄に捧げ料理する場面も見た。
 今回それ等の思い出に地域の人がハレの日を喜び合う「日本のふるさと」の「和」の源泉の一つを見出した貴重な思いが加わった経験だった

      
横須賀祭りは http://kasaiya2.sensyuuraku.com でも見られる)


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右と左【この頃思うこと-47-】 [この頃思うこと]

右と左【この頃思うこと-47-】

  人には生まれつき右利きと左利きがあると言う。それを矯正するのは心理上好ましくないらしく、いまでは利き手は左右どちらでもよいようだ。しかし、全員が全て右利きに矯正されていた頃の教育を受けた私には、テレビで生徒が左で箸や習字の筆を左手に持っているのを最初に見たときには眼を疑った。

  人の身体は大まかに見ると左右対称だが、心臓は多くの人は左にあるし、内臓全般では左右非対称のようだ。顔も各人右半分と左半分は表情などでは微妙に違い、その違い方と差異の大きさ場所などは人によって異なる。
洋の東西でも左右に関する見方は異なると言う。多数意見では西洋では左右対称が重要視され、それは西洋庭園に見事に表されている。パリのヴェルサイユやウイーンのベルベデ-レ公園などはその最たるものだ。東洋とくに日本では、これに比べ庭園での左右対象などはあり得ない。池、築山に庭石、草木、ときには小さな滝さえも配し非対称の極致だ。枯山水などを前に大自然を自分の瞼に想像し愛でるなどと言うのは対称などを超越している。 

  ところで、話は戻るが、人の利き手は決まっているようだが、私の経験では別な手も訓練で若干の不自由さはあるが同じように使える。私は右利きで幸い左右矯正の辛さは知らない。しかし60歳代半ば過ぎ頃、左も使い慣れれば結構使えるのではないかと思いつき、その頃毎日のようにしていた家内との簡略ピンポンで早速お互いに左手でやってみようと言うことになった。最初は二人とも失敗ばかりで、もう止めようかと思うほどにもどかしかったが、数日も我慢すると少しずつ慣れて来た。それからは徐々にではあるが相互同時に左右を変えて楽しめるようになり、いまも時折機会があれば左も使う。しかし、最近は適度な運動量と瞬間判断力維持のため毎日のようにテレビ画面相手で昔購入した任天堂のWiiのテニスゲームを家内と楽しんでいるが、二人とも一プレイごとに疑似ラケット(コントローラー)を左右に持ち替え、どちらでも変わりなくプレイを楽しんでいる。
しかし、利き手でない方はしばらく使わないと使いづらくなるようだ。それを実感したのは毎朝食べる納豆をかき回すときだ。このところ右手ばかり使っていたが10年ほど前には左手も使っていたような記憶が戻った。早速左手でかき回すと20回もしないうちに手の動きが鈍る。100回疲れなく回せるようになるのに一週間ほど要した。一か月ほど日ごとに左右交代でやっているいまは完全とは言いきれないがほぼ同じに使えるようになった。

  これらのことで、加齢して始めても少しずつ継続して訓練すれば身体は左右ともあまり変わりなく使えるようになるが、しばらく使わないと身体は後で身に付けたことは忘れるように思える。同じことが身体中の筋肉にも言えそうだ。歩くとかの毎日無意識に使う筋肉は努力して使わなくても衰えは少ないが、腕や腰腹部の筋肉は自分で意識しない限り使わない部分が多い。私も80歳になるころそれに気付き、毎日徐々に始め継続を心掛けていまは懸垂が数回でき腰痛も治った。「それがなんだ。自己満足に過ぎないではないか」と言われれば返す言葉もないが、自分の身体には自分の意識に応じる潜在能力がまだ若干は残っているのだと、このブログ書きもそうだが、嬉しく感じられるこの頃に免じ許して貰いたい。

  左右の話が洋の東西の文化論に展開するものと読み始めたら、急転直下に自分の身体のことでで終わるのかとお叱りを受けそうで申し訳ないが、読者が若い頃から試みられる価値はあると思って駄文を終える身勝手をお許して願いたい。


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海外での和食の今昔【この頃思うこと-46-】 [この頃思うこと]

海外での和食の今昔【この頃思うこと-46-】

  和食が世界文化遺産に選ばれ、世界中に和食店が出現して(中には日本人経営でない店もあると言うが)現地の人を主な顧客に寿司や刺身が賞味されるような日が来るとは、60年弱前の米国留学の頃には全く想像もできなかったことだ。当時は冷凍技術も未成熟で海から遠い米大陸内部での魚は臭いと不人気だった。当時招待された多くの家庭料理でも魚料理はあまり口にしたことはなかったように思う。進駐軍として日本に滞在した人でも、天ぷらやすき焼きを賞味したと言う人はいたが寿司や刺身は食べず嫌いが多く賛美者は少なかった。したがって当時の海外の和食店は日本人目当てが主で、戦後の外貨制限下の日本からのNYとかLAなどの大都市に限られて単身赴任を強いられた数少ない大会社の駐在員を主顧客に数軒がある程度で、100万都市の Clevelannd には中国料理店が数軒あるのみ(留学生には少々高価だったが)和食の店など思いもよらなかった。中国料理は、当時から世界中に住んでいた華僑相手でもあったろうが、確かにその多種多様な高カロリーの美味さはフランス料理と共に世界的に好まれた。それに比し生の食材を生かし奥行きはあるが地味で蛋白な和食は、当時の海外では料理としての魅力に欠けていたのだろう。
 
 魚と言えば、仲の良い大学院の友人でさえ「君たち日本人は卵や魚を「生」で食べるんだって」との "生(row)" に力点のある若干侮蔑的な質問だったので、「そうだよ、生(なま)はまだ米国のように各家庭に冷蔵庫はないので、採れたての "新鮮(fresh)" な間だけ味わえる贅沢だよ」と答えた。事実、日本でも当時は刺身や卵は贅沢品で日常の食卓とは無縁だった。さらには「日本では水槽で魚を飼って半身を刺身で食べてそこが再生するとまた食べるそうだが」と冗談交じりとは言え半ばまじめに問いかける者さえいたほどだ。日本の魚屋に類する店魚専門店などはなくスーパーの一隅で魚が置いてある程度だった。その頃はカトリックの家ではキリスト受難の金曜日に肉の代わりに魚を食べると言われていた。

 
 その人達がいまや「生の魚なんて」と言っていた刺身に醤油をつけて堪能するようになるとは思ってもみなかった。日本食材も留学当時の市内には米国統治領の沖縄の人の店が一軒だけありそこでお米や醤油とか、松茸や竹の子などの缶詰を月に一回ほど買いに出かけるのが精一杯で、スーパーでは "soy sauce" と称する中国風の醤油があり一度買ったが醤油とは似て非なものだった。いまは重宝される調味料としての日本の醤油も慣れない人にはあの独特の臭いが気になったようだ。
 
 親切で食事に招いてくれる家庭に、たまには恩返ししたいと土曜の昼食を和食でサーブしようとすき焼きを何回か供したが、ナイフ不要の箸で野菜と一緒に食べられ醤油味と砂糖とがうまく合って臭みも感じないらしくどこでも毎回好評だった。料理の手間は野菜を適当な大きさに揃える程度で簡単なようだが、当時の肉屋(Butcher)では塊でしか売らないのでそれをすき焼き用に薄くスライスするのが大変だった思い出がある。
 
 ともかく、あの時代に見向きもされなかった和食が欧米のみならず世界各国でもてはやされるようになったことは、食文化の背景にある平和な、和を重んじる日本文化自体が一定の評価をえ始めていることと共に留学当時のことを思い出して嬉しく思っている。
 


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靜岡に住んで【この頃思うこと-45-】 [この頃思うこと]

靜岡に住んで【この頃思うこと-45-】
  富士が見え気候温暖で東京にも近く車なしの生活に便利で娘の嫁ぎ先でもあるこの地に移り住み6年目を迎える。靜岡に関する知識は、列車で何回も通過した県庁所在地徳川家康ゆかりの地程度で、加えて「靜岡」の地名が日本史に見ないのも気になっていた。住んでの印象は、地の人が「おまち」と愛称する駿府城公園と駅間の商店街など、旧城下町とは異なる「町人の町」の感じだ。この地に愛着を覚え少し調べると、外来者の私には、それ等がこの地特有の若干屈折した長い歴史に由来しているように思える。
  まず時代を遡ると、最後の将軍慶喜による大英断で政権が無血に近く明治政府へと移り、その後継者の徳川家達は徳川800万石から駿河府中城主70万石に移封された。慶喜も一部の旧家臣と家族・従者3000人近くと駿府(駿河国府中の略称)に移住したが、その多くが無録で農業や商売、茶の栽培などを始めたと言う。また、版籍奉還後に恭順の意から、奉行所の通達で「府中は不忠に通ずるので裏の賎機山にちなみ平和で靜かな岡と改名する」趣旨の経緯記述があり、日本史に「靜岡」が現れないない理由もわかった。移転当初は幕府育成の優秀な人材や開成校・兵学校(沼津)などの高等教育機関が開かれたが、ごく短期間で東京に戻されて、以降の靜岡は歴史の表舞台からは遠ざかったようだ。
  維新以前300年の徳川幕府の時代を通して、この地駿府は裏舞台に徹した。家康は引退後は大御所として府中に入った六年間に行った街割りや築城などで暫時は栄えたが、その没後の城主10男頼宣は在住3年で紀伊へ移封された。その後の忠長は二代将軍秀忠の3男だが幾ばくもなく将軍の勘気に触れて追われ駿府は直轄領となった。駿府城の奉行所には少数の武士が派遣され、城主や武家集団不在の変則な城下町となった。その初期頃は「権現様の御由緒」と経済的にも恵まれたが、武家屋敷のない町人主体の町で、幕府の経済状態の悪化と共に困窮度も高まった。それ等の状況は残された記録とその研究に詳しく、1700年頃の人家数4千軒、人口1.万6千人くらいで、明治4初めの4500軒、人口2万人弱と比較し人の流入は少なかったと言う。江戸後半の駿府は「町共同体」で町規約を作り、町運営には町頭を中心に月行事制(組頭以外の平町民が月15日ずつ勤務)が当たった。武家不在で格別の特産品もなく東海道の一宿場に過ぎない城下町の運営は、典型的な城下町の金沢や商人の町の大阪での町人の役割りと比較すればその特徴が指摘できようがそこまでは調べられなかった。
 
 徳川300年の以前の駿府は、今川家初代範國(1294)に始まり九代義元が織田信長に桶狭間で敗れて日本史の表舞台には出損じたが、300年続いた名門守護今川氏の居城の城下町として重臣達の駿府集住地区、浅間神社門前町と町人それに街道沿いの町などあったようだ。その後徳川の世となっていまの靜岡には今川の記憶は薄れているように思える。

    その前に遡れば、富士川の源平の合戦、鎌倉時代、律令制度下の駿河国、万葉の時代 神話時代の日本武尊や焼津・草薙・の地名、弥生時代の登呂遺跡と歴史の宝庫である。
  日頃通る散策道から晴天の日に端麗な富士を仰ぎ見るとき、それ等の歴史を持つ駿府、いまの靜岡に住んでいることを実感する
。(逐一の引用は省くが若尾俊平「駿府町人の町」靜岡谷島屋 1998年、 小和田哲男「今川氏の研究」 清文堂 2000年 などを参照した)

  


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考えるときの言葉【この頃思うこと-44-】 [この頃思うこと]

考えるときの言葉【この頃思うこと-44-】

  最近、友人から紹介された松尾義之著「日本の科学は世界を変える」(2015年.1月)筑摩書房を読んだ。その章題「西欧文明を母国語で取り組んだ日本」「日本人の科学は言葉から」「日本語の感覚は世界的発見を導く」などに見られるよう、日本語が非論理的だとは偽りで、日本語で考えるからこそ今後もノーベル賞が続くとの趣旨が、ことの性格上論理的には証明不可能だからと多くの事例で論じられている。その出版から一年も経たぬ今年のノーベル賞科学部門で日本人3名もの受賞者が出た。氏の趣旨の多くに同感すると共に、昨今日本語のみで考えているが、嘗て5年ほどの海外生活ではそれ以外の言語だったことをすっかり忘れていたのに気付いた。

   26歳まで日本語の
みの生活だったので、米国留学での最初数ヶ月は英単語をその都度日本語に置き換え考えていたが、次第に英語をword単位でなくsentence単位で理解し覚えるようになり、半年もせずして自然に直接英語で考えるようになった。夢も英語になり、不思議にも友人はみな英語を喋る。2年目には日本人との対話以外はほぼ全部が英語での思考となり修士論文も英語で考え書いた。以降は海外に出ると翌晩からの夢も英語になり、日常生活程度の思考言語はその方が頭にとり軽負担なのか自然にそうなるから不思議だ。

