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誕生日 Compleanno【この頃思うこと-63-】 [この頃思うこと]

誕生日 Compleannoこの頃思うこと-63-】

 今日は私の誕生日だ。ついでで言うのも無礼至極だがエリザベス女王とローマ市の誕生日も同じ日のようだ。英語では誕生日の人には文字通りHappy Birth dayと挨拶する。しかし、40数年前に3年近く生活したイタリアでは誕生日を迎える人には”Buon compleanno”と言っていたのをふと思い出した。英語から語源を辿るとcomplete(完結する)anniversaryanno(一年)で、「さようなら」がgood-byの意となった類の「一年の完結お目出とう」が「誕生日お目出とう」の意に転じたと思われる。念のためe-mailでイタリア人の旧友に確認したら「その通りで誕生日はその人の一年が完結し次の新たな歳の始まりを祝う日だから」だと返事が来た。ついでに私が少し囓(かじ)った言語を調べてみるとラテン語系のフランス・ポルトガル・スペイン語では同じ発想で似た表現だがドイツ語・中国語は英語・日本語と同じ発想だ。その過程で私自身も高校までは「満の歳」ではなく「数え歳」で過ごしそれにまつわることを幾つも思い出した。「数え歳」で加齢するのは全員が共通の正月元日のみで、家族揃って「新年お目出とう」の後でそれぞれが「今日で何歳になりました」と報告したものだ。したがって誕生日そのものは当人が生まれた日以外の意味はなかったはずだが、事実は、昨今の満年齢で加齢する当人を囲んでバースデーケーキとご馳走で誕生日を派手に祝うのより何倍も嬉しい「ハレ」の経験を家族一同で共有していた。と言うのも、私の幼年時代の昭和十年代後半の社会には、現今に見られる毎日が「ハレ」のような豊かさはなく、社会全体の日常が「ケ」のつましい毎日だっただけに、多くの家庭では、少なくも我が家では、その加齢には関係ない筈の家族の誰かの誕生日を祝って盆・正月・祝祭日と同じく家庭内の皆にとって「ハレ」の日となり「ぼた餅や赤飯」などのご馳走が食べられよそ行きの服装を着られる大変に嬉しい日となったのだった。私のすぐ上の兄とは4年違の全く誕生の月日が同じだったから誕生祝いは二人一緒で済まされ、一日でも違えば二日は楽しめたのにと姉・兄から恨みがましく言われ自分も残念に思ったほどだ。

 昨年までと違って、この歳にもなると「よくぞこの一年を健康に生き延びたものだ。御心に沿うのなら今日からの新しいもう一年も完結したい」というラテン語系の発想の方に実感が湧く。「これからの一年間を、衰えを感じる身体で、今さら社会貢献などは望むべくもないが社会への迷惑を可能な限り少なくし、自身の少しの努力で達成可能な程度の心身の目標を持ち続け、毎日をゆったりとした気分でその目標達成に満足し、それが可能な備えられた道ならば健康寿命を全うすべく毎日少しでも進歩させ」ながら、死も生がある以上必定と受け入れたいと思っている。このブログ書きもその一環の最初だが、当人の自己満足とひきかえに読まれされる人に迷惑をかけていることだろうが、それはcompleanno に免じてお許しを乞いたい。

 

 

 


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ピエタと父親・母親・子供【この頃思うこと-61-】 [この頃思うこと]

ピエタと父親・母親・子供【この頃思うこと-61-】

 身近な人の死はこの世にある人に悲しみを残す。祖父や弟の死は幼な過ぎて覚えていないが、小学校にあがる前に多くの話を聞かせ面倒を見てくれた祖母は、私が8歳のとき病に伏し家族中が枕元に集まって皆で「末期の水」を口に含ませ最後を看取った。82歳だったので悲しかったが諦めもついた。父母のときも悲しかったが高齢で覚悟はできていた。

 しかし私が66歳のとき30歳も若く召された長女の場合は、逆縁でもあり私達家族に大きな悲嘆を長い間残した。その死の前に、以前に居住した米国加州の学界に参加を予定していたので、傷心を少しでも癒そうと家内と二人でそれに出かけ、帰りに娘と一緒にと考えていた、そして娘も幼時を過ごした、欧州を回った。娘の死の打撃は私より家内の方が強く永続して、私が仕事に多忙なせいなのか家内に比し非情なせいなのかと思ったりするほどだった。

