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三春の滝桜と桜名所を追っての旅 【この頃思うこと-20】 [この頃思うこと]

三春の滝桜と桜名所を追っての旅【この頃思うこと-20-

 四季は少し高緯度ならどの国にもある筈だ。2年以上は住んだ欧米での思い出も多くは季節と関連しているし、一夏過ごした常夏のインドネシアでも、現地の人には若干異なる季節感があるようだ。しかし、日本での季節はそれらと比べると、均等な長さで、区切りがわかり易く、より身近かに感じられる。それは、四季と共に大きく変化する山水に恵まれた自然環境にもよるのだろう。その季節のなかでも、日本の春は格別だ。3月を迎えると国内を南から北へと前後一週間ほどしか続かない満開の桜前線が移動し、あたり一面が桜の花で飾り立てられる。

 これまでに生活した九州、東京、近畿、そして靜岡とどこでも春になると近辺には桜の名所にこと欠かない。それに加えて、今年は「故郷に近い三春の滝桜を是非一度は見たいたい」との家内の希望に私も乗り気になった。自分で宿泊や移動手段を手配するのは面倒だし、バスツアーが簡単だと格好のものを見つけた。ただ、三春だけではなく1都6県の桜の名所を2泊3日で1000km走り抜けるいささか強行軍だが、いまの体力なら座席にいさえすれば一切があなた任せで済むと割り切った。問題は日程を何時にするかだ。2月時点での満開時期の予測は困難で、エイヤと4月第2週で申し込んだ。3月中は天気図が気になり、4月に入ると急に暖かくなり東北の桜も散るのではと心配したり、また寒くなって強風が吹いたりすると少し早すぎたかなと思ったりして一喜一憂だった。

 幸い出発当日は好天気で、7時過ぎの新幹線で東京へ。そこからから、バスでの栃木・宮城・新潟・福島・群馬・埼玉と東北自動車道を桜の名所巡りが始まる。栃木・福島の両県を通過し、宮城県の「樅の木は残った」で有名となった船岡城址公園の桜と、白石川堤の千本桜の辺りの、一面満開の桜は「見事」の一語に尽きる。それから、来た道を戻り、夕方6時少し前に主目的地の福島県三春の滝桜へ着いた。夕暮れ時ですぐにライトアップが始まった。なだらかな斜面に樹齢千年は超すという名老木の周り30メートルくらい外に囲んだ柵の周りは多くの人で溢れている。その真ん中に、一本だけの幹の周り10メートル、高さ10メートル、縦横の幅20メートルほど一杯に満開の桜の花を張り出している姿には、見とれて感嘆の言葉すら出ない。沢山の支柱を立て手入れが大変だろうが一本の桜でこれだけ壮大美麗な桜は見たことがない。遠路はるばる見に来た甲斐は充分にあった。しかも

ちょうど満開の時期に合ったとは幸運だった!!

 

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翌日も好天気で、会津若松の鶴ヶ城を訪ねたがここの桜にはまだ早くつぼみだったが、そこから山越えの磐越自動車道では残雪すら見られたほどだから無理もない。それでも新潟JCを通り日本海に面した米山辺りではあちこちと満開の桜が車窓から楽しめた。越後の高田城趾では4000本あると言う桜が満開。夜桜のライトアップで辺り一面の花盛りは壮観だった。最終日の、松代近くの桜名所100選に入っている800本の臥竜公園の桜並木桜も見頃だった。それから東京までの帰路に立ち寄った長瀞の桜は1週間前が満開だったそうですでに葉桜で、畳岩からの渓谷の端麗な眺めで終わった。

 幸運にも主目的の、たった一本で華麗な三春滝桜や、宮城の船岡城址公園の桜と白石川堤の千本桜、新潟の高田城跡の4000本桜、長野の800本の臥竜公園の桜並木桜はいずれも満開。会津での早過ぎのつぼみ、長瀞でのは遅すぎ過ぎの葉桜と共に3日間ひたすら桜名所を追っての1000キロの旅を無事終え感謝であった。

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   白石川堤一目千本桜              船岡城址公園の桜          高田城址の夜桜


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ラウンドアバウト(Roundabout)【この頃思うこと-19-】 [この頃思うこと]

ラウンドアバウト(Roundabout)【この頃思うこと-19-】
 まり聞かない言葉だが、イギリスでは前から普及していて飯田市が実験的な採用を始めると話題になった円形交差のことだ。初めて出会ったのは20年ほど前のscotlandでだったが、ここでは、6年前にEngland西部とWalesを3週間ドライブしたときの体験で述べる。
 「イギリスでは」と簡単に書いたが、それは厳密に言えばUnited kingdaomつまりEngland, Scotland, WalesとNorth Ireland全体を指す。「日本列島に住む人は皆日本人だ」と単純に思っている私たちには理解しがたいが、それより狭い同じ島とか隣接した島内に住んでいても「王様は一緒だが国と国民意識は違う」ということのようだ。それに最初に気付いたのは学生時代の英会話で、講師に"Are you English?"と訊ねると"No, I am Scotish"とすごい剣幕の答えが戻った。驚いて理由を聞き、ある程度は納得したがいつか自分の目で確かめたいと思っていた。1992年にEnglandとScotlandをドライブした時にそれが実体験できた。その時はWalesにも行きたかったが時間切れとなり、それを2006年に3週間かけて実現した。
 前回と同じく、London到着当日と出発前夜のみはホテルを予約し、後はおよその場所と日程を決めるだけで、気の向くまま次に泊まるB&Bを見つけて1~数泊しながらの旅だった。前回の人口密度が低い地方と違い、今回はEngland西部を抜けWalesへと交通量の多い地方を通る心配があったが、既に日本では充分普及済みのカーナビで解決すると思い出かけたのだが、それが大失敗だった。到着当日ホテルから電話したレンタカー会社が「カーナビ付きの車は一台もない」との言に耳を疑り、数社に訊いたが同じだった。仕方なく詳しい地図の本を買い、翌日の宿泊予定地近傍まで、主な道路の交差点を目印に走行ルートを1枚の紙に見やすく作り対処した。その作業でわかったのは、なだらかなEngland西部の丘陵地帯を通る一見して昔の馬車道だったような道が、隣接する小さなTown間を縦横に結ぶ網の目のように広がっていることだった。Londonを出るまでの都市部分での交差点は信号だったが田園地帯に入るとRoundaboutが出て来る。
 Townの中心での四つ辻がそれだ。その中心の径20メートルほどのロータリーに沿って車が時計回りに廻る仕組みだ。廻っている車に優先権があるので、そこに入るにはその少し手前から車速を調整しながら、頃合いを見計らって車間にスット割り込む。入り込みさえすれば何回周っても良く、タイミングが合えば半周で目的の方向へ左折して車列から飛び出して行く。信号待ちがないので車を停めることなく確かにスムーズに進める。でも、今回は思わぬ困難にも直面した。信号道なら単に直進すれば良いが、そこに何台かの車が廻っていると出るタイミングを失し、何回か廻っている間に方向の感覚がなくなる。道路番号の下に「○○方面」と地名も書いてあるが、地理に疎い者にはチンプンカンだ。エイとばかり同じ道路番号で出て10分ほど走り、「アレ、どうも見たような景色だナ」と同じ道を逆行していたりるし、以降は方向にも注意した。このような珍道中もあったが、確かに信号待ちのイライラはなく、土地に余裕があり、交通量が過多でなければ良い仕組みだと思う。しかし、日本ではその条件を充たす箇所は多くないのではあるまいか。
 それにもまして、日本では普及済みのカーナビが、Londonではそれ付きの車がレンタカー会社に一台もなかったことは驚きだった(空港であったそうだが)。加えてもっと信じがたかったのは、2006年時点のレンタカー会社に当日はオートマ車が一台もなく、すべてがハンドシフト車だったことだ。シフト車にこだわった私でさえ時代には抗しきれず1995年にはオートマ車に換えていたのに、だ。London郊外に出る頃までは信号待ちの度ごとにエンストを起こし、やっとその操作に慣れた頃でRoundaboutに遭遇したので、停車の必要なさの有りがた味が倍加以上に感じられた。これもハンドシフト愛好の理由の一つかと疑いたくなるが、どうやらそれは、John Bull と言われるイギリス?(British)人魂の、「良く言えば不屈の精神、言い換えれば頑固さ」か、あるいは日本人の「過度な新しものがりや」によるものか?。私にはその双方とも当てはまるように思える。


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「紙」への思い【この頃思うこと-18-】 [この頃思うこと]

「紙」への思い【この頃思うこと-18-】
「紙」へは何か特別な思いが私にはあり、しかもそれが年代とともに変わっている。その最初の思いは、5歳頃の硯(すずり)、墨(すみ)、下敷き、文鎮、古新聞、それに半紙(習字用に切った紙をそう称した)をカバンに入れて習字の塾に通っていたときのものだ。当時、半紙は文房具屋で買って貰う貴重品だった。その半紙に先生から書いてもらう「お手本の字」を真似て、最初は古新聞の上に、少し書き慣れると半紙の上に、またそれを裏返し場所をずらせては何回も練習した。ある程度の満足がいくと、新しい半紙を取りだしてその字を書き先生に見て貰う。その上に朱筆で書き直されるか、あるいは何重かの○が書かれて次の字に進むかする。展覧会提出のときは上質の半紙を使い、貴重な半紙を無駄にしないように特に注意を払って書いた。半紙と墨の臭いは私には特別だ。
 紙への違う思いは模型の飛行機作りで持ったものだ。蝋燭(ろうそく)で竹ひごを暖めては望む形に曲げて翼枠と翼桁を作り、そこに特別の紙「雁皮紙(がんぴし)」を貼る。その上に霧を吹きかけると、たるんだ紙がぴんと張る。雁皮紙は手品のような不思議な工作素材だった。 その他、黒板の字や宿題を書いた帳面(ノートをそう言った)も知的な大切なものだった。物資不足も一因だったろうが、戦中戦後を通じて、紙は知的な尊ぶべき対象としての思いが強かった。これは同世代の人に幾分か共有されるものかもしれない。
 そのような思いに大きな衝撃を受けたのは、1958年の留学先アメリカのトイレで、ペーパータオルのポイ捨てを見たときだ。それは物資不足の当時の日本から突然直面した身にはおよそ想像もできない場面だった。さらに、毎朝配達される新聞のページ数は当時の日本の10倍近くでその大半が広告類だったことにも驚いた。加えて、紙コップや紙皿なども、「紙」が「知的」なものとの思い込みとは全く異なる「消費財」として扱われるとは思いもよらなかった。渡米前に「個人当たりの紙の使用量はその国の文化レベルのバロメーターだ」と何かで読んだときに抱いた疑問に、この風景に接して、それが「こんな意味だったのか」と氷解した。
 その後、コンピュータ関連の仕事につき、最初はごく少量印字でも仰々しく大量の用紙を吐き出すプリンターには違和感を抱いたが次第にそれにも慣らされた。しかし、コンピュータの利用範囲が広がるにつれ、バッチ処理しかできず、法的にも磁気証拠が認められなかった当時では、その場では不必要でも証拠書類としての大量の印刷印字保管が必要となったきた。しかも、今のパソコンと違い、出力帳票のデザインはできずただ英数字データの印字のみが可能な当時のプリンターでは、適用業種別の(例えば売り上げ一覧、在庫一覧など別)多種多様な用紙を何十箱分も何十種類別に準備し、印刷後も参照用に法的な年月の保管が必要で、その費用や保管場所には苦労させられた。しかし、それもいまでは技術的にはオンラインで、法的には磁気的記録保存が認められ、紙の無駄な消費はなくなった分は、当然とは言え喜ばしく感じられる。
 しかし、昨今パソコンが普及し、書斎のプリンターが多色化・高速化して何十枚もの印刷・印画が簡単・迅速に出力され、印画紙やA4の印刷用紙が常備品となってきた。便利にはなったが、同時にちょっと油断するとあっという間に無駄な印刷をして後悔することとなる。これも習字を習っていた頃の「紙」への特別の思いの後遺症なのだろうか。ともあれ、これで「紙」が若干でも知的に使われていると安心する一方で、知らぬ間に机上のティッシュペーパーを消費財として愛用している自分に矛盾も感じるこの頃である。
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東海道本線の電車に乗って【この頃思うこと-17-】 [この頃思うこと]