  40歳から3年ほどの英語使用のコンサルティングでは、仕事中の思考は英語だったし報告書も英語で苦心して考え書いた。イタリア語会話は3ヶ月ほどの個人教授で少し判る程度にはなったが、伊語は日常の語彙が英語に比し豊富だとかで新聞を読むのに辞書ばかり引いたし、イタリア人との会話では自然に伊語での思考になるが、それ以外では相手によって英語か日本語で思考していた。それでも、昨年新幹線でイタリアの家族が隣席したとき、何年ぶりかのカタコトイタリア語が口から出始めたのには驚いた。そう言えば何かを思い出すとき、会社在職中のことは昭和XX年、留学期間中のはnineteen-fifty-eight、 在伊期間のはdiciannove-cento-settanta-tre(1973)、大学勤務の1987年以降は西暦の日本語読みと記憶上それぞれ連動し必要に応じそれから変換することになるのも不思議だ。

  日常会話程度なら、上記のようにすぐ思考言語が切り替わるが、英語の論文書きでは、日本語で思考し、主語を補うなど英語風に書き直してネイティブに診て貰っていた。すると「文法的には間違いないが英語の表現ではこちらがベター」などと訂正された。確かに日本語では直截な表現は避けたがる。その点では文学者で小説家の水村美苗氏の説通り、日本語の、世界の言語でも希有な、ヤマトことば・漢字・万葉かな・訓読み・音(漢・呉)読み・明治初期の漢学の造詣深い学者による欧文化の翻訳造語・最近の外来カタカナ混じり語などの豊富な表現や、成熟度では英仏など現代西欧語に劣らぬ古事記以来の独自の文化を育んできた日本語で思考ができるのは素晴らしいと改めて気付かされる。翻訳学で著名な柳父章氏はその著書で西欧の抽象語とその日本語翻訳の本質的な違いとして「自然(nature)」と「カミ(神、god)」などを例に詳述しているが、それ等はまさに西欧の一神教的digitalと日本の多神教的なanalogの見方が主で、全てが自然の一部という見方を包括・混在させた日本語は、冒頭に挙げた松尾義之氏の説のように自由な科学的思考を可能にする理由の一つと思われる。必要に迫られれば人の頭脳はすぐ外国語思考に切り替わり適応できる。この観点からも全小学生対象の中途半端な英語教育より思考の基となる国語を多く学ばせるのが重要だと改めて痛感する次第だ。  



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 「日本語が亡びるとき」を読んで 【この頃思うこと-43-】 [この頃思うこと]

 「日本語が亡びるとき」を読んで 【この頃思うこと-43-】

  友人から水村美苗著の標題書物を紹介された。浅学で知らなかったが、著者は10歳で家族と渡米し日本の文学全集を読破、大学では仏文学を専攻しソルボンヌ大学にも留学した米国の大学仏文学教授で、日本語での著名な文学賞受賞の経歴だと言う。本書ではその主張が最終の七章に集約され、枠組として言語を普遍語・国語・現地語に区分し、「普遍語と日本語(国語)の総バイリンガル化には反対でそれは一部の人に限るべきであり、多くの日本人にはもっと国語力を付けさせるべきだ」と要約できよう。さらにそれを文学風に展開し、一章ではアイオワの大学寮での世界各国で著名な二十数名の作家・詩人との一か月の生活を通しての国語・現地語(母語)と普遍語となりつつある英語に触れ、二章では仏語が17~19世紀で「世界語から国語」への変遷経過、専攻の仏語での「日本近代文学-その二つの時間」講演原稿書きの困難さなど、三章では地球各地の先住民族に語り継ぎ書かれてきた現地語が国語となり、それ等が多大な労力の翻訳で普遍語(英語・世界語)としての機能可能となっていること、四章では日本語という国語の誕生、万葉集漢字 ひらがな カタカナ 漢読み・訓読み などの特徴、江戸文学 明治の翻訳 日本語英語採用論 漢字廃止論 カナ文学者論 ローマ字論者 などを詳しく論じ、五章の日本近代文学ではその奇蹟、六章のインターネット時代の英語と国語、科学の急速な進歩 文化商品化、英語の世紀への突入、そして100年後日本語での小説が書かれようかとの問で最終章へつながる。各章とも内容と表現法に惹かれるが四章はそのなかでもとくに圧巻だ。
 
 私は体験から「ことばの修得の早道は生活の場で言い方を真似ることだ」との思いが強くグローバル化に備えた小学生全員への英語教育よりは日本語をもっとしっかり教え、英語が必要な人はその言語生活を通し時間的に無駄なく学ぶのが良いと思う。これに類した主張を、私とは全く異なる外国語学習環境で育った著者がしてることに強い共感を覚えた。 その私の体験は、小学4年の転校当初で方言の違いに戸惑ったのに始まる。家での佐世保弁「なんばしよっとね」が友人の関西弁では「何しとんねん」となる。しかし、違いに気付いたときその場ですぐに真似ることで一月もしないうちに戸惑いは解消した。次の苦い経験は、米政府支給の留学目的での英語習得時で、英語の生活には無縁な20歳代前半4年間の毎日の貴重な数時間を英語の速読や駐留軍向けの放送聴取などに費やさざるを得なかった効率の悪さだ。それでも留学当初は日常会話が不自由で困った。その度に適切な幾通りかの表現法を相手に訊ね、その場で発音を真似し修正して貰う方法で英語が急速に身につき数ヶ月で英語で考えるようになれた。三番目はイタリア駐在となった40歳で初めて伊語を学び始めた楽しい経験だ。3ヶ月間の会話の個人レッスンで文法を学び、日常の会話の中での表現を真似て半年ほどで片言の意思疎通が可能になった。それは読書学習だけの独語と違いと30年経ったいまもその場になると自然に出てくる。しかし著者の言とおり書くのは別だ。英語の論文や報告書は昔鍛えられただけにネイティブの校正程度で何とかなるが、伊語はそうは行かずメールは英語で書き伊語で受ける始末だ。ついでに言えばこれを日本語で原稿用紙4枚程度に纏めるのも全く四苦八苦だ。

  その他、インドや東南アジア諸国と違い日本語は大学の授業ができるほど語彙が豊富なこと、同じ漢字文化の中国や韓国と違い漢字が表意・表音文字として融通無碍な発音可能なことなど、このブログでも幾つか書いたが、全く共感することが多い楽しい読書であった。
その最近の一つ: http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2015-07-31

  


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焼夷弾と機銃掃射の被弾経験【この頃思うこと-43-】 [この頃思うこと]

焼夷弾と機銃掃射の被弾経験【この頃思うこと-43-】

 今年も8月を迎えた。終戦時には中学1年で武庫川のすぐ西側に住んでいた。7月頃から制空権はないも同然で毎晩のような空襲警報に起こされ、蚊帳も使えない防空壕に走り込むためにズボンの下脚部に脚絆を巻いたまま寝るようになっていた。8月に入って焼夷弾攻撃が、東の大阪からと西の神戸からの挟み打ちで夜ごとに段々と迫って来た。終戦の数日前の夜、例のごとく頭上にB29の爆音が近づいたが、その夜はいつもとは違いゴオーと言う投下音の後で焼夷弾の束をばらす炸裂音に続き、いまも耳元に残る「ヒュルヒュル」という焼夷弾一発一発の独特の降下音が次第に大きくなってはスット消えていった。その何十回目かに音が大きくなり消えないままドシンドシンと地面への落下音が庭の防空壕内に響いた。すぐ外に出ると家の玄関前に落下していた焼夷弾一つから飛び散った黄色の数センチの油脂の塊が庭のあちこちと玄関の戸や柱の10箇所くらいでチョロチョロと燃えている。当時はどの家にも玄関前に砂袋数個と防火用水、バケツ、天井裏にひっかかったものを落とす鳶口が用意されていたので、まず両手に砂袋を持ってまさに家に燃え移ろうとする黄色の油脂の火をゴリゴリと押して消したら油脂の塊が砂袋の中にグニャと残った。急いで家のまわりをみると門の外にもう一発火をばらまいていたが回りには類焼しそうにないのを確認し、急いで鳶口を持って家の中を一階の部屋と、二階では天井板は剥がして見えていた屋根裏に異常がないこと、とを確認して防空壕へ駆け戻った。その間もヒュルヒュル音が大きくなっては消える。それは頭上を通り過ぎたことを意味した。随分長い間のように思えたが直撃はその二発だけで済んだ。庭や門脇で燃えていた油脂も砂袋を押しつけて消した。翌朝すぐ西の武庫川土手を通ると川原と川の水中に焼夷弾が何百発と落ちていた。前夜はいつもより東風が強く家の一角を狙った焼夷弾が風に流されて西の川原に落ちたのだろう。次回こそは家の周辺の被弾だと覚悟していたら終戦となり幸運にも家は焼け残った。焼夷弾一発は径が10cm強の六角形、長さが50cmほどで、束からバラされて雨のように降ってくる。運悪く直撃を受けと即死するが小学校同級生にもその犠牲者が出た。余談だが散らばった油脂の燃え残りかすは、終戦後の燃料不足で縁遠かった風呂に少しずつくべて湯を沸かせ平和利用した。
 
  機銃掃射を被弾したのは中学からの帰路で阪神国道電車が空襲警報で運転休止した時だ。いざとなれば道の側溝へと思いながら安全な場所へと走っていたが、前方に何か不穏な気配がしてヒョッと目を上げると遙か向こう正面からこちらを向けて土煙をあげながら何かが急速に迫るのが見えた。グラマン戦闘機の掃射だと気付きとっさに側溝に転がり込むとすぐ横を機関銃の土煙が走りすぎた。まさに危機一髪で助かった。
 
これまで1トン爆弾の被爆(拙稿 http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-05)や、堺の大空襲の経験を(http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-03-01) 記したのに加え、鮮明ながら余り思い出したくないこの記憶を、体験者の伝承責任も感じて今回記述した。
  戦後70年間、近隣国とはその国内事情も絡み多くの難課題が残されてはいるが、日本では戦後ずっと平和が守れて来たことが極めて尊く、これからもそれを守り抜く決意と共に平和の重要さを、紛争の絶えない世界に訴えたいと被爆経験を綴りながら痛感している。


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日本語・日本文化とアナログ・ディジタル型【この頃思うこと-42-】 [この頃思うこと]

日本語・日本文化とアナログ・ディジタル型【この頃思うこと-42-】
 
   自然界は全てアナログ現象だが最近はパソコン・時計・カーナビ、ウェブ・携帯・写真・音楽などそのディジタル化を享受している。それは文字・数値の2進表現と、文字通り桁違いに広範囲((10)14~(10)-9メートルほど)の波長の多様な電磁波(電波・音波・光波など)のアナログ波形をナイキスト理論で2進近似表現したものだ。語源のDijitは「指」だが、ディジタル化では多様なアナログ量を2進最小単位 "1" か "0" 、つまり「有・無」に分解近似し再構築してノイズを排除し伝達や加工の効率がはかられる。
 
 その広がりはグローバルだが、享受する各国の言葉や文化は多様だ。わずか合計6年の海外生活で使用した米語・伊語と若干囓った独語に仏語などラテン系語や中国語からの私の管見では、日本語は世界でも希有に融通無碍なアナログ型だ。構文上、結論が "no" でも相手の心情を忖度して最後で"no”を臭わせる芸当も可能だが、"No"から始まる他国語でのそれに
続ける言葉は単なる言い訳に取られる恐れすらある。その意味で "Mr. yes but no" のあだ名を頂戴した同僚の気持ちも察せられる。語彙や発音でも日本語はアナログ的だ。漢字を訓読みや音読み(呉音と漢音)し、外来語のカタカナ表示もある。イタリアの友人に「英語の文法は簡潔だが発音は無規則に近く苦労したろう」と訊かれ一瞬、昔の英語学習時の「文法・発音とも複雑なのは外国語学習の常」との思い込みと後で学んだラテン系語が「文法は活用や性別などで英語に比し格段に複雑だが発音は規則通りで簡単」だったことに気付き、「全く同感」と応えていた。留学生の「日本の地名や人名の読み方は全く気まぐれだ」との言を待つまでもなく、日本語は英語より格段に無規則だ。
 

 名前は法律上「戸籍に届けた文字」だけが有効で読み方は含まれない事実と、その事実すら気付かずにいられる国は世界でも日本だけだろう。私が気付かされたのは、外国在勤時に漢字読み違えの私宛て電信為替を受け、パスポートの漢字を見せ「こうも発音できる」と一応は示したが「お前の国では読み方は何でも良いのか」と再送付させられた偶然に依る。その私さえ最近の奇抜な漢字の羅列と読ませ方の命名には驚嘆するしかない。
 

 漢字が表意文字だとは理解の筈だが、同一中国文が北京語とその方言の広東語では全てが異なる「一字一発音」になることは香港での学長就任演説で初めて実感した。漢字文化圏だった韓国では、類の少ない独自のハングル文字使用で漢字はこの数十年廃止している。それは漢字併用と比し冗長さは不変で、韓国固有語を主に使えば同音異義もそれほど問題でなく記憶に負担の多い漢字無用で表現に不自由ない利点があるからだと言う。その「冗長さ不変」の理解には、カナ字の「表音」記号(一字一発音)とハングル文字「表音節」記号との違いが「鍵」だと気付いた。私の理解では、ハングルでは子音と母音の字母(総数40個ほどの舌の形の連想とも言われる一つ一つ)自体が「表音」記号で、(その発音字母群の組み合わせの一塊り)が一表音節であり、漢字一字が一音節で表せるので冗長にはならないようだ。しかし、他方で70%近くもある漢字(由来)語の由来の漢字が忘れられて同音異義語区別が困難となり表現が日常会話的で表現の多様性に欠けり古典が読めないなど漢字復活の声が一部にはにあるようだ。このことで日本でも戦後一時期、漢字を廃止しローマ字やカナ表記の動きがあったのを思い出す。  