 その旅の帰路で立ち寄ったフランクフルトの教会入り口にピエタがあった。有名なローマのサンピエトロ寺院の、ミケランジェロによる聖母マリアが十字架から降ろされたキリストの身体を抱えている像と同じ主題の彫像で、私も聖母の悲しみに同感して立ち止まったが家内はしばらく泣き崩れていた。聖母の「抱えている死せるキリストに自分の身体の一部が死に絶えた気持ち」を見出し耐えられなかったという。確かに男性と違い女性は子供の肉体を自分のものとしている時期があり、自分の子供に対する思いが強いのかも知れない。

 娘の他界後の6年間に、所属していた大学の学生4名が亡くなり、学部長や学長として身につまされながら葬儀に参列しお悔やみを申し上げた。いずれも予期せぬ事故死だったので両親の嘆きはなおさら大きかったが、どの場合も共通して父親よりも母親の悲しみが比較にならないほど強く言葉のかけようもないほどの取り乱し方だった。このことから女性が男性より感受性が強いのではないかとも思われた。しかしそれはピエタで気付かされた、より本質的な、女性が男性と違い子供を自分の身体の分身としても感じていることによる方が大きいようにも思えた。

 一般に親と子との関係では、男親の方が淡白で理屈っぽいが女親は理屈にまして愛情に溢れていると言われ、私の場合もそうだと思う。加えて日本の男性(父親)はシャイで愛情表現が旨くない。このピエタの前で感じた性による違いで私が薄情なのかととの思いも薄められたような気もしている。これを読まれる方が男親・女親・子供の立場からどのような見解なのかを知りたい気がする。


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私の読書【この頃思うこと-61-】 [この頃思うこと]



私の読書【この頃思うこと-61-】2017,4,15

 記憶は二種類の体験で蓄積されるように思える。一つは自分が実在した時間・空間のなかで直接に五感全体を通して得られる狭義の体験で、もう一つは五感のうちのとくに視聴覚から得る狭義の疑似体験とも言うべき広義の体験だ。狭義体験では時間・空間的に限られているが広義の体験はそれらに束縛されず自由自在である。記憶ではそれらが渾然となって広義の体験となっているようだが読書に負うところが意外に大なように思われる。なお、疑似体験では最近は読書よりもTVなどによることが多くなったが、私個人にとって読書は積極的だがTVなどは受動的な気がする。

 私の読書量は少なくその期間・範囲も限られている。高校・大学・留学まではそれらの準備や学習を言い訳に殆ど読書はしなかったが、ただ大学2年の夏休40日間は朝から晩まで近くの大学図書館から世界文学全集を借りて有名な小説の多くをを片端から文字通り乱読した。それを通してその國の社会事情を想像することで世界に興味が広がった気はするがとくには何も記憶に残っていない。会社勤務期間は当時最先端のコンピュータ使用のシステムの開発に追われその関連以外の分野の本には殆ど無縁だった。

 ただ、南イタリアに駐在した3年近くは例外で、日本とは手紙も1~2週間、電話は2日かかったし、時間的にはコンサルティングが仕事で夕方以降は自由になったので持参した「三国志」や「坂の上の雲」の類の幾つかの限られた手持ちの本を何回となく読み返しいまでもそれらを見ると内容が思い浮かぶほどだ。

 54歳で早期退職して大学へ移り、工学系の修士が準備もなく経営学部に籍を置くこととなった。最初の一年は授業を週に1時間半の3コマにして貰い、同僚が大学院やその後の研究で読んだというアメリカ経営学の専門書・論文など原書も含め31年分をキャッチアップすべく朝から晩まで必死に読んだ。その間の実務経験に照らしかなりの部分は充分納得できたが、難解な箇所や重要な点はノートに書き写した。それ以降も専門書は読み続けたが、中には実務を通して個人的体験としてしか残らない暗黙知を誰にでも伝わる認識知としてこのように理論的に記述するのかと驚いたものもあり、それらは自分達がしてきた仕事の理論付けや論文まとめに極めて役立った。

