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親の代と子の代 [この頃思うこと]

親の代と子の代  【この頃思うこと-7-】
  「子には自分を超えて欲しい」との親の「願い」は普遍的なものだろう。それは、当然物質面のみではない。しかし実感できる物質面のみで見ると、社会の活動主体が農漁業から工業そしてサービス業へと急速に変化するなかで、国により遅速の差があるが、その「願い」に対する「現実」が時代と共に変わり行く様が私の人生のなかでも身近に感じ取れる。
  それを最初の意識したのは1965年の米国の大学における講義だった。テレビ放映開始後の間もない頃、NYのあるテレビ放映会社の副社長が、一代で西部の大農場をなした父親に見て貰おうと、農作業に多忙だと言う父親に会社訪問を願った。訪問した父親は「なるほど、お前は若くして社会的な地位で私を超え、生活も恵まれている。でも、汗水垂らした永年の労働の成果で大農場を持てた自分には、身体的な労働もモノの生産もせずして、口先一つでそうなったのは解せない」とすぐに農場に戻ったと言う。講義の主題は、労働に対する価値観の転換がアメリカでその頃に生じたことだったのだが、私には親の子への「願い」が予期しない形で実現した「現実」への戸惑いとも感じられた。
  「もはや戦後ではない」と言われた1956年に就職した私の年代では、親達年代の家の多くは戦禍で廃墟と化して、勤続年数で社宅入居可能となるまでは、借家か設立直後の公団住宅に抽選で入居するのが精一杯だった。ましてや、持ち家など考えられなかった。しかし、その後の経済の急成長で、1960年からの数年間はその渦中の我々さえも驚くほど急激に生活が向上した。スバル360やマツダクーペなどが発売され、軽自動車ながら自家用車の月賦購入が可能となり始めたのもその頃である。末っ子の私も何とか算段して、両親に福岡・大分・山口などのドライブを楽しんで貰えた。
  1970年代に入っても日本経済の急成長は続き、その後半には企業の住宅政策の社宅充実から自宅取得援助へとの変化もあり、自家用車の普及に続き持ち家がその次の目標になり始めた。私たち世代の多くは、よく働きもしたが、時代に恵まれ戦後の喰うや喰わずの生活から、驚くほどの短期間に物質面では親の代を超える経験をすることができた。
  その後、日本は1973年のオイルショックを境に低成長に移った。その前後に駐在した南イタリアでは、国の南部政策の一環で、農業主体から製造業へと転換しつつあった。その結果、親の代と比較し物質面では豊かになり、家族を大事にしていた彼らにとって、そのことが誇らしく思えているように見えた。
  1980年には、若い頃に多くを学んだアメリカのアームコ社からの要請で、ヒューストン製鉄所で技術協力することになり、延べ一ヶ月ほど滞在した。週末に招待された相手の部長自宅は温水プールもある大きな邸宅で、車3台のうち1台は家具や電化製品が揃った大きなキャンピングカーで、アメリカの豊かさには驚かされた。その旨を告げると、彼は「父親は一介のサラリーマンだった。それを超えるのが若い頃の目標で、鉄鋼の良き時代と幸運に恵まれ努力して実現できた」と満足そうだった。しかし、「先日、大学生の息子から『いくら努力しても、父のレベルは超えられそうにない』 と言われ『いや、そんなことはない』とは答えたが、時代が厳しくなり親という身近な存在を超える目標すら持ち難くなり、息子が気の毒な気もする」と言う。そこに一抹の寂しさが感じられた。 当時の日本はバブル崩壊前で他人ごとのように聞こえたが、アメリカンドリームの時代も変わりつつあるのだと実感した。
  それから30年余り経ったいま、「若者より老人の方が生活に余裕がある」とか、「若者が留学したがらない」とかを耳にする。最近20年ほどは日本経済が停滞し老齢化の進行するなど困難なの面はあるが、一方でインターネットやスマホなど私たちの現役世代には考えも及ばなかった便利さに溢れている。若い人がそれらを活用し、我々世代を遙かに乗り超え、さらに一段と高度な目標を見つけ挑戦して欲しいと願う。
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