  そのいずれも(表音節でなく)表音文字なので文全体が冗長となりかつ同音異義の混乱を招く理由から日用漢字制限の対策で上述現状の極めてアナログ的な状態が保たれている。パソコンのカナ変換での同音異語の多さや漢熟語使用の多様表現に悩みもあるが、その言語と言語の母体である「わび・さび・幽玄・和・もてなし」などアナログの極致ともいえる日本文化を、急増しつつある観光客や2020年のオリンピックを通して少しでもグローバルに広め平和世界の構築に貢献したいものだと思う。


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「蛙」と「システム思考とコンピュータ」のはなし【この頃思うこと-41-】 [この頃思うこと]



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「蛙」と「システム思考とコンピュータ」のはなし【この頃思うこと-41-】

   蛙を湯に入れると飛び出るが、水から徐温すると気付かず茹だると言う。「はどっぷり浸った環境変化には鈍感だ」との例えだ。新刊訳本ドネラ・メドウズ著「世界はシステムで動く」を読み「システム思考とコンピュータ」もその好例だと改めて気付かされ、それでいまの茹だった状況から、まだ水だった頃までを順次記憶から取り出す気になった。

  まず「コンピュータ(digital)」だがいまは机上のパソコンでもメモリがG(10)9BT(10)12Bあり文書や画像処理で不自由はないし、中小企業でもその使用は前提だ。Super Computerに到っては、メートル単位で大は宇宙(10)、極小はナノさらに素粒子(10)-までの気象・諸科学・経済予測など数値解析に不可欠だ。しかし55年前はそのdigital computerが日本には皆無だった。それを初めて見たのは1958年に留学先の米国Case工大での巨大な真空管トンネルのUNIVACⅡとより小型のIBM650だった。早速2進法や機械語でのプログラミングを学んだ。修士論文では、加熱炉の数式モデルを1K(10)3 語ドラムメモリのIBM650に機械語で苦心惨憺組み込んだ。最適解はIBM650は能力不足でanalog computerで求めそれをIBM650に入力しシミュレートした。その同じ'58年に米国で大型計算機IBM7070(コアメモリ10K語)が発表された極めて高価で月額借り賃は日本の大企業での300人給料分にも相当した。'61年に日本で初めて八幡製鐵がそれを設置し、給与・生産・経理などバッチ処理システムの構築運用で数百人のプログラマやSEを育成した。'64年には依然高価だったがオンライン処理も可能なIBM360が出現した。'60年代後半は日本経済の高度成長期で、鉄鋼業では欧州開発の最新技術を実用化した臨海製鐵所が続々と出現し、その一つ君津製鐵所では設備と管理のシステムを並行企画し世界初のオンライン生産管理を'68年に実現した。当時の記憶容量が最大256kBと極めて小さくその制限内でのプログラミングに数百人が日夜呻吟した。'75年以降には続々と新機種が出現し急速な値下がりでそれまでの大企業のみならず中小企業へも急速に普及し始めた。'80年後半からのパソコンの能力アップは'90年以降のinternet普及と共に日常生活の一部となり今日に到っている。

  次に「システム思考」だが、1959年にCase工大が「世界の大学で初めてシステム・センタを設置しプロジェクト・チーム編成Interdisciplinary(学際的)に対処する」と当時の米国でも目新しい語句で喧伝したほどにそれは斬新だった。その思考法は'60年代以降のコンピュータ使用システム開發と共に日本でも進展・浸透し始めた。例えば初期のコンピュータの能力不足をシステム面でカバーすべく、君津製鐵所では、八幡・戸畑における先人達の工夫の結晶である「製鐵所の運営管理方式」を基盤に、後述のマン・マシンシステムの階層構造で、その下層は工場・工程別のコンピュータ分担などの工夫がなされた。その思想と言葉なしではいまや社会が存立しない状況と言えよう。

  冒頭の新訳書の「システム理論を複数の弁とタンク結合の制御図を用い、陥りやすい落し穴なども極めて平易な解説」を読み、60年近く前に学んだ制御理論を思い出して、それ以降の急激な環境変化の中で茹だった「蛙」の身の例え話へとつながった次第だ。

  同時に著名なローマクラブの「成長の限界」主執筆者の彼女が、権威ある大学教授の職を捨てて一科学ジャーナリストに転身した理由を「howよりwhatが重要と考えたから」としている点で、昔私が無機的な設備対象のプロセス・コンピュータ分野からビジネス・コンピュータの中でもとくにその管理 loop 内で人の暖かみが感じられる有機的な生産経営管理分野へ移った理由を、これまで自身の数学的能力の限界や、昔のORの講義での「精緻な数式モデルでも人の優れたひらめきは組み込めない」の残響だと思っていたのに加え、当時のコンピュータのメモリ不足をカバーするのに「マン・マシンシステム」として現場の人達を巻き込んだシステム構築に、知らぬうちにのめり込んだせいもあったのだと、この読書で改めて気付かされた。

  




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自分の「からだ」(身体) 【この頃思うこと-40-】 [この頃思うこと]

自分の「からだ(心と身)」 【この頃思うこと-40-】
 自分のからだが与えられて83年目を迎える感慨はあまただが、その一つとしてボンド夫人の死生観が心に浮かぶ。ボンド夫妻は我々の留学時代に結婚式や生活で親代わりだった恩人だ。1978年当時の日本はいまのでは想像もできないがまだガン予告がほぼ皆無で、夫人から「余命数ヶ月と告知され会いたい」とのこれもまえになかった國際電話に驚き訪米した。60歳近い夫人は熱心なクリスチャンでオハイオ教区主教のもと教区宣教部長だった。三日間の滞在中、米国内各地や南米などから病を知った十人ほどの来宅者に、途中で「失礼」と短時間席を外す以外は、いつもの笑顔で涙も見せず来訪を感謝し歓談していた。滞在最後の朝「心身ともに会うのは辛いでしょう」と訊ねると「死は神のみもとに行くのだから怖くない。でも自分がいなくても世の中は変らず動くと思うと少し寂しい気はする。予告でYoshi(私)や親しい人にお礼を言う時間と機会を与えられた神に感謝する。激痛時はモルヒネ使用をと薦められたが、痛みの間も与えられた貴重な「生の時間」だから客には失礼だが中座して耐えている。最後は自宅で静かに知人を思い祈りながら神に召されたい」とその時だけは涙ぐんでいた。半年後に「お見舞い有り難う、Yoshi一家のことも祈っています」との電話があり、数日後に安らかに召されたとの死亡通知が届いた。
 米国では聖書を一字一句違わす信じる原理主義者もいるが、書かれた時代の人の理解度で記述されたとする人も多くその観点での新約聖書研究も進んでいる。キリストの復活の信仰もその両論から峻別すれば、字句通り肉体の復活と信じることと、十字架前に見放され無視されたキリストとその生き方の教えが、同じ見放した人達の心の中に日を経ずして強く蘇ってきて生き方とその意義を示し続け、二千年経ったいまでも数億人の心や祈の中に生きていることと解釈し信じることとなる。亡くなった多くの知人も私の心の中では活き活きと生きている。デカルトの「我思う故に我あり」は私には「人は思い信じることで生きている」と解釈できる。夫人の「与えられた自分の時間でからだを極限までは使い切るまで生きたい」とした生涯は神への揺るぎない信頼(信仰)に基づいていたと思える。
  現レベルの科学では心身の働きは記憶も含め脳神経の電気信号のつながりで生じるつまり脳死で記憶の全てが消失するとする。人は無から父母を介して固有の時間の間、そのからだを授けられ心身の潜在する能力を生涯かけて抽き出し磨き続けそれを世間のために役立たせその過程で固有の時間が消え無に帰ると言うのが現レベルの科学的な理解と思える。しかし身の丈1mのほどの範囲から始まったこの科学でも、ミクロなナノの科学(極小-10億x10億mの世界)からマクロな宇宙科学(10億の3乗mの世界)までは時空三次元の数式で表現可能だ。その時間すら相対性理論では変化するというが、マクロとミクロの範囲を超えてその二つを一括する可能性の探求では人智の想像を超えた十次元の世界になるとも言われるのは前に拙ブログ(2014/06/21)で述べたとおりだ。
  あることを信じるか否かは全くその個人の選択だ。人生を文字通り無から無へと考えると虚無的で人生の意義は不明だが無を無限と理解すればそれは異なる。暴論だが夫人の信じる「神」と「無(無限)」が言葉は全く違うが本質では同じと仮定すると、その人生は夫人のように「生きているり自分に所与のからだを最大限に高めて活かしキリストを模範に人を愛することに捧げて生き抜く」強い生きる信仰につながると私は思う。こう考えると信仰は死後のことより生きている間こそが重要だと思える。
  生の時間軸が残り少なくなり体部分の衰えを感じるこの頃この感慨が一層強くなる。このブログも私がこの生で授けられた貴重な経験の私にしかアクセスできない記憶の一部を「時空を超えた記録」として異なる時空の人につなぐ意味で書き続けたいと思っている。
 私の愛唱讃美歌:「わが行く道いつ如何に なるべきかはつゆ知らねど 主は御心なし給わん備えたもう主の道を 踏みてゆかん ひと筋に」

 


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お風呂 【この頃思うこと-39-】 [この頃思うこと]

お風呂について 【この頃思うこと-39-】  
  お風呂は私にとって楽しみの一つだ。毎日のことながらその日がなんとか無事に済んで、風呂場で頭と身体を綺麗に洗ったあと、少しぬるめの湯に手足を伸ばし追いだきをするなどしてのんびりと温まりながら浸るのは何とも言えない。
 振り返ると、五年ほどの海外生活もその國でしか味わえない貴重な体験が得られた分は大いに「得した」と思うが、ただお風呂だけは人生で五年分だけは「損した」感じがしてならない。この感じは外人には理解できないだろう。と言うのも、欧米でもバスタブと称するものはあるが、それは流し場の感じで、タブは時間があれば湯をはり身体を洗い流すことはできるが暖まるのが目的ではなさそうだ。欧州のホテルも昔はシャワーのみが多く「タブ付きを」と頼むと「そのような希望をするのは日本人だけだ。日本人は魚と同じく水に浸からないと気が済まないのか」とからかわれたほどだ。もっとも最近は暖まる方はジャグジーを楽しむ人も増えたようだがお風呂でのぬくもりとは異種だと感じる。
 かなり昔の南イタリア在住のときだが、湯舟で暖まるなどは想定外だったようで、42℃の湯をタブ一杯にはったら給湯器の湯を使い果たしたらしく数時間は家族全員がシャワーもできなくて困った思い出もある。米国ではバスタブも大きく湯も豊富に出たが同じタブの中で身体を洗いシャワーで流すのでは風情がない。ではと湯をはって入ってもタブに熱を取られ冷めてくるのでゆっくりぬくもる気にはなれなかった。
 温泉は別格だが、昔風の壁に三保の松原と富士の風景画がある銭湯も楽しめた。掛け流しの温泉では広い湯舟に適度の湯が常時流れ込みゆったりするのは言いようもない。それが露天風呂で、新緑や紅葉の山並みとか松並木越しの海辺を見ながらなどだともう申し分ない。海外にも有名な温泉場は幾つもある。アイスランドのラグーン露天はプール数個分の大きな人造池だったし、ブダペストには室内プール並の立派な温泉だったが、いずれもぬるく水着着用なので日本の温泉の楽しみは味わえなかった。他の國にもローマ時代の遺跡とか飲用湯が街角の随所あるとかだったが、最近では日本人観光客目当ての温泉設備も現れてそこでは国内並にゆったり楽しめるところも出てきた。
 ぬるくても湯には毎日入れるという思い込みもジャワ島北東の密林に囲まれた農村で学生と宿舎の基礎作り作業をしたときに見事に崩れた。いまでは便利になったろうが、当時滞在中の3週間弱は、水は貴重で飲み水は衛生上必ず湯冷ましだし、水道は勿論シャワー設備などはなく、作業が終わると小屋の一隅の台上に汲み置かれた水瓶の水を手桶で頭からかぶり身体に石けんを付けて擦り、それを洗い流すという日々で風呂などは思いもよらなかった。そこの人を日本に招いたとき「透き通った綺麗な湯の中に入る贅沢なんて考えてもみなかった」との言には実感がこもっていた。でもそこでの暗黒の空に南十字星星などが満天の星でキラキラときらめく風景は想像を絶する美しさで感動的だった。
  こう考えると、諸外国にはそれぞれその国でしか味わえない特有の幸せの文化があるのだが、お風呂は温暖多湿で温泉も多く綺麗好きな日本人特有の幸せの文化だと思える。


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日韓問題で調べたこと【-この頃思うこと-38-】 [この頃思うこと]

日韓問題で調べたこと 【-この頃思うこと-38-】

 
 ある会で「日韓問題」の話題提供依頼があり、門外漢の私は韓国人による自国の政治・社会構造・歴史などの教育・研究の和訳書や関連の十冊余の本を数ヶ月調べ、「韓国は近くて遠く、似て非で、相互理解へ格別な配慮が必要な隣国」だとの感触を再確認した。しかもその「非」な理由を日本人が理解するにはかなりの学びが必要と感じたので、ここでは会での議論も含め管見(それ自体が偏見か?)だが私なりに学んだことを紹介する。