東海道本線の電車に乗って【この頃思うこと-17-】


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 いま住んでいる建物の屋上から、近くを新幹線の列車と東海道本線の電車が小さく模型のように走るのが見える。近くへは隣の静岡駅まで電車を利用するが、遠方へはそこで乗り換えて新幹線を利用する。大阪の知人に「靜岡駅で新幹線から東海道線のローカル電車に乗り換えるのですね」と言われ「いえ、東海道本線の電車です」と答えた。同世代の知人は少し考えた風で「そうですね」と笑った。元来は本線だったのがいまも名称にだけ残っていることに気付かせたわけだ。それはともかく、熱海へ行くのに「ひかり」は24分、各停の電車では70分とわかり、乗り換えなしの東海道本線の電車に乗ることとした。幸い運転席後ろ二番目の前方の展望が素晴らしい席に座れた。当日は好天で、電車前面で遠くから見える架線支柱が次々と目前にヌッと現れては後方へスッと飛んで行く。そのスピード感の迫力は新幹線のそれよりずっと大きく思えた。新幹線では架線の支柱は車窓を横に目にもとまらぬ速さで飛ぶが目に映るのは遠景だからだろう。
 その情景から、小学校5年の頃、戦前の阪神電車特急の一番前で梅田-元町間の往復したことを思い出した。通学には甲子園乗り換えで一駅乗るだけだったが、その特急には一度は乗りたかった。ある日の帰校時にちょうど特急が来合わせた。「電車の一番前でただ景色を見るだけだから不正乗車ではない」と無理に自分を納得させ特急電車の一番前の席に座った。梅田駅の手前から地下に潜ったのには驚いた。梅田では折り返し同じ電車の後方である最前列に座り変えて甲子園を過ぎ元町の終点まで行った。そこでまた折り返しの一番前にへばりつき何事もなく甲子園へ戻った。その間の前面から景色が飛び込むスピード感と納得が気になるスリル感、ついに乗ったという満足感を改めて思い出していた。 
 駿河湾辺りは、寝台列車を愛用していたので、新幹線の開通後も北九州や大阪から東京との往復で何十回となく通った筈だが、夜半か早朝の暗い時刻で車窓からの眺めとは無縁だった。電車に乗って20分もすると清水駅を過ぎ、次の興津の辺りで、富士が架線の真正面に迫ってくる景色に圧倒され思わずシャッターを切った。新幹線での忙しく移り変わるる眺めと違って、富士駅辺りでの富士は横の車窓一杯に広がるのがゆっくりと観賞でき圧巻だった。夏には、雪がない富士の姿に「あの高い山はなんと言うの」と訊く子もいるほどで貫禄がないが、冬場の富士山は雪を戴き堂々としている。

  電車の前方に広がる駿河湾や富士山に見とれている間に一時間がが経ち全長8キロ弱の丹那トンネルに入った。もうすぐ開通して80年になると言うが見た目にも頑丈そう安心して通過できる。かっての国鉄いまのJRがトンネルも含めた列車の安全運行に力を入れ続けた保守のお陰だろう。最近崩落を起こした笹子トンネルが開通後35年で長さも半分強なのと思い比べ、道路公団が点検もおろそかだったのとは大違いだ。
 トンネルを出るとすぐに熱海駅に着いた。そこではもう一つ驚きに出会った。それは私の横で最前列に座った30歳前後の人のことだ。彼は靜岡駅を出る前から熱海駅に着くまでの間中、ずっと手の平大の電子画面のみを見つめ両手での操作に熱中し続けた。斜めから覗いても画面には何も見えなかったが、丹那トンネルで暗くなった途端に画面が見え、それは「数独ゲーム」とわかった。それにしても、私が子供時代のように興奮して風景を眺めている70分間、彼は画面から文字通り一時も目を離さず、電車が熱海に着くと同時に辺りを見渡すでもなく、初めて画面から目を離しその器具を片手にすっくと降りて行った。その集中力と、折角の特等席も画面しか眼中にない彼には何の興味もひかなかったことに改めて驚かされたのだった。


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「自炊」実行の感想 【この頃思うこと-16ー】  [この頃思うこと]

「自炊」実行の感想 【この頃思うこと-16ー】 
 「自炊」と言うと、パソコンに興味を有する一部の人は別として、多くの人は「何をいまさら」と思うだろう。しかし、この「自炊」とは「かさばる書籍や雑誌をスキャナーを用い自分専用の電子書籍を作る」行為の俗語のことだ。当初は、個人用途だけの文字通り自炊だったが、変換の受託業者が現れ著作権問題と絡み話題となった。その技術への興味と必要性から、その手間と費用は気になっていた。
 と言うのも、7年前になるが、退職で研究室の書籍や資料の一部は自宅へ持ち帰ったが、その大部分は涙ながらに処分した。さらに、3年前の転居で住居面積が半減し、再度の処分で書籍200冊ほどと資料ミカン箱四つに減じたが依然かさばる。「自炊」記事を読み、手持ちプリンター兼用スキャナーで、まず250頁の拙著から始めてみた。スキャナー上に本を開き2頁分乗せてはボタンを押し10秒ほどで読み込む。次に本を取り上げ改頁をしては乗せてまた読み込む。その繰り返しは単調でしかも予想以上の時間と労力を要し10頁ほどで諦めた。「自炊」業者もネット上で見つけたが、資料の整理が大変で依頼しなかった。
 折も折、娘の友人が「自炊」で満足していると聞きその体験を訊くと、裁断器で本をばらす手間以外には、専用スキャナーでの作業は半自動で思ったより遙かに簡単で短時間に済み、極めて満足しているとのことだった。価格もそこそこで、その場ですぐ同じ裁断機と専用スキャナーをネットで注文し入手した。
 早速、拙著から着手し、心情では忍びがたかったが、ハードカバーを外し背の糊付け部分を最小限残して厚さ1.5センチほどとなった紙束を裁断器に掛けると、一回で簡単に両面印刷の125枚の紙にばらされた。次にパソコンの横に置いた小型の専用スキャナー挿入部分に、一回許容枚数以内のその30枚強を乗せてボタンを押すと、自動的に次々と読み込む。その度に該当頁がパソコン画面に写し出され読み取りが終了すると継続か終了かと訊ねる。継続ボタンを押し、同じように読み込みを4回繰り返し終了ボタンを押すと250頁すべてがPDF画像として指定のファイル指定名称で記憶され作業が完了する。図面などは作業が生じるがOCRで簡単に文字変換もできる。先に述べた兼用スキャナーでの単調な作業の経験後ではなおさら、その簡便さに「眼から鱗」の感じで驚いた。
 この簡単な操作で、書籍の実体は消えるが内容はパソコンでカラーも含めそっくり画面に再現され、印刷や見出し付けも簡単で整理が容易となる。書籍をばらす勇気と短い時間があれば、著作権上で私用限定だが、手持ちの書籍をデジタル化し本箱分のスペースは広くなる理屈だ。いまの所はその勇気もなく、また本として読みたい習慣から、当面は自著一冊の変換に留めることにした。
 使い勝手とその威力がわかり、本来目的の資料の整理とスペース確保に取りかかった。ミカン箱にある昔懐かしいB4版の青焼きコピーの自筆資料で性能を試した。皺を伸ばし重ねて置き本と同じく高速でデジタイズされる。青焼き用の薄い原紙やA3版までの資料はキャリアシートに挟んでこれは1枚ずつ、しかし本と同じ高速度でPDFファイルに記録された。昔の標準サイズB4版の原稿もA4版に自動縮刷されるのも便利だ。その他、論集別冊の論文も切断機で1枚ずつにばらし、さばいてスキャナーに乗せボタンを押すと30頁くらいは見る間に読み終わり記録される。まだ始めたばかりで分類をしながら徐々に進めているが、ミカン箱4箱分をコピーするには当分は多忙となりそうだ。
 大型電子計算機(と当時は称したが)日本に初めて導入された1961年の2年前から米国で始めたコンピュータとの付き合いは、以来その利用システム関連の仕事につながったが、この数年のコンピュータ利用技術の進歩には全く眼を見張らされる。興味津々と楽しみではあるが、それに何とかついて行こうと苦労するこの頃である。
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「階前の梧葉 既に秋風」【この頃思うこと-15-】 [この頃思うこと]

