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ドブロウニクとGoldsmith 【この頃思うこと-13-】 [この頃思うこと]

ドブロウニクとGoldsmith 【この頃思うこと-13-】
  テレビの世界遺産を見ていて、その一つのDubrovnikへ行ったことを思いだした。それは南部イタリアへの長期出張していた1974年のことだ。旅行社に相談すると、有名ではないがと共産圏ユーゴスラビアのDubrovnik訪問を薦めた。当時は米ソ間デタント(緊張緩和)時代だったが共産圏入国は依然厳しく、圏内の滞在は、ビザ不要で厳戒中の東ベルリン博物館の見学と欧州往復でのモスクワ空港内だけだった。「数日の観光訪問だと近くのBariからビザなしで簡単に行ける」と言うので圏内の状況を是非見聞したくなった。
  Bariで換金の際、ドルへの買い戻しは極めて不利で替え過ぎないようにと確認されたが、共産圏で珍しい土産もあろうかと、それがGoldsmithに結びつくとはつゆ思わず、かえって多めに換金した。 夜にBariで乗船すると翌朝にはアドリア海対岸のDubrovnikに着いた。街では英語は通じず、ホテルまではタクシーで行ったが随分と安く、渡したチップは受け取らなかった。ホテルは部屋から旧市街が見える丘の上にあり、中世にはラグーサの名でヴェニスと競い合った港だけに、眼下の旧市街や城壁の眺めは素晴らしかった。
  荷物を置くとすぐ街一番の目抜き通りへタクシーで出かけた。それは全長200mあまりと短く、両側に店舗の並んだ人影の少ない街路だった。珍しいお土産があるかと店先を覗きながらその通りを何往復かした。しかし、国営店なのかどの店も愛想は悪く陳列品は西欧社会で見る安価品のみで、品質やデザインも劣り購買意欲を全くそそらない。どうやら木彫り専門店で荷物を積んだ牛を見つけ買ったが三つで千円もしない。これでは再換金で損をする羽目にはなると、もう一度その通りの端から端まで探した。すると、土産物店の一画を区切り作業場も兼ねた店で初老の職人が金細工をしている。「これが英語で言うGoldsmithだ。共産圏にもあるのだ!」と入ると、アメリカ人風の年配の婦人が細工に見入っていて、その前の小さなガラス棚にはブローチなど手製の金細工が並んでいる。職人に英語で話しかけると「分からない」と身振りをする。駄目で元々と、下手なイタリア語で話しかけると「日本人でイタリア語がわかるとは珍しい」と、細工をしながら機嫌良く「前大戦でイタリア軍が駐留し言葉を覚えた。共産主義の国でも特殊技能者は収入に応じて税金を払えば自分で店を持って商売ができる」などと話してくれた。よく見ると細工の腕も良く、値段もイタリアや以前に訪れたリスボンの宝石店などに比べ遙かに安い。これなら買う値打ちはあると幾つかを選び始めた。すると例のアメリカの婦人が「いま何語で話したの?。この店でブローチを買おうかと随分迷って問いかけるが英語が通じず困っていた。」と言う。英・伊の通訳をすると彼女は安心し喜んで幾つかを買った。私も共産圏での事情も少し分かり、再換金も不必要となる良い記念品の買い物ができた。丘の上のホテルも設備も欧州並みに立派なわりには安価でチップは不要だった。翌日は旧市街を一望する丘にタクシーで登り、そこからの展望を楽しんだ。ケーブルカーとその駅があったが動いていなかったように記憶する。旧く由緒ある城壁や建物を見学し堪能した二日だった。
  その後、テレビでそのDubrovnikが1991年頃に激しく砲撃されて美しい街並みが崩れているのを知り残念に思ったことだった。今回これを書くに当たりウェブサイトで調べると、「(私の訪問後の)1979年に世界遺産となったこと、内戦の砲撃での市街破壊はその後復元されたこと、旧い目抜き通りの名はプラザ通りで、丘はスルジ山と言うこと」を知った。また、写真を見ると、私が訪ねた旧い街並みは見事に再現され観光客で溢れていた。
  「共産圏」と言う言葉も聞かなくなって久しい。したがって、「Dubrovnikがこのように誰もが自由に行ける有名な観光地となったことは喜ばしい」とか、「あのGoldsmithの職人がいまも健在ならば、その言葉の端々にうかがわれた不自由な共産圏からの解放と、訪問客の多さにさぞ驚き喜ぶだろう」と思うが、そう思える人も、もう余りいないのだろう。
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