  「似て非」の主因は、何より半島PENINSULA(尖ったPEN+島ISLA)と島ISLAND(アイランド)の違いと思われる。私見ではそれが「被侵略」への敏感度合いの違いとなったと思われた。四囲が海の日本は、開闢(かいびゃく)以来の国難「元寇」以降に初めて直面した17世紀後半からの西欧諸国の侵攻意図には極めて敏感となり、自力で1852年のペリー来日から6年で日米友好通商条約を提携した。これに比し、当時の高麗国は陸続きの中国歴代大国の度重なる侵攻に鈍感となったのか西欧の侵略意図を持った恫喝に、地理的不便さで接触が日本より20年そして開国が30年遅れ、しかも政権当事者が順繰りに清国・日本・露に協力を依頼して一層の混乱を招いた。このあたりは韓国の高校歴史教科書も認めているが、それを日本側は自国本土防衛のため、韓国側は専ら日本の半島植民地化のため、とし両国の見解は全く相容れない。意図は日本側、結果は韓国側の言い分に理があると思われるが、この問題の共通認識ができれば両国関係改善の糸口にはなると思う。
 

 両国の国民性も大いに異なる。日本の「和」寛大さに対して、韓国は「恨・情」で、自分の現況に満足せずそれより生じる向上心で実現への憧れとできない無念さ、シビアな競争社会の原動力」が恨であると言い非寛容だ。これは日本の総理大臣経験者への処遇と韓国の歴代大統領が亡命・蟄居・告訴(死刑判決で後釈放)との対比だけでも歴然だ。
 
 また、今回の学びで日本と韓国の歴史に類似点と分岐点のあるのが理解できた。日本では十一世紀から十五世紀にかけて貴族政治から鎌倉以降の武家政治の封建制度に移りそれが独自な近代化への明治維新とつながるが、韓国では十五世紀に高句麗から代わった高麗で中華・儒教の両思想に基づく貴族階級限定の科挙で両班(文官・武官)でもとくに文官支配が続き組織と人材の面から近代化にうまく対処できなかったことが歴史上の相違点だ。

 いまの韓国では戦中の日本より民族意識が強く、中華思想(文化度は中国から遠のくほど低く日本は韓国より野蛮だ)と儒教の影響が根強い韓国人には、例え短期間でも文化で劣るはずの「日帝」の侵略は許し難い「恨」で、それを原動力に優れた韓民族独自で「漢江の奇跡」を達成できたと韓国高校の歴史教科書は述べ、戦前戦後の日本からの資金や技術の流入には一切触れていない。憲法も1948年制定以来9回改憲され、日帝時代の子孫を現在に到って糾弾する法律を数年前に制定するなど「恨」「情」で法律さえも変え得る社会だ。このような「似て非」な民族性を我々は充分に理解したうえでの対処が必要だ。

 日本も少子・高齢化・福祉・人口集中化など問題山積だが、韓国では対応が日本より十年前後遅れより一層深刻化していることも国民の目を「反日帝」へと向ける一因とも考えられる。日本人は、これら想像以上の「似て非」なる韓国の国民性をまず充分理解した上で、時間をかけて世界に違いを訴え、韓国人の「恨:世界一になりたい」願望を充たしながらの共存方法を考えるなど必要だが、学ぶほどに半ば諦めの境地となったのも否めない。


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エレベーター 【この頃思うこと-37-】 [この頃思うこと]





エレベーターで思うこと 【この頃思うこと-37-】

 この4年余りの住まいではエレベーターが必要となった。思えばそれとの最初の出会いは幼時に佐世保の玉屋百貨店で驚いたときのことだ。戦前の日本家屋は平屋かせいぜい2階建てでエレベーターは地方都市では百貨店にしかなかったのだろう.

 1960年代に多く建てられた住宅公団のアパート群も高さ4~5階が限度でエレベーターとは無縁だった。その頃の新聞に「日本で最初の10階建てエレベーター付き社宅が八幡に出現」と紹介された新婚アパート(6畳一間だったが)に入居したのもエレベータ-がまだ日常生活では珍しい頃からの奇縁だ。(もっとも部屋が2階で余り利用はしなかった)。

 1965年に転勤した東京では高さ規制でビルも9階止まりだった。エレベーターは勿論あったが大変のろく、各階の外扉上方でその所在を示す時計型の針が待機階を過ぎた直後だと、そこから3階くらいの移動なら自分での足が速くイライラと待つことはしなかった。

 しかしその「待ち時間の辛抱」の先入観も、1962年の欧州出張でドイツの会社を訪問してときは霧消した。そこでは廊下に面して「床の間」状の仕切り枠が二つあり、その中を「高さ2mほどの間隔に奥行き1弱m、幅2m、厚さ10cmほどの棚」が一方では上り他方では下りていた。何だろうと訝っていると案内の人が上がってきた棚にヒョイと飛び乗り振り向きざま私にも続けという。乗って向きを変えると目の前に各階ごとの仕切りの天井と床が幾つか過ぎた所で彼がポンと前に飛び降り私も続いた。それは棚が連続して次々と上下していて人がそこに乗っている「連続エレベーター」と気付いた。乗り損じても10秒とせずまた目前に上って来る棚へ飛び乗れば緊張はするが待つイライラは必要ない。なるほどとその発想には感じ入った。唯一の難点は乗降と乗っている間の安全性が各人の注意任せと言うことだろう。そのせいかそれを見たのは欧州でもそこだけで、そこを数年後に再訪した際にはもうなかった。思うに、それはエスカレーターの斜め上下の階段移動を垂直移動の10mおきの棚の上下移動にしたもので、エスカレーターに比し必要な空間は1/10ほどでその分到達速度も10倍以上はあったろう。安全面からその棚ではなくその効率を犠牲にしてもエスカレータが普及したのだろう。これはまたのろくてイライラする気分になるのはせっかちな性格だからだろうか。

 かねがね「エレベーター」という単語には仰々しい感じがしていたが、その出張でイギリスに寄ったとき、彼らはそれを日常語の "lift"と言い「"elevator" はラテン語源の米語で、彼らは学識あることを示したかったのだろう」と皮肉っていた。差し詰め日本語で言えば「昇降機」と「はしご」の「語感」の違いなのだろうとあらためて納得した。 ついでながらエスカレーターも米語だろうが、語源的には "escalade" (英語:階段を上る、伊語の階段:scala)から類推するとラテン語源と思われる。でもこれはイギリス人もそのまま使っているようで、"escalator"には "lift" のような日常語がなかったのかと今度はイギリス人に皮肉の一つも言いたくなる。

 








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東海道の今昔 【この頃思うこと-36-】 [この頃思うこと]



東海道の今昔 【この頃思うこと-36-】

 DSC_0236.jpg

住まいから近いJR東靜岡駅の南側に写真のような小さな碑文がある。それには、すぐ横のグランシップ(県立コンベンションセンター)建設の2002年に、奈良・平安時代の都と地方をつなぐ官道で両側溝間1213m幅の古東海道が地下1.5mに靜岡から清水方向へ真っ直ぐ300mほど現れた旨が記されている。

 それから800年ほどを経て、江戸時代に東海道五十三次が整備され日本橋から京都三条の大橋までの約500kmの道路となった。私にとって広重の浮世絵や東海道膝栗毛の弥次喜多道中話などで知る遠い存在だった東海道がここに住み始めてずっと身近な空間になった。と言うのも、この4年余で東の第15番宿場の蒲原に始まり、由比、興津、江尻(清水)、府中(靜岡)、鞠子(丸子)、岡部、そして第22番宿場の藤枝までの全てを訪ねられたからだろう。その多くでそれは国道一号線に隣接しているが、蒲原から由比の間の旧街道では昔ながらの軒並みが散在し楽しめた。由比宿跡には余り知られず勿体ないほど立派な東海道広重美術館があり五十三次の浮世絵が全て展示され、館員の浮世絵製作過程の解説など興味深かった。興津宿と江尻宿(清水)間は山が海に隣接し、その狭い埋め立て地をJR東海道線、新旧の国道1号線、東名高速道路と通っている。そのかなり上方の崖っぷちには旧東海道が歩くだけの幅で切り立ち、その「さった峠」では好天なら正面に富士を右には駿河湾を見晴らす眺めはまさに絶景だ。江尻と府中の宿はいまでは清水と靜岡の街中に紛れて昔の面影は全くないが、鞠子(丸子)宿には浮世絵に描かれているままの店が現存しとろろ飯が楽しめる。また近くの由緒ある柴屋寺に昔が偲ばれ、藤枝にも街道の面影を残す場所がある。それ以西は訪ねてはいないがテレビで見ると街道筋に昔の面影が強く残っているようだ。靜岡市内の現在は国道一号、バイパス、東名高速、そして北側を第二東名と車が市内を東西に通り抜けている。 

IMG_20131228_161812.jpg 古東海道遺跡に面した東靜岡駅を挟む東西3kmほどの間は東海道本線、新幹線、保線車両用など幅100くらいの線路構内で隣接の公園と共に遮る建物もなく富士山が両側の裾まで見える市内でも数少ない場所の一つだ。冬の晴天の昼さがり、平安時代の人になった気分で、大和武尊で有名な一里(4km)ほど先の草薙の草叢越しに見えたであろう雄大な裾野を持つ富士を正面に、日本平を右手に眺めながら古道を散歩するのはロマンに満ちたひとときだ。



              
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働くと言うこと【この頃思うこと-35-】 [この頃思うこと]

働くと言うこと【この頃思うこと-35-】
  先ごろ、YMCA山手学舎発足70周年の祝会で、その第一回卒業生として簡潔に乾杯の音頭をとるようにと依頼された。「YMCAの働きに乾杯で唱和をお願いします」だけでは余り素っ気ないのでYMCAの「働き」に関連し次のように付け加えた。
 「働く」と言う字は「人の横に動く」と描くがこれは「辻」と同じく中国にない和製漢字で人が動くのことであるが、ただアメーバーのように無意味に動き回るだけの意ではない。それは日本語の妙だが「働く」での動くは、その発音通り「傍(はた)の人を楽(らく)にさせる」ような人の動きのことなのだ、---と。
 これはまさにYMCAの働きとして言われる「キリスト教的な精神で社会に奉仕すること」に通じたとみえ参加者の多くがうなずき唱和してくれた。
 この「働き」は、ちょうど50年前になるが、幸運にも一年ほど一介の掛長として何人かの同僚とと共に資料配布や記録などで陪席していた八幡製鐵の経営会議で当時の稲山嘉寛社長から直接聞いた言葉の一つであった。
 稲山社長は後に新日鐵社長や日経連会長としても日本経済界を指導された人だが、会議ではポケットから小さなノートを取り出しては丹念にメモをとられ、必要に応じそれに目をやって自社や鉄鋼業界のみならず日本経済全般についてグローバルな視野から意見を述べられ、主要な場面で強い指導力を発揮されていたのが強く印象に残っている。
 稲山社長は演説調はあまりお得意ではなかったが少人数の会議ではにこやかにユーモアを交えて語られ、場の雰囲気を和らげられるタイプの話の名人でもあった。冒頭の「働く」もそうだが、ある時机上の資料を一瞥されて「ブカブカドンドン」と独りごとを言われ何事かと思っていた。会議が進み組織の議題になると「チンドン屋ではあるまいしこの頃は”部課・部課どんどん”と皆が言い組織が増え複雑になるが-----」と節を付けて面白く言われ皆がそのことだったのかと笑った場面も鮮明に覚えている。
 何回か続いた会議である重役に一つの大きな案件に関し強い反対意見を数回にわたり述べる機会を与えられ、それをどう決着されるのかと30歳そこそで下っ端の私ははらはらしながら傍聴していた。社長はその重役が意見を述べ尽くした所で、その重役に反対されていた立場で問題を解決するように任用されたのには驚いた。また、その重役も自分が述べた理由を反対していた立場から解決すべく大活躍されたのには感じ入った。
 「働く」ことが50年昔の稲山社長の人柄と仕事のなされ方につながり、あの世のどこかでさぞ苦笑されていることだろう

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東海道本線のこと 【この頃思うこと-34-】 [この頃思うこと]

東海道本線のこと 【この頃思うこと-34-】

 東海道新幹線は山間部以外では高架を走っていると思い込んでいた。しかし200mほど離れた東靜岡駅は、高さが10m、幅40m、長さ200m弱ほどの跨線橋の上にあり、その下には東海道本線線と隣に並行する新幹線の複線線路、その横には何本もの保線車両や貨物操作のための線路が通っている。つまり、駅を挟んだ東西に2kmほど金網で囲われ進入不可能なこの区間で新幹線は地上を走っている。それは囲いの東端にいまも貨物駅があり旧国鉄時代に広い操車場だった一帯を利用したからだろうと推測される。

DSC_0196.jpgその東海道本線は通過しただけと思っていたが、思い出せば随分とお世話になっている。最初は昭和13年(1938年)に門司で関門連絡船に乗り換え東京まで行ったときで、車窓からの富士の雄姿に加え、当時その頃の九州では想像もできなかった女性自転車姿に「女の人ノ(が)自転車に乗ットラス(られる)」と思わず方言丸出しで叫んだのを記憶している。