「階前の梧葉 既に秋風」 【この頃思うこと-15-】
 七言絶句「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未醒池塘春草夢 階前梧葉既秋風」の漢詩に長い期間接してきたが、その第四節「はや、階段の前のあおぎりの葉に秋風が吹いてきた」の朱熹の心境に、自由な時間と言う贅沢を入手して七年とになるいまほど全面的な共感を覚えることはない。
 初対面は高校のときで、「少年」には遅きに失していた。しかし、それからの十年近く、入試準備、大学での勉学、就職後の留学試験準備、二年の米国大学院での制御理論研究、と睡魔が襲い来る度にその「少年老い易く学成りがたし 一寸の光陰軽んずべからず」がその退散呪文の役を果たしてくれた。
 留学から帰国後の15年ほどの経済高度成長期には、会社の情報システム構築、海外での技術協力などの仕事に追われた。そこで実務から学んだことは極めて多面に及んだが、それを学問体系に結びつける文献研究には、時間的な余裕がなく皆無に近かった。いま思えば、この時期は読書と睡魔から解放されて、この漢詩にもっとも疎遠になっていた頃のようだ。
 そのようにして31年が過ぎ、早期退職をして大学の経営学部で情報システム分野の研究と教育を担当する機会に巡り会った。学部の教授陣は、大学院も含め数十年間の学術書や論文を主として研究に励んできた人たちからなり、突然そのただ中に実務一辺倒の私が仲間入りしたわけだ。この分野の論文作成には、テーマの新奇性では工学分野と同じだったが、それに加え、先学者の学説との関連付けが不可欠で、そのあため多くの読書が要求された。最初の一年は、諸学説の読書に集中し、気持ちだけでも「少年」に立ち戻って呪文との旧交を暖めた。中年になっての経営学の文献研究には苦労が多かったが、その15年の成果として「鉄鋼業の生産経営管理と情報システム」を何とか体系づけ一冊の学術書にまとめることができた。その頃習い始めた詩吟で、「少年老いやすく」と再会し、「学なり難し」が実感を込めた愛吟詩となる奇縁にも恵まれた。予定では70歳の定年退職後に数年の海外生活を夢見ていたが、退職一年前に4年任期の別大学に変わり、研究以外で多忙となって実現できなかった。
 しかし、任期を終えて得た自由な時間で、退職の翌日から国内外の旅行や短期滞在に出かけ、その間に悩まされた腰痛も帰国後の手術で何とか治せた。それと前後して、大学時代の共同研究者から、「日本での情報化黎明期の研究資料が極めて少なく、懸案として抱いていた会社時代の情報システム開発の推移」を記述するようにと強く薦められた。靜岡への転居をはさみ、関連の記録資料や文献が再発見でき、また、時間も充分に使えたので、二年がかりでそれらをまとめ二つ大学の論集に四つに分けて掲載し終えた。それで仕事関連の記述は終えようと思った。
 その結果生じた時間で、海外渡航にまだ制限があった1950年代後半の米国留学や、1970年前半に駐在していた南イタリアでの、その頃はまだ珍しかった海外生活の私的な体験、それに加え、忘れ去られつつある昔の話を記述しようと思いついた。その多くは大学勤務時代に90分の講義の中間で学生の眠気覚ましに話した雑談だった。それらの時空を超えた私的な見聞の記憶へ誰もが自由にアクセスできるように書き留めることとした。それがこのブログである。いま思えば、これこそ「未だ醒めやらず池塘春草の夢」という朱熹の心情に通じるものだろう。
 このように書くと、いかにも計画的だったように見えるが、実体は自由になる時間の私にしかできない使い方を模索した「成り行き」の結果に過ぎない。
 自分に残された時間は知る由もないが、まだやりたいことが次々と心に浮かんで来る。だが、一方で、肉体と頭脳の諸処理能力が日増しに減じていくのも感じられ、冒頭に述べた感懐を強くするこの頃である。
 
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「日本の持つ資源」 【この頃思うこと-14-】 [この頃思うこと]

「日本の持つ資源」 【この頃思うこと-14-】
  「日本の持つ資源」と言うことを最近は昔ほど聞かなくなったように思う。それは日本全体が裕福になったからかも知れない。その言葉を初めて聞きしかも未だに鮮明に覚えているのは、半世紀も前の1956年の入社後の研修で聞いた幹部の清水氏の講話だった。日本のGNPが戦前の水準に達し「もはや戦後ではない」と言われた翌年のことで、「日本の国土は狭い上に平地はその18%ほどしかなく食料も満足に自給できない。石炭を除けば天然資源は皆無に近く、あるのは勤勉な人材だけだ。貧しい日本を豊かにするには、原料を輸入し、国内の豊かな人材とその技術で付加価値を高め輸出して利益を得るよりほかはない」と言う趣旨だった。入社後の研修でまわった製鉄所内の工場では原材料である鉄鉱石と多くの高粘結炭は輸入だったし、主要な圧延機はドイツかアメリカ製だったのを目にした後だったので、とくにそれを痛感し覚えているのだろう。
  確かに当時の日本は敗戦から10年ほど経ったばかりで、今では想像もできないほど貧しかった。例えば、当時は国内の高速道路は皆無であり、鉄道では蒸気機関車が主で、一般の道路は主要な国道を除き未舗装の泥道だった。また、電話を引くには高価な公債を買わされた上に数ヶ月以上待たねばならなかったほどだった。持ち家を考えることは勿論、車を持つなどとなど夢のまた夢であった。私生活でも収入面で言えば、当時の大学卒の初任給は1万数千円程度で1ドル360円の換算では40ドル程度で、その2年後の1958年に留学したときのアメリカの大学卒の初任給の450ドル程度と比べると収入は1/10だったわけだ。支出面では背広や靴などは1万円は超え一か月の給料でどうやら買えると言った状況だったので、円/ドルの換算率は購買力の上では実力相応で、収入が極端に低かったということになる。それが半世紀の間に収入も増え先進国の一画を占めるの今の日本に変わったわけだ。
  では、その間に「日本の持つ資源」の何が変わったのだろうか。国土や天然資源の上では変わりないが、その国土の上では勤勉な人材が営々と働き続け、現状に慣れた感覚では当たり前のことと普段は意識はしないが、その間に驚くほど多くの有形・無形の「財」が蓄積されてきている。その期間の前半で推進役を果たした製造業では、生産効率の高い新鋭の生産設備が重厚長大から軽薄短小への変化を遂げながら重装備され、共に整備されていったインフラである港湾設備、高速道路網や新幹線・空路の整備、それを高度に活用する流通業などの第三次産業の発展で、市場にはモノが溢れるようになっている。つまり、その間に日本の国土が重装備され、知らぬ間にそれが「日本の持つ資源」となっていることに気付かされる。
  しかし、その資源の増加には1994年以降のバブル崩壊による国の収入を上回る国債でまかなわれた効率の悪い投資が含まれている実状もある。景気を向上するために国内投資が必要なことは理解できるが、以上述べたような観点からも、これ以上に不必要な資源を増やすことなく、少しでも生産性向上に有効な資源に選別して投資し、国としても支出に見合った収入に早く戻るようになって欲しいものと思われる。
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ドブロウニクとGoldsmith 【この頃思うこと-13-】 [この頃思うこと]

ドブロウニクとGoldsmith 【この頃思うこと-13-】
  テレビの世界遺産を見ていて、その一つのDubrovnikへ行ったことを思いだした。それは南部イタリアへの長期出張していた1974年のことだ。旅行社に相談すると、有名ではないがと共産圏ユーゴスラビアのDubrovnik訪問を薦めた。当時は米ソ間デタント(緊張緩和)時代だったが共産圏入国は依然厳しく、圏内の滞在は、ビザ不要で厳戒中の東ベルリン博物館の見学と欧州往復でのモスクワ空港内だけだった。「数日の観光訪問だと近くのBariからビザなしで簡単に行ける」と言うので圏内の状況を是非見聞したくなった。
  Bariで換金の際、ドルへの買い戻しは極めて不利で替え過ぎないようにと確認されたが、共産圏で珍しい土産もあろうかと、それがGoldsmithに結びつくとはつゆ思わず、かえって多めに換金した。 夜にBariで乗船すると翌朝にはアドリア海対岸のDubrovnikに着いた。街では英語は通じず、ホテルまではタクシーで行ったが随分と安く、渡したチップは受け取らなかった。ホテルは部屋から旧市街が見える丘の上にあり、中世にはラグーサの名でヴェニスと競い合った港だけに、眼下の旧市街や城壁の眺めは素晴らしかった。
  荷物を置くとすぐ街一番の目抜き通りへタクシーで出かけた。それは全長200mあまりと短く、両側に店舗の並んだ人影の少ない街路だった。珍しいお土産があるかと店先を覗きながらその通りを何往復かした。しかし、国営店なのかどの店も愛想は悪く陳列品は西欧社会で見る安価品のみで、品質やデザインも劣り購買意欲を全くそそらない。どうやら木彫り専門店で荷物を積んだ牛を見つけ買ったが三つで千円もしない。これでは再換金で損をする羽目にはなると、もう一度その通りの端から端まで探した。すると、土産物店の一画を区切り作業場も兼ねた店で初老の職人が金細工をしている。「これが英語で言うGoldsmithだ。共産圏にもあるのだ!」と入ると、アメリカ人風の年配の婦人が細工に見入っていて、その前の小さなガラス棚にはブローチなど手製の金細工が並んでいる。職人に英語で話しかけると「分からない」と身振りをする。駄目で元々と、下手なイタリア語で話しかけると「日本人でイタリア語がわかるとは珍しい」と、細工をしながら機嫌良く「前大戦でイタリア軍が駐留し言葉を覚えた。共産主義の国でも特殊技能者は収入に応じて税金を払えば自分で店を持って商売ができる」などと話してくれた。よく見ると細工の腕も良く、値段もイタリアや以前に訪れたリスボンの宝石店などに比べ遙かに安い。これなら買う値打ちはあると幾つかを選び始めた。すると例のアメリカの婦人が「いま何語で話したの?。この店でブローチを買おうかと随分迷って問いかけるが英語が通じず困っていた。」と言う。英・伊の通訳をすると彼女は安心し喜んで幾つかを買った。私も共産圏での事情も少し分かり、再換金も不必要となる良い記念品の買い物ができた。丘の上のホテルも設備も欧州並みに立派なわりには安価でチップは不要だった。翌日は旧市街を一望する丘にタクシーで登り、そこからの展望を楽しんだ。ケーブルカーとその駅があったが動いていなかったように記憶する。旧く由緒ある城壁や建物を見学し堪能した二日だった。
  その後、テレビでそのDubrovnikが1991年頃に激しく砲撃されて美しい街並みが崩れているのを知り残念に思ったことだった。今回これを書くに当たりウェブサイトで調べると、「(私の訪問後の)1979年に世界遺産となったこと、内戦の砲撃での市街破壊はその後復元されたこと、旧い目抜き通りの名はプラザ通りで、丘はスルジ山と言うこと」を知った。また、写真を見ると、私が訪ねた旧い街並みは見事に再現され観光客で溢れていた。
  「共産圏」と言う言葉も聞かなくなって久しい。したがって、「Dubrovnikがこのように誰もが自由に行ける有名な観光地となったことは喜ばしい」とか、「あのGoldsmithの職人がいまも健在ならば、その言葉の端々にうかがわれた不自由な共産圏からの解放と、訪問客の多さにさぞ驚き喜ぶだろう」と思うが、そう思える人も、もう余りいないのだろう。
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体重とスーツケース 【この頃思うこと-12-】 [この頃思うこと]

