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製鐵業とコンピュータ・システム【この頃思うこと-55-】 [この頃思うこと]

2017年以降は http://www.yoshinsukie.com/ のブログ欄にも掲載する。2016年の分まではこのブログで見てください。新しいホームページでも随筆欄でそのカテゴリー別にまとめつつあります。  

製鉄業とコンピュータ・システム【この頃思うこと-55-】
   一昨年(2015)末頃、日本鉄鋼協会「歴史を変える転換技術研究フォーラム」運営委員の方から「従来話題にした転換期は技術面でそれに管理面も加えたい」との話があった。私より適切な人が居られる筈と答えたが昨年初夏に再度打診された。理由は私の、ブログ表題分野での留学や海外協力など当該分野の揺籃期からの関わりと聞いた。戦後10年前後は渡航が困難で、米国政府全額支給で留学しその後も欧米に出張調査できたことは同時代者では数少なく、社内での計算機の新利用に取り組んだ経験は別として、その海外体験の報告義務はあるようにも感じた。そこで私はごくその一部をシステム面から経験したに過ぎない一歯車の前提でお引き受けした。

   社史・所史・参考資料と私の著作などの再調査に数ヶ月を要し、講演を1時間半に納めるのに呻吟した。結局PowerPoint 30画面の電気紙芝居で、主題は「日本鉄鋼業における製鐵所管理システムの転換期(1965~1970年頃)」、副題を「新日鐵・八幡製鐵での一管見」とした。主論点を「世界初のオンライン生産管理がなぜ鉄鋼の先進国の欧米でなく日本の八幡製鐵君津製鐵所だったか」に絞り、孟子の「天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず」の観点で纏めた。

   講演の要点を記すと、「天の時」では鉄鋼業の最盛期は欧州では1800年代、米国では1900年代前半は鉄鋼が産業の王者で、1965年を最盛期に1980年代には衰退期に向かう。それに比し日本は1960年頃から経済急成長期に突入しその後20年間で鉄鋼の生産が5倍の1.1億トンに急成長、各社が新鋭臨海製鐵所を林立させる幸運の時期だった。またまさにその時期に鉄鋼製造工程上の技術革新(転炉・連続鋳造・プロセスコンピュータによる制御)に遭遇し各社が競ってその新製鐵所で導入取り組んだ幸運もある。加えて1962年の大不況で臨海製鐵所建設時期の2年ほどの遅れさえも、バッチ処理のみだった計算機でオンライン可能なIBM360の発表が1964年と君津の製鐵所建設時期(1967-68年)にちょうど時期が重なったと言う幸運に恵まれた。まさに日本はこのように日本の「天の時」は“幸運の重なりだった”と言えよう。

  「地の利」でも、欧米では製鐵所は原料の関係で内陸立地だが、日本では臨海製鐵所を消費地近くに埋立造成し大型輸送船で高品質・低価格で入手できたこれも極めて有利だった。

   加えて「人の和」では、数年間の海外での技術協力でその差が実感できたことだが、当時の欧米に比し日本は、終身雇用 転勤の可能性 臨海製鐵所の林立で新規管理職場とポストの増大とそれに必要な人材供給のための超大規模社内教育実施 急成長に起因する若年3交代勤務者の採用難(無人化の必要制) 大部屋制による容易な情報交流 事務・技術・現場との密着性 事務用とプロセス用コンピュータ技術の交流 等々、国内勤務のみでは当然として気付けない強い人の和があった。それに、何よりも皆が若かった。
 
君津製鐵所がトップバッターだったことは、国内各社とも実力的にはその前後で実現可能だったかも知れないが、世界初のオンラインが不成功なら何千億の設備投資が十分機能できない大きなリスクに踏み切ったトップの大英断とそれに応え必死で製造各設備とその生産管理システム稼動を期限内に何とか実現した多くの従業員の努力の結晶と言えよう。

 私の鉄鋼業での31年間大学でのその経営学的観点からの研究19年間の総まとめでもあった。


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「小値賀島と紫電改」【この頃思うこと-54-】 [この頃思うこと]

新しく http://www.yoshinsukie.com/ を開設し論文・随筆・ブログなどを統合しようとしているので、ブログはこれでも続けますが、そちらも見てください。