 研究分野が日進月歩だっただけに74歳近くの退職後は専門を離れ海外生活で狭義の体験を楽しんだ後、いまは興味の赴くまま多分野の本を楽しんでいる。 本を読み始めると全体に何が書いてるかに興味が湧いてくる。そこで最初の一回は速読し全体を見るが、私の頭のできが悪いか訓練が不足か、その両方だろうが一回だけでは充分に理解はできない。そこで興味あるところや不明の箇所は後で何回も読み直す。「宇宙は何でできているか」などは大学で学んだ物理の続きで多くが不明ながら何回か読んでいると「そういうことか」と少しずつわかってくる。そのようにいろんな本を忘れた頃に読み返すのも醍醐味だ。歴史ものや経済関連の本も友人から紹介されると読んでは、衰えた体力の維持と並行して、社会と直接関わりのない現状で他人に迷惑をかけない疑似体験を楽しみながら記憶を少しずつ増やしている。




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日本平の向こう(東)側【この頃思うこと-60-】 [この頃思うこと]


日本平の向こう(東)側【この頃思うこと-60-】

 日本平は、静岡と清水の間の約東西6km南北4km高さ307mの、南端の東照宮近くは崖崩れもあるが、総じてなだらかな丘陵だ。戦中は小学校で日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征時に「草薙の剣」で災難を防ぎすぐ南の日本平の頂上でその絶景に見入ったと習った伝説の地で、晴天時の絶景を除けばありふれた低いただの丘陵だ。
 最近はパソコン使用が減り部屋から風景を眺めることが多い。高層南面ガラス戸の東から日本平の西側全貌と眼下の市街地に続き目を右に転じると4km先に海岸と海、それがさらに焼津の向こうまで続く。約5km先の丘陵頂上にはアンテナと日本平ホテルがえる。時折は最上階で北東の富士山、北の南アルプスの銀嶺、西の静岡市街など眺める。

 3kmほど先の丘陵は年中緑豊かな景色を提供してくれる。その麓を西方へ抜ける東名高速の小さな車を東西に目で追うのも面白い。しかしその丘陵が向こう側の伊豆半島を隠し、一帯が駿河湾内ではなく太平洋に面しているかのように錯覚させる。バスに30分ほどの日本平頂上からは、快晴だと眼下に三保の松原や清水の港、その先を駿河湾沿いに目を東へ転じると興津や沼津海岸、さらに東南に戸田や土肥そして伊豆半島が果て南の水平線まで駿河湾一帯が一望に見渡せる壮大なスケールの感嘆に値する絶景が楽しめる「はず」だ。「はず」というのは、少しの雲でも全くその絶景は分断され曇天ではただの低い丘からの眺望に過ぎなくなるからだ。夏場は月の半分以下、冬場でも三分の一ほどは雲がかかって絶景の全貌は望めず、来客の案内で瞬時でも富士山周辺に雲一つないのに遭遇したことは1回くらいだ。数年前に頂上の日本平ホテルが改築を終えその部屋一杯のガラス戸越しの景色は絶景だと聞いてはいたが、好天を見越し予約しても雲が少しでも出ると絶景は消え失せて景色は保証の限りではない。
 雲一つない好天の日にはその向こう(東)側を想像し一度はそんな日に日本平ホテルに泊まり長時間かけて瞬時でも雲のない絶景に遭遇したいとはかねがね思っていた。3月9日に珍しく雲一つなく丘陵を朝日が上り天気予報では翌日も晴天とある。多分ホテルは満室だろうと駄目元で電話をすると何と空室があった。少し贅沢だったが予約して近くを通るホテルのバスに乗り2時半に着いた。快晴なのにそれでも雲は富士山の頂上付近のみに少し漂っていた。ベッドに横たわったり椅子にゆったり座ったりで雲が消えるのを待ったが残念ながら富士山の手前の雲は位置を変えても切れることがなかった。それでも丘陵の西側とは全く異質の、部屋一面の壮大な昼夕朝の景色を二日がかりで楽しんだ。駄文では表現
できず写真でも充分には伝わらないが紹介する。
                  

                    
  富士と清水市街  駿河湾と伊豆半島    夕景

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健康寿命とホメオスタシス【この頃思うこと-59-】 [この頃思うこと]