 その次の思い出は、1951年に佐世保から今度は関門トンネルを通る直行の急行列車で20時間余り要して上京した長い旅だった。その年末の帰郷では日に一本の長崎・佐世保行きの急行が超満員で窓から乗るのも一苦労だったが、通路にも皆がところ狭しとしゃがみ込み誰かがトイレに行く度にひと騒ぎで、座って行けるようにだけは早くなりたいとつくづく思ったものだ。

 1956年に北九州勤務となり東京の本社へ年に数回の出張ので東海道本線を利用していた。その後東京に転勤し1973年には仕事の掛け持ちで半年間八幡と東京を月に3回は往復していた。その頃には寝台車があり、夕方乗ると東海道線は夜や早朝に通って翌朝に目的地へ着くので余り車窓の景色を見た覚えはない。その後関西での大学勤務の折は、月に一回の東京で仕事を済ませて夜行寝台でコトコトと言う音を聞きながら東海道本線を寝ていくのは気に入っていて、その寝台列車が数年前に廃止になったときは淋しかった。
 いずれの場合も、ここ靜岡辺りを通ったのは夜か早朝の眠いときでまさかここに住むとは思ってもいなかった。昨年大阪に行ったとき、知人に「新幹線の靜岡駅でローカル線に乗り換えるのですね」と言われ、思わず「いや東海道本線に一駅乗るのですよ」ととっさに口から出た。ローカル線ながら東海道本線でもあり愛着を覚えているからだろう。

 「東海道本線」では靜岡駅からは近辺の各駅停車の電車は約10数分おきに熱海行きのは昼間は30分おきに出ている。それを利用すると天気さえ良ければ電車の車窓から富士山と駿河湾との景色が楽しめ、トンネルを突っ走る新幹線では味わえない1時間10分少々ゆっくり味わえる。



 



 


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「消費」と「生産」に関する感情 【この頃思うこと-33-】 [この頃思うこと]

 「消費」と「生産」に関する感情 【この頃思うこと-34-】

  ボランティア活動と聞くと、年金など毎日「消費」するだけで「生産」への関与がない最近の生活に何となく申し訳なさを感じる。でも、貢献度は別として31年間は高度成長期に鉄鋼業で、その後の19年間は大学で人材育成にと同年配の人より長く50年間働いたことで勘弁願えるかとの感情もある。新聞で「資本主義社会では年率数パーセントの成長が望ましく、消費で新しい需要を喚起し雇用を生み出して経済を活性化する」などと読むと若干救われた気にもなる。しかし、赤字の高齢者対象収支のなかでのやりとりは落語の花見酒に類似のようでもあり、しかもそれが可能なほどの財がこの半世紀余りで日本に蓄積されたとは思えず懸念も残る。と言って高齢者の身では選択肢が別にあるわけでもない。財政予算は収入に匹敵する大幅な借金依存構造であり、健康に留意して医療費や介護費負担をできるだけ少なくし生活の質を高める努力をするので精一杯のようだ。
 このような「消費」への強い「負」の感情は、次世代層とはとは異なるのかも知れない。それは、私が戦前・戦中の幼時に「倹約は美徳」と頭に刷り込まれ、また戦争直後の食欠乏時代には「土地と労力を使った食料の生産」を痛感させられた時代の残滓かも知れない。 また、敗戦後11年目の製鐵会社入社時に、幹部から「日本には天然資源は皆無に近く、豊富なのは勤勉な人材だけだ。引き揚げ者で人口がひしめく狭い敗戦国で貧乏な日本は、資源を海外から輸入しその豊富な人材で付加価値を高めて輸出し、その際の利益で辛うじて生きて行く他には道はない」との講話にその通りだと感銘を受けたことも大きい。
  会社では生産にコンピュータを使用し生産効率を高める仕事だったが、日本経済の急成長期に精一杯に働く場が与えられ幸運だったし、また、大学では2年間を共に過ごした100人以上のゼミ卒業生の活躍ぶりを聞くのも楽しみだ。
 経済構造の変化に関連し、米国の大学で「1950年代の話だが、NYで放送会社の社長が中西部の大農場主の父親に親孝行したいと会社へ招待しもてなしたら、父親が『自分は永い間朝から晩まで小農場で骨身を惜しまず身体を動かしてやっといまの農場を自分のものとした。だのにお前は身体を動かすでも、人の口に入る麦の一粒でも生産するのでなく、動かすのはただ口先だけで若くしていまの自分より高レベルの生活をしている。このような社会の仕組みには納得できない』と怒って帰った」との話に続き、教授は「世の中が第一次産業からものを生産する第二次産業、その流通・情報を担う第三次産業へと変わって行く過程では価値観が急激に変化し、この例のように高齢者は付いて行きにくい」と講義を結んだ。これを50年近く前に聞いたときはこの父親の反応を他人事のように思えたが、これを書きながらいまは自分に当てはまるように感じる。格差はあるが社会一般に衣食住が充たされ、日常必要なものに何とか事欠かなくなり、次は生活に伴う消費を楽しむ段階になったと言うわけなのだろうか。なるほど、第一次産業から第二次、三次産業への移行は「物」や「情報」への付加価値が認めあられある程度納得できるが、いまの「金融操作」だけで巨万の富をえることには半世紀以上も前の米国の老農夫と同じく納得しかねる感情がある。今さらと笑われそうだが、このような人間の欲望と貨幣・消費と関連した資本主義についてもう少しは学び考えたいと思っている。


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流通の近代化とドラッカー教授の言 【この頃思うこと-33-】 [この頃思うこと]

流通の近代化とドラッカー教授の言 【この頃思うこと-33-】
 
   いま住んでいる一帯は広大なJR操車場や小さな工場群の所有だった土地を再開発したせいか、この4年半の間で歩行できる距離内にショッピンセンター・コンビニ・スーパー・ドラグストアが新設されて便利になった。これは流通の近代化の成果なのであろうがいずれの店舗も比較的に安価で多種多様な品物に溢れている。

   転居してすぐは「おまち」と言う言葉が固有名詞とは知らなかった。しばらくして靜岡では駅から城跡への幾通りかの商店街を愛情を込めてそう総称していることがわかった。城下町の名残なのか「おまち」には老舗もあり、またチェイン店なども混在して買い物にも暖かい雰囲を感じる。
しかし、日本各地の名店街では、街中や郊外にできたコンビニやショッピングセンターなどのために閑散となったところも多いと言う。現に私自身も昨秋、以前に住んでいた北九州市を訪ねたが、黒崎駅前や八幡の中央町などの賑やかだった商店街は閑散としてシャッターが下りたままの店が多く改めてそのことを実感させられた。
 D002_edited-1.jpg   「流通の近代化」の言葉でドラッカー教授が自宅でふと話された言葉を思いだした。教授のことは以前にこのブログで紹介した(稿末参照)ので省くが、教授にはカルフォルニアのDrucker Centerに客員研究員として滞在し知己を得た。研究の合間に同センターの看板講義と言われた「意思決定論」を聴講したが、当時82歳だった同教授は東西古今の歴史上の人物や文学の主人公などを例にその状況と共に展開され、日本の戦国時代の戦いなどでは私に確認を求められるなど、その博学と記憶の確かさには驚嘆した。教会関係で教授のDoris夫人とも知り合い、家内と2度ほどお宅に招かれ軽食をご馳走になった。それは日本のバブル経済が破裂し始めた1992年後半だったが、そこでの話題は専門から離れて教授の造詣が深く愛情を持たれていた日本の美術や歴史の話題が多かった。そのなかで、ふと「日本企業も少し調子に乗りすぎて日本国内のみならず米国内の不動産に不当な大金を払って購入しているが後悔することになるだろうに」とか、「日本の物作り技術の進歩は一流になったが流通面の近代化は随分遅れている。日本固有で私の大好きな人の暖かみがなくなるのは残念だが、多くの小さな家族営業の店主が引退する頃には流通面も淘汰され近代化が進むだろう」と若干淋しそうに言われたのが印象に残っている。
   周知の通りその直後から不動産の購入で多くの日本企業が行き詰まり、国内外共に損を覚悟でそれ等の売却してバブル弾けに拍車をかけた。しかし、「流通の近代化」については、当時の日本ではそれで生計を立てている個人の店が多く、博士の言葉通り、その人達の引退が原因なのか結果なのか、多分その双方なのだろうが、個人の店は次第に姿を消し、街中のコンビニや郊外の大型スーパー、それにショッピングセンターが流通の主流になるのにはそれから10年以上の歳月を要した。確かに効率は良くなったが挨拶に込められていた暖かい人間味は薄くなった気がする。
  
   
拙 blog(http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-10-26-2参照

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足部の巧妙な構造 【この頃思うこと-32-】 [この頃思うこと]

足部の絶妙な構造 【この頃思うこと-32-】 http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/
 2014/08/05
 足部は一年半前までは風呂で洗う程度だった。しかし、いまは朝夕TVを見ながら足の指と足首を回転し、さらにふくらはぎと腿(もも)のケアもしている。その際手に比し足部が分厚く骨も多いのに気付いた。以前なら図書館での半日仕事の調べ物だが、いまはWEBで瞬時に検索でき疑問に関する記述(文末URL参照)を見つけた。この記述で、これまで自分の足部の重要さに無関心だったことを思い知らされ、私と同類の人もいるかと思い私なりの要約と解釈を記そうと思う。
  記述では、骨は片足部だけで種子骨2個を加え28個、両足部で56個もあり、全身の骨の206個前後の1/4が足部に集中し、足根骨7個、中足骨5個、趾骨14個の3グループで2階建て状にアーチ型の立体を形成していると言う。足を裏から見ると、足趾(あしゆび)・前足部(ふみつけ)・中足部(つちふまず)・後足部(かかと)の4部分に分けられ、その土踏まずのアーチ形状は、外側と内側の縦アーチとそれをつなぐ横アーチとで柔軟に変形する空間を形成し、蹴るときのバネ、着地時の衝撃クッション、筋肉や神経の保護の役割を果たす絶妙な構造になっていると言う。我々はその構造についての格別の知識やマニュアルもなく使いこなしているわけだ。
 この絶妙な構造は、人類が2足歩行を始めて以来幾万年かかけて進化した賜物だろう。その恩恵を引き継いだ我々は、よちよち歩きの間にこの足部の構造を無意識に使いこなせるようになる。その絶妙な構造を使いこなす身体全体の仕組みは、昔学んだサイバネティクスの主題とするところだ。我々は通常特段の注意もせず、平面や斜面で、転ぶことなく身体の重心を前後左右に移動させて、しゃがみ、立ち、歩き、走り、跳べる。その際、骨の構造から足の裏が接触面の形状に応じ自由に変形し、その主要箇所に生じる体重や加速度による荷重を感じてそれを神経を通して脳にフィードバックする。すると、それに応じ脳から箇所ごとの荷重が強いところは弱め、弱いところは強めて荷重が各箇所別に均一になる(バランスがとれる)ように、つまり足裏面が満遍なく接触面に接するように指令がそれぞれの筋肉に出され、それに応じ2階建ての骨組みとその関節が立体的な一体となって絶妙に筋肉を動かす。このフィードバックと指令とは瞬時に行われ全く我々の意識上にあらわれることはない。いま開発されているロボットでは二足歩行が極めて苦手だが、これほど絶妙な働きを機械で行うことは無理なことがこれで充分に理解できた。
 
 このような身体の骨と筋肉による動きの構造への興味の発端は、狭窄症手術ののち背骨及び骨盤の姿勢矯正を自力で行うヨガ教室で足指を回したことに始まる。そのヨガ教室では毎回始まりに各自が鏡で左右の肩の高さで姿勢を確認する。その後、各人で異なる肩左右の高さアンバランス矯正に留意しながら種々なポーズで腰まわりを曲げまたねじる。終了時に鏡で左右の肩が同じ高さに矯正されているのが確認できるのも励みだ。その結果もあろうが、姿勢は良くなり10分も保てなかった連続歩行が最近では1時間以上可能となった。また、左足の指2本が下方に折れ曲がるHammer Toeになっているのにも気付き、1年以上は要したが毎日上方に曲げる矯正を続け正常な指になった。これらのことで、全体の加齢には抗しがたいが身体の部分には適正なケアさえすれば、まだ治癒力が存続していることにも気付いたのは収穫だった。 
                        参照  http://www.asics.co.jp/walking/shoes-foot など


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物理学概観の学習 【この頃思うこと-31-】 [この頃思うこと]