「小値賀島と紫電改」【この頃思うこと-54-】


 昨年(2016)11月初め、予期せず半月入院する羽目となったが、例年の佐世保の高校・早稲田大学の同級会と会社での同僚との会は東京で、数年ぶりの旧制中学同級会は生まれ故郷佐世保でと、医者は心配気味だったが何とか予定通り楽しめた。その後、半年前より依頼を受けて今年1月16日予定だった鉄鋼協会の新日鐵と八幡製鐵での仕事に関する1時間半の講演の準備に追われたが、それも無事終え一息ついてこのブログを書いている。

 佐世保では、84歳ともなると出席者は減って10名だったが、その一人梶野英州君にくっついてフェリーで2時間半の五島北端ながら五島には属しない小値賀島へ行ってきた。同島からは旧制佐世保中学に7名が下宿して学んだが梶野君以外6名は亡くなっている。同島訪問は、梶野君の従兄弟でもあり私の部屋で中高と5年を過ごし兄弟同様に育ち23歳で早世した鴛淵守雄君との思いでの地再訪と墓参りが目的だった。当時のことは本ブログでもアワビ採りのことなど書いたが、戦後すぐの食糧難の折には漁業や農作で人口も7千人あまりあった町が、いまは老齢化が進み4千人弱となり時代の推移を感じた。

 表題の「紫電改」とは何?と思う人がいまは殆どだろう。爆弾・焼夷弾・機銃掃射で死ぬ目にあった戦中の事はあまり思い出したくないが、当時は陸軍の「隼」とともに海軍の「紫電改」が優れた戦闘機だった。今回、梶野君から直木賞作家豊田穣著の「蒼空の器」の贈呈を受けた。その中の339頁に町役場にいた梶野君が案内したとあるが、小説の主人公で梶野君と守雄君の叔父である鴛淵孝少佐の名も同じ鴛淵家の墓碑に見られた。

 帰路二つの理由からその本を夢中で読んだ。一つは、紫電改にまつわることで、主人公の鴛淵少佐は海軍兵学校出身の名パイロットだったが終戦直前に紫電改で戦死されたこと、その愛機は紫電改の翼の桁削り工場長だった父の井上新の工場で作られていただろうこと、それに鴛淵少佐が使用した航空地図は父の弟で数少ない生き残り将官だった秋吉利雄が関わっていたこと、という三つの偶然に読んでいて気付かされたからだ。

 もう一つの理由は、私はかっての軍港佐世保で育ち叔父の影響もあって海兵には終戦までずっと憧れていた。この本にはその海兵での教育と生活とが一体として詳しく紹介されていて私がもう何歳か早く生まれていたらこのような生活だったろうと思ったからだ。そう言う生活にも魅力は感じるが、戦争中のことを思うと矢張りその後ずっと平和な時代を過ごせたことは何にも代えがたい有り難かった思いがする。


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Epock-makingで思うこと【この頃思うこと-53-】 [この頃思うこと]

Epock-makingで思うこと(改訂版)【この頃思うこと-53-】

 ふっとEpock-making incident(出来事)とかachievement(達成)の語が浮かんだ。その前後で世の中の常識が一変する事象だ。偶発だが必ず社会的な背景があり、その変化の実現には遅速がある。科学技術史はその好例に溢れている。力学で有名なニュートンが造幣局長官で錬金術に興味を持つユダヤ教の研究者だったと言う。また二千年前には少数のローマ貴族家庭で最低十数人の奴隷の労力で成立した生活レベルを、現在では遙かに超える豊かさをどの家庭も電力(洗濯機・掃除機・冷蔵庫などの電化製品で)使用で享受しているが、その電力を作る電磁波は、ファラデイ(1791-1867が製本職人として貴族学者の論文を装飾製本し進呈して幸運を掴んだ後、電気を流す電線を丸く囲む電磁波を発見し、その原理応用で発電機や電動機が発明されて世の中を一変させた。その揺るぎない信念は彼の属したキリスト教サンデマン派の円環に不思議な力が宿るとする信仰だった言う。発電機以前に電流?と調べると、少し前にVolta 伯爵(1745-1827)が二種類の金属板間での蛙の足の痙攣で電気の存在を知りその原理で化学電池をすでに発明していた、等々話題には事欠かない。
 Epock-makingの語は、昔経験した鉄鋼生産オンライン操業を再考中に浮かんだ。米国で誕生後20年余りの超高額で便利なIBM社の商用コンピュータが技術的にオンライン使用可能となり、先進の欧米でなく日本の新設君津製鉄所でS43年に初めてそれなしでは生産管理が不可能な操業を開始した。コンピュータ関係の記述に隠れ、それを使用して高度で安定した操業・整備現場に於いて重要な役割りを果たした人達の苦労は忘れられがちだ.