体重とスーツケース 【この頃思うこと-12-】
  「内臓諸器官はその人の成長期の身長と体重に合わせて形成される」と何かで読んだ記憶がある。それは、自動制御を学んでいた当時の私には最高に精緻な身体のシステム設計条件として当然のように思えた。身長は成長期を過ぎてもほぼ不変だが、多くの人で体重は大きく変動し倍増する人さえある。機械は設計時の条件が倍にも変動すると絶対に稼働が不可能となるが、人智を超える精緻さと不思議さを持つ人間の身体には、それほどの変動にも対応可能なほどの高度の仕組みがあるに違いない。
   ボクシングなどの体重別競技やダイエティングの場合などの意図的な体重管理を除くと、多くの人は、成長期後の生活習慣により体重が徐々に増減したことを何かの機会に気付かされるのではなかろうか。 少なくも私にはそれに類する経験が幾つかある。
  一番印象に残っているのはイタリア在勤の40歳代初め頃のできごとだ。会社の10年近い後輩A君が出張して来ると聞き、駐在のB君と3人での週末旅行を計画した。両君とも背丈は高いが、そのA君は、80キロ超ある肥満型のB君でさえも一目を置く、100キロを超す巨漢だった。北部のドロミテ山麓か近辺の旧い街などの候補地で、A君の強い希望の山麓を選んだ。そこでの景色は素晴らしかったが、加えて、A君が急な登り道で「もう少しゆっくり」と何回も叫ぶ表情は忘れられない。それだけに、頂上での「少し待たせはしましたが、最後まで登れたでしょう」と言うA君は嬉しそうで得意げですらあった。
  帰路に昼食で寄った街の広場に、街が一望できそうな高さ10階ほどの鐘楼があった。A君に「高いからここで待っていて」と言うと「ナーニ、これくらい登れます」との答え。両君よりは痩身の私が、息をきらせて先頭で螺旋階段の6階ほどに達したとき、下方から「もっとゆっくり登ってくだサーイ」と声がする。B君が「いま何階だ」と問うと「3階です」「そこで待っていたら」「いや登ります」との問答。どうにかB君と最上階に辿り着き、また「いま何階だ」と訊くと「6階くらいです」と言う。かなり待ってから、苦しそうに姿を現した彼が、開口一番「お二人の表情は『一番若いのに』と言いたげですね。しかし、井上さんは片手に20キロずつ計40キロ、Bさんは片手20キロのスーツケースを持ってこの高さまで登れますか。私はできました、でもそれが自分の体重なので複雑な気持ちですが」と言う。「もし体重が80キロとなれば、空港で味あうあの20キロと重いスーツケース1個分強を常に持ち歩くことになるのだ」と以降は体重により敏感になった。
  彼の2度にわたる快挙に敬意を表し、夕食はレストランで、当時の日本では大変高価で縁遠かったビーフステーキを各自の体重に比例した重さで焼いて貰い、代金は体重に反比例して払うことにした。私は多分250グラムほどを何とか食べたと思うが、A君は私の倍近くの量は食べ切れなかったと記憶する。なお、その後A君は努力して20キロほどの減量に成功したと聞く。
  その他の、体重に関連して思い出されるのは、成長期に鉄棒・平行棒に熱中し、54キロ台の逆三角形の体型であったこと。大学生活と入社後の10年近くはその体重を保てたこと。留学時代の牛乳のガブ飲みで2か月もせず130ポンド(58キロ)と急増したこと。その後、銭湯の鏡で浮き輪付き腹部の上に自分の顔を見ては驚いた頃に60キロの大台を超えたこと。それがイタリア帰国前は68キロにまで達したこと。帰国後は少し痩せ、74歳で仕事を引退するまでは64キロ前後で推移し、数年は食事と運動に留意して55キロ前後と、何とか成長期の値に戻せていることなどである。
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果物のはなし 【この頃思うこと-11-】 [この頃思うこと]

果物のはなし  【この頃思うこと-11-】
  日本の果物は、種類の多さ、品質の良さ、美味で見た目の美しさや均一さでは世界に冠たるものだろう。しかし、難を言えば極めて高価なことだ。最近はとくにその傾向が顕著だが、専業生産者が品種改良に力を注ぎ手塩に掛けて栽培する高級品となっている。これに比し、外国では、果物の宝庫である南の国々は別として、欧米でも朝市などで無造作に山盛りされ売られているリンゴ、ベリー類、サクランボなど、そこいらから「もぎ採ってきた」ような素朴で美味のものが安価に楽しめた。
  イチゴは品種改良が進み日本各地で名産品となっている。いま住んでいる靜岡も御多分に漏れず、近くの久能山の駿河湾に面したビニールハウスでは、春過ぎとクリスマス前に、大粒で真っ赤なそのまま口に入れて美味なものが栽培されている。(子供の頃のイチゴは小粒で酸っぱく砂糖とミルクをかけて食べていた。)そのほかミカンも「はるみ」とか「きよみ」など地元では著名で、季節になればイチジクも近辺の名産で賞味できる。これらは程度の差こそあれ栽培され品種改良された果物の典型だろう。
  20年ほど住んだ大阪南部の河内長野もブドウとモモの名産地だった。桜が散ると、高台の書斎の窓から、桜より赤みを帯びた花が眼下一面に咲き、また、豆粒ほどのブドウの実がつき始めたビニルハウスも見渡せた。モモ畑では、冬場に枝を整え、花が咲き始めると栽培者が脚立を移動させながら、少数の高品質な果実の収穫を得るために、多くの花を間引きし、残した花の雌しべに筆先で花粉を付ける。収穫まで幾度となく水遣りと枝の手入れに精を出す。その間の雑草取りも手間をとる大仕事だ。このように文字通り手塩に掛けるモモは、一種の芸術品とも言えるほどの見事な白桃となり、注意して触らねば指がズブリと入るくらい柔らかくとろりとして蜜のように甘い口中の感触は得もいわれぬ。その高価なこともまた格別だ。
  ブドウ畑も、一面のビニールハウス栽培で、これも冬場に小枝を切り取り整え、春先に小粒な実がなると間引きもし、温度や水の調整の手間を掛け、夏過ぎまでに大粒な巨峰などに育てる。秋には高い脚立を使い、傷つかないように高所の房を一つずつ抱えて鋏で切り下へ手渡す大変な手間がある。これも美味だが大変に高価だ。しかし、それに要する手間を思うと、それらの高価さにも慣れると当然と感じられなくもない。
  それに比し、以前3年近く生活した南イタリアは、雨が少なく石だらけの土地だが、果物は思いの外に多く安価だ。日本では厄介な雑草は高緯度で雨が少ないせいか放っておいても生えず、その手間は不要だ。郊外一面のブドウ畑では、収穫時期になると臨時雇いの人たちが、胸の高さにも満たないブドウの木から、一房ごと摘み取っては頭に載せたかごにポイと放りあげていく様は日本とは大違いだ。朝市で溢れるように盛り上げられた果物の山、ブドウは勿論、イチジク、ベリー類、それにサクランボなど、見た目には不揃いだが、樹で熟しているのをまさにいま「もいで」きた感じだった。とくにサクランボは日本のより大きくて甘く、何よりもそれで満腹感が得られる程に安価だった。帰国後すぐ、それに慣れた子供たちからねだられ、東北産の小さな箱に入った高価なものを買って帰ると「これっぽっちでは食べた気にならない」といわれてイタリアを懐かしく思った程だ。
  2年間住んだアメリカ東部や、しばらく家を借りて生活したニュージーランドやオーストラリアでも、果物はわりに豊富でリンゴなど不格好だが安価で気軽に食べられた。
  このように見ると日本産の果物は、日本人の凝り性の、文字通り「成果」のような気もする。
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TPOについて 【この頃思うこと-10-】 [この頃思うこと]

TPOについて 【この頃思うこと-10-】
  テレビで見かける奇抜な着帽や服装にも若干の違和感を持つが、先ごろ街中で「アレ、ここは海水浴場ではないよね?」と思われる服装の女性に何回か出会いTPOを思いだした。それは、和製英語Time Place and Occasion の頭文字で1970年代頃に話題となり、「その時・場所・場合に適した服装」の意から広くマナーにも含むようになった。TPOが何故その時代に生じいまは消滅したのか。通常ならまず仮説を立て文献などで実証する。しかし、この社会現象が限られた私の時空間内で生滅しているので、ここではその前後の時代ごとに関連事象を思いだし結びつけて、私なりのその理由を推論して若干の感想も添える。
  まず、時代を1930年代後半に遡ると、一般に生活は苦しく衣類も容易に買って貰えなかった時代だ。幾つかの想い出を辿れば、母が7人家族の衣服を洗濯板で手洗いしていた姿や、着物をほどき洗った後、糊を利かせ張り板に両端が針の竹ヒゴで伸ばし貼り付けていた情景が浮かぶ。父は、白丸首ワイシャツの襟元のボタンで、真っ白で糊のきいたカラー部分だけを毎朝変えていた。小学校はハレの日以外は普段着で、ハレの日でも正月だけは特別で新調の下着に.着替え、父は羽織袴、母は着物、子供たちは制服と普段とは全く別の正装だった。学校では元旦など祝祭日には式典があり先生方も晴れ着姿だった。
  1940年に入ると戦時色が濃厚で、食同様に衣料も配給制となり、ハレの正月も含め黄褐色の国民服・モンペ姿がすべての場合に通用した。中学でズボンにゲートルを巻き始めた以外は変化がなく空襲に明け暮れ、盆も正月も印象にはない。その年代の後半は敗戦で始まった。飢えに直面し食の確保で精一杯、衣服は着られれば何でも良かった。高校入学の頃になり、どうやら黒詰め襟の学生服が一張羅の晴れ着も兼ねて着られるようになった。
  1950年代前半もその延長で、大学では学生服だけでどこでも何時でも通用できた。経済も復興し始めたその後半の入社式では、皆が給料一か月分以上はした背広を着用していたが、現場での作業服は支給だった。その年代終わりの2年間は、留学生として当時の先進国アメリカの裕福な生活に驚愕した。大学ではカジュアル着だが、 Formal と Informal の区別は明確だった。親代わりのボンド一家の教会では、学生の私でも背広にソフト帽の正装と言う雰囲気だった。また、オーケストラホールでは、夜会服に身を包んだ紳士淑女の姿が珍しくなかった。マナーも厳しく、男性は室内や女性の前では必ず脱帽していた。
  1960年代に入ると、前半の日本経済は先進国への「追いつき追い越せ」時代で、後半には急激に生活レベルが向上した。急増した収入との関係で諸物価も安価に感じられ、初めてその場に適した衣服の選択購入が可能となった。同時に、海外交流が盛んとなり、服装やマナーもグローバル化し複雑になった。このような諸々の社会情勢が絡み合って、TPOと言う言葉が生まれ提唱されたと推論する。1980年後半頃から、マナーの教育はやや下火となり、学生に教室では脱帽する、コートは玄関で脱いで入る、とか授業の合間にマナーを説いていた状況は1990年代初めのバブルの崩壊時期の後もしばらく続いた。
  2000年代に入ると、周知の通り多種多様な衣服が店に溢れ、それが安価で気軽に入手可能となった。人権宣言での「自由」「平等」「博愛」で言えば、衣服でも各個人がその個性を自由で平等に表現し始めた。一方、技術の急速な進歩などで、以前にはハレの祝祭日に限られた娯楽がテレビや電話で何時でも即座に楽しめ、昔の基準で言えば常にハレの状況になった。このようにしてTPOの存在意義が消滅したと言えよう。しかし、私には、残った「博愛」の面、つまり、衣服が他人へ与える感情も考慮しているか否かでは疑問である。冒頭に述べたような違和感を持つのは、時代へ即応できていない証拠かも知れないからだ。


