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「科学者の信仰」【この頃思うこと-29-】   [この頃思うこと]

「科学者の信仰」【この頃思うこと-29-】

 今年に入ってSTAP細胞をめぐる論争が賑やかである。その論争に最初接したとき、何故かNobert Wienerの言葉が鮮明に脳裏に浮かんだ。ウイナーは1894年生まれで神童の誉れ高く12歳で大学、14歳でハーバードの大学院に入学して18歳で博士号PH.D.を取得、「生命体と機械に共通な自動化理論」とでも言うべき「サイバネティックス」の創始者でコンピュータやオートメーションを先見した1964年没の偉大な数学者で哲学者である。  その言葉を著書 "The Human use of Human Beings"の訳より要約すると「科学は信仰なしには不可能だ。その信仰とは宗教的信条のようなドグマの受容ではなく自然の法則に従うものであるという信仰である。」また、別の箇所では「科学者は宇宙の秩序と組織性の発見に取り組んでおり、無秩序化という敵である悪魔を相手のゲームを戦うもの」と言う趣旨を述べている。彼はまた「科学者が相手とする悪魔には二種類ある:一つはマニ教な悪魔(一つの対応をすればそれに対し、その都度あらゆる策略、偽りを弄して相手を敵とする悪魔で相手の出方を考え対応する、ポーカー的な悪魔)と、もう一つはアウグスティヌス的悪魔(正体を見破れば追っ払える、意地悪はしない悪魔)とである」とも言う。また、関連してアインシュタインの比喩「神は巧み深いが悪意は持たない」も紹介している。ウィナーは恐らく天才として育ったその環境と余人の及ばない先見性からであろうが、批評にはことのほか過敏だったと言う。それがこのような記述になったのだろか。  最近の天文学や量子物理学などの新理論新発見は、上記の分類で言えばまさに後者の悪魔を相手に「宇宙の真理を数学的に解き明かす」ことに当たるのだろう。その理論は実験で証明されていく。このような分野の悪魔相手の過程でも研究者間で意見が相違し、しばしば前者の様相を呈したことはガリレオ、コペルニクスの例や新理論への論争でも見られる。  それに比し、生化学では「生命」という「宇宙の構造」と比べるとその蓋然性がいまの数学のみでは記述困難で、したがって「ある程度は主観も入りやすい」うえ、その分野での最先端志向と絡み、二種類の悪魔が入り交じりその判別に混乱を来したことが問題を社会問題と関連させた。さらには研究体制の政治的面にまで及んでことを複雑にしているかに見える。  加えて、本来はあってはならない研究者の倫理の基礎中の基礎である論文や実験データの使い回しの問題までが混入し、当事者がそれを「日本的」な甘えでうやむやとしたため、「悪意」かどうかの法律論争までにまで発展し問題をいよいよ複雑にしている。これは基本の問題で議論にもならない筈ではないか。  愚見では、まず研究者の基礎倫理の問題の白黒を明確にし、その上で議論の焦点を上記悪魔の前者的な立場なのか後者的な立場なのかを明確にする(STAP細胞がが実在するのか、研究体制の問題なのか)ことでいまより少しは問題の所在が明白になるのではないだろうか。  「サイバネチクス」やその創設者のウイナーのことは、私がかって大学院でそれを学び実業界でその実現に努力した「オートメーション」と関連して幾つかの思い出を書くつもりでいたが、その最初が彼の「科学者の信仰」になったことは意外でもあるが、これに続いての記述のきっかけを貰った事にもなる。半年ほど休んだブログの再開の契機ともしたい。


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