 信じがたいが、S30年頃では、八幡製鉄所約3.3万人の現場従業員の7割ほどの学歴が高等小学校卒(6~8)だったと推定される。(昭和38年以降全員新制高校卒以上採用)S40年代の経済急成長期にはその年齢層を中核に電子管使用など高度技術使用の最新鋭巨大設備群を操業・整備することになるがその間はわずか十年余りしかなかった。そのため八幡製鉄所ではS36年時点の2万名の在籍教育対象者の他、S39年までに採用した1.9万人も含め計4万人にも及ぶ対象者に独自の社内教育一大プロジェクトを展開して全員を新制高卒並の学力まで育て上げ、うち7千人超をS69年までに君津や他新製鉄所に基幹要員として転勤できた。S34年頃は、当時の週間48時間で3交代勤務の労働の帰途に週3日3時間3か月の座学を受講した。労使研究者が「経営側の過酷な搾取」と断じたのはもっともの面があるが、受講者の多くは極めて辛くはあった学べたことを喜んでいたと言う。その苦労の成果で高度成長を乗り切れて現在があるのも事実で、従業員の90%超の高出席率や家族ぐるみ(ローマ字を初めて見てYは両手を挙げた形と子供に習うなど)と職場ぐるみの熱心な応援とで達成した受講者本人や家族の強い心意気に頭が下がる思いがし、その多くが幽明境を異にされたいまその方々のご冥福を祈る。




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体操競技をテレビで視て【この頃思うこと-52-】 [この頃思うこと]


体操競技をテレビで視て【この頃思うこと-52-】

 オリンピック体操団体での日本優勝の一部始終を手に汗握り観戦し、試合後の「一番心臓に悪く幸せな日」との白井選手の感想に「演技の場と技内容」では月とスッポンの差で比較にもならないが、52年昔の高校2年時の国体予選試合出場での感覚と興奮が蘇った。

 戦後5年目の物資欠乏時代で、鉄棒・平行棒・飛箱(跳馬)下のマットも薄く、床運動は講堂の木張りの上で、吊り輪とあん馬はなく4種目だった。このブログのカテゴリー「中高生の頃」で述べたが、その春までは私は懸垂1回もできなかった。しかし鉄棒にのめり込み3か月後の夏休過ぎには逆車輪・正車輪が回れて体操部から国体予選の練習をするように誘われた。当時の技難易度は規定種目が正逆車輪の持ち変え反転降り程度と極めて低かった。大学受験の身体鍛えで始めたのに急遽放課後は未経験の平行棒、跳馬、床体操の練習となり受験勉強は帰宅夕食一眠り後の深夜にとなって挙げ句は浪人の羽目になった。しかし身体成長期と重なり痩せぽっちが奴凧の渾名ほどの逆三角体型となり県予選に出場した。各競技の前は自然に技の一連の動きを心の中に復習していた。テレビで見る選手の競技前の真剣な表情とかすかな身振り手振りにこの実感も掘り起こされ、自分の中では彼らと一緒に気持ちでは手足身体を動かしていた。しかし1回の空中前後回転しか実体験がない私には、空中で何回転も捻っての着地には実感が伴わないない。それは幼時からトランポリンなどで空中の位置関係把握を瞬時に把握する訓練の成果で得るのだろう。