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「寄付行為」について 【このごろ思うこと-9-】 [この頃思うこと]

「寄付行為」について  【このごろ思うこと-9-】
  先頃、 知人から大学病院のサービスに関する話を聞き、十年前にゼミ生が卒論テーマ「病院におけるブランドの確立」を選んだのを思い出した。そのときの調べで、病院も学校と同じく財団法人としての「寄付行為」が法律上必要だと知った。会社には、社団法人として「定款」があり、法的に会社の目的等々の記載が必要なことはわりに知られている。「定款」は日常は聞き慣れない言葉だが、それなりに会社運営の基本を定めるらしい響きがある。しかし、財団法人でそれに該当する「寄付行為」と言う言葉は日本語としてしっくりせず、まして病院とか学校の運営に必要だとは全く意外に感じた。
  それは私だけではなかったらしい。今回改めて調べると、この言葉はドイツ語直訳との説もあり、2008年末以降の法人設置には「財産の拠出」の用語に代わったと言う。これなら日本語らしいし少しは意味が明確になった気もする。でも、これでは法人発足時の状況はともかく、以降の法人運営における寄付の重要性が薄れる気がする。
  初めて「寄付行為」と言う言葉に接したのは、企業から私立大学へ移って、それが企業での「定款」に当たると知ったときだ。確かに入学式で父兄への「寄付」のお願いはするが、設立当初は別として、その後の大学運営自体は「寄付」よりも圧倒的に授業料や受験料に依存していたからだ。 設立当初の「寄付」が不可欠なことは理解していたが、当該大学創始者たちの孫を迎えその応対をしたときそれが実感された。
  在籍した二つの大学の学校法人は、双方とも明治初めに英国からの数人の宣教師が母国の信徒に呼びかけて集めた寄付金で、大阪・神戸・淡路島などの各地に教会と学校を建てたことに始まると聞く。 当時の彼我の国力、つまり個人収入の格差は大きく、国内募金で大規模な土地取得は不可能だったのだろう。その孫を案内して、宣教師たちが建てた各地の教会と学校を案内するのに、電車や車とフェリーを用いても三日を要した。そのことからも、交通不便な当時での彼らの活躍ぶりが偲ばれ、英国の信徒の「思い」と共に「寄付行為」が如何に重要だったかが実感された。
  このような援助が戦後にもあったのを聞いてはいたが、6年前の退職後すぐにウェールズ地方の田舎をドライブで訪ねたとき直接に聞いた。日曜の朝、泊まったB&Bの前に数百年も経ったと思われる教会があった。礼拝後のティーを囲んでの話で、10歳以上年配の老婦人が、「そういえば、ロンドンにいた頃、戦禍で廃墟になった日本の学校復興にとの呼びかけで寄付をしたことがありました」と懐かしげに話していた。
  「寄付行為」が設立時のみでなく、米国の私立大学の運営に深く関連していることを、1991年から米国のドラッカー大学院に客員研究員としての滞在時に知った。米国私大の学部長の主な役割は、学外からの "Fund Raising" すなわち「寄付集め」で、授業は一切持たず、学内ではほとんど彼を見かけないほど全米を駆け回っていた。ドラッカーセンターの改築が間近だったのも一因だろうが、米国では学部長の多くがそうだと聞いた。日本の私大学学部長の役割が、通常の授業こそ若干減免されるが、その何倍もの各学部間の調整や行政業務で多忙なのとは大違いだ。 米国の私学では、その運営費の多くが授業料とは別に、多額の寄付金に依存していると言う。 日本でも2011年度から税制の仕組みで「寄付行為」免税の範囲が広がったと聞く。授業料に運営費の多くを依存している現状では、私立大学の運営は難しくなることが案じられる。
  病院のサービス問題から、話題が法人として同じ法的根拠を持つ大学の「寄付行為」へ転じてしまった。「病院のブランド」の問題提起の場合も感じたが、病院の場合は心身の不調に悩む多くの人がその対象者であり、その運営費が医療の制度とも関連してさらに一段と広範囲な難しい問題を孕んでいると思われる。
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タバコ雑感 【この頃思うこと-8-】 [この頃思うこと]

タバコ雑感  【この頃思うこと-8-】
  近頃は禁煙場所がやたらと増え、愛煙者にとっては不便極まりないだろう。しかし、嫌煙者にはタバコの煙と無縁となれて喜ばしい反面、その臭いに敏感となり過ぎているようにも思える。
  先ごろ同年配者20名弱の会合に出席した。どうした弾みか話題がタバコになり「いまも喫煙している人」の質問には数人が「喫煙習慣がなかった人」に三人ほどが挙手した。
   人生では何が幸運になるのかは分からない。私も大学へ入り、人並みに吸えるようになって、タバコ屋で一番手前にあったタバコを一箱購入し、友人に倣(なら)って一息吸ってみた。そのまずかったこと!。その箱ごと友人に譲ると、彼は迷惑そうに「Golden Bat などと安物を買うからだ」と笑う。ならばと、彼のを一本貰って吸った。少しは軽い気がしたが不味さに変わりはなかった。このことで私のタバコへの興味は以降全く失せた。
  3年の春に大学の近くに山手YMCA学生寮ができた。禁酒禁煙なので敬遠する者や入寮後に苦労する者もいたようだ。しかし生来の下戸で、タバコともその一件で疎遠になった私は、この条件には何の不自由も感じることなく2年間の寮生活が楽しめた。
  しかし、その私も何故か葉巻を横で人が吸う香りだけは好きだった。留学した大学院では男の子が生まれると葉巻を一本ずつ友人に配る習慣があり、貰った私はそれに火を付けて香りを嗅ぎ、ついでに少しだけ煙の香りも味わってみよう軽く吸った。だが、慣れないことでスット肺まで吸い込んでしまい、一瞬クラッとひっくり返りそうになった。それ以来タバコとは絶縁となった。
  入社後7年ほど経った頃、同じ職場に無類の愛煙者で両切りのピースを挟んだ指が黄色くなるまで日に40本ほども吸う後輩K君がいた。彼は時々家に泊まったが、子供たちから「歯磨きのおじさん」と呼ばれていた。それは、彼がスモカとか言う喫煙者用の歯磨き粉と歯ブラシを我が家に置いていたからだ。その彼がある日、タバコ一箱の中央に金色のコウモリの絵が、その上に大きな字でGolden Bat その下に少し小さな字で - Sweet and Mild - とあるのを見せて「これは品質に当たり外れはあるが、当たればピースより本当のタバコの味がする。今日は当たりだった」と言った。その後で「ローマ字読みで上に書いてあるGolden Bat を後ろから左に読み、続いて下のSweetからMild を右読みしてください」と言う。無理して「タブンドログ? 後は英語読み?」と答えると「いや、その気で読めば、面白いことに『多分いいだろうが、吸うと参るぞ』と読めるのですよ」と言う。「なるほど、そう読める!」。いまウェブで調べたが、それに類する書き込みは皆無なので、これは彼らしい独創だったのだろう。
  そのずっと後、また、K君と同じ事務所の1メートルほど離れた座席となった。彼は相変わらず本当にウマそうにスパスパと両切りのピース缶を二日もかからず空にし、そのたなびく煙で、帰宅後の背広やシャツにまでその臭いが染み込むほどだった。その頃には想像もつかなかったが、いまでは、電車やオフィス、それに道路ですら禁煙となり喫煙者は肩身が狭い社会になっている。いま彼と会って「吸って参ったぞ」とからかいたいのだが、彼はこう禁煙がうるさくなる前に、「こんな不自由な所には住めないよ」とばかりこの世を去ってしまっていた。寂しいことだ。
  個人的には、父と長兄は永年の喫煙が災いし、私の年齢ではすでに肺気腫で苦しそうだった。私は、最初に「まずい」タバコの Golden But と出会ったばかりの「幸運」に、タバコを「吸って参る」ことなく、また、喫煙箇所で「不便極まりない」こともなくいまの生活が営(いとな)めている。

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親の代と子の代 [この頃思うこと]

