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クリーブランド(オハイオ州)の冬【留学フルブライト留学関連-17-】 [フルブライト留学関連]

クリーブランド(オハイオ州)の冬【留学フルブライト留学関連-17-】
  クリーブランドの思い出は数多くあるが、なかでもその冬の寒さは忘れがたい。九州生まれで生活の北限が東京なのでとくにそう感じるのだろう。11月を過ぎるとエリー湖からの冷たい風で日中でも零度以下となり、バス停で待つとき寒いと言うより腿やすねなどがチクチク痛かったのを思い出す。夜間は氷点下10度以下になったことも再々だった。
  入学した9月から2か月余りの借り部屋生活の後、10月下旬に日本からN教授が交換研究員として私と同じ研究室にみえた。それを機に、大学まで徒歩10分ほどの2DKのアパートを、街のメイン通りのEuclidを横切る交差点のビルの3階に見つけた。便利な割りに家賃が安い理由が分かったのは引っ越したその当日だった。夕刻に交通量が増え、信号が変わる度にすさましいエンジンを噴かす発進音と停車時のブレーキ音が夜も続く。数日で二人とも睡眠不足となり再転居を考え始めたが、不思議にも一週間を過ぎるとその騒音も余り気にならなくなってきた。そのようなある夜半、「いつもとは何かが違う」と目が覚めたが、それは「物音一つしない静寂の不気味さ」だとすぐに気付いた。 隣室のN先生も「何か変だと思ったら靜か過ぎる。どうしたのだろう」と起きてみえた。見下ろすと急な積雪らしく、車が見当たらない道路では、市の車のみが塩を撒き氷結を溶かしている。理由がわかり寝室に戻って少しすると、次第に始まった騒音が子守歌のように聞こえ眠っていた。「騒音も慣れれば、それが聞こえないとストレスになる」と気付き二人して驚いた。
  その朝の登校は、除雪されたとは言え滑らぬよう歩くのは大変だったが、友人に、冬のクリーブランドでは "Over Shoes" が必需品であることを教わった。それは、日本では見かけないファスナー付きの半長ゴム靴で、通常履く靴の上に文字通りすっぽりかぶせて履くものだ。玄関で靴を脱ぐ習慣がないので、雪解けで地面が濡れると、それを家の入り口で脱ぎ隅に置いて居間に入ることになる。早速購入し、滑り止めにもなって冬中愛用した。
  翌年秋に、留学して来た婚約者と結婚し、それぞれが徒歩で通える上述した交差点に近いアパートへ越した。当時はまだ人種差別が激しく、生活に便利な旧市内地域の比較的裕福な白人は東部の郊外へと引っ越し、その後にアフリカン系の低所得層が移り住み始めていた。その境界がアパート近くにまで迫っていた。「オリエンタルの学生夫婦が入居希望だが良いか」とアパート内住居者全員の了承が必要だったと入居後に聞いた。
  そのアパート生活は便利で、すぐに始まった真冬も寒い徒歩ではあったが、通学のほか週一回の、当時の日本にはまだなかったスーパーでの買い物は楽しみだった。寒風に吹かれて帰宅すると、建物全体が暖房されたアパートの入り口でまず "Over shoes"を脱ぎ、日本流に家の中ではスリッパに履き替え、冬中を半袖で快適に過ごせた。入浴後に窓を開けて寒気に当たるのはとりわけ心地よく、ついでに濡れタオルをヒョイト外に出すと、すぐにピンと棒状に凍るのには驚かされた。また、空気も冬はとくにひどく乾燥し、ドアのノブに触る前に、必ずそっと爪を当て静電気をパチッと飛ばすのが癖になったほどだった。
  その後クリーブランドを再三訪ねたが、そのたびに市街は寂しくなっていた。1974年に家族で訪ねたとき、以前住んでいた近辺は低所得者層居住地となって歩くのは危険と告げられた。2009年には、50年昔に結婚式を挙げた大聖堂を訪ねた際、バスで通ったその付近も含む旧市内一帯では家屋が一掃されて広場となるドーナッツ現象が実感された。
  今回改めてウェブで調べると、クリーブランドは私たちが住んでいた1960年を境に、100万人の工業都市から凋落が始まり、いまでは人口40万人弱の惨めな都市になったと言う。
  私の記憶のなかでは、いまも雪景色の美しい豊かな街であり続けるのだが----。
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