 また競技順番では試合前の駆け引きも思いだした。最初の鉄棒競技前で心理的に他校を圧しようと自校エースに試技させたが、見事な車輪に続く反転宙返りの直前に掌保護の革紐が切れ空中に高く舞い上がり落下した。体操では失敗時の落下では瞬時に体位を判断し身を処すのだが、彼は空中で失神し無意識の間に肉の塊の如くドシャッと音をたてて床上に落下した。声を掛けても返事がなく慌ててバケツの水をかけたら気付いた。幸い怪我はなかったが彼は欠場でチームは惨敗だった。彼は当時入手困難な掌保護のなめし鹿革に自分で紐を縫い付け着用していたのだった。また、いま平行棒で二の腕を保護しているテープ覆いも当時はなく、じかに当たる腕内側の薄い皮がバー上を滑るときに剥け、皮膚修復までの数日ヒリヒリと痛かった感触をいまでも思い出す。

 大学では国体県大会で優勝した選手よりも遙かに上手な体操部員が何人も練習しているのを見て入部はせず体育の単位で体操を選んだ。そこで初めて吊り輪に遭遇し、ぶら下がるだけで身体が前後左右に揺れその静止にタイミングと筋力が必要なのを体感した。鉄棒とか平行棒とか固定した器具なら当時数秒間は身体を任意の位置に留める筋力はあったが、前後左右と自由に動く吊り輪では揺れを静止するだけでも特別の筋肉とそれを維持し動かすタイミングが必要なことを体験した。吊り輪では蹴上がりまではできたが、より高度な十字懸垂などは至難の業で加えて高得点の揺れなく静止するのはさらに難しい。

 幼時から訓練したスペシャリストとしての高度な技の連続には感嘆のほかないが、私のように高2までは懸垂一回できなかった者が器械体操で身体を鍛え、いまも懸垂や胸筋など当時の何分の一かの筋肉を保持して健康に過ごしている者から見ると体操を趣味程度で楽しむ人が減っているのではないかと若干の危惧も覚える。




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西暦115年の古代ローマ人の生活といまの生活 【この頃思うこと-51-】 [この頃思うこと]

西暦115年の古代ローマ人の生活といまの生活 【この頃思うこと-51-】
 毎日の生活は十年一日のように感じるが幼児期と比べると信じられない程変化している。一世代内でもそうだから先祖を辿り仮に100年で4世代8人、1万年で800人、人類の誕生から10万年で8000人のご先祖様の生活を考えて見たくもなる。日本の2000年昔は縄文時代で記録はないが最近の集落跡の遺跡発掘でイメージが浮かび始めた。
 その頃のローマ帝国での生活様式は記録が多く、また西暦79年の噴火で埋没したポンペイ遺跡の発掘などで当時の生活をかなり想像できる。直近のポンペイ訪問後友人からAlbert Angela著「古代ローマ人の24時間」2010年刊を紹介され読んだのを再読した。著者はイタリアで著名なテレビキャスター且つ科学ライターで、科学的調査結果に基づきローマ絶頂期時代の西暦115年のローマ人生活の一日を、時刻・社会の各階階層場所ごとにテレビの映像のように描いた、興味が尽きない図書館で借りてでも一読に値する425頁の本だ。
 その関連部分のみを要約すると、当時のローマ帝国の人口は数百万人、ローマ市内は100~150万人で、一部裕福な人は5~10人ほどの奴隷を有しドムスと称するポンペイで見るような一戸建ての家に住んだが、大多数はインスラと言う道路で四辺を囲まれた一画に、外壁が煉瓦の、驚くことに6~7階もある、木造高層集合住宅に住んでいた。残存の土地台帳ではドムスはわずか1797戸でインスラは4万6602棟だったとある。インスラには家主がいてプロの管理人に2階から上を5年契約で貸しその代償として1階の賃料だけを求める。1階は商店が多く2階はテラス付きの裕福な住まいで、3階以上は又貸しの連鎖で階の上ほどほど狭く非衛生で貧乏人が住んだ。何故ならエレベータは勿論、水道・トイレ・キチンがなく上層ほど構造上と火事などの危険を伴うからで、飲み水は持参で、トイレは溲瓶(しびん)に溜め翌朝持ち下りた。したがって又貸しの連鎖である3階以上はただ寝るだけの場所で当時のローマ人は、ドムスやインスラの2階の住人を除き、巨大なキャンプ場での生活だったと言える。つまり家は寝るだけのテントで食事・トイレ・入浴は全てが家の外の公共施設を利用したので昼間の道路は大変な人混みだったそうだ。労働は日照時間の6時間くらいで平均寿命は男41歳、女は29歳で出産時の高死亡率で短かった。
 非人道的な奴隷の労役が当時は合法的で、それが裕福な家だけでなくインスラも含め給水や物運搬など当時の社会構造には不可欠に組み込まれていた。その奴隷には寝る場所すら廊下の一隅と言った家畜にも似た悲惨なものだった。いまではその奴隷が果たした労役を電力器機に、洗濯→洗濯機、調理→電子レンジ、給水→水道、溲瓶運び→水洗トイレ、掃除→掃除機、湯沸し→給湯器、理容→シェイバー・ヘアドライヤー、3階以上の運び上げ→エレベーター、などと言った具合に代替している。つまりいまの我々の生活は、当時の奴隷使用と言う非人間的な部分を、一部の裕福な家のみでなく全ての家で「電気」動力の一種のロボットが担うことで当時より遙かに便利な生活ができる訳で、まさに本ブログに先月書いた「電気」さま、さまだ。
  しかし、人間のより楽な生活への欲望はいまも2000年前と変わっていないようだ

