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昭和19年の国民学校6年生 【小学校の頃のはなし-3-】 [小学校の頃のはなし]

昭和19年の国民学校6年生 【小学校の頃のはなし-3-】
 もう70年も前になるがいまでもフッと浮かぶ風景が幾つかある。場所は甲子園野球場の西1キロにいまもある西宮市立今津小学校で当時は国民学校と言った。
 次第に戦争を身近に感じ始めたが空襲が始まったのは翌年で、食料や物資の欠乏を除けば生活はまだ何とか平常だった。併設の高等科二学年の生徒は校外に勤労奉仕で出かけ、6年生となり名実共に少国民の最年長との自覚を感じる雰囲気だった。その顕著な例が朝の登校時の立哨だった。6年男子の各学級の委員2名が交代で校門の両側に形だけの銃を持って歩哨に立ち、誰も通らぬときは「休め」、隣組別の学年順2列縦隊先頭の6年生による挙手の敬礼と「歩調とれ」の号令で生徒が通る間は「気を付け」、先生の登校で「捧げつつ(銃)」の姿勢をとった。若い女性の先生の恥ずかしげな挙手の返礼が思いだされる。男性の多くは兵役につき、先生方も6年男子組担任の5名男性で他の多くは女性だったと思う。担任は30歳代の尊敬すべき先生で、亡くなった20年ほど前まで交流させて戴いた。授業で記憶に残るのは国史(国語?)での「古事記」の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)東征の話だ。「草薙の剣」で草の猛火の難を逃れ、相模から上総に渡る際に嵐を鎮めるため后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)がに身を投じた話などの物語だ。以降、上総の「木更津」(タケルの”君去らず”由来との説あり)」に単身赴任で3年住み、日本武尊御陵の古墳から遠くない河内長野に20年近く住み、そして「草薙神社」や「日本平」まで4キロほどの所にいま住んでいるのは不思議な縁だ。音楽の時間は女の先生が担当で、西洋音楽禁止の例外は同盟国独・伊の音楽のみで、手回しの蓄音機と音盤(レコード)で聞いたベートーベンの「月光の曲」の美しい旋律には感激した。そのほかは、敵爆撃機の機種判別のためピアノの鍵盤音を聞き分ける聴音訓練などと記憶すする。
 映画には時々学校から皆で見に行った。「轟沈」とか「加藤隼戦闘隊」など戦意高揚ものが多かったが、エノケンの「三尺さごべえ」と言うのは珍しく時代劇で、面白かったし「さごべえ」が顔の大きさのオムスビを食べるのが大変羨ましかったのを思い出す。そう言えば、当時は庭隅や未舗装だった道の少しの隅でも耕し、芋とか野菜を作っていてその収穫の日だけはそれで日頃の空腹感を少しだませた。
 夏には、放課後に今津の濱で海浜教室があり、日本泳法の抜き手、平泳ぎ、背泳ぎ、立ち泳ぎなど種目別に試験があって等級が貰えた。最終日には何とか資格を得て、併走する伝馬船の太鼓の音に合わせての海上1kmの遠泳に加わった。当日はかなりの高波で波間に入ると空と自分以外は何も見えない瞬間があり怖かったが、例年ご褒美のもう店では買えなかったキャラメル一箱を目の前に散らつかせながら何とか泳ぎ切った。でも、貰えた褒美は夢見たキャラメルでなく鉛筆一箱でがっくりしたのを思い出す。
 確かに当時は標語として「大和魂、鬼畜米英」などと聞いたが、戦後の「平和憲法の下での民主主義」教育にそれらは滅多に思い出さない。しかし、昨今の中国や韓国・北朝鮮の民族主義教育を見聞すると、70年前のその時代を思い出し、グローバル化のなかで両国民とも早くその段階から卒業して欲しいと思う。
 それにしても、私の経験では戦時中も含めいま話題の先生による体罰は受けなかった。いじめもなくはなかったが陰湿なものではなかったように思える。

小学校3年のときの先生【小学校の頃のはなし-1-】 [小学校の頃のはなし]