健康寿命とホメオスタシス【この頃思うこと-59-】
 昨年11月に半月ほど入院する羽目になった。退院して驚いたことに足・腹部の筋肉・脂肪がげっそりと落ちたことだ。一瞬「加齢のせい?」と感じたがすぐに思い出した似た状況は、中学2年の時左鎖骨を斜骨折し整骨院の指導による自宅治癒で1か月ほど寝ていた後のことだった。足が棒のように細くなり歩くのに数日を要し、さらに全く固定化して動かさなかった左腕を曲げ指先と肩がつくまで毎日強制的なリハビリに1ケ月ほどを要したことだった。
 入院前まで毎日5000歩近く歩いていたので歩行回復はすぐにできたが、ヨガに加え少しずつ日課にしていた腰まわりや腹筋・背筋などの入院前の状態回復までは自信がなかった。しかし「その人の身体成長期に鍛えた筋肉は加齢しても使えばその60%は戻る」との説を読み、40歳から60歳代までに数回試みて実証済みだったので、80歳になって久しくご無沙汰していたぶら下がり器で、三浦雄一郎氏の例も思いながら。また懸垂を試みた。最初は身体が全く持ち上がらなかったが1週間ほど毎日続けたら1回、半月ほどでそれが4回までになり、平行棒の静的な胸筋・腹筋・背筋運動も退院前には何とかできるほどになっていた。そこで、加齢のしかも病後でいまさら無理かとは思ったが退院後に毎日少しずつ実行し続けたら2週間以上を要して入院前の状態までは戻ったのには我ながら驚いていた。同時に、72歳で学生に混じり半日のスキーレッスンを受けたがその時初めて使った感覚の腿の筋肉は半年たった後も痛かったのも思い出し、今回の成長期に鍛えた筋肉での感覚とは全くの違うとも思った。手の指の付け根はいまでも鉄棒の時のタコの痕跡があり刺激すると盛り上がる。頭のなかでは風化している65年も昔のことを身体の各部分はまだ確実に覚えそれに備えているようだ。
 平均寿命に加え最近は健康寿命(健康上で日常生活の制限なしで生活できる期間)が話題となっている。友人からの情報でWHOの2016年の資料で日本の平均健康寿命が74.9歳、平均寿命が83.7で共に先進7か国では1位でありその差8.8歳でも最短であると知った。平均寿命を超えてまで健康寿命でいられることに有り難みを痛感する。
 自動制御工学の究極の手本は人体のホメオスタシス(生体恒常性―体温・血圧・血糖値などー)であり旧くは新約聖書(コリント12章12節)にもあるとおり身体は多くの部分からなり、それらは。病原体への免疫力も含め各部分には独自の治癒・現状維持力が自立的に働いている。生きている限り、加齢しても若い時に比し遅くまた程度の差はあろうが、治癒・維持力は充分に残っているようだ。不調を訴えると「年齢相応で」と医者に言われることが多い。今回も歳が歳だからと入院以前までの体調復帰は諦めかけていたが、身体の各部はまだ自立的復元力が残っているはずだと実行し、それが一応は実証できた。身体は効率良くできていて使用しない部分は無駄として再生しないが、加齢するとそれが顕著にはなるものの現存しているのは間違いない。
 確かに85歳も近くなると加齢は加速度的に進んでいるようだし、いつまで続くかは分からぬが、無意識で働いている各部分での免疫力・現状維努力に報いるためにも身体が許す間は意識して昔鍛えた体力の何分の一かの維持には努めようと思っている。その気力が健康寿命を保つには重要なのかも知れない。
 

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「苔(こけ)」について【この頃思うこと-58-】 [この頃思うこと]