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電気について思うこと【この頃思うこと-50-】 [この頃思うこと]


電気について思うこと【この頃思うこと-50-】

 電気はいまや日常生活で空気と同じようにそれなしでは過ごせない存在だ。しかしその電気も、子供の頃には夜に点る電灯と、(当時は壁コンセントなどなく)天井からぶら下がった電灯の二股ソケットとコードでつないだラジオを聞くに過ぎなかった。戦時中ラジオは重要な情報源だったが、電灯は灯火管制でその直下以外は照らせず、戦後には電力不足の蝋燭送電で暗かった。戦後数年で、電気が手軽な熱源になるのをニクロム線使用の手作りパン焼き器で、動力になるのを模型電車作りで実感した。電気が生活の一部となるのは1956年頃に始まる経済高度成長期に「三種の神器」として白黒テレビ洗濯機・冷蔵庫が普及した以降だ。
 その見えない難解な電気の理屈を調べ多少は理解できた感じだが、これ以降の一段落はその私なりの抄訳で所詮は資料の半可な受け売りの一部なので、考え込まず流し読みのしていただきたい。まず「電気」は「電荷の移動や相互作用により生じる様々な物理現象の総称」であり、その「電荷」は「原子内の原子核にある素粒子の持つ性質の一つ」で、「素粒子」は陽子と電子からなるクオークと名付けられる文字通りそれ以上分割できない最終・最小の粒子であり波の性質を併せ持つ」とある。「クオーク」は素粒子研究の「標準モデル」では「レプトン」と共に物質を構成する「フェルミ粒子」(12種類)に位置づけられ、それと別に素粒子間の相互作用を媒介する「ボース粒子」(
光、ボソン、グルーオンと未発見の重力伝達の可能性を持つと考えられるグラビトンも?)もあると言う。
 調べる過程での内容はさておき、研究最先端で扱う範囲の長さ単位が、極小分野では電荷を議論する10-35 mから他方極大の宇宙研究分野の 1027 mまでの想像を絶する超広範囲さは一驚に値する。しかも世界中の物理学者がその2分野の同一数式で同時に説明可能な理論構築に取り組んでいると言う。文中での(10-35)mは日常見慣れぬ表記だがこれは1m1035回割った単位で、1027)mは1027回掛けた単位のメートルを意味する。これらは我々の日常生活で使う長さの単位の1mm~1kmのこの表記法である(10-3)m~(10)
と比べればそれ等が文字通り桁違いに広範囲であることが実感できよう。
 また、この宇宙は、正体不明で宇宙全体の原子の5倍と言う未知の暗黒物質を除き、全てが素粒子で構成され、素粒子はその名の如く粒子であるが同時に波でもあると言うので、見えないながらも想像できる波長でイメージしてみる。それを短い方からnmすなわち(10-9)メートル単位で表すと、ガンマ線(0.01より小) X(0.110紫外線(10~380)可視光線(380760)赤外線(7601x10)超短波が(1x101x1010)長波(1x1011x1013
)で、波長が短いほどエネルギが大きく有害であると言う。
 人の身体の細胞は種々の分子からなりそれ等は全て原子の結合で、原子は上述の電荷の性質を持っている原子核をなすクオークから構成され、我々はその細胞どうしを刺激する神経の微小な電荷の移動(電流)の働きで生きていると言う理屈になる。
 これらを知る以前には、電気は自分とは縁遠く感じられたが、冒頭の「空気と同じ」どころでなく、自分の身体そのものが電荷の性質を持つ素粒子からなり、この文が書けるのも素粒子のフェルミ粒子やボース粒子などの働きで脳中と腕や指の中を電荷が移動する賜物なのだと思い知らされている。
 (本文の性格上個々の出典参照は省くが村山斉「宇宙は何で出来ているか」幻冬舎新書と数々のウェブサイトを参照したことと生半可な理解で纏めたことを許されたい。)




