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幼時の記憶【幼児の頃のはなしー2ー】 [幼児の頃のはなし]

幼時の記憶【幼児の頃のはなし-2-】
 幼時の記憶では、末っ子なので兄姉が登校した後で残され、長火鉢を挟んで目の不自由な祖母から童話や祖母自身の昔話などを聞いていた情景が浮かぶ。しかし、より鮮明なのは教会の日曜学校で見た旧約聖書物語の紙芝居場面だ。母教会の英国からの贈り物だったろうが、画面左のダビデ少年が紐袋に入れた小石をブルンブルンと振りまわし放つと、画面右の巨人ゴリアーテの額に当たり倒れる情景がそうだ。そのほか「アダムとイヴの知恵の木」「ノアの洪水の巨大な箱舟と小鳥・動物たち」「アブラハムのイサク祭壇奉献」「ヨセフが兄たちから隊商に売られ、エジプトでの働きと親兄弟を招く一連の話」「モーセが籠で川に流され、後年の脱エジプトでの活躍の話」などの画面が次々と浮かぶのは全く不思議なほどだ。でも、その理由の一つは、昭和初期としては物珍しい異国風景や物語が幼児の好奇心をかき立てたこと、二つ目は大学生となって旧約聖書を和英の両国語で読み通し「あの絵がこの話だったのだ」と薄れかけていた記憶を再現できたことだろう。 
 そのときに抱いた異国や新規なものへの強烈な好奇心が、その後でのコンピュータやシステムなど最新技術を使う仕事へと導いたのだろう。また、それは後の欧米の美術館の訪問時にも役立った。そこでは旧約聖書題材の中世の宗教画が多く、キリスト教には縁遠い日本人としては珍しく私はその背景を紙芝居の画面から思い出せたからだ。
 全く忘れ去っていた幼時記憶が突如鮮明に蘇った経験もある。50歳を過ぎて幼時に行っていた礼拝堂で膝まづくと、前列長椅子の背もたれ下方の切り込み穴に目が行く。何となく屈んでそれを目の高さにすると、不思議なことに右人差し指がその中で自然にクルクルとまわり始めた。その瞬間の指の感触から「早く大人の礼拝が終わらないかナー」との幼時の感情の記憶を突如呼び戻したのには驚いた。紙芝居を楽しみに待っていたのだ。
 日本人だから日本の昔話も習った筈だと記憶をたどると、戦時中の小学校の国語や国史で習った「因幡(いなば)の白兎」や「八岐大蛇(やまたのおろち)」「海の幸山の幸」「日本武尊(やまとたけるのみこと)-草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と弟橘姫(おとたちばなひめ)-」などを思い出したのは、訪ねた旅先で記憶を新にしたからだろう。なかでも日本武尊伝説には縁が深い。その陵古墳のある羽曳野市近くに20年、海に身を投げた弟橘姫を偲んで「君去らず」語源説のある木更津に3年住み、草薙神社と日本平や焼津の近くに思いがけず現住所を構えて3年になる。伝説はその地方の思い出の宝庫でもある。戦前の私でもその程度だからいまの子供達が如何ほど日本の伝説や昔話を習っているのか疑問が湧く。
 最近読んだ文明論の何冊かでは、歴史上多くの民族がその国家の滅亡で言語・信仰・風俗をなくしたが、「ユダヤ民族」だけは旧約聖書に基づく信仰・風俗を持続し、そのため千年以上も自分の国家が持てず転々と散在した西欧各国でも国民として認知されなかったと言う。現に、かっての指導教授と友人の一人もユダヤ系米国人で、彼らから子供達のユダヤ教上の節目の行事の度に逐一報告が来ていた。これで旧約聖書の主要部分がユダヤ教・キリスト教・イスラム教の共通の聖典となった理由が理解できる。また全く小次元だが、日本人の私の幼時記憶で旧約聖書物語が日本古来の伝説より強いのも次のように納得できそうだ。
 つまり、ユダヤを含む中東の数千年この方続く戦乱のなかで語り継がれた旧約聖書の物語と、比較的に平和で緑豊かな国土に住んで民族意識すら薄かった日本人の歴史観の違いによると思える。イスラエルや、最近の隣国における過剰な民族意識は問題が大ありだが、戦後の日本人には良い意味での民族意識がなさ過ぎるのではないだろうか。故国やその地方の歴史や物語をもう少し大切にすべきように思える。
 幼時の思い出をのつもりで書き始めたのに結末が文化論になってしまったのには自分ながら驚いている。


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祖母との想い出【幼児の頃のはなし-1-】 [幼児の頃のはなし]