親の代と子の代  【この頃思うこと-7-】
  「子には自分を超えて欲しい」との親の「願い」は普遍的なものだろう。それは、当然物質面のみではない。しかし実感できる物質面のみで見ると、社会の活動主体が農漁業から工業そしてサービス業へと急速に変化するなかで、国により遅速の差があるが、その「願い」に対する「現実」が時代と共に変わり行く様が私の人生のなかでも身近に感じ取れる。
  それを最初の意識したのは1965年の米国の大学における講義だった。テレビ放映開始後の間もない頃、NYのあるテレビ放映会社の副社長が、一代で西部の大農場をなした父親に見て貰おうと、農作業に多忙だと言う父親に会社訪問を願った。訪問した父親は「なるほど、お前は若くして社会的な地位で私を超え、生活も恵まれている。でも、汗水垂らした永年の労働の成果で大農場を持てた自分には、身体的な労働もモノの生産もせずして、口先一つでそうなったのは解せない」とすぐに農場に戻ったと言う。講義の主題は、労働に対する価値観の転換がアメリカでその頃に生じたことだったのだが、私には親の子への「願い」が予期しない形で実現した「現実」への戸惑いとも感じられた。
  「もはや戦後ではない」と言われた1956年に就職した私の年代では、親達年代の家の多くは戦禍で廃墟と化して、勤続年数で社宅入居可能となるまでは、借家か設立直後の公団住宅に抽選で入居するのが精一杯だった。ましてや、持ち家など考えられなかった。しかし、その後の経済の急成長で、1960年からの数年間はその渦中の我々さえも驚くほど急激に生活が向上した。スバル360やマツダクーペなどが発売され、軽自動車ながら自家用車の月賦購入が可能となり始めたのもその頃である。末っ子の私も何とか算段して、両親に福岡・大分・山口などのドライブを楽しんで貰えた。
  1970年代に入っても日本経済の急成長は続き、その後半には企業の住宅政策の社宅充実から自宅取得援助へとの変化もあり、自家用車の普及に続き持ち家がその次の目標になり始めた。私たち世代の多くは、よく働きもしたが、時代に恵まれ戦後の喰うや喰わずの生活から、驚くほどの短期間に物質面では親の代を超える経験をすることができた。
  その後、日本は1973年のオイルショックを境に低成長に移った。その前後に駐在した南イタリアでは、国の南部政策の一環で、農業主体から製造業へと転換しつつあった。その結果、親の代と比較し物質面では豊かになり、家族を大事にしていた彼らにとって、そのことが誇らしく思えているように見えた。
  1980年には、若い頃に多くを学んだアメリカのアームコ社からの要請で、ヒューストン製鉄所で技術協力することになり、延べ一ヶ月ほど滞在した。週末に招待された相手の部長自宅は温水プールもある大きな邸宅で、車3台のうち1台は家具や電化製品が揃った大きなキャンピングカーで、アメリカの豊かさには驚かされた。その旨を告げると、彼は「父親は一介のサラリーマンだった。それを超えるのが若い頃の目標で、鉄鋼の良き時代と幸運に恵まれ努力して実現できた」と満足そうだった。しかし、「先日、大学生の息子から『いくら努力しても、父のレベルは超えられそうにない』 と言われ『いや、そんなことはない』とは答えたが、時代が厳しくなり親という身近な存在を超える目標すら持ち難くなり、息子が気の毒な気もする」と言う。そこに一抹の寂しさが感じられた。 当時の日本はバブル崩壊前で他人ごとのように聞こえたが、アメリカンドリームの時代も変わりつつあるのだと実感した。
  それから30年余り経ったいま、「若者より老人の方が生活に余裕がある」とか、「若者が留学したがらない」とかを耳にする。最近20年ほどは日本経済が停滞し老齢化の進行するなど困難なの面はあるが、一方でインターネットやスマホなど私たちの現役世代には考えも及ばなかった便利さに溢れている。若い人がそれらを活用し、我々世代を遙かに乗り超え、さらに一段と高度な目標を見つけ挑戦して欲しいと願う。
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西暦と元号【この頃思うこと-6-】 [この頃思うこと]

2012,8,11 西暦と元号【この頃思うこと-6-】

  日本では西暦と元号との両方が使われている。つまり、ある事柄が起こった年を訊かれれば二通りの言い方があってどちらも正しい。いまは世の中のグローバル化が進み、また何年前の事柄かがわかり易いことからも、元号原則の役所関連を除けば、新聞記事などでも西暦での表現が多くなっている。

ある事柄が起きた年を訊かれたとき、私の場合は、すぐ頭に閃(ひらめ)くのは元号年で、西暦年が必要なときにはそれから換算することになる。でも、ある特定の環境にあった年代に限りその逆に西暦年で覚えていて年号に換算することとなる。すぐに閃くのが西暦と元号のどちらなのかは、特定個人の生きてきた年代で違うし同じ年代でも環境によって異なるようで、それらに関する限られた私の経験を紹介する。

いまでは信じ難い事だが、我々の年代では小学生では西暦の事など教えられたことも、考えたこともなかった。初めて自分の生年の言い方に二通りあるのに気付いたのは戦後の出来ごとで、そのときの戸惑った情景はいまも鮮明に目に浮かぶ。それは高校校1年の英語の時間のことで、「1949年はnineteen-forty-nineと読むのだ」と先生から教わり、その応用で「自分の生年を西暦で言うように」と問われた。昭和でしか考えたことしかなく、西暦とは無縁だった我々クラス一同は、換算の仕方すらわからず全く困惑した。やおら沈黙の後、一人の女生徒が「nineteen-thirty-two」と答え、先生の「その通りだ」との言に、「ホホウ、自分の生年はそうも言えるのだ」と初めて西暦を身近にも感じた。

  その後、西暦も使われ始めたが、就職後の社内では、入社年次からして「昭和xx年組」であり、高度成長期より次第に低成長期と移行した昭和の時代での出来事は、社内外を問わずすべて「昭和xx年」と元号年で話し合うのが常だった。また仕事の上でも、一例を挙げると、オーダーエントリーシステム開発時にはその立ち上げ時期から「ヨンナナヨン(昭和474月)」システムと略称していたほどだ。いまでも会社のOB間で「xx年」と言えば昭和の元号が前提で話が進み西暦は念頭にない。しかし、私もその年代ではあるが、アメリカ留学の1958年から2年と1972年からのイタリアに駐在した3年間は、自分でも不思議なことと思うが、周りの会話がすべて西暦での環境だったので、その間のことのみは完全に西暦で記憶されている。例えば第一次石油ショックのときはイタリアにいたので1973年とすぐに西暦年が出て来るが、第二次石油ショックのときは日本にいたので昭和54年とすぐに元号で出て来る類だ。

  会社を早期退職した後一年余りで昭和も終わり平成の世となった。大学へ転職して最初に困惑したのはこ年号と西暦の問題だった。 大学の同僚の多くはいわゆる社会経験は経ずに大学院から直接に研究生活へと入り、その研究分野と参照文献関連で国内の出来事も含めすべて西暦で記憶していたようだ。例えば同僚から「1980年頃は---」と話しかけられても、即座にはその頃自分が何をしていたのか思い浮かべられず、昭和に換算して「エエトそれは昭和55---」となると途端に「ああ。君津製鐵所に赴任したときだ」とわかり、その頃の社会情勢も思い浮かべて話がつながると言った具合だった。大学へ変わって5年もすると、昭和と西暦の関連づけがスムーズになり、いまでは大学での出来事は西暦の方が先に出て来るようになっている。

  同じ年のことを二つの言い方があるのは不便で、世界共通で便利な西暦のみで良いという意見もある。それにも理があるが、「昭和の時代」とか「平成になって」とか、曰く(いわく)言いがたい雰囲気を漂わせることができるのは日本ならではと思うのは私だけだろうか。


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ふるさとの変貌【この頃思うこと-6-】 [この頃思うこと]

ふるさとの変貌【この頃思うこと-6-】

  このほど、佐世保を訪れ数日間滞在した。関西で過ごした戦中と戦後半年ほどの期間を除き、佐世保は生まれてから中高生までを過ごしたふるさとである。そこを離れてから何回も訪ねたがいずれも一泊程度であった。 6年前の退職直後に九州一周の途次で寄った。そのとき駅周辺は整理中で、次はゆっくり滞在したいと思ってきた。

  今回はその宿願を果たし、当時の家の近辺、通い慣れた小学校へ通学路、余り行かなかった市中央と西北部から平戸方面への地域を訪ね、親族や旧友と会うなど三泊した。

  幼児の頃の佐世保は軍港として栄え、街は海軍の兵隊さんたちで賑わっていた。記憶をたどり思い出せるのは、三方を囲まれた奥の家から南へ開けた両側の砂岩上で向かい合った三人が、細い鉄棒を「ヨイヤコーラ」と持ち上げては落とす「ドスンドスン」という音、やがてこだまする「バクハスルゾ」という声、その後に「ドッカン」と岩石が崩れ落ちてくる風景だ。先の尖った鉄棒で砂岩に細く深い孔を穿ち、その中に仕掛けた火薬で大きな岩を爆破していたことを後で知った。その崩れた後に石段ができ家が建っていく。子供心には広かった遊び場も家からすぐの狭い所で、近くの木も大きくなっていた。

  家は壊され駐車場となって近所の役に立っていた。そこから小学3年まで通った道をたどった。 距離にして600m高さ100mほどだろうか。急な階段を上りながら両側にあった家や、友達と落下傘ごっこと傘で飛び降り怪我をした階段、弁当箱を落として途方にくれた崖下、などを回想していると小学校へ着いた。その前日、丁度70年昔の3年生のとき教えていただいた92歳の恩師を訪ねた。そこで先生と当時を回顧した直後だったので、とくに懐かしく思われた。

  家の駅より反対の西北にある中心街は前から余り馴染みはなかった。その商店街だが4ヶ町にまたがる長い天蓋に覆われて軒を連ねているのは壮観だった。しかし、一番変わったのは駅近辺だ。JR佐世保線が高架となって駅舎が改築され、駅前の道が広がり、駅と繫がった裏手に港と接した公園が整備されるなど周辺が一新されているのには全く驚いた。以前は市のあちこちに大きな砂岩の岡が散在した坂の多い街だった。それらの大きな砂岩石を爆破して平地や道路を拡げ、また駅の海側は埋め立てたのだろう。駅周辺の開発で明るく解放された街となったいまでは、戦時中列車が駅に入る直前に軍港側の鎧戸を閉めさせられ秘密のヴェールに包まれた暗いイメージの街を思い浮かべるのは極めて難しい。

  駅といえば、中高生の頃、朝鮮戦争で米軍が朝鮮半島の朝鮮半島の南側に追い詰められたとき、在日駐留米軍が日本中から続々と佐世保に集結した。再び戦争かとの恐怖・緊迫感や、その列車群で駅が満杯となって機能せず、数日休校になったことなども思い出される

  中学3年時に学制が変わり、旧制佐世保中学も一年後輩までで終わった。男女共学になり市内の高校が南北に別れ南高に行った。それ以降疎遠になっていた市内北西部へと私鉄となった旧松浦線で平戸口駅まで行った。戦後繁栄の一端を担った北松炭田地区の、途中で通る佐々・吉井・江向などの駅名に友人名を思い出していた。あの頃はボタ山だった所は樹が生えて窓から見える岡になったのだろうか。

  その頃の平戸は10里という遠い道程の先だった。平戸口駅に佐世保から先回りをしていた甥が車で迎えてくれ、平戸島とその先の生月島との二つの橋を渡り眺めを楽しんだ。そのあと1時間余りのドライブで佐世保に戻ってきた。この半世紀で遙かに遠かった平戸も車で1時間余りの近くになっていたのだ。 

  最後から2年目入学で、以来ずっと後輩が一年しかいなかった旧制佐世保中学の同級会で旧交を改め、義姉と亡き兄の後を継いだ二人の甥一家との夕食を共に楽しめた。

  かくして、大きく変貌はしていたが、それでも多くの想い出を宿している「ふるさと」の訪問を終えた。


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「メイド イン ジャパン」のイメージ 【この頃思うこと-5-】 [この頃思うこと]

「メイド イン ジャパン」のイメージ  【このごろ思うこと-5-】

  テレビなどの家電では価格競争力で陰りが見えるが、車でのハイブリッド技術や、近く開業する世界一高い東京スカイツリーなど、日本の技術力は依然として素晴らしい。 

  しかし、私が最初に訪米した1958年頃は、日本はまだ発展途上国と見なされていた。 事実、1ドル360円の為替レートでは年収もアメリカの1割に過ぎず、インフラ面でも高速道路網や高層ビルの連立など皆無で、見るもの聞くもの驚くことばかりだった。「メイド イン ジャパン」もいまでこそ高品質で新技術の代名詞となっているが、当時は「悪かろう安かろう」の意味で、現今の100円ショップのような店ではそのほとんどは日本製だった。