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私のくるま遍歴 【くるま関連のはなし-7-】 [くるま関連のはなし]

私のくるま遍歴【くるま関連の話-7-】

 ブログのマイカテゴリ【くるまま関連の話】を書いて4年近く経ち今回のその後の遍歴でその幕を引きたい。http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302381225-1) 
   1963年頃はいまではそのいずれも想像もできないが、国道でも夜の対向の車は極めて少なく、またヘッドライトの電球も良く切れた。以下はその二つに絡んだ話である。山口県の光から友人と八幡への帰路、関門トンネル内で片方のライトが切れた。アップビームでは双方点灯しそれで走り続けた。小倉に近づき何台目かの遙か向こうからの対向車についライトをダウンにし、しまったとアップに戻した途端に交番の警官から「片目運転の整備不良だ」と切符を切られた。同乗の法科卒の友人との事情説明と抗議
で初めは納得気味だった警官はすでに切った以上罰金だと言う。こちらも納得せず結局はその切符を持って翌日本署に行くことになった。そこでは晴れて無罪となったが、現在では起きえない二重の出来事だろう。

 その後東京転勤で、スバルの悪路運転を覚悟したが引っ越し荷物で輸送でき、多忙な仕事の合間の週末には高尾山など近郊のドライブが楽しめた。ハプニングもあった。正月早々なのに信号に入るタイミングが遅いと警官に免許証提示を求められ、警官の「えっ!佐世保出身ですか。私もそうです。すると高校の後輩でもあります」との言に二人とも奇遇に驚いた。また、冬の郡山では雪に閉じ込められ停車のままでの空冷エンジンが過熱がし、それが冷め再起動できるまで待つ間じゅう震え上がったこともある。そんな愛車のスバルだったが子供が3人となり、1971年に自動三輪で有名だったダイハツが初めて発売する四輪車の5人乗りベルリーナに乗り換えた。モノコックの軽自動車と違い貨物車のような鉄枠フレーム方式の頑丈さが売り物のくるまで1トン近くあり安心して運転できたのは良いが、点火栓まわりが時折り不調となり発火点を時々自分で磨く必要があった。 

 1972年の海外転勤でそれも手放し、以降は帰国後の東京や君津では車なしで済ませた。しかし1987年に関西の堺に転居し、久しぶりのドライブだったので中古車を買い、ついで以降トヨタのカローラのハンドシフトの新車に数回乗り換えた後、(ナント驚いた事に2006年のロンドンでの大きなレンタカー会社数社が全てハンドシフトしかないと言われ、その時の経験が役立ち何とかドライブはできたが)家内の要望で自動シフト車へと切り替えた。

 1989年に世界初のハイブリッド車プリウスがトヨタから発売され、好奇心の強い私は発表後すぐに買い換えを頼んだが入手したのは6月だった。早速親類の結婚式に出るため珍しかったカーナビに長崎のホテル名を入れて走り始めた。高速道路の走行は予想以上に快適で1リッター20km以上も走り驚いた。念のため岡山のGSで給油したが、発売直後で珍しいプリウスだと気付いた店員の要望に、ボンネットを上げるとまわりの給油客も集まって「これがハイブリッドだ」としばし賑やかだった。
その後2001年に新車へ、2003年に2代目モデルのプリウスに乗り換えて、2006年の退職後はそれで何回にも分けて九州や四国・山陽・山陰・東北など家内と二人でドライブを楽しんだ。しかし、最後の旅行で青森の高速を下りたところをスピード違反でつかまりそれまでのゴールデン免許が終わった残念だった。
 いまは住まいが駅前でくるまなしでも不便はないし、2014年の免許更新時に、少々淋しくは感じたが私の50年近くのくるま遍歴は無事故で終わることができて感謝している。


