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私の頃の大学生生活 【大学生の頃-3-】 [大学生の頃]

私の頃の大学生生活 【大学生の頃-3-】
    大学進学率が50%を超え、一部では大学のレジャーランド化さえ憂われている昨今、時空を超え55~60年前の日米での学生生活紹介も一興かと記述を思い立った。 
 私が入学した1952年は戦後7年目で日本全体がまだ貧しく進学率も14%弱で進学は極めて恵まれたことだった。理工学部はまだ早稲田キャンパスの北側の一画にあった。その恵まれた機会を活かすべくできるだけアルバイトはすまいと決め大学近辺で下宿を探した。何軒目かに一軒家で東側の窓2mほど先には麻雀荘とその階下はビリアード、北側の窓は路地に面した2階3畳の間借りを見つけた。教室まで徒歩10分弱だし家主の「昼間は部屋に友人を連れてこない、朝夕の2食は路地前の下宿屋で済ます」との条件での食費込み月4500円だったかは予算超過だがその分は通学時間と交通費の節約だと思いそこに決めた。
 入学後の2年間は教養科目が主で、受験勉強では学べなかった哲学や心理学などを単位取得限度一杯に受講した。体育の単位は夏休みのヨットや冬休みのスキーキー合宿など友人の誘いに惹かれたが、費用面から大車輪が回れていた器械体操に決め当時高校では種目外だった吊り輪にも挑戦できた。機械科の専門科目は学期ごとに増えその実習では旋盤でのネジ切りや図学では機械部品を実測しその展開図を描くなど指定の場所と時間でしかできない授業で、日がな一日大学で講義に追われていた。それに比し、たまに休講で昼間に下宿に戻ると、隣の麻雀荘やビリヤードは、襟章の識別でわかったが、文系学生で繁盛していて、文系学生の自由時間と自主性を訝かしくも羨ましく思った。2年の夏休みは大学図書館から世界文学全集を次々と借りて読み外国の情景を想像しては楽しんだ。しかし交友がクラスメートのみでは社交性に欠けると、いまも現存する近くの山手YMCAで夜間の英会話や英語の聖書勉強会に参加し始めてもいた。 
 3年になる春からその山手YMCAに大学生向けの学舎が開設されると言う。そこは大学・学部を問わない多様な大学生十数人の自治寮で通学も徒歩20分弱で2食付きの寮費も安く入舎を希望した。クリスチャンは1/3ほどだったが学舎は禁酒禁煙で毎朝礼拝を守り日曜日には教会に行く規則だった。当時喧伝されていた民主主義を米国YMCA流の自治で経験し、文系の多種多様な友人達と寝食を共に議論するなど下宿ではできない貴重な体験だった。3年の後半からは卒業実験に追われ日中はゼミの研究室に籠もっていた。4年の秋には就職も希望通りに決まり学舎では牛乳で乾杯して貰った。このように大学周辺しか知らない遊び心の足りない偏った生活だったが教会では後で共に留学できた婚約者に出会えた。 
 就職後2年目の1958年に米政府全額支給の試験に受かり米国留学して当時最先端の自動制御工学修士課程を2年で終えた。当時の日本の大学入試は難関だったが入学後の授業以外の時間は学生の自覚に任され自由だったが、米国では入試は安易だが入学後は授業出席は必須でその2倍時間相当の予習と課題が課され採点で毎学期ごとに厳しく振り落とされた。私も学部4年と大学院共通の数学をとったが毎回多くの演習課題が出されそれを院生の助手が全部採点添削して戻し、3ヶ月強の学期中2回の試験の答案は成績の逆順に手渡して最後の二人は点数と共にsecond best, the best の拍手で終わる厳しいものだった。大学院ではさらに厳しく授業時間の2~3倍の時間の予復習に見合う宿題が毎回課され成績一覧は廊下に張り出された。大学受験勉強も含めた人生の中でこの留学2年間ほど勉強した(させられた)ことはなかった。
  日米のこの差は日本が明治期に大学をドイツ流のエリート教育での学生の自主性を尊重したのに比し、米国流は大衆向け教育で1時間の授業とその予復習2時間の計3時間の「知的労働」を課しそれを1単位とした、ことに起因するのではないか。つまり、戦後の日本の大学は制度のみを単位制としその背後にある実体の学生の大衆性に対する「知的労働」賦課を怠りドイツ流の木に米国流の枝を継いだ体との感がしてならない。詳しくは   http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-07-3 
を参照下さい。


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YMCA山手学舎への思い【大学生の頃-1-】 [大学生の頃]

YMCA山手学舎への思い【大学生の頃-1-】
         (2003年 山手学舎存続危機の頃の寄稿文より-実名と年表示を変更-)
主の平和!
 私は1954年の私が大学の3年の時、山手学舎が設立されると同時に入舎し1956年卒業時に退舎しました。入舎時に4年生がいなかったので、私たち4人(S.T兄、M.S兄、Y.M兄と私)が第一期舎生の栄誉を受けることになった次第です。当時は未だ戦後10年も経っていなく、入舎が決まった時は、終戦時に中学1年だった私にとって、共同生活をキリスト教主義・民主主義的に行う新しい場に入れるという興奮を覚えていました。実際に2年間住居をともにして、K舎監先生を含め延べ20名程の個性のある人達と礼拝や寝食を共にできたことは、かけがえのない貴重な青春の一齣であったと年を経るにつれて一層強く思われてきます。
  当時の学舎は、インド大使館に面した2階建て木造の建物で、大使館の執事か誰かが住んでいた家を改築したもののように記憶しています。食堂を除けば全て和室で、舎監の小林先生と数人の部屋は個室でしたが他は相部屋で、夜どこかの部屋に集まってはいろいろ話し合っていたように思います。舎生は禁酒禁煙を守り、朝晩讃美歌を歌い聖書を読むという簡単な礼拝をともにしていたように思い出されます。でも、そんなに堅苦しい雰囲気ではなく、みんな伸び伸びとしていたと思います。舎費は2食付で月4500円程度だったような記憶があり、比較的安価で、私の場合は大学まで歩いて10分程度でしたし、何よりも規律正しい気のおけない人達との共同生活が大変気に入っていました。
 それと、私は理工学部生でしたが、いろんな学部の人達がいて、故郷もいろいろでしたので、大学での友達からとは違った付き合いができていろんなことが学べたと感謝しています。S. T兄は法学部でしたし、他の舎生からと同様、いろいろな面で刺激を受けました。皆なかなかの勉強家で、キルケゴールの「死に至る病」を勉強しようという提案があり、何人かで輪読をしましたが、私にはなかなか難解だったように思います。卒業後、会社に入ってからも、学舎で学んだことは身に付いていて本当に有益であったと感じます。
  その後、学舎が今の建物に引っ越したと言うことで、何度か訪ねました。雰囲気はすっかり変わって昔の面影はないものの、舎生と会って話す機会をもつことができて、やはりこれが山手学舎だという帰属意識を感じたものです。
 山手YMACAは、いろいろな事業を手がけ実績を上げた面も多いとは思いますが、私たちが巣立って47年の長きに亘って、多くの有為な人材を送り出し続け、その人達に心のふるさとも与えてきたきたという、それだけでも本当に素晴らしい働きをしてきたと思います。聞くところによると、学舎がYMCAの事業計画のなかで無くなろうとしているとのこと。単なる過去への郷愁ではなく、今後育って行くべき若人への期待から、YMACAが事業計画を見直して、是非学舎の存続を続けて欲しいと熱望して止みません。
  
                                            第一期舎生           井上 義祐
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