物理学概観の学習 【この頃思うこと-31-】
 
   拙ブログ「科学者の信仰」(2014/5/12)で、ウィナーの著書の二つの言葉を思い出しSTAP問題への愚見を述べた。それを見た入社同期の旧友から大栗博史著「重力とは何か」(新刊書880円+税)の読書を勧められた。早速入手し読むと近年巷間で話題となった難解な語句・事象が図示も含め分かり易く解説され、個々には2日ほどで一応理解できたと思えたが、それら一連の関連を納得するのにはさらに2回ほどの簡単な速読を必要とした。友人の推薦だけに著者の論旨はウィナーの主張をも彷彿とさせた。
  その論旨は《物理学では自然界現象の法則の解明が数式で表現され、実験での検証が必要だ。当初は万能と思われた法則が、やがてその適用範囲限界での矛盾が見出され、新たな学者たちがその矛盾解決を既存の理論も包含し(保守的)、かつ天才的な奇想天外の発想で新理論(急進的)が現れる。その検証過程での異論は多いが、何年もの実験での実証により決着する。その意味で物理学者は急進的な保守主義者である》と私なりに要約できそうだ。
  微分学で、《曲線はすべて細分化すれば直線と扱える》と知ったの同じく、《物理学では極小から極大までの自然界を表す法則を一つの理論で説明するのは容易でない。それはマクロ・ミクロの世界とも10億m(メートルの略号)単位ごとに新理論が発展してきた》との同書11頁の図示と説明で全体像を初めて知りえた。すなわち、《人間の身の丈が1mとすると、天界と地上の運動法則を統一したニュートンの「重力理論」もその矛盾なき適用範囲は月の軌道も入る10億mまでである。それを超す10億X10億m(銀河の大きさ)では、その理論をも包摂し(保守的)拡大範囲での事象をも説明できる常識を超えた(革新的)アインシュタインの数式理論が確立実証された。それしも、より大の10億X10億X10億m(光で見える宇宙の果てや見えないブラックホール)では矛盾を生じ、さらなる新理論研究が進められている。他方、極小方向では10億分の1mまでの範囲がナノ・サイエンスで、マクスウェル理論はその範囲の〈電気と磁気〉を統一しその力の働きを解き明かした。さらに、アインシュタインはニュートン力学とそのマクスウェルの電磁気学の矛盾を特殊相対論でさらに乗り越えた。マクロの相対論に並ぶミクロの重要な理論が統計概念を含む「量子力学」である。ナノ・サイエンスでは「素粒子」物理学の「標準模型」を作り、物質とそこに働く力の作用を実証し説明できた。しかしそれは10億X10億分の1mより極小の世界では通用しない。著者は「それはマクロとミクロを統合する新理論で、日常経験する「空間3次元+時間」の4次元を超える6次元の《超弦理論》も含まれる「重力」の研究でさらに進歩すると信じている》と述べているように思える。
  ウィナーの《科学は自然法則の信仰(ドグマ的な宗教でない)なしには不可能で神は巧み深いが悪意は持たない》は著者の言と重なる。彼のもう一つの言《自然界の法則は難解だがその都度あらゆる策略偽りを弄し相手を敵とする(人間同士)のポーカー的悪魔ではない》は、物理学でもあるとは言うが、人間相手のSTAPなど生科学ほどではなさそうだ。それは政治の世界では多く、ボコ・ハラムの誘拐など宗教原理主義者の言動はその極端な例と言えよう。
         blog http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/ (2014/6/21)


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サイバネティクスと人の身体 【この頃思うこと-30-】 [この頃思うこと]

サイバネティクスと人の身体 【この頃思うこと-30-】
 「サイバネティクス」(ギリシャ語で"船の操舵者”の意)は20世紀半ばに天才ウィナー博士が提唱した「生命体と機械に共通な自動化の理論」と要約できるが、その応用である自動化システム(オートメーション)が急速に普及し常識化した陰でいまでは余り知られていない。それを身近な応用例の空調機で説明すると「室内を設定温度に保つため、刻々に室温を測り調節計へフィードバックして、その設定温度と室温の差がプラスなら冷風をマイナスなら温風を、差がゼロ(室温=設定温度)になるまで送風し続け室温を自動制御する」となろう。これを下図に示すが、その矢印でFeed(供給する)back(後ろ向きに)の意もより明瞭に理解できよう。
 この工学的観点で人の身体を見ると、自意識により動きをほぼ制御できる運動系、自意識と無関係に生存本能で身体の状態を健常に保つ制御(生物で言うホメオスタシス)をする自律神経系、それらの判断と理性や心情の活動も司る脳内の働きの脳関連系に分けて考えられよう。
 運動系では、日常使い慣れた手足主体の動きを「そう思うだけ」で無造作に動くかに感じるが、制御論的には「総数200本弱の骨とその骨どうしを自由に連接する関節、それを介して各骨の両端につながる多数の筋肉に指令を出し、その緊張度を知覚神経で脳へフィードバックし、望む姿勢との差異で瞬時に関連筋肉の緊張強弱を制御する」と言える。非日常的な動き(スケート・鉄棒・野球など)の場合、超一流の選手が「身体が自然に動く」と言うのは、並ならぬ反復練習の結果で修得する筋肉・姿勢の感覚とその情報のフィードバックとが可能となり「望ましい姿勢」との差異を瞬時に認識し姿勢制御できるからだろう。
 自律神経系では、肺や心臓など諸臓器で無意識に(睡眠時も)臓器機能の現状況が常時フィードバックされ、生存本能で正常な状態保持の制御が行われる(生物体のこの制御をホメオスタシスと言う)。その制御サイクルはより長期間にわたり、血圧・血糖値など正常範囲を逸脱する場合は薬の服用での制御が試みられるが、運動量や心理的なことなど関連しあってその因果関係はより複雑であり単純に薬での制御成果を得るのは難しい。
 脳関連系は上記二系統の判断指令役に加え理性と心の分野でもある。制御対象は頭脳の中で無形の時間・空間不問の融通無碍であり、心では死者も生きている。そこでのフィードバックは反省もその一つだろうが複雑だ。この系は高・難解でこの程度の記述で精一杯だ。
 私はこの工学的な見方を、自己のQuality of Lifeの向上のため、各系別の自己の現状認識 (フィードバック) に基づき何が効果的かを納得し動機付けるのには次のように役立てている。
 運動系では、1年半ほどの運動ヨガで日常生活では動かさない身体の部分や関節を意識的に動かし、以前に器械体操で養った筋肉や柔軟度を設定値の参考に毎日少しずつの継続でその何分の一かの復活を実感している。自律神経系では「良い生活習慣」を設定値に、生活の現状を認識フィードバックし、長期的に食事・運動・薬などで差異を狭める意識で努めるが実行は容易ではない。脳関連系では、読書・作文・テレビ・宗教心などの各領域で脳の働きの退化を防ぐように心掛ける程度しか思い浮かばない。これらは、自分の身体を意識する年齢になって初めて思い立った。もっと早く気付けば良かったと思うが、もはやそのフィードバックは自分には時間的に間に合わない。この愚論が自分以外の若い人へのフィードバックの参考の一つにでもなれば幸いだ。

空調器説明.png
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「科学者の信仰」【この頃思うこと-29-】   [この頃思うこと]

「科学者の信仰」【この頃思うこと-29-】

 今年に入ってSTAP細胞をめぐる論争が賑やかである。その論争に最初接したとき、何故かNobert Wienerの言葉が鮮明に脳裏に浮かんだ。ウイナーは1894年生まれで神童の誉れ高く12歳で大学、14歳でハーバードの大学院に入学して18歳で博士号PH.D.を取得、「生命体と機械に共通な自動化理論」とでも言うべき「サイバネティックス」の創始者でコンピュータやオートメーションを先見した1964年没の偉大な数学者で哲学者である。  その言葉を著書 "The Human use of Human Beings"の訳より要約すると「科学は信仰なしには不可能だ。その信仰とは宗教的信条のようなドグマの受容ではなく自然の法則に従うものであるという信仰である。」また、別の箇所では「科学者は宇宙の秩序と組織性の発見に取り組んでおり、無秩序化という敵である悪魔を相手のゲームを戦うもの」と言う趣旨を述べている。彼はまた「科学者が相手とする悪魔には二種類ある:一つはマニ教な悪魔(一つの対応をすればそれに対し、その都度あらゆる策略、偽りを弄して相手を敵とする悪魔で相手の出方を考え対応する、ポーカー的な悪魔)と、もう一つはアウグスティヌス的悪魔(正体を見破れば追っ払える、意地悪はしない悪魔)とである」とも言う。また、関連してアインシュタインの比喩「神は巧み深いが悪意は持たない」も紹介している。ウィナーは恐らく天才として育ったその環境と余人の及ばない先見性からであろうが、批評にはことのほか過敏だったと言う。それがこのような記述になったのだろか。  最近の天文学や量子物理学などの新理論新発見は、上記の分類で言えばまさに後者の悪魔を相手に「宇宙の真理を数学的に解き明かす」ことに当たるのだろう。その理論は実験で証明されていく。このような分野の悪魔相手の過程でも研究者間で意見が相違し、しばしば前者の様相を呈したことはガリレオ、コペルニクスの例や新理論への論争でも見られる。  それに比し、生化学では「生命」という「宇宙の構造」と比べるとその蓋然性がいまの数学のみでは記述困難で、したがって「ある程度は主観も入りやすい」うえ、その分野での最先端志向と絡み、二種類の悪魔が入り交じりその判別に混乱を来したことが問題を社会問題と関連させた。さらには研究体制の政治的面にまで及んでことを複雑にしているかに見える。  加えて、本来はあってはならない研究者の倫理の基礎中の基礎である論文や実験データの使い回しの問題までが混入し、当事者がそれを「日本的」な甘えでうやむやとしたため、「悪意」かどうかの法律論争までにまで発展し問題をいよいよ複雑にしている。これは基本の問題で議論にもならない筈ではないか。  愚見では、まず研究者の基礎倫理の問題の白黒を明確にし、その上で議論の焦点を上記悪魔の前者的な立場なのか後者的な立場なのかを明確にする(STAP細胞がが実在するのか、研究体制の問題なのか)ことでいまより少しは問題の所在が明白になるのではないだろうか。  「サイバネチクス」やその創設者のウイナーのことは、私がかって大学院でそれを学び実業界でその実現に努力した「オートメーション」と関連して幾つかの思い出を書くつもりでいたが、その最初が彼の「科学者の信仰」になったことは意外でもあるが、これに続いての記述のきっかけを貰った事にもなる。半年ほど休んだブログの再開の契機ともしたい。


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キーボードと英文タイプライタ【この頃思うこと-28-】 [この頃思うこと]

キーボードと英文タイプライタ【この頃思うこと-28-】
 ワープロと昔の英文タイプライター(以降タイプと略称)のキーボードとでは、文字配置は同じだがその使い勝手、例えば誤打の修正処理、改行位置決め、改行、複写処理などでは雲泥の差があり全く「似て非」なものに改良されている。その違いはソフト(電子式)対応かハード(機械式)対応かの違いにある。つい30年以前までは英文タイプ使用者だった私ですら、ワープロに使い慣れて普段それを意識しないほどだから、いまの多くの人にはその頃の不便さとその改良点などは想像も付かないのは当然だ。その意味で当時は少数派だった英文タイプの使用者としてその幾つかを思いだしてみよう。
 ワープロ出現以前は、英文キーボードの使用の多くは「英文タイピスト」と称する多くは女性の専門職者だったが、私はその資格準備の教室のあるYMCAへ留学準備の一環としてブラインドタッチに慣れるために通った。教室では、30cm四方ほどの黒いタイプマシンが約20台あり若い女性たちが「ポンポン・チン・ガラガラ」と音をたて奮闘していた。私は資格に最低限要求される1分間2000タッチが打てるようになった一か月で終えたが、タイピスト希望者はその打鍵速度に加え、誤りなく、均一の印字濃淡、英文記述のルール遵守、などの厳しい資格検定の準備に長期間の学修と訓練を要したようだ。
 それは英文タイプが機械式だったからだ。誤打をすると、打鍵を止め紙ホルダを上げ消しゴムで本文とカーボンコピーの2箇所の文字を消し紙ホルダを下げて一字分戻して打ち直す必要があり、その時間と手間は大変だった。キーボードのそれぞれのキーと連結した細長い棒の先にそのキーに対応した英字や記号の刻字体がある。キーを叩くと一体の長い棒が上方に飛び上がり紙の前にある黒リボン上を打ち紙に刻字する仕組みなので、打鍵の強弱が印字の濃淡となり小指と人差し指では力の加減が必要だ。「ポンポン」の音の打鍵を続け、セットした行の最後の余り字数に達すると「チン」と鳴り、そこで残りスペースと次の字数で改行の仕方を考え、改行は手で「ガラガラ」と音を立てて紙をセットごと動かす。それの20台分が前述の教室で聞こえた賑やかな音だ。誤って同時に二本同時に打鍵するとその二本の棒が絡みあい両手で元に戻すのに手間取る。キーの配置がいまでも使いにくいQWERT配列なのは、その絡みの少ない配列がパソコンになって絡みとは無関係になっても配列を換えるには普及し過ぎたのでそのまま残っていると言う説さえある。
 このように考えると、英文タイピストが学び取得した技術は英文タイプと言う機械の使いづらさを補うもので、面倒だった誤字訂正、印字の濃淡、改行準備とその実行などはいまのパソコンではすべてソフトウェアで解決し、ただ打鍵しさえできれば誰でもすぐ習熟できるようになっていると理解できる。英文タイピストの資格試験がなくなった訳だ。これは身近に思いついた一例だが、世の中には、いまは当然と思われるが半世紀前には思いもよらなかったものに溢れていることに気付くようになったこの頃だ。
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漢字入力で思うこと【この頃思うこと-27-】 [この頃思うこと]