苔(こけ)」について【この頃思うこと-58-】

 知人から自宅を売却するのでとその立ち会いを依頼され、その席上で売却先の人が「苔」の研究者であることを知った。日頃興味を持ちながら苔について何を質問するかその糸口すら見つからぬほどの無知さに気付き、分かり易い入門書の紹介を受けるのがやっとだった。
 早速その書物をWEBで調べると購入するには結構な値段と大きさなので図書館で借りようと探すと遠方まで借りに行く必要があることが分かった。常識的なことを知りたいだけなので近くの本屋で秋山弘之著「苔のはなし」と言う中公新書を見つけ早速読んだ。
 米・伊・豪・NZ・東南亜など一か月以上滞在した経験からすれば、日本の天候は総じて湿気が多く、その文化も異常なほど苔と深い関わりがあるように感じてはいたが、苔については殆ど無知に近くその本から多くが学べた。企業勤務の社宅住まいの頃はその機会もなかったが、大学へ移り一軒家で小さな庭を持って苔をそのあちこちで見かけるようになった。近くでよく観察すると、「もし自分がそれなりに小さくその中に入れるならば、大きな杉の様な苔が林立したなかからそれらを見上げているのだろう」と想像をたくましくしたりしていたことを思い出した。
 しかし、その本によると苔の種類は未発見も含めてとてつもなく多く、その恐るべき環境適応能力で地球上に極寒の地から深海まで、また短命なものから長命なものまで存在すること、根もなく胞子で増えること、茎に見える維管束には水や栄養を運ぶ管がないこと、など我々が日常接する大きな植物に持つ常識とは異なる次元のことを知った。「苔」は水分がなければ生存できないが、全くの乾燥環境におかれてもそれに少しでも水分を与えると復活することなどその生命力に驚くことも多く、いままでの無関心さを恥ずかしくさえ思った。

 日本以外で長期間住んだ南伊は降雨が年に数えるほどの乾燥地帯で苔とは無縁に近かったし、米国では気持ちの余裕もなく苔には思い及ばなかったが、何度も訪問した英・独・北欧など西欧にも森林の中には確かに苔はあったような気がする。インドネシアでは1か月近く密林と隣り合わせで住んでいたのだから当然見たであろうが暑さと生活環境の違いから全く思いも付かなかった。その点日本は湿気が多く四季がはっきりしていて、梅雨時には少し日陰に行くと多種な苔が自然に目に付く。苔寺など有名な場所もあるし国歌の歌詞にも見え、苔に関する気持ちが諸外国とは違い特別のものがあるようにも思えてはいた。この本でも「苔と日本人」に関する6ページ強の記述があり「詫び・寂び」文化、とくに和歌や日本の古典での扱いなど日本人としての「苔」との関わりの深さを改めて知り、この歳になって、私的な感情だけでなく「苔」が日本文化と深く長い間の関わりがあったことと、その一部分にでも気付かされたことをありがたく思えた。




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「炭水化物が人類を滅ぼす」とシステム思考【この頃思うこと-57-】 [この頃思うこと]

「炭水化物が人類を滅ぼす」とシステム志向【この頃思うこと-57-】

 50数年前になるが、留学時の米国で草創期だったシステム制御工学を研究していた頃、当時の体験から「米食」と「肉食」の違いとして類似の蒸気ボイラーの燃焼工学と対比し
http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12に記述したように、人間のエネルギー生成消費と工学的燃焼理論との関係には興味を持っていた。加えてこの10数年間は糖質制限をしたので、その賛否両論の書物はかなり読んだ。それらは当然ながら栄養学的であり納得する面もあるがその多くは両論とも各個性を持つ人体を複雑な総合システムとしてではなく、医学面から見たエネルギー生成・消費の基礎計算面を中心に論じてと思える。そして現状のところは可とする少数論者が、優勢な否意見の多い学界や専門医を啓蒙する立場のようにも映る。

 その可否は別にして、それら書籍のなかでも標記の夏井暁著光文社新書の内容は、「システム思考」(20世紀に入りニュートン・デカルト以来の専門化・細分化へと一方的に加速化するのに警鐘を鳴らし、同時に事象を広く全体的に捕らえる必要性を主張する思考法)のことばこそ皆無だが、その思考の産物として圧巻と言えよう。専門化・細分化は、理工学・社会学など社会全般に及ぶが、医学でも顕著で、最近までの病院では「内科」「外科」などの大区分でよかったが現在はそれが「消化器内科」「呼吸器内科」など細分化専門化されている。そのこと自体は望ましとしても、同時にその諸器官が部分をなしている当該個人の人体全体も重要だと説くシステム思考はとくに医学に於いては益々重要性を増すと思われる。近くの病院にも2年ほど前から緩和科ができ患者の問題を良く話し合い対応するようになったと言うだがその思考に基づくものだろう。