祖母との想い出【幼児の頃のはなし-1-】
  この頃、自分の手の甲を摘まみ上げて、持ち上がった皮膚が富士山の形に残るかどうか密かに見るようになった。これは、幼児の頃の祖母との想い出につながっている。
  かすかな記憶を辿って行くと、辛うじて向こうが見える高さの火鉢を挟み、私と祖母ナカが向かい合い座った情景が浮かんでくる。その少し前に亡くなったという祖父のことは全く覚えていない。母が多忙で、兄姉もすぐ上の兄と4歳も離れていたので、目が見えなかった祖母は、物心が付いた頃の私を可愛がって遊んでくれたのだろう。目のせいか祖母は記憶力には長(た)けていて、桃太郎とか舌切り雀などの童話や、祖母からしか聞けない昔話を次々と話してくれた。また、「ここはお国の何百里 」の類の長い歌も、私が暗唱するほど繰り返し聞かせてくれた。お陰で小学校入学後の話し方や綴り方、唱歌の時間には楽な思いができた。また、いまでもときおり「福石免千三十一番地」が呪文のようにくちから出てくるのは、毎朝会うとすぐ「迷子になったときは言うのだよ」と祖母の口まねで名前と住所を復唱させられていた名残だろう。
  祖母との遊びは幾つもあったろうが、一つは覚えている。祖母がまず左手を火鉢の上にかざす。それに届くように中腰となった私が、祖母の手の皮膚を右手の親指と人差し指で摘(つ)まみながら「一が刺した」と言う。次いで祖母が、その左手の上にある私の小さな右手の皮膚を、右手で摘まみながら「二が刺した」と言う。続いて二人が左右の手を引っ込めては出しながら皮膚を摘まみ「三が刺した」「四が刺した」「五が刺した」と進み、八になると「蜂が刺した。ブーンブーン」と節を付け私が飛び跳ねると言ったもので、何回もそれをせがんでいた気がする。そのとき、私の皮膚は祖母が摘まむのに苦労をするほど固くて指が離れるとすぐに引っ込んだのに、私が苦もなく摘まみ上げた祖母のは富士山のように盛り上がったまましばらく戻らなかったことが不思議だった。戸籍では。祖母ナカは文久2年(1862年)の生まれとあり、当時は70歳前半だったのだろう。 いまの私はとうにその歳を越したが、ときおりの密かな試みでは、いまの所のまだ手の甲には富士山は残らずに消えてくれている。
  また、祖母は味噌煎餅が好物で、私もご相伴に与っていたが、歯が余り残っていない口でもぐもぐと楽しんでいた。幾らかまだ数えられない小銭を祖母から預かり、落としては大変と小さな掌(てのひら)でしっかり握り締めながら近くの駄菓子屋へ行く。「全部でコイダケガト(これだけだけ分)オクレ」と煎餅を買ってきては祖母に褒められいた。そのほか、実際は四百米もないが、そのときはとてつもなく遠方に思えた教会へ、祖母の手を引いて行っていたことも想起される。祖母はときおり「どれどれ。ドゲンか
大きくなったろう。顔バ見センシャイ」と両手で私の顔から肩へと手探りで触ってくれたが、そんなときは、子供心にも祖母の目が見えたらさぞかし嬉しいことだろうと思っていた。
  これらの追憶のなかで、ふと福永武彦のことを思い出し、その全集の「幼年」を読み返した。そのなかの「碇」(いかり)の見出しで「過去の埋もれた記憶を手探りするための碇(いかり)碇のようなものがあり、その碇を海の中に投げ込みさえすれば」とあり、続いて、瞬時に現在の私を忘れ時間の源に遡って行く「この奇妙な過去への出発は古い軍歌の出だしの二行 ⦅道は六百八十里 長門の裏を船出して⦆で---、」と述べている。
  この箇所を見た瞬間、長い間すっかり記憶から消え失せいた、単調な二節で繰り返す旋律と共にその歌詞が忽然と口から出てきた。福永は、また「そこには母や伯父の両親がいて、そのおばあさんは盲だった。-中略- おばちゃんはどれどれと言いながら、子供の顔を両方の掌でゆっくり撫でる。」と書き、また、その軍歌は大正中期生まれの福永には古すぎる歌だが、当時三つ四つの「私の記憶にしっかりこびりついたまま離れないのだ」と述べている。私より十四歳年上の福永は、同じ祖母ナカから頭を撫でられその軍歌を繰り返し聞かされ、それが幼年の思い出の「碇」となったのだろう。それはまた、私にとっても祖母ナカについての、忘れていた場面を思い起こす「碇」となった。同時に、これまで余り気付くことがなかったが、祖母には本当に多くを教えて貰っていたようだ。


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