漢字入力で思うこと【この頃思うこと-27-】
  「私どもの記録に半角カタカナでプリントアウトされているお名前は、漢字でそう読むのですよね」と紙片を示し訊かれる。「そうです」と答えると「では確認させて戴きました。でもどうして漢字で書いてないのでしょうね」と不思議がる。これは随分以前に加入した生命保険のフォローで訪ねて来た若い二人の女性との対話の一場面だ。
 一瞬考えた後、すぐに「それはコンピュータのメモリーに制約があったからですよ」、「エエ?」と二人は怪訝(けげん)な表情になる。「30年以上前までローマ字表示だった名前がカナ表示になったときは嬉しかったものです」と言葉が出る。二人は益々「??」。
 「いまは64ビットアーキテクチャも使える時代だけれど、その頃使用されていた8ビットでのJIS8単位符号表が決定され、その使用で半角カナ文字が初めて記憶できるようになって銀行・電力やガス会社・生命保険などの領収書がそれまでのローマ字からカナ文字表記になり、それが16ビットになって初めていまのように漢字が使えるようになったのです」と私は簡潔に説明した。同時にそれは私が1990年代後半で編集した情報処理の教科書の要約になっていることにも気付いた。二人は少しは納得したようだったがその思いがけなく深い背景には驚いていた。
 そう言えば、パソコンもまだ出現しない1980年頃の君津製鐵所でのこと。漢字は大型コンピュータでのソフト面で記憶可能になったが、何千もの漢字の入力方法がなかった。IBMのエンジニアから「和文タイプ型の入力装置は複雑で使えないし簡単な英文キーボード改良での入力方法はないか研究中だ」と聞いたのを思いだした。それから数年も経ず、ハード面からの問題解決ではなくパソコンでも急速に大容量で安価に使え始めた記憶装置を使うソフト面から、英字・カナ・漢字変換で既存のキーボードで簡単に漢字入力できるようになり今日に到っている。それを知って、在日の中国の学者が「中国語でもそれをヒントに考えているが四声をどう解決するかが難しい」と言っていたことも思い出される。それがいまはどう解決されたのか調べてみたい。
 1985年頃会社でワープロ使用が始まり、キーボード入力の練習に率先して狩り出された部課長が「面倒臭い、手書きの方が遙かに効率的だ」とぼやいていたが、20年も前に英語で書くために英文タイプを習っていた私は、それが日本語入力で日常的に役立つとはと思わずほくそ笑んでいた。
  歴史は繰り返すと言うが、子供の頃「電信柱が初めて立ったとき怖がって誰も近寄らンジャッタバイ」と言った祖母の話を思いだし、ついに自分もその祖母と同じ立場になったのかと可笑しくなると同時に技術革新の複雑さと速さに驚いている。
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健康ヨガと治癒力【この頃思うこと-26-】 [この頃思うこと]

健康ヨガと治癒力【この頃思うこと-26-】
 健康ヨガを始めて一年になる。5月にもブログ「足の指のケア」で若干は触れたが、一年前と比べると、加齢の影響を勘案しても気力も含め全体としては確実に元気になっている。これもヨガとそれに触発されて始めた自己流「ながら体操」のおかげだろう。
 初めてのヨガ教室で、それまで風呂場で洗う以外は触ることもなかった足の指を一本ずつを回し、足首を手で回転させ、また一見奇抜なポーズで足腰や身体中の関節をひねる動きに驚いたことを思い出す。かって練習した器械体操では、急激に動かす速筋と素速い運動神経を要するが、ヨガでは遅筋をゆっくり息を整えながら自分の限界まで伸ばすことができ、しかもその限界が毎回少しずつ拡大して行くのが実感できるのも良い。関節の多さも実感した。「幾つか数えるも大変だ」と友人に言うと、「井上さんそれは簡単ですよ。人体の骨の数200強に近い数です」と答が戻った。余りの即答に一瞬訝ったが「骨は関節なしでは動かないのだ!」と改めて納得し、友人の柔軟な発想とその博識に感じ入った。
 一年前は、器械体操で人一倍柔軟だった身体も脊椎管狭窄症手術後の医者の注意で数年ほど背中の屈伸を避け固くなっていた。しかし、週一回の健康ヨガのレッスンで、意識になかった遅筋や関節を毎週次々と無理なく限界まで伸ばすのと、それを毎日家での「ながらヨガ」「ながら体操」で行い、いまでは後屈を除いた柔軟度はかなり戻り気持ちが良い。
 「ながらヨガ」はいまのヨガの先生の著書名だが、現役を退いて散歩や買い物など以外はほとんど在宅の私にとってそれから良い指針を得た。行儀は悪いが、毎朝新聞を20分ほど読みながらうつ伏せや仰向けになり足腰の自分のできる極限までの屈折やひねりを終らせる。また、ニュースの合間・湯舟のなか・ベッドで、足の指や足首の回転・膝から腿へかけてのマッサージのそれぞれを「ながら」でとくに時間をとらずに済ませる。
 これらから、うまく続けられればまだ自己治癒力が充分に残っていると気付いた。今年初め、ぶら下がり器で懸垂を試すと1回もできなかった。大車輪の頃は軽くできたのにと、一念発起し毎日少しずつ試みていたら半年で5回できるまでになった。それに勇気づけられ平行棒を模して二脚の椅子を間隔をとって並べ、幾つかの屈伸組み合わせを工夫して少しずつ回数を増やしていくと、昔あった胸筋が少し戻り始め胸に緊張を感じ姿勢も良くなった。若い時と違い1回での実行回数を制限し、少しずつ継続することが肝要なようだ。
 ヨガの別の余禄は、左足のみなのも不思議な話だが、第2指と第4指の二つの関節が下方に屈折し、地面に接した指先の硬化と爪の変形に気付いたことだ。長期間そうだったらしく手の指で上方に伸ばしても動かない。これも根気良く少しずつ伸ばし続けたら、最近少し関節が上へ反り正常な爪も生え始め、歩行時に足指の裏に地面を感じるようになった。それで姿勢も安定し1回の継続歩行可能距離が伸びてきたように思う。機械では重要な”joint”部分は、摩耗や錆が付くと廃棄するしかないが、人間の関節つまり”joint”は80年以上使い続けても、あきらめず根気良く一年近く手入れを継続すると身体の治癒力が働き元通り動くようになるとがこれで実証された訳だ。 
 このように心身共に健康を保って、積極的にボランティアなど世間に貢献できれば申し分ないが、残念ながらもはやそれだけの自信はない。でも、せいぜい自立して他人への迷惑を若干でも少なくし、自分に授け与えられ未使用未開発なことがまだ多く残っている肉体・頭脳・心情を、それらを授けられている間中は限界一杯まで使い切るように Quality of Life を高めながら生きたいと願っている。
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差別とsegregation 【この頃思うこと-25-】 [この頃思うこと]

差別とsegregation 【この頃思うこと-25-】
 差別問題は、高校生のとき島崎藤村の「破戒」を読んで初めて身近にその存在を感じた。企業で東京にいたとき、1980年頃だったろうか、採用時の差別が社会問題となり、多くの企業で管理者が同和・差別関連の特別講習を受けた。そこで部落問題の歴史、主な社会的な関連事件、問題点、対応などを系統的に学んだ覚えがある。
 企業を早期退職し1987年に関西の大学へ移ったが、関西での同問題へ取り組みが関東に比し格段に熱心なことを知った。私の属する教授会で「年に一回の同和問題のクラス討論を今月の各専門ゼミで行う。そこで同和関連の学生達に問題提起させ討論する」と言う。他の教授達は社会科学のテーマに馴染むのか反対はなかったが、私の担当の情報処理とは内容的に縁遠い。しかし、その意義は認め関連の問題提起と討論に若干の時間を割くつもりでいた。その翌日に、同和研究会とかの学生が「同和・差別問題は特別なので私達が出席し討論に加わる」と言ってきた。「専門ゼミの二十数回で全うする講義をそのために90分全部は使えない。本題は企業でも学び自分でも調べ準備する。差別は米国で散々経験したのでその二つで20分くらいを使う」と断ったが彼らは聴講に来た。翌年から出席はしなくなったが、そのスタイルは何年も続きある年から急になくなった。
 その理由を柳父章著の新刊「未知との出会い」のなかで知った。著書で「部落解放の学生達がクラス討論で有無をいわせず差別の間違いを説得し、みんな賛成しなければならないと言う風潮で自由な議論をさせない。その方法が良くないと3度の教授会で続けて発言して認めさせた」趣旨の記述があった。「言葉狩り」の懸念さえある雰囲気で氏の属する教授会での退職覚悟の発言だったそうで、運動自体には賛同されていた。同氏とは同じ日に同じ大学に勤め始めた因縁があり、私より年長だが翻訳や日本語に関連した広範囲な研究分野でいまも活躍されている。同氏の面目躍如の一面を思いだし嬉しかった。
 差別と言えば、体験した50年前の米国における人種差別segregationの実状は、いまの米国の現状からは夢のようだ。その100年前までは奴隷制度が存在したのと考え合わせると、最近の40年に米国で起こった変化は驚嘆に値する。1958年に留学するとき、フルブライトの事前研修で、日本ではよきされる米国での人種偏見・差別に関する種々の率直な注意を受けた。その主なものは、ホテル等で "race"とあれば "Caucasian"と "Mongolian" それに"Black" だから"Mongolian"と書けば良い、"White only" と言われても日本人は入って良い、などだった。
 事実、何度も "Mongolian"と書いた記憶がある。初めてシカゴの駅に着き食堂で昼食を済ませ出て来ると"Black"(いまで言うアフリカンアメリカン)の人が "Look !" と示す入り口には"White only" とあった。同じ理由で留学中のエチオピアの王族が散髪拒否を受けたり、住んでいた Cleveland にもユダヤ人住居地、イタリア人街、黒人街などが現存したりしていた。異人種が住むとその一体の家賃が下がったのも事実だ。教会も白人と黒人は全く別だった。現に日本人の家内と結婚し家を探したときも、面前での極端な差別はなかったが "House for Rent" の庭の掲示で訪ねると「もう契約済み」と言う。何日か後もその掲示はそのままと言うのが何軒もあった。1965年に受けた一か月泊まり込みの "Executive course" で、政治・経済・外交などの広範囲な講義の中に "Segregation" が含まれ私より10~20歳くらい年長のエクゼクティブ達が「大統領選で人種差別のなくなるのは自分たちが死んで遙か後だ」と言っていた。それが事実上子供の代で実現している。 
 その一方で世界では民族差別の現状がまだ根強く残っているのは悲しいことだ。
blog  http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/  2013/8/21
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身体の部分の記憶【この頃思うこと-24-】 [この頃思うこと]

身体の部分の記憶 【この頃思うこと-24-】
 人の身体には脳以外にも記憶機能があると言うが、自分の身体のことで考えると幾つかそれに思い当たる。
 その一つは皮膚細胞レベルの記憶だ。高校の2年で鉄棒を始めたが、大車輪では一瞬ながら掌(てのひら)に全体重と遠心力がかかる。それに耐えるのに、当時は握力が45kg強ずつあったように思うが、掌全体の皮膚が厚くなりとくに五本の指の付け根部分にはいわゆるタコができる。皮膚の保護のため、終戦直後の物資不足時代で苦心して入手した鹿のなめし革に自分で紐を縫い付け指と手首に結んで練習した。それでも指の付け根のタコが厚くなり、週に数回は良く磨いだ小刀でタコの表面を薄く削ぐ必要があった。タコが剥(む)けると、皮膚ができるまでに消毒し薬を塗って一週間ほど要していたが、先輩の助言通り痛いのを我慢して砂で傷をこすり家で風呂の熱湯と冷水を交互に掛け刺激すると三日ほどで済み練習できるようになった。鉄棒を止めてからも皮膚組織の記憶だろうか頻度は減ったが五年以上はその部分のタコを削ぐのが続いた。その後は、鉄棒にぶら下がったりバットを握ったりして少し掌への刺激が続くと指の付け根が思い出すらしくタコができ削ぐ羽目になった。その話題で、大学・社会人とピッチャーで大活躍した友人が「指の付け根でなく指先にタコができその手入れが肝心だった」と言うのを聞き、それぞれのスポーツで人知れぬ苦労があることを知った。60年以上経ったいまでも、その部分の皮膚に記憶が残っているらしく、掌が普通の人より少し厚く、また刺激を続けるとすぐに指の付け根の部分が厚くなり驚く。
 もう一つは筋肉細胞レベルの記憶である。筋肉の分類には種々あるが、持久力が特長の遅筋と瞬発力の速筋の分類が分かり易い。遅筋は日常生活に必要な筋肉で加齢と共に運動量が減るので散歩などで補う必要がある。力仕事をしなくなると速筋は急速に衰えるがさして不自由はない。しかし、昨夏の入浴時の鏡で、胸にはあばら骨が腹には皺が寄っているのに気付いた。青年時代の胸囲1m強、腹囲70cm弱がなんとそれぞれ83cmと86cmほどとなっていて、それが何となく緊張感に欠ける感じがしていたのに関連するように思えた。「若い時に鍛えた筋肉はある程度は戻る」と以前に読んだのを思い出し、自分で、椅子・ぶら下がり器・ダンベル・床マットなどを使う独自の体操を考え少しずつ実行した。若い時にはやり過ぎても少し筋肉が少し痛いだけですぐ戻ったがいまは痛さがとれるのに数日を要する。根気強く少しずつ運動量を増やして実行し続けるのが重要だ。昨年末からはヨガを習い初め、身体中のとくに腰回りの関節をゆっくり極限まで廻すことで、脊柱管狭窄症の手術以来四年間止めていた柔軟体操も始めた。それらは昔器械体操で使った筋肉や関節で、やり過ぎて痛い目にもあったが一か月くらいから目に見えて少しずつ復活し、今では昔ほどではないが胸囲が93cm、腹囲が82cmと胸筋の速筋部分が付き上半身に忘れていた緊張感が戻ったせいか元気になったように感じるから不思議だ。これも胸回りの速筋がかっての記憶を取り戻したからだと思う。その証拠に、10年ほど前にそれまでは存在感すら意識できなかった内股の筋肉をスキーの初心者コースで三時間ほど使っただけで、その後半年ほど痛みが取れなかったのみでなくその後もそこには筋肉が付かなかったことと比較するとその差は歴然だ。
 速筋は日常生活には必要なく使わねばすぐ衰えるが、気持ちを若く保つには効果的なので、無理のない程度で遅筋の衰えを防げ散歩と共に続けて行きたいと思っている。
       blog  http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/     2013/7/19  
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同音異義と融通無碍な日本語での漢字使用【この頃思うこと-23-】 [この頃思うこと]