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電話で思うこと 【-49-】 [この頃思うこと]

電話で思うこと 【この頃思うこと-49-】

  電車やバスでは何人かが必ず携帯電話を使用している。車内では通話不可なのでメールか情報検索などだろう。わりに好奇心が旺盛な私は携帯電話も早くから使い、偶然ながら発売初日にシニア向けスマホに替えたが、主に自宅で過ごす最近はパソコンや固定電話でこと足り携帯は外出時の友人とのに連絡するくらいだった。しかし昨秋にiPhoneに切り換えその使い方習得に四苦八苦している。電話機能はごくごくその一部に過ぎないが便利だ。
   電話と言えば、それに関する思い出が次々と浮かんで来る。最初に接したのは4歳頃で受話器を耳に電話箱のハンドルを回すと交換手が出て「もしもし」と話せた時は嬉しかった。
   その後、戦中と戦後の1955年頃までの電話は日常生活とはあまり関係なかった。と言うのも、戦後でも電柱を立て電線を引く必要からだろうか、
年間の給料に近い電話債を買った上で何ヶ月か待たねばならず、商店以外の普通の家庭にはほとんど無縁だった。
   入社(1956年)時に見学した製鉄所構内の広い部屋には電磁式の電話交換機がずらっと並び交換手もいたと記憶する。その翌年には新工場の建設で高さ20mほどの作業デッキでのガスバルブの操作に下方から工場の騒音の中を開閉指示ができるだろうかと心配したが、電線をデッキまで持ち上げた有線電話で行うのが予想外にうまく行ったのは良い思い出だ。 それから数十年後なら無線電話、いまなら携帯電話で簡単に指示できるだろう。  

 その直後1958年の留学時のアメリカでは、すでに全家庭に電話があるのには驚いた。私も電話を引こうと友人に訊ねると「この研究室からATT に電話するだけで良い」と言う。早速電話で私の住所を告げ氏名のローマ字綴りを述べると「それは受け付け不可能」と言う。理由を訊くと「子音が一つで後全部母音の姓などあり得ないから」と言う。パスポートにInoueと記載しているなどとやりとりの末何とか手続きができた。帰って部屋の隅に置いてあったレンタル電話器コードを壁のコンセントに差し込むとなるほど繋がっていた。
 それに比し、帰国後の日本では1970年代に入って、所得倍増計画で給料が急激に上がりどうやら電話債も払えるようになり、手続きをして数ヶ月後に社宅での自宅電話が引けた。しかし通話料、とくに遠距離電話は極めて高額で滅多なことではかけられなかった。
 1972年に技術指導の責任者として南イタリアへ赴任した。当時のイタリアは世界的にストライキが有名で手紙も1週間近く要し発信と受信の順序が後先となるなどしたので、できる限り自己責任決めた。しかし緊急事態に電話で指示を仰ごうと、日本向け国際電話を朝早く申し込むと夕方にどうやら通じると言った具合で随分不自由な辛い思いをした。
 私的な国際電話を初めて受けたのは1978年だ。留学中親代わりをしてくれたボンド夫人から、日本ではまだ癌告知が無かった時代に、「癌で余命数ヶ月と宣告を受け自分は動けないができたら会いたい」とのこと。休暇を取って1週間ほど見舞に行ったが、半年後にもう一回お別れの国際電話があり数日後に亡くなった。これは悲しい思い出である。
 次は1980年代初めに中国へ行ったとき、この広大な国土の隅々まで電柱を立て銅線をひくには資材用達が大変だろうとそれ以前に無線電話が普及することを願ったが、それはどうにか間に合って胸をなで下ろした。(しかし同時期に心配した自動車の排ガス問題で電気自動車が間に合えばとの思いは裏切られ中国各地で環境問題を引き起こしたにのは残念だ。)
 それ以降は1990年代の携帯、そして掛け放題スマホ、現在のiPhoneとつながる。


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