 通常、この種の書物では、ある「仮説」を立てその論証に広範囲な事象研究や文献調査を試みるのが常だが、本書ではその「あとがき」に記述通り、敢えてリスキーを承知の上で次々と新しい仮説を考えて発表する立場をとっている。本書の初めの80頁ほどは糖質制限に関する実証例などだが、Ⅴ章以降残り300余頁は、外科専門医の著者が、時空を超えた専門外の「太古からの気象や地殻の大変動、それに伴う地球環境変化生命の起源と動植物の壊滅・生き残り、動植物の進化、文化の変貌と農耕の誕生、人類の食と歴史、果ては資源問題まで」と25冊の各分野にわたる文献を読破し、そのそれぞれに「可」する自説を支援する事実を見つけながらその全体をまた一つの仮説援護に仕立てたのが興味をそそる。その多くの個々の部分、例えば同じ草食でも牛と馬では消化消化器の構造とそれに寄生する細菌が異なる等々は、読者が長期間かけて断片的にテレビや書籍で知見可能だが、それらを共通のテーマに一気に読める様にまとめているのは見事だ。その中には初めての個々の知見も多々見られる。私にとって動物の血糖濃度がその筋肉の使用方法で異なり鳥類は200代後半から300mg/dlで肉・草・雑食の動物のそれは100代、亀トカゲなど10代とかなどはその一例だ。

 ただ宗教と食物に関するテーマがないのは残念だが、それを除くと言及は広範囲に亘っており短時間で広範囲の知識が再整理できた満足感はある。論の可否に関わらずこだわらず多くの分野に興味は持つ方にはまず一読に値すると思った。
 

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富士山と駿河湾【この頃思うこと-56-】 [この頃思うこと]

富士山と駿河湾【-この頃思うこと-56-】

 高所にある家の南向きガラス戸東側3/1ほどは日本平の丘陵で伊豆半島は全く隠れ、南西側の2/3は靜岡の街並みとその5kmほど先に海が広がりそれが西方の焼津やその先まで続いていて駿河湾内にいるとは思えない。しかし東へ20キロも行くと清水や興津の海岸から北東の富士山と西へ伊豆の山々の連なる海岸が見え駿河湾にいるこが実感できる。

 先日東京の娘夫妻の誘いで、快晴だし清水港から土肥(トイ)までフェリーで渡った。清水湊と聞けば私の年代は「お茶の香りと清水次郎長」を連想するが、それが東海地方とは思っていたものの靜岡に隣接しているとは知らなかった。新幹線が通る前に勤務先の北九州と東京本社間の出張で何十回となく夜間に寝台車で東海道線の同駅を素通りしていた筈だが真夜中だし気付かなかったのだ。また幼時を過ごした佐世保で見た銭湯一面の壁画で馴染みだった三保の松原越えにそびえる壮大な富士山の実物が清水港への入り口の小さな半島の外側にあるのを知ったのもこの20年ほど前だ。

 ここでの生活は7年目を迎えるが、富士山は毎日2~3キロの散歩道の2箇所で見られる。とは言え、5月を過ぎ夏場には雲と湿気に遮られ見えない日が多いが、見えても冠雪がなく普通の高い山の感じだ。しかし10月も半ばを過ぎての冬場には青空にくっきりとその姿を現し「語り継ぎ言い継ぎ行かん富士の高嶺は」と昔の人が詠った通り霊峰の感じさえする。 このような馴染みの富士だが、清水港を発って船上から眺めた霊峰は方向により刻々と表情を変え1時間もの間見飽きることがなかった。

 また、船から見る伊豆半島西岸は海外線まで山が迫り断崖になっている。沼津から戸田(ヘタ)・土肥・堂ヶ島と平地は少なく車は殆どが海岸でなく山のなかや嶺を通っている。温泉もあり観光地としては勿体ない気がする。半島の東海岸も山が迫っているが東京に近いせいか車は海岸線沿いの温泉地熱海・網代・伊東・下田を通り観光地として賑わっている。我々は土肥について山のなかが殆どだったが北上し戸田(ヘタ)へ向かった。今回初めて戸田港の入り口の堤防まで行ったが駿河湾を望んでの富士も良かった。
 途中で撮った素人写真だが駄文での描写よりはイメージが湧くと思い載せる。なお戸田海岸からの写真で左端の黒い雲は翌日の朝刊によると富士川近くの製紙工場の火事だった。
  

  清水港からの富士        駿河湾からの富士        戸田海岸からの富士清水港からの富士  戸田からの富士 駿河湾の富士 

 

 


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