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TPOについて 【この頃思うこと-10-】 [この頃思うこと]

TPOについて 【この頃思うこと-10-】
  テレビで見かける奇抜な着帽や服装にも若干の違和感を持つが、先ごろ街中で「アレ、ここは海水浴場ではないよね?」と思われる服装の女性に何回か出会いTPOを思いだした。それは、和製英語Time Place and Occasion の頭文字で1970年代頃に話題となり、「その時・場所・場合に適した服装」の意から広くマナーにも含むようになった。TPOが何故その時代に生じいまは消滅したのか。通常ならまず仮説を立て文献などで実証する。しかし、この社会現象が限られた私の時空間内で生滅しているので、ここではその前後の時代ごとに関連事象を思いだし結びつけて、私なりのその理由を推論して若干の感想も添える。
  まず、時代を1930年代後半に遡ると、一般に生活は苦しく衣類も容易に買って貰えなかった時代だ。幾つかの想い出を辿れば、母が7人家族の衣服を洗濯板で手洗いしていた姿や、着物をほどき洗った後、糊を利かせ張り板に両端が針の竹ヒゴで伸ばし貼り付けていた情景が浮かぶ。父は、白丸首ワイシャツの襟元のボタンで、真っ白で糊のきいたカラー部分だけを毎朝変えていた。小学校はハレの日以外は普段着で、ハレの日でも正月だけは特別で新調の下着に.着替え、父は羽織袴、母は着物、子供たちは制服と普段とは全く別の正装だった。学校では元旦など祝祭日には式典があり先生方も晴れ着姿だった。
  1940年に入ると戦時色が濃厚で、食同様に衣料も配給制となり、ハレの正月も含め黄褐色の国民服・モンペ姿がすべての場合に通用した。中学でズボンにゲートルを巻き始めた以外は変化がなく空襲に明け暮れ、盆も正月も印象にはない。その年代の後半は敗戦で始まった。飢えに直面し食の確保で精一杯、衣服は着られれば何でも良かった。高校入学の頃になり、どうやら黒詰め襟の学生服が一張羅の晴れ着も兼ねて着られるようになった。
  1950年代前半もその延長で、大学では学生服だけでどこでも何時でも通用できた。経済も復興し始めたその後半の入社式では、皆が給料一か月分以上はした背広を着用していたが、現場での作業服は支給だった。その年代終わりの2年間は、留学生として当時の先進国アメリカの裕福な生活に驚愕した。大学ではカジュアル着だが、 Formal と Informal の区別は明確だった。親代わりのボンド一家の教会では、学生の私でも背広にソフト帽の正装と言う雰囲気だった。また、オーケストラホールでは、夜会服に身を包んだ紳士淑女の姿が珍しくなかった。マナーも厳しく、男性は室内や女性の前では必ず脱帽していた。
  1960年代に入ると、前半の日本経済は先進国への「追いつき追い越せ」時代で、後半には急激に生活レベルが向上した。急増した収入との関係で諸物価も安価に感じられ、初めてその場に適した衣服の選択購入が可能となった。同時に、海外交流が盛んとなり、服装やマナーもグローバル化し複雑になった。このような諸々の社会情勢が絡み合って、TPOと言う言葉が生まれ提唱されたと推論する。1980年後半頃から、マナーの教育はやや下火となり、学生に教室では脱帽する、コートは玄関で脱いで入る、とか授業の合間にマナーを説いていた状況は1990年代初めのバブルの崩壊時期の後もしばらく続いた。
  2000年代に入ると、周知の通り多種多様な衣服が店に溢れ、それが安価で気軽に入手可能となった。人権宣言での「自由」「平等」「博愛」で言えば、衣服でも各個人がその個性を自由で平等に表現し始めた。一方、技術の急速な進歩などで、以前にはハレの祝祭日に限られた娯楽がテレビや電話で何時でも即座に楽しめ、昔の基準で言えば常にハレの状況になった。このようにしてTPOの存在意義が消滅したと言えよう。しかし、私には、残った「博愛」の面、つまり、衣服が他人へ与える感情も考慮しているか否かでは疑問である。冒頭に述べたような違和感を持つのは、時代へ即応できていない証拠かも知れないからだ。


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