同音異義と融通無碍な日本語での漢字使用【この頃思うこと-23-】
 最近友人から「韓国語で〈神社〉を同じ発音の〈紳士〉と混同する〈靖国紳士〉問題や、旧く遡って2004年に金正日を賞賛する〈天出名将〉が同じ発音で〈賤出名将〉と読めると韓国で政治問題になったなどの同音異義の事件をWeb上に日本語で見つけた」と教わった。それらを読んで20年ほど前に韓国の交流大学の教授が「最近の韓国では漢字使用を廃止し同音異義の区別がつき難くなって困る」と慨嘆していたのを思い出した。
 そのときは分からなかったその背景をハングルの学習の思い立ったとき初めて理解できた。中国語を少し囓りかけた経験で、韓国も漢字文化圏内だと思い漢音と似た発音に関連づけ、〈カムサ〉は〈感謝〉の韓国語読み、〈ハムニダ〉は〈します〉と覚えたが、漢字にない韓国古来の単語が多くしかもそれが漢字では読み書きできないと知りその流儀は挫折した。つまり当然と思った漢字使用の流儀は日本独特なのだ。例えば日本語での、漢字の〈山〉の意味〈mountain〉のまま音読み〈漢読み:サン、呉読み:セン〉に、日本古来の〈ヤマ〉と訓読みもできる融通無碍な日本独特の流儀が韓国語にも通用すると思い込んでいたからだ。そこでWeb上の問題に戻ると、韓国語では漢語語源の単語が多いのに漢字を廃したので、同音異義語の判断はその使用前後の状況でしかできなくなった。その不自由さ加減を、我々がパソコン使用で困る同音異義語の判断に有効な漢字が使えない場合で想定をすると、教授の愚痴も納得できる。Web上で"靖国神社"が同じ発音で"靖国紳士"の意、"天出"が"賤出"の意ととられるのも、漢字廃止の前提だったのにそれらを漢字に遡って考えたので生じる混乱だろう。また、漢字の読み方で中国語では同じ発音も〈音の高低の四声〉で区別できたのに、日・韓共通に四声がないために同音異義が多くなり、しかも韓国ではそれに加えて漢字すらも廃したので問題を一層難しくしたのだろう。
 中国では同一文字の読み方は一通りしかなくそれが地方で異なるとは聞いていたが、香港の大学学長就任式で学長が印刷された英文を英語で読み、その後でまったく同じ漢字のみの文章を北京語・広東語の順に異なる発音で読む場面に遭遇して驚いたことがある。
 これとは違い通常気付かない融通無碍な日本語の読み方の実例には事欠かない。幾つかを例示すれば、中国からの留学生は「日本では姓が多く読み方も〈東海林〉でショウジとか〈長谷川〉でハセガワとか見当も付かない」と言うし、中国と韓国の留学生は「日本の姓だけの印鑑には驚いた。自国では同姓者が多く姓名の印鑑しか存在しない」と言う。また友人が「子供の名の漢字は届けたが読み方はこれから考える」との言に、戸籍への登記は(カナ名は別として)漢字体のみでフリガナはないことに気付く。それに、.イタリア駐在の私宛ての会社からの現金為替が〈Yosihiro〉と書いてきた。郵便局で〈義祐〉の漢字は〈Yoshisuke〉とも読む」とパスポートを提示したが通用するはずもない。--等々いずれも言われなければ気付かないことばかりだ。
 関連して、インドの大学教授の「授業は何語で行うのか?」の問に「日本語だ。でも何故?」と訊ねると「ヒンディー語や20あまりのインド公用語では専門用語の語彙は英語しかなく英語での授業が効率的だ。日本語で語彙は困らないのか」と言う。それで思い出したのは大学の機械工学の授業での教授の言「漢字が使えなければ飛行機は〈空飛ぶからくり〉などと冗長で授業にならない」だ。明治初期の博学な先達が各分野の西欧の学術用語に漢字を用いて創出し、中国や韓国でも多用されていることに改めて感謝の意を表する。
 
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鉄棒の大車輪回転の理屈 【この頃思うこと-22-】 [この頃思うこと]

鉄棒の大車輪回転の理屈 【この頃思うこと-22-】
 体操男子の鉄棒テレビ観戦では、その流麗な回転や宙に舞う姿が理屈抜きに楽しめる。その「理屈抜き」の流麗さこそが点数の鍵となるが、それは「回転の理屈」に深く関わる。私は16歳まで鉄棒には無縁だったがそれから半年で大車輪が廻れるようになった。その私はテレビで躍動を見るとその各瞬間に身体の該当部分の筋肉に力が入る。そこで、それを思い浮かべ、後で学んだ力学の理屈に照らし記述すると、鉄棒に無縁な人にも大車輪の「回転の理屈」とそれの流麗さとの関連とが分かり易く記述できるのではないかと思い到った。
 高2の4月、大学受験組の友人達と体力作りで鉄棒を始めたが、懸垂1回できない「でくの坊」は私のみだった。悔しくて練習し、10日ほどで懸垂ができるようになると今度は鉄棒に取り付かれ、前廻り・蹴上がり・大振りと次々に大技へ挑んだ。夏休みには逆車輪と大車輪が廻れるようになり、その1949年度秋の県国体県予選に出場できた。必要な筋肉も逐次付き、身体で覚えたその感触は60数年経ったいまも残っている。肝心の受験勉強はそれで遅れ一浪したが、一生一度の成長期に虚弱な身体が柔軟・頑強になったのだから悔いはない。
 さて「回転の理屈」だが、大車輪も鉄棒を軸とした身体の回転運動で回転モーメントの原理に従う。つまり、回転を続けるには何らかの回転力をその運動体に補う必要がある。その外力は身体の落下で生じる重力を、体内の筋肉の瞬発力を出して鉄棒の撓い(しない)で生じる反力とタイミング良く合成して遠心力に変えることだ。それがうまく説明できれば、次に鉄棒下の静止状態にある身体を鉄棒の真上で倒立させるのは同じ理屈で説明できる。説明上はそれは後にして、私の身体の記憶を頼りに、まず倒立状態からの運動体として説明を始めるが、分かり易くするため説明では鉄棒の真横から見て身体が鉄棒を軸に時計廻りに廻ると考え、その身体の軸位置角度を時計の長針が指す時間の数字で表すこととする。
 鉄棒真上12時位置の倒立から、腕と背筋で突っ張って顎を上に上げて重心を背部に移動させると、鉄棒を軸に重力で身体全体が時計方向に廻り始める。2時前後の位置のとき、背を反らし始める感じで3時半頃一瞬力を抜くと身体が落下し4時半頃の位置で感じるその急激な腹背筋の反動に合わせ、5時頃の方角のとき腹筋と背筋の渾身の前方を蹴り、それと6時方向の少し前で生じる鉄棒の撓い反力とを加えて遠心力に変えると、両足首が11時方向に目がけ飛び出す感じになる。そこで胸を前に出すと胸が足に付いて行く感じで上がっていく。身体が11時過ぎくらいの角位置でスット手首の重力を感じなくなる瞬間があり、その瞬間を逃さず素早く手首をクルリと鉄棒の上に被さるように返すと、足首に続いて胸が上がり鉄棒の上での倒立姿勢へと戻る。これが大車輪が1回転する理屈だ。回転速度は足を蹴り出す反動の強さで決まる。習い初めは戻るのが怖く精一杯蹴り出すので回転が速すぎるなどぎこちなく見える。さりとて遅すぎると廻りが戻って落下する。その過程で安全な落下方法も体得する。練習で学ぶのはスムースで流麗な回転すなわち「回転の理屈」が見えないようにすることだ。
 演技初めの鉄棒下の静止状態から鉄棒の真上で倒立するまでの理屈もこれと同じだ。まず腕を曲げ背中を反らし力を抜いてストンと身体を落とすときに生じる鉄棒の撓う反力を利用し足首を蹴り上げるのは上述通りだ。蹴りが強ければ足首が11時方向まで上がり、そのまま重心を足先に置く感覚で時計と反対の左回転をする大振りの技で1時近くまで身体を上げれば、その後は上述の「回転の理屈」とつながる。初心者で蹴りが弱い場合は足首位置が9時くらいしか上がらないので蹴上がりし、そこから大きく反時計方向に反動を使い足を跳ねると1時くらいの姿勢になり回転へつながる。
 回転技を終えると着地となるが、今度は鉄棒を離れての宙返りで回転力を削ぐ以外は方法はない。身体が真下に来る瞬間に合わせ足首を11時方向に反動をつけ蹴上げて手を鉄棒から離し、1回転しかできなかった私にはわからないが、回転を複数回しかもかその間にひねり技を加えるには、滞空時間を長くするため反動がそれと目に見えるほど大きく勢いをつけ身体を可能な限り高くに蹴り放りあげる必要がある。その「蹴り」だけは強烈で、流麗さを保ったそれまでの回転時の「蹴り」の反動とは異質のものだ。次にテレビで見るときそれに留意したら、上述の「回転の理屈」と合わせて「その理屈と反動を見せない流麗さ」との関係が幾分でもより良く理解できるだろう。
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足の指のケア [この頃思うこと]

足の指のケア【この頃思うこと-21-】

 去年の暮れから週に一回ヨガ教室に通い始めた。ヨガには瞑想ヨガなど種々あるようだが私のは健康ヨガの部類だろう。毎回1時間と15分の間、まず、予備運動的な手の指・腕・首・肩・背骨など上半身の関節を軽く動かす。次いで本格的に足の指の一本ごとから始まり、足の裏、足首、かかと、両脚・腰回りと下半身ほとんどすべての関節をゆっくり可能な範囲で回しねじる。とくに腰の周辺は良くぞ考えつくと感心するほど種々のポーズを取って身体をねじる。家でもその一部を行い、それによる変化を少しずつ感じ始めている。

 その一つは、いままでは入浴時以外はしなかった足の指のケアだ。窮屈な靴の中に閉じ込められる足の指にも、手ほどの自由度はないが、二つの関節の存在に改めて気付いた。私の場合、左足の指とくに第二と第四の指が下方を向き爪が短く分厚く変形しかけていた。ヨガを契機に毎日足の指一本ずつの関節をくるくる回し、痛いほど指を上に反らせ始めた。ひと月もすると、指の関節部分に弾力反応が生じ始めて上方にも反り指の二つの関節が動くように感じ、しばらくして爪がまともな形で伸び始めたのには驚いた。新約聖書にも「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように」とあるが、まさにその通りだ。やっとそのことに気付き足の指に申し訳なく思う。

 二つ目は姿勢に注意し始め、それが少しずつ良くなっていることだ。5年前に脊柱管狭窄症の手術を受けたが間欠性跛行症状が若干残っていて、途中で数回休んでは4キロ近く歩くようにしてきた。だが、手術以降は背骨の屈折は避け気味だったので、器械体操で柔軟だった身体は硬くなっていた。それもヨガを始めた理由の一つだった。ヨガでは壁の前の直立姿勢で立ち肩や両足の前後位置による背骨の歪みを鏡で見るので、背骨をまっすぐに伸ばすことを意識し始めた。また、起床時と就寝時には、ヨガの省略版で足腰の関節を曲げ、新聞は行儀は悪いが床に転がり種々のポーズで読むように心掛けた。その他、片足立ち、足の屈伸、ダンベルや椅子を利用した上半身屈伸など、痛めた腰の負担を少なく軽く動かすようにし、短時間で午前午後と数回に分けるのが効果的なことにも気付いた。

 もっと前からこれに留意していれば姿勢も良く腰も痛めなかったろうが、若い頃は身体のことは病気でもしない限り無関心で、身体を意識し始めたと言うのは自分がそれなりの年齢に達したと言うことだろう。

 足の指のケアの話が、身体全体のことになった。いつまで続くか、また、続けられるかはわからないが、このように思うようになったのもヨガの余録だと思う。

 


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