小学校3年のときの先生【小学校の頃のはなし-1-】
    昭和16年(1941年)4月に、それまでの尋常小学校が国民学校へと変わった。そのとき私は軍港だった佐世保で3年生になった。当時は「男女七歳にして席を同じうせず」で、学級編成が2年までの男女混合から男女別となり、なんとなく男であることを意識させられた。いまにして思えば、世の中では男性は前線にかり出され、銃後の守りと称して女性が職場へ進出し始めた頃だったのだろう。女の先生の女児学級担任はあったが、まだ男児学級は男性担当が多かったと思う。というのも、学級担任が女性の先生だと知り、私たち悪ガキどもは「男のシェンシェイ(当時はそう発音していた)になると思ットッタバッテン、女の先生テバイ。名前バ『さん』と呼バレテモ返事バセンゴトスットゾ」と皆に強制したからだ。
   70年経ったいまでも鮮明にその光景は思い出せるが、初対面のその先生は、それまで担当だった女の先生と違ってさっそうと教室に入ってこられた。「今日から担任する河田です。出欠を取るので元気に大きな声で元気よく『ハイ』と答えましょう。(息つく間もなく)『秋月クン』と呼ばれると、反射的に大きな声で元気よく『ハイ』と答えた。続いて『石橋クン』、『ハイ』、『井上クン』『ハイ』と悪ガキどもが、予期した『さん』ではなく『くん』呼びでの先生の気勢に飲まれて、いとも簡単に答えたので皆もそれに続いた----。先生は体操の時間も一緒になって皆を追い回して遊んでくださった。そのようなこともあり「今度のシェンシェイは男の先生トオンナジゴト(同じように)遊ンデクレ、ソイニ優シカケン、オイタチハ女の先生ニナッテヨカッタバイ」という雰囲気になった。 後に、自分の成長過程でも次第に学ぶこととなるが、これが「何事も初対面での印象が大切」という教訓の初体験であり、海外でのコンサルティングのときにも何度となく有効に使わせていただいた。
   先生は活発なしかも優しい方だった。 ある日、比較的に算術が好きだった私は、当てられて黒板で分数の加減算を解くことになった。しかし、それを習った前日に病欠していて、どうしてよいのか立ち往生した。先生は「昨日やり方を教えたときに欠席したのね。」と改めてその場で教えてくれて私が自信をなくさないように気遣われた。また、昔話は幼児のときに祖母から繰り返し聞き覚えていてよく学級で話していたが、昼休みの全校向けの放送で話をするように計られ、あとあと人前で話す勇気を持つきっかけをいただいた。
  そのほかで思い出すことは、時折、授業が始まる前に、全校の生徒だったと思うが、廊下の両側に向かい合って正座し、「明治天皇御製」を一緒に歌っていた。節は同じだが御製はいろいろあった。その中でいまでも覚えているのが一つある。それは「あさみどり すみわたりたるおおぞらの  ひろきをおのが こころともがな」である。先生が「明治天皇は生涯で沢山の和歌(御製)を残されたが,これは、澄み渡った広い大空のように心を大きく持ちたいものだ、という意味だ」との解説と、自分でもそうありたいと子供心に思ったから、いまでも鮮明に焼き付いているのだろう。
  その年の12月に「大東亜戦争」と称した第二次世界大戦が始まった。その翌年に父の仕事の関係で関西に転校し、佐賀の方に行かれた先生とはしばらく疎遠になっていた。しかし、その後で文通が続き、大学への入学、卒業以降、大学への転職、学位取得などの節々に色紙に歌を書いて送っていただきいまも大切に保存している。その先生は92歳となられて諫早の地にご健在で、退職後はご自宅に伺い楽しいひとときが過ごせたし、その後は時折お電話や手紙で交流が続いている。92歳といえば米国の大学院での指導教授も彼の地にご健在で、クリスマスメッセージなどメイルで交換している。このように、この歳になるまで近況をご報告できる恩師が健在しておられることは本当に嬉しいことだ。その間の、中学、高校、大学では、それぞれでの幾人かの恩師の方々とは長らく文通していたが、このお二方を除いては皆他界されていまは面影と思い出に感謝の念のみが残っている。
お二方のご健康と、他界された方々のご冥福を祈っている。


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