  2年間滞在したClevelandは当時から100万都市で、お国自慢も多かった。「New Yorkを除けば東部各州で最も高い」というダウンタウンのCleveland Towerもその一つで、ある日、エレベータで最上階まで昇ってみた。東京でもビルは10階ほどが最高だった頃だから、その50階以上はあったと思われる高所からの展望は素晴らしく驚かされた。

   展望台の隅に土産物の店があり、何か記念になるものをと探すと、安いものはその裏に見事なほどみな「メイド イン ジャパン」と書いてある。なおも探すと、長さ5cmくらいの金メッキ針金のベンチに腰掛けた、可愛い男の子と女の子のエンジェルが軽く口づけをしている陶器をみつけた。 店の人に飾りかと訊くとSalt and pepper を入れて置くものだと教えてくれた。そのような調味料セットは当時の日本にはなく、これはアメリカでしか買えないと大枚5ドルほどをはたいて買って帰り部屋に飾っていた。

  その次の年の夏に、友人の車でナイアガラの滝を見に行った。そこでも沢山の土産品店があり、ナイアガラの滝を描いたナプキンやスプーンなど、これこそナイアガラにしかないとばかり喜んで買って友人の車に戻った。すると、彼が「よく見てご覧」という。確かめるといずれにも「メイド イン ジャパン」とある。確かにアメリカ製にしては安いと思ったが、日本国内では売らない輸出専用品があることはそのときに初めて知った。でも日本では買えないのだからと納得することにしてクリーブランドへ戻った。机の上のkissing angel を見てまさかと思いながらその底を見るとなんとそこにも「メイド イン ジャパン」とあった。それ以来、買い物をする前にどこ製かと品物の底を見ることが癖になった。

  そんなある日、アメリカの友人が日本も自動車が作れるのかと失礼なことをいうので、"Sure, we have already TOYOPET" というと、"Oh, miniature model car, good naming"というので「違う実用の車だ」という。何回か問答しているうちに、彼がとトヨペットの字をToy-O-pet と読み、Toy Pet をご丁寧にも O で結んであるのでてっきり玩具だと思ったという。現在ではハイブリッドなどの技術力を世界に誇るToyotaも当時は残念ながらそれくらいにしか評価されていなかったのだ。

  その後1968年にSalt Lake City 近郊の世界的に有名な銅山を見に行った。その頃には日本経済も急速に発展し始めて、「メイド イン ジャパン」も安物というイメージは少なくなっていた。そこの土産店で日本では見たことのない銅製の精密な可愛いランプの飾りをみつけた。まさかと思ったが底を見るとそれも日本製だった。そのときには、さすがに器用な日本製だと感じながら買ったことを覚えている。

  その少し後、1972年に訪米した頃には日本も先進国の仲間に入りかけ、お土産に持参したソニー製の薄べったいポケットラジオは大好評だった。いまほどではないが「メイド イン ジャパン」は小さいが品質に優れ値段もそれなりのものとの評価が定着し始めているのを感じて嬉しかった。

  最初に訪米してから15年の間に「メイドインジャパン」の世界でのイメージは大きく変わり現在に到っているのは喜ばしい限りだ。これからも、それが「高品質で適切な価格品」の代名詞であり続けることを願っている。


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転職と会社へのLoyalty 【この頃思うこと-4-】 [この頃思うこと]

転職と会社へのLoyalty  【このごろ思うこと-4-】
   転職の考え方は社会風土や時代と共に変わる。時代での変化は、日本では経済が高度成長から安定成長への転換期である1980年後半に大きかったと思う。それ以前の大企業では、終身雇用で入社後何年かは同期入社は同額の低い給料で始まり、勤続年数と共に能力と貢献度の上昇するにつれ個人差はあるが年度ごとに昇給し、55歳の年満退職まで会社が社員の面倒を見ることがおおかった。しかし、同時代でも風土の違う米国では、「転職できるのは能力ある証拠だ」だとばかり、初任給が卒業成績で違うのを留学先で知見し、その時は彼らの会社へのLoyaty は何なのか明確には理解できなかった。
  入社後10ほど経ちCalifornia 大学Berkeleyでの一か月間ホテル泊まり込みのExecutiv 向けプログラムに出張参画した。50歳前後の米国内の社長と副社長を対象に、数十冊の経営、経済、歴史、人種差別、生化学など多分野の科書籍を課題で読ませ、社会的責任、企業の人材育成など、経営者として重要な多くの課題を学び討論するものだった。その中の、疑問だった米国での会社へのLoyaltyについて多くの読書課題と彼らの実体験に基づく討論は大変興味深いものだった。「会社に対するLoyalty(忠節)とは、会社に対し怖れ愛されようと自分の全てを捧げ盡すのではなく、ある時には会社を自分のdevelopment の vehicle として活用し、それで自分を成長させ、その成長した自分でまた会社や広く社会に貢献することが大事だ」と私には理解できた。また、転職は「修得し得た以上にその会社への貢献がなされており、本人が更に能力を伸ばせる機会があれば転職し、転職先の会社を通じ社会により多く貢献することで意義がある」という。その時は、社会風土が異なる安定経済下の米国での考え方として理解できた。そのほかBerkeleyでの修学経験からは以降の仕事や人生上の岐路で重要な示唆が得られた。 転職の決断もその好例の一つだ。
   月日が経ち1986年の秋に関西の大学で情報処理担当の教員募集があり、実務経験と論文数編のある適任者の紹介を依頼された。私の部署には当時何人もの適任対象者がいて、試みに大学への転職について幾人かに一般論として訊いたが、転職には否定的な雰囲気だった。私自身も会社からは留学やその後の仕事面で恩恵を受け、それをこれから返すか考え以外はなかった。でも、修士号と実務経験があり論文も数編書いている自分も有資格だろうかとふと訊ねてみると、「その地位での転職は考えられないが資格は充分ある」という。一瞬BerkeleyでのLoyalty 論が脳裏を横切った。自分は急成長期に導入された転炉・連続鋳造など鉄鋼製造の新技術と急速なコンピュータ利用技術を組み合わせた新製鐵所建設に参画できた。これは、会社あったればこそで自分だけでは絶対に不可能な革新的な「攻め」の経験だった。国内での建設が一段落し、その経験を欧米や韓国・中国などでの製鐵所運運営の技術移転に活かせた。その後は全社内で未開発の大型プロジェクト開発を担当し、会社への貢献は一応できたと思えた。でも、低成長下では「守り」が重要で「攻め」での貢献場面は少なく、会社に居座ることでの意義や自信も疑問に思え始めた。一方で、大学での学生の育成では新しい人生への「攻め」で海外も含めた経験を充分に活かせると思えた。永年苦楽を共にした人たちとの別れは辛く大いに迷ったが、当時はまだ珍しかった早期退職を思い切って選び驚かれた。その後十年ほどで時代が急変し、私が在籍した情報システムの部門からだけでも10名近くの後輩の大学教授が生まれた。
   転職をめぐる社会風土は時代ほどに急変したとは思えない。1992年から客員研究員として在籍したドラッカーセンター大学院で学ぶ社会人との会話で日米の社会風土の相違を明確に感じた。日本では所属する社名はいうがそこで何担当なのかは訊かない限る言及しない。それに比し彼らは「自分はxxの仕事をしている」と担当は紹介はするが、「勤務の会社は?」と訊くとはじめて "with xx company"と社名をいう。一人などは「自分は会計が専門で、その分野の製造、流通、商社の各業種の会社を計画的に転職した。いまは銀行で金融分野を担当し、会計分野での博士号取得と各業種の会計に通暁した専門家になるのが夢だ」と語った。これは極端だが、米国では会社を自分の能力育成の場と考え、育成されたことに見合う会社への貢献がなされたら、その能力を活かすべく転職し更に高いレベルでの貢献に高めるというBerkeleyでの考え方だった。これとても昔のことで、担当したゼミ卒業生の昨今の話では、社会風土も時代と共に変わりつつあるように思える。
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「米食」と「肉食」考【この頃思うこと-3-】 [この頃思うこと]

「米食」と「肉食」考【この頃思うこと-3-】
いま住んでいる靜岡の街中でも、少し歩けば世界各国の料理専門店や同じ店で種々の国の料理が楽しめる。また、自宅でも和食と洋食との区別が薄れている。私自身も、70歳半ばまで仕事を続けたので運動不足の期間があり、血糖値を食事で管理するため一日の所要エネルギーを蛋白質・糖質・脂質のバランスよく摂取することに心掛ける身となった。「米食」とか「肉食」とか考えていたつい50年余り前には想像もできなかったことだ。
1956年の大学卒業時にはまだ米穀配給通帳が必要だった。配給米だけでは不足し、会社の独身寮では3交代勤務の労務加配米の「おこぼれ」で米飯だけは好きな量が食べられた。おかずも野菜の煮物と時々は鯨肉もあって戦時中の飢餓感とだけは無縁にはなっていた。そのような日本から、急に世界で最裕福な米国へ留学した。「もの」、とくに「食べ物」の豊富さや収入に比しての安価さには驚かされた。薬のように時たま飲んでいた牛乳は、その容器が日本の一瓶の数倍はある感じで、嬉しく水代わりにガブガブ飲んだ。すると、一月もしないうちに体重が増え、朝起きると身体中がギトギトとして、洋画にあったように朝のシャワーを浴びないと気持ちが悪いほどになり飲む量を控えた。また、当時の日本では、蛔虫の恐れから生野菜を食べる習慣がなかった。生の人参の入ったサラダに「ウサギの餌」を連想し、最初は嫌々ながら食べたが、慣れると大変旨い。「アメリカでは何が旨いと思うか」と友人に訊かれ、即座に “Fresh salad and ice-cream”と答えたときの友人が示した「期待はずれ」といった表情は忘れられない。とくにセロリはいまでも病み付きになっている。
その他 ” Milk Shake ”(ミルクセーキ)は一回で飲み切れないほどの量で甘く、大学のカフェテリアで昼食をそれで済ませたことも再々だった。クリーブランドでは中心部近くに黒人が住むようになり、金持ちが郊外に越した。そうして空いた大邸宅が学生向けのトイレ付き貸部屋となり、そこで多くの学生が自炊していた。「米飯」は恋しいが、炊飯に独特の臭いが伴うので、共同のキチンでは昼間誰もいないときを狙って時々こっそり炊いた。
家族の一員として一時期厄介になったボンド家で、「今日はYoshiのためポテト代わりにライスにした」と、ポロポロ米を煮て、皆はそれに砂糖をかけて食べ始めた。甘党の私もそれだけは勘弁願って塩を振りかけて食べ驚かれた。それと逆に、イタリア風の豆がいっぱい入ったスープはゼンザイに似ていて甘いものと思ったのに塩味で驚いたこともある。
また、「肉食」とは縁遠く「米食」で腹を充たしていた私には、「少量の肉と野菜料理、ジャガイモとサラダに牛乳」の夕食では物足りない顔をしたのだろう。食後私の表情を素早く読み取ったミセスボンドが ”Are you sill hungry ?” と訊いたのも無理はない。「カロリーは充分過ぎると思うが胃は満足していないようだ」と感じたままをいったら ”---???” と困った表情をされ、今度はこちらが返答に窮した。
授業で毎回出される課題に追われる留学生活では、夜の眠気と戦うのが一番辛かった。半年くらい経ったとき、ふと、「米食」をした晩は夜に無性に眠くなるのではないかと思いついた。すると、それがかなり当てはまると思えた。そこでエンジニアらしく考えたのは、「石炭を焚いて蒸気エネルギーに変えるボイラー効率は、焚く石炭の品質に左右され、同エネルギーを得るには無煙炭などの高級炭が泥炭などの低質炭より少量で済み高カロリーを出す」ことだった。胃も「食物を消化し脳の思考力や身体の運動エネルギーに変える」が、胃にとっては、同じ発生エネルギー量に対し、「米食」の方が「肉食」より消化に多くのエネルギーを要し(換言すれば熱効率が悪く)その分、頭への血流が少なく眠たくなるのではないかという理屈だ。日本人の腸の長さは西欧人のそれと比してそのために極めて長いとさえいわれていた頃だ(いまはどうなのだろう?)。それで、当時、日本人が電車の中で居眠りするのを外人が不思議がっていたことも納得できる気がした。その後、一年経って家内も留学して来たので、宿題の多い月曜から金曜日は一日交替で洋食風に「肉」とサラダ、パンの食事とし、土・日のどちらか副食を少なく「米飯」で腹一杯とする食事にして、その日だけは課題は忘れ早々と寝て留学時代を過ごした。この理屈の真偽のほどは不明だが、現在では電車でも居眠りが余り見られなく、老齢者が食後少し横になりたがるのはこれで説明が付きそうだ。最近では眠れないことはあっても眠くて我慢できないなどとは夢のまた夢だが----。この頃このようなことを考える人もそうはいないだろう。



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『時』」について 【この頃思うこと-2-】 [この頃思うこと]

『時』について 【この頃思うこと-2-】
2011年ももうすぐに終わる。大晦日は皆が「今年もあと何時間」と数える数少ない日でもある。今回はこれに関連して、日頃そして、とくに退職して6年目を迎えるこの頃、私の限られた知見と体験から「人生における『時』」につき思っていることを書く。このブログ自体が、私の記憶のなかでも鮮明に残っている「『時』の一場面の文章による再現」の試みであり、その意味からすれば幾つもの場面を通しての私の所感ともいえよう。
旧約聖書「コヘレトの言葉」第三章3節に、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時  植える時、植えたものを抜く時  殺す時、癒す時  破壊する時、建てる時  泣く時、笑う時  嘆く時、踊る時  石を放つ時、 石を集める時  抱擁の時、 抱擁を遠ざける時  求める時、失う時 保つ時、放つ時  裂く時、縫う時  黙する時、語る時  愛する時、 憎む時 戦いの時、 平和の時。」とある。これは、換言すればその好例示とともに「機が熟してはじめてものごとが起こる」とも解釈でき、最初に読んだときから、そしてそれ以降いまも強い感銘を受けている。
私のことだか80年近くの人生を振り返っても、長期間あることを熱望しやっとそれが実現できるかと思う矢先に、そうはならずに大きな落胆を味わったことは数え切れないほどあった。でも、焦りや落胆と絶望に終わらせず新たな希望へとつなげているうちに、思いがけない『時』に想像した以上により良い結果となって実現し、「あの時に願ったようにならなくて良かった」と思えることもしばしばであった。これこそ、主観的にわからなかっただけで客観的には「まだ機が熟していなかった」ということだったのだろう。このことは心理学でいう自己正当化の面もあろうがそれだけではないと思う。
人生での『時』、つまり「熟した機」、は一度だけで二度とは来ないというのも真実だと思う。確かにその『時』は二度と来なかったことも沢山あった。極端な例だが、高校2年の春に鉄棒で大車輪が回れるようになったことなど、まさに身体的な成長期と重なり受験準備の直前だったからできたことである。一年後でも不可能で、まして身体の衰えたいまでは勿論できる筈もない。仕事に関しても「何でも恥じずに訊けるのは配属直後だけだ。好奇心を持ちその間に多くを訊き覚えよ」と先輩に教えられた。それは、その後の会社での新部署への配置や大学への職業替えの時でも、「『時』は再び来ない」という極めて有効な指針となった。
朱子学の祖で宋代の名儒者である朱熹の「少年老い易く学成りがたし 一寸の光陰軽んずべからず 未だ醒めやらず池塘春草の夢 階前の梧葉既に秋風」という七言絶句がある。暗記した高校生の頃は初めの二節にひかれたが、この頃は最後の二節で「はや秋風の年齢となったこと、それだけに最初の二節の今後における重要さを改めて実感している。」
また、人生では思いがけずチャンスとなりうる『時』が突然に何回かは来るようだ。そのチャンスは、成功すれば格段に良い状況が生まれる可能性は大きい。それだけに失敗の恐れも大きく未知の大きな冒険を伴うように見える。選択するには自分の有する実力や置かれた状況も熟慮の上、思い切って決断する勇気が必要となる。チャンスは二度と来ないことは「幸運は前髪をつかんでとれ」という西洋の諺にあるとおりだ。少しでも通り過ぎると幾ら慌てても後ろ髪では掴めない。あとで考えるとそれが人生の大きな岐路となったことが数回はあった。チャンスという『時』はあとで後悔することのないようにひるむことなくまず乾坤一擲で掴む勇気が重要だと痛感する。
人生は選択と決断の連続だ。あとで振り返れば上記のような綺麗ごとも書ける。しかし、その時点ではことの大小を問わず選択に迷うことばかりだった。現状に安住して変革を求めないならば、折角自分または自分たちに与えられている可能性を台無しにすることとなるので、現状を変える必要があると思われる場面も多い。しかし、その場面では、客観的に見て、それが「できることかできないことか」、あるいは「すべきことかせざるべきことか」、また、「機が熟しているか」などと見極めが重要だ。また、変えるには相当の決意・勇気が必要である。この種の悩みには、先に10月22日のブログに載せたニーバーの祈り、「神よ、変えることのできるものについては、それを変えるだけの勇気が与えられますように、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さが与えられますように。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵が与えられますように。」と虚心坦懐に祈るのが大きな指針となろう。

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心をとらえる二つの文章 【このごろ思うこと-1-】 [この頃思うこと]

心をとらえる二つの文章 【このごろ思うこと-1-】
前述のようにClaremont 大学院のDrucker Center で1992年から半年滞在した私にも研究室が貸与された。その並びの各研究室のドアには、担当講義名ごとにそのOffice Hourの曜日・時間が掲示されていた。いまでは日本の大学でも制度化されているが、そこでは各担当講義時間にその講義に関する学生の個人的な質疑を行う仕組みがすでにあったのだ。ある日、隣接する研究室のドアのOffice Hourの下に次のような文章が付加貼付されていた。
“The future is not some place we are going to, but one we are creating. 
   The paths to it are not found but made, and the activity of making them
    changes both the maker and the destination.”. (John Schar)
私はかねてから「いまの一歩一歩こそが将来へとつながり重要なのだ」と思っていて、その思いを何とか多くの将来ある若い人に自覚して貰おうと努めていた。したがって、その文章を読んだ途端に私の心はそれにとらえられ、早速ノートに書き留めた。翌日その教授に会った時にその旨を告げると、「知人であるJohn Scharのこの文章を読んで感銘を受け、研究室に来る学生が必ず目にするドア入り口に貼ったのだ」とのことだった。
私には学生時代から愛唱していた賛美歌の歌詞「わが行く道いつ如何に なるべきかはつゆ知らねど 主はみ心なし給わん 備えたもう主の道を 踏みてゆかん ひとすじに」に良くその意味が表現されて思えたのだが、当時教えていたキリスト教を建学の精神とする大学においてさえ、その歌詞では「私は信仰していないので」と一言いわれるとそれ以上の説明はしにくかった。しかし、このScharの文章では、宗教色抜きでそれと同じ趣旨が美文かつ簡潔に述べられており、これならノンクリスチャンの学生にも私が言わんとすることが充分に理解してもらえると嬉しく思えた。
翌年に大学へ戻るとすぐ、この文章を学生に示し、また私のゼミに入る学生にはそれを訳して提出するように求めた。英語のままで真意を理解するのが望ましかったが、それを自国語である日本語で確認させるために和訳させると、大意はつかめているのだが、もう一つ真意が伝わっていない感じに思えることが多かった。そこで、次のような私なりの思いも入った訳を付して皆に配り討論をした。
「(我々の)将来とは、我々が行こうと目指しているどこかの場所ではなく、(我々が)いま創りつつあるものそのものなのだ。 そこ(将来)へ到る道筋は見つかるといった類のものではなく(我々によって)創られていく道筋なのだ。そして、その道筋を創って行く活動自体が、その人およびその目的地を変えるのだ。」
つまり、各人の人生にとっての将来は、宿命論的に決まっているものではなく、各人のその時々でどのように道を切り開いて行くかのその活動自体に応じて変わっていくのだ。
これと関連して「いま何をすべきか」に関し私の心を強くとらえてきたもう一つの文章がある。それは次のような有名な神学者Reinhold Niebuhr (1892-1971)の祈りの言葉である。
"O God, give us serenity to accept what cannot be changed, courage to change that
should be changed, and wisdom to distinguish the one from the other.”
これは日本語には次のように訳され祈られている。
「神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄につは変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。(R.ニーバー) 」
私にはこの二つの文章の組み合わせとして「この世の中には、実現したいと一生懸命に努力しても思い通りになることはほとんどなく失意のどん底に陥ることがほとんどだ。しかし、思い通りにならなかったというのにはそこに何か意味が隠されているのだと思い、希望を持ってそれに到る別の道筋を見つけそれに励めばまた別の道筋が見つか。後で振り返ると結果としてはそれがかえって良かった。」と思うことの連続だった。いまは若い時ほど将来への可能性の範囲は広くはないが、それだけに何をいまなすべきか、そうして見つけたなすべきことを毎日しっかりとなすことがますます重要